132 ばあばもじいじも、きやいだもん
ヘンリーさんのアイデアに従って、変換魔法で新居の汚れを取り除いた。
壁、床、カーテン、屋根裏、台所、廊下、窓。家の骨組み以外は全部新品に変換して、汚れをひとつにまとめた。今、私の目の前に、ひと抱えの黒いホコリや油っぽい汚れが四角い塊になっている。触るのも怖いわ。
最近よく使う乾燥魔法で水分を抜き、ギュッと圧縮してから紙に包んだ。これは回収業者には渡せないから燃やそうかな。乾燥させてあるからよく燃えるかも。
『隠れ家』は飲食店としてゴミの回収業者と契約している。回収業者はそれを王都の近隣にある農家に売る。農家はそれを家畜の餌にする。私は魔法で生ごみをサラサラの粉にして庭に埋めてもいいわけだけど、それはしていない。私もこの王都のリサイクルの輪の中に入っていたいのだ。
「業者が何日もかかる掃除を朝食前に終わらせてしまうのか。相変わらずマイさんの変換魔法はすごいな」
「王都の一員として業者さんにお金を落とすべきなんですけど、今回は時間を節約しました」
「無理にお金を使わなくてもいいんですよ。いつか必ずお金を使うべき場面が……」
ん? なんでそこで黙るのかな。
「そうか、マイさんなら、お金が必要ならダイヤやオパールを売ればいいのか」
「それがそうでもないの。売りにくい状況になっているの。庶民的な私が上質なオパールやダイヤを何度も持ち込んだものだから、『こいつ何者だ?』みたいな顔をされるようになっちゃって」
「あー……。なるほど。業者が用心し始めたんですね。わかりました。今後は俺が売りに行きます。せいぜい貴族風を吹かせて売ってきます。マイさん? なんでそんなに笑っているの?」
「ヘンリーさんは見るからに貴族だもの、貴族風なんて吹かせなくても大丈夫ですって」
ヘンリーさんが少し赤くなって「そう?」と言っている姿が可愛い。見とれていると、恨めし気に睨まれた。
さて、朝ごはんにしよう。新居の裏口から出て道を渡れば『隠れ家』だ。便利だねえ。
お店に入ろうとしたら「マイたん!」の声。ソフィアちゃんだ。店の表玄関の方からソフィアちゃんがタタタッと走ってきて私に抱きついた。
「どうしたの。また一人で出てきちゃったの?」
「ちがう。とうたんと」
顔を上げるとディオンさんがいた。なんで?
「ソフィアを預けにきたんじゃありませんよ? 俺の仕事場に連れて行きますから」
「カリーンさんが具合でも悪いのかしら」
「ソフィアと預かっている子の相性が悪くて、今日はどうしても俺と一緒に出掛けるって聞かないものだから。この近くの家の壁を塗り直しに行くんです」
「だったら私が」
「いえ、本当に大丈夫なんで」
ディオンさんはそう言うけど、ソフィアちゃんは私にしがみついたまま動かない。顔を覗き込むと、小さな声で「フィーちゃん、マイたんがいいの。リリたん、きやい」と言う。
「なにかあったんですね?」
「マイさんだからお話しますが、預かっている子が猫型だからかなあ。ソフィアに懐かなくて。さあソフィア、行くぞ。挨拶だけって約束だっただろう?」
ソフィアちゃんが私の服に顔を押し付けている。ああ、これは泣いてるわ。相性が悪いのか。私も保育園でなんだかんだと難癖つけられた時期があって、保育園に行くのが嫌だったことがあったなあ。
「今日だけ預からせてくれませんか」
「お袋が仕事を休んでよその子を預かっているんで、さすがにそれは筋が通りません」
するとヘンリーさんが穏やかな声を出した。
「では少しだけ預かって、ディオンさんのところまで送り届けます。それならいいですか?」
ディオンさんは無言で困った顔をしている。そんなつもりで来たんじゃないのはわかってる。どうしたら失礼にならないかなと思いながら、泣いているソフィアちゃんの頭を撫でた。
「フィーちゃんね、フィーちゃん……ばあばきやい。じいじもきやい。うわぁぁぁん」
「あらあら。よしよし。ディオンさん、ソフィアちゃんが落ち着くまで預からせてください。必ず連れていきますから」
ディオンさんが折れて、何度も頭を下げて仕事に向かった。
ソフィアちゃんはずっとグスグス泣いている。陽気で聞き分けのいいこの子がここまで泣くのは、よほど耐え難いことがあるのだろう。朝食を食べてきているソフィアちゃん用に少しだけ料理を盛り付けて、キアーラさんも含めて四人で食べながらソフィアちゃんの話を聞いた。
「ばあばもじいじも、リリたんいい子ねって」
「ソフィアちゃんもいい子だよ」
そう言うと少し泣き止んだ。でもまたしくしくと泣き出す。
「リリたんかあたん、ずーっとねんねしてる。リリたん、ごはん食べない。呼んでもお返事しないの」
「あら」
「フィーちゃんのこと、ペイッってする」
ペイッってのは「あっちに行け」という動作だ。
ソフィアちゃんの話をまとめると、カリーンさんとヴィクトルさんは食事をしようとしないリリちゃんのために、食べられそうなものをあれこれ用意し、何をするにもリリちゃんを優先しているようだ。
四歳のソフィアちゃんに、そのあたりの事情はわからないよねぇ。
それと、カリーンさんが仕事を休んでまでリリちゃんを預かっているということは、リリちゃんの母親はかなり重い病気なのかもしれない。私、なんでそこに気が回らなかったかな。
「ヘンリーさん、ポーションを差し入れに持っていきたいんだけど」
「俺の許可は不要です。マイさんは魔力が有り余ってるからいいんだけど……」
「なにか心配?」
「洪水でも流行り病でもないときに特級超えのポーションを渡すのは、知り合いにだけ特別に渡すことになりますよね?」
「あっ……」
誰だって健康になりたいよね。痛みや死に至る病から解放されたいものね。
「俺はずっと、善意のマイさんがポーションで恨みを買わないような方法と仕組みを考えています。でもリリちゃんの母親の状況がわからない以上、今日はこのまま持っていったらいいと思います」
「いいの?」
「いいですよ。時間との勝負という状態かもしれませんし。あとのことは俺に任せてください」
そっか。恨みを買うこともあるのか。いや、あるわ。あるある。
冷静に考えたら、誰だって無料のポーションが欲しいよ。
そしてヘンリーさんがこう言ってくれるなら、難しいことを考えるのはお任せしたい。私じゃ誰にも恨みを買わない仕組みなんて思いつかない。
ポーションを二本、ショルダーバッグに入れた。
「そうだ、この際だからあの紙を使いますね」
「え」
何か言いたそうな顔のヘンリーさんに「この紙を使ったらダメでした?」と聞いたら「いえ、ダメではないけど」と歯切れが悪い。
気が急いていた私はソフィアちゃんを抱っこして、瞬間移動魔法用のコピー紙を床に置いて魔力を注いだ。あのとき、コンビニで五百枚ぐらいコピーしておけばよかったよ。
「じゃ、行ってきます!」
魔法陣が光り、次の瞬間にはカリーンさんちの前だった。魔法陣のコピー、めっちゃ便利だ。
目を丸くしているソフィアちゃんを地面に下ろして、カリーンさんの家のドアを叩いた。
カリーンさんがドアを開け、私たちを見て驚いている。
「ディオンたら、マイさんにソフィアを預けたんですか! もう、あのバカ息子!」
「違います。詳しい事情は後で。カリーンさん、これを持ってきたの」
ショルダーバッグからポーションの瓶を取り出して見せた。
「これって、まさかポーションですか? どうして私に……」
「リリちゃんのお母さんは、相当具合が悪いんじゃないですか?」
「あっ、ええ、はい……。そうなんですけど。ディオンから聞いたんですね?」
「いえ、それも違います。カリーンさん、とりあえず二本お渡しするんで、受け取ってくれませんか。これの代金はいりません。その代わり、私から貰ったことは内緒で。できるだけ早くリリちゃんのお母さんに飲ませてほしいんです」
「マイさん……もう、なんてお礼を言ったらいいんでしょう」
カリーンさんの目に涙が浮かんでいる。
ふと気づくと、玄関を開けたら見えてしまう居間の壁際に、ぼんやりした表情で座り込んでいる小さな女の子がいた。
こげ茶のクルクルカールの髪。目尻がキュッと上がったアーモンドアイの、痩せた女の子。
あの子がリリちゃんだろう。






