プロローグ:聖域の鍵、開戦の音
「……はぁ」
その音は、肺の奥に溜まったヘドロを吐き出すような、重く、湿った溜息だった。
東京、午前八時四十五分。
駅の雑踏は、これから戦場へ向かう兵士たちの軍靴の音で溢れている。
佐藤誠(三十五歳・独身)は、その喧騒から逃れるように、古びた公衆トイレの扉を潜った。
ここは佐藤の「聖域」だ。
タイルはあちこち欠け、蛍光灯は時折チカチカと瞬き、お世辞にも清潔とは言えない。だが、ここの三番個室だけは、彼が「ただの佐藤」に戻れる唯一の場所だった。
「ガチャン」
使い古されたスライド式の鍵を閉める。
この薄いプラスチックの壁一枚が、彼を社会の荒波から守ってくれる。
佐藤はズボンを下ろし、冷たい便座に腰を下ろした。
「……もう、無理。辞めたい」
誰に聞かせるわけでもない。
ただ、心の中に溜まった毒を、体の中の不要物と一緒に排出してしまいたかった。
今日の会議。終わらない修正依頼。そして、独身三十五歳という、何者にもなれなかった自分。
ポツリと溢れた言葉は、静かな個室に虚しく響くはずだった。
「――おっと。朝から威勢がいいな、お隣さんよ」
不意に、左隣の二番個室から声がした。
低く、よく通る、どこか深みのある男の声。
佐藤は心臓が口から飛び出しそうになった。
「え、あ……すみません。独り言です」
「謝ることはない。ここは出すものを出す場所だ。言葉だって、溜め込みすぎりゃ毒になる」
二番個室の主――通称「師匠」との出会いだった。
「……ですよね。でも、月曜の朝から辞めたいとか、情けないっていうか」
「いいじゃないか。辞めたいと思いながら出社する奴が、この国を支えてるんだ。……それより、あんた。トイレットペーパーのストック、大丈夫か?俺の方は潤沢だ。もしもの時は言ってくれ」
思わず、佐藤の頬が緩んだ。
顔も知らない。どんな服を着て、どんな仕事をしているかもわからない。
けれど、この個室の壁を隔てた会話には、会社での「承知いたしました」や「検討します」といった無機質な言葉にはない、確かな体温があった。
「あざっす……。助かります、師匠」
「師匠はやめろ。……お、そろそろ『右』が来たな」
その言葉と同時に、右側の四番個室から「ガチャン」と威勢のいい音が響く。
入ってきた主は、座るなり派手な溜息をついた。
「最悪だ……。駅のホームでスマホ落として画面割れた……。今日、厄日っすわ……」
若々しく、どこかチャラい響きのある声。通称「若」だ。
彼は佐藤たちが話していることを知ってか知らずか、独り言を垂れ流す。
「災難だったな、四番個室」
「うおっ!? 誰っすか!……あ、いつものおっちゃんたち? おはようございまーす」
若はすぐに順応した。ここでは、挨拶すら軽やかだ。
「画面のヒビなんて、人生のヒビに比べりゃマシっすよ。アニキもそう思いますよね?」
「……まあ、そうだな。直せるだけ、マシかもしれない」
佐藤は答えた。
不思議だった。会社では後輩の指導に悩み、会話の一文字一文字に神経を尖らせているのに、ここではスラスラと、しかも少し偉そうに言葉が出てくる。
「っつーか、隣の女子トイレの方、さっきから怒鳴り声聞こえません? 怖っ」
若が言う通り、壁の向こう側――女子トイレの方から、壁を叩くような音と、くぐもった叫び声が聞こえてきた。
「……どいつもこいつも! 効率、効率って……! 人間は機械じゃないのよ!」
「女王」の参戦だ。
彼女の声は壁を突き抜け、男たちの個室をピリつかせる。
佐藤は、その声のトーンに聞き覚えがあるような気がして、背筋が少し凍った。
――いや、まさかな。あんな「鉄の女」が、駅の公衆トイレで叫んでいるはずがない。
「……さて。全員揃ったところで、一発、景気良くいくか」
師匠が言った。
会話の終わりを告げる、合図だ。
「「「「せーの……」」」」
佐藤、師匠、若。そして壁の向こうの女王。
四人の手が、それぞれの個室のレバーにかけられる。
ゴォォォォォォォォッ!!
四つの個室で、同時に水が流れる。
その轟音は、彼らが抱えてきた週末の残滓、月曜の憂鬱、そして自分自身の弱さをすべて飲み込み、下水道の彼方へと押し流していく。
まさに、聖なる儀式だった。
洗浄音が静まった後、佐藤はゆっくりと立ち上がった。
ズボンを上げ、ベルトを締め直す。
鏡の中の自分は、まだ少し疲れた顔をしている。けれど、入ってくる前よりは、わずかに背筋が伸びている気がした。
個室の鍵を開ける。
ガチャリ。
外へ出ると、洗面台の鏡越しに、数人の男たちの背中が見えた。
ビシッとしたオーダーメイドのスーツを着た、威厳のある初老の男。
トレンドのオーバーサイズジャケットを羽織り、イヤホンをした若者。
そして、個室から出てきたばかりの佐藤。
彼らは一度も目を合わせることなく、ただ無言で手を洗い、乾燥機に手を差し出す。
「外」に出れば、彼らはまた、それぞれの「役割」を演じる他人同士だ。
佐藤はトイレの出口を出て、灰色の空を見上げた。
雨はまだ降っている。
けれど、足取りは少しだけ、今朝家を出た時よりも軽い。
「……よし。行くか」
佐藤誠、三十五歳。
戦場への準備は、たった今、完了した。
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