87 アリヤ王妃の希望
エルドール八世はミッチェル・ハウラーと二人になると、威圧感のある国王から、四十代の温厚な男へと一瞬で雰囲気を変えた。
ミッチェルはその変化を見るたびに、親友が常に努力して国王であり続けていることを思い知らされる。
「ダイヤを作る魔法使いか。驚いたな。まるで伝説の魔法使いそのものじゃないか」
「ええ、そうでございますね」
そこまで会話をしてから、二人同時に無言になった。
エルドール八世がダイヤを摘まみ上げ、灯りにかざす。ダイヤは精緻なカットが施され、わずかな光も全て反射して輝く。
「魔道具に使うダイヤはここまで美しくなくてもよいのだろうが、彼女のいた世界とやらではこの形が普通なのだろうか」
「おそらくは」
「戦争に使ってくれるな、と言っていたな」
「陛下……」
「わかっているさ。心配するな。ただ、人払いをしておいてよかったな」
ミッチェル・ハウラーがうなずきながらそっと額の汗をハンカチで押さえる。平民の女性が国王に向かって「私のダイヤを使った魔導具が戦争に使われないことを願う」と言うのは、国王の政治に口を出すことだ。誰かが聞いていたら騒ぎになっていただろう。
「ヘンリーの婚約者が伝説の魔法使い並みとは。想像もしなかったよ」
「変換魔法を使える魔法使いを、私は他に知りません。ヘンリーから話を聞いたときはしばし頭が真っ白になりました」
「彼女は自分の存在の貴重さに気づいていない。そこが危ういな」
「私もヘンリーにそう言ったのですが……」
そこから子爵はマイの『全部の武器を瞬時に粉々にできる。魔力を封じる魔導具さえも破壊できる』という言葉を話した。少し迷ってから「この城も砂の山に変えられるそうです」と付け加えた。エルドール八世はミッチェルの顔をまじまじと眺めてから、楽しそうに笑い出した。
「無敵の魔法使いだな」
「無敵の魔法使いでございますね」
子爵が退室し、エルドール八世は私室に入った。アリヤ王妃が立ち上がって出迎える。
「今日の政務は終わりだ。今夜は酒を飲みたい」
「なにかございましたか? ご機嫌が麗しいのですね」
「とても楽しいことがあったのだよ」
「それはよろしゅうございました」
何があったのかは聞かない。アリヤ王妃はそういう女性だ。常に控え目で場の空気を読み、夫に意見はしない。現在エルドール八世は四十三歳。王妃のアリヤは四十六歳。二人の間に生まれた王女二人は既に他国に嫁ぎ、城にいるのは十歳の王子のみ。
アリヤ王妃はエルドール八世と談笑しながら一緒に少し酒を飲み、国王が寝室に向かってから自分の部屋に入った。
私室の鏡の中に映っているのは年齢のわりには若い顔。何も言わずとも侍女が化粧を落としてくれる。着替えを手伝ってもらい、ベッドに横になった。侍女のリンジーが「おやすみなさいませ」と声をかけて下がった。リンジーは嫁ぐときに母国から連れてきた侍女だ。
生まれたときからの婚約者だった第一王子が病没したときに、リンジーが一緒に嘆き悲しんでくれた。言葉を交わしたこともなかった元第三王子と結婚した日は「おめでとうございます」と静かに祝ってくれた侍女であり、戦友のような存在だ。
アリヤ王妃は結婚して以降、ウェルノス王国のために生きてきた。なんの感情も持っていなかった男性の妻になり、三人の子を産んだ。三番目にやっと生まれた王子は健やかに育った。
陛下は優しく聡明だ。労わりの心を持って自分に接してくれている。夫としての陛下に不満はない。
(私は求められる役目を全て果たした。自分の人生に不満はない。けれど……)
あと十年か、十五年か。人生の幕を閉じるまでの残り時間を思うと、虚しさに襲われる。いっそ自分が宝石やドレス、賞賛の言葉、羨望の視線などを喜べる人間だったらよかったのにと思う。
人生の秋に足を踏み入れ、まもなくやってくる老いの季節をどう過ごしたらいいのか。国王と我が子と民のために生き続けた人生に今、少しだけ自分の喜びが欲しい。
(王子が無事に十歳になった今なら、少しだけのわがままを許されるだろか)
まずは王都見物はどうだろうか。政務ではなく自分の楽しみのために街を見てみたい。徒歩が禁じられたら馬車からでもいい。だがどこに行けば楽しいのか、何も知らない。怪我などして迷惑をかけることなく、ささやかな楽しみを得られる場所はないだろうか。
(どこに行けば楽しめるのか、まずはそれを知るところからね。リンジーよりも一番若いマリリンに話を聞いてみようか)
マリリンは自分の世話をする者たちの中では唯一の独身だ。城の近くでささやかな楽しみを味わえる場所がないか聞いてみよう。そう決めたら少し明るい気分になった。
翌日、マリリンに「城の近くでささやかな楽しみを得られる場所はないかしら」と小声で尋ねた。
尋ねられたマリリンは慌てた。滅多な場所を教えて王妃になにかあったら、自分の首が飛ぶだけでは済まない。家族も罰を受ける。賢いマリリンは即答を避けた。
「では街のことに詳しい妹弟に聞いてまいります」
「頼みます。私の願いではなく、リンジーの要望ということにしてほしい」
「かしこまりました」
夜になって城を出たマリリンは実家の伯爵家に馬車で向かう。
「おや、どうしたんだい? 前触れもなく来るなんて珍しいな」と驚く父には挨拶だけして何も言わず、妹と弟を部屋に呼んで「実は」と話を持ち掛けた。
「お城で働く女性たちは、自由に出歩けないわ。王都のことを知らないの。先輩の侍女さんに『ささやかな楽しみを得られる場所を知らないか』と聞かれたけれど、私も王都のことは詳しくない。どこか安全でささやかなお楽しみがある場所、あなたたちは知らないかしら」
妹は考え込んでから「宝石店は?」と答える。却下だ。国一番の宝石を持っている王妃が、街の宝石を買ったところで楽しめるわけがない。
弟は「僕は女性のささやかな楽しみなんてわからないよ。歌劇鑑賞じゃだめなの?」と言う。歌劇なら王家用の席で年に二度ずつ陛下と鑑賞なさっている。おそらく歌劇ではダメなのだ。
首を振るマリリンを見た妹が「そうだわ」と言って顔を明るくした。
「若い貴族の集まりに、珍しくて美味しい料理が出ました。最初はたしかスコールズ伯爵家の茶会で、そのあとはいくつもの茶会に同じ家から料理が提供されて……」
「待って。スコールズ伯爵家?」
「そうよ。パトリシア様がハルフォード侯爵家のキリアス様に美味しいお店に連れて行ってもらったところから始まったらしいわ」
スコールズ伯爵家もハルフォード侯爵家も中立派だ。中立派が使っている料理店なら、王家は使っていないはず。王妃様は外出なさりたいらしいが、護衛を大勢動かして外出するのは話が大きくなる。陛下の許可がでない可能性も高い。まずは貴族たちに人気の料理を楽しんでもらうのはどうだろうか。
マリリンが考え込んでいると、妹が「お姉さま。料理を作っているのはハウラー子爵家の料理人なんですよ」と言う。
「ハウラー子爵? 筋金入りの王家派の?」
「はい。料理の美味しさだけでなく、今まで社交界であまり注目されていなかったハウラー子爵家の料理だということも話題になりましたわ」
(これだわ)
ハウラー子爵家の料理なら毒が仕込まれる心配はない。たしかハウラー子爵家の令息は文官をしているはずだ。マリリンは意気込んで城に戻り、王妃にその話をした。外出ではなく料理となった話を聞き、侍女のリンジーが明らかにホッとしていることに王妃は気づいた。
「ハウラー子爵家の料理ですか。貴族の皆が楽しんでいる料理がどんなものか、食べてみたいわね。本当は外出したいけれど、たくさんの護衛を動かすよりいいかもしれない。わかったわ。その料理を用意して」
「かしこまりました」
マリリンはヘンリー・ハウラーを呼び出した。王妃様付きの侍女リンジーの要望として事情を説明すると、ハウラー家の令息は考え込んでいる。あまり喜んでいる様子ではない。
「目新しい料理、ですか」
「王妃様付きのリンジーさんは、他の貴族が食べたことがない目新しく美味しい料理をお望みです。ハウラー家の料理は貴族の間で評判だとか。頼めますか?」
マリリンはそう尋ねてからヘンリーを眺める。ハウラー家の令息はまだ二十代の若さで筆頭文官だ。子爵家の出身だから、親の力ではなく実力で手に入れた立場なのだろう。筆頭文官は美しい顔立ちで体格も見栄えがする。社交界で噂になっていないのが不思議だ。
「料理は何人分でしょうか」
「五人分で」
「かしこまりました。日時は?」
「二週間後でどうでしょう。三週間後でもいいですよ。できますか?」
「念のために確認し、すぐにお返事を差し上げます」
マリリンと別れてからヘンリーは考え込んだ。
王妃付きの侍女は側近だけでも二十人いる。五人分という限られた注文を最年少のマリリンにさせたのは本当にリンジーだろうか。
侍女たちは全員名のある家の出身だ。自分たちの楽しみで食べ物を注文するなら、全員の分を注文するのが普通だ。ケチくさいことをしては家の恥になる、というのが高貴な女性たちの常識のはず。
「まさかとは思うが、国王ご一家が召し上がるのでは?」
それなら毒見役の分を入れて五人分は納得だ。
マイのことを思えばそんな面倒な仕事は引き受けたくない。国王一家に気に入られたら厄介だ。だが気に入られる予感がする。ヘンリーは深いため息をついた。
(マイさんは人を惹きつけ、世の中に知られていく運命にあるらしい)
料理の依頼はイヤーカフを通してマイのピアスへと届けられた。
『王妃様付きの侍女さんが召し上がるのですね。許可は正式に出ているのでしょうか』
「俺が全ての許可を取ります」
『お茶菓子と食事のどちらがいいでしょうか』
「食べたことがない美味しいものというだけの依頼でした。食事を兼ねた軽食ではどうでしょう」
『わかりました。頑張ります。三週間後で承ります』
こうしてマイの料理が城へ運ばれることになった。