126 実演
私は性格が大雑把なせいか、虫の知らせというものを経験したことがない。
だけど、今日のことを後から思い出すたびに、(あれが虫の知らせだったのかな)と思うだろう。
◇
「マイさん、お先に失礼します」
「お疲れさま」
今日の営業を終えて、帰っていくサンドル君とアルバート君を見送った。キアーラさんに「今日も忙しかったですね」と声をかけると、キアーラさんは床にモップをかけながら、「忙しかったですねえ」と笑顔で返してくれた。
夕食は何にしようかと考えたときに、なぜか(ヘンリーさんに聞いてみよう)と思った。
ヘンリーさんは私の料理に注文を付けたことなんてないし、何を出しても喜んで食べてくれるのに。今日は不思議とそう思った。
ヘンリーさんのイヤーカフに魔力を通して話しかけようとする前に、男性の声が聞こえてきた。
『私になんの用だと聞いているんだ!』
殺気立った怖い声だった。普段はヘンリーさんが仕事の会話中と気づけばすぐに魔力を切るが、あまりに怖い声なので魔力を切れない。
『まあまあ、落ち着いてください。私は宰相付き文官のヘンリー・ハウラーです。あなたに確認したいことがあって訪問しました』
『宰相付き? 本当だろうな』
『本当です。疑うのなら城の人間をここに呼んで証明してもらってもいいのですが、それはあなたが困るんじゃないかな。私の質問に正直に答えるだけでいいのだから、余計なことはしないほうが身のためですよ?』
ヘンリーさんのこんな怖い声も初めて聞いた。ヘンリーさんは今、お城じゃないみたい。
会話の内容が不穏すぎて、イヤーカフに送っている魔力が切れないよ。
『質問とはなんです?』
『ロディアスさんは、二年前にこの集合住宅を買い取りましたね。全額即金で。そのお金はどうしたのかな、と思いまして。気になったので調べましたが、あなたは一人で小麦や芋の輸入をしていました。何年かかったとしても、小麦や芋の輸入程度でこんな大きな建物を買えるほど利益は出ませんよね?』
『親が遺した金があったんだよ!』
『親ねえ。父親は一人で店を営むガラス職人だったのに? しかも一人っ子のあなたを残して牢で亡くなり、あなたは養護施設暮らしをしていた。親の遺産なんて嘘ですよね。城勤めの文官を甘く見てはいけません』
なんか、なんか、これ、危険な会話だわ。どうしよう、どうしたらいいかな。そうだ!
ヘンリーさんのイヤーカフに送る魔力をいったん切って、ヴィクトルさんのペンダントに魔力を送った。
「ヴィクトルさん、緊急事態です」
『どうしました?』
「集合住宅の持ち主でロディアスって人の住まいがどこか知っていますか?」
『知っています。つい最近、ヘンリーさんにその人のことを聞かれました。なにかありましたか?』
「今、ヘンリーさんがその人と話をしているんですが、なんだか様子がおかしいの。場所を教えてください。私、そこに行きます」
ヴィクトルさんは住所を教えてくれて、『自分もそこに向かう』と言って会話が途切れた。そこから先は走っているらしいヴィクトルさんの荒い呼吸音だけになった。
私もキアーラさんに「ちょっと出かけます!」と言って、ポーションの小瓶を一本ポケットに入れて店を出た。自転車が欲しい! と思いながら走り続けた。
走っている間もヘンリーさんと男性が不穏な会話をしているけど、自分の呼吸音と風が邪魔してよく聞き取れない。怖いし焦る。
目的の集合住宅はすぐに見つかった。
「しまった! 部屋がどこかわからない!」
地団太を踏む思いで建物を見上げていたら、一階の部屋から人が出てきた。私はゼェゼェと息をしながら駆け寄った。
「すみません、この建物の持ち主はここに住んでいますか?」
「ロディアスさんなら、一番上の角部屋だよ」
「ありがとうございます!」
五階まで階段を一気に駆け上がったけど、奥って、右奥? 左奥? ちゃんと聞かなかった自分に腹が立つ。
ガチャン! と何かが割れるような音がした。右奥だ!
また走ってドアノブに手をかけたら鍵はかかっていない。迷わずドアを開けて飛び込んだ。
「え?」
予想と違った状況に、「あれ?」と固まってしまった。
部屋の中ではヴィクトルさんが黒髪を伸ばした男性の襟首を締め上げていて、ヘンリーさんがヴィクトルさんを後ろから羽交い絞めにしている。
テーブルの下に割れたコップが散らばっていて危ない。
ヘンリーさんのほうがヴィクトルさんよりだいぶ背が高いけど、力ではかなわないらしい。ヴィクトルさんはヘンリーさんを引きずりながら、男性をグイグイ押している。
男性が後ずさりしながら「離せよ!」と怒鳴った。
「待って! ヴィクトルさん、待ってください!」
「マイさん!」
振り向いて驚いたのはヘンリーさんで、ヴィクトルさんは男性の襟首をつかんで持ち上げそうな勢いだ。
「ヴィクトルさん、落ち着いて。なにがどうしたんですか!」
「マイさんこそなんでここに! あなたは帰ってください!」
「帰れませんよ。話を聞かせてください」
ヴィクトルさんがやっと男性から手を放した。だけどすごく怒ってる。いつも沈着冷静な人が、いったいどうした。
黒髪の男性が「あなたは誰だ! こいつらの仲間か!」と言う。
「答えなくていい!」と鋭く言ったのはヘンリーさん。
ヘンリーさんの口調に驚いて返事をしないでいたら、男性が「ああ、そうか。お前がポーションを作った魔法使いか」と低い声でつぶやいた。
私のこと? 揉めてるのは私が原因だったの?
「マイさん、もういいから帰ってください」
「いやですよ。私のことでもめているなら、ますます帰れません。なにがどうしたんです?」
ヘンリーさんは険しい顔で無言。ヴィクトルさんは男性を睨みながら無言。
「私がポーションを作った魔法使いなら、なんだって言うんです? 言いたいことがあるなら、私が聞きますけど」
「ポーションを無料で配ったなんて、どうせ嘘なんだろう? どこからいくら貰ったんだ? それは国民の税金じゃないのか? そもそもあのポーションに効き目なんてなかったんだろうが!」
「あらぁ」
感謝してほしくて寄付したわけじゃないけど、その言い方はあんまりじゃない?
「マイさん、相手にしなくていいから」
「ヘンリーさん、言いがかりをつけられて黙ってる私だと思います?」
「思わない……けど」
ですよね。
「まず、お金はどこからも貰っていません。ポーションは善意の寄付です。それを証明しろと言うなら……ヘンリーさん、誰なら証明できるの?」
「貰った証明は簡単ですが、貰ってない証明は難しいんですよ。この人は何を見せても信じないでしょうし」
「んー、じゃあ、ポーションに効き目があるってことを証明します」
「できるもんならやってみろよ!」
私はコップの破片を拾って、勢いをつけて自分の左の手のひらを切った。大変に痛いけど、それでこの騒ぎが収まるならいいや。
切るのが怖かったから勢いつけて切ったら、結構ザックリいってしまった。血が湧き上がるように出て床に滴る。黒髪長髪の男性も目を丸くした。
「マイさん! 何をやってるんですか!」
「大丈夫。今からポーションを使いますから」
男性に手のひらを見せつけるようにして、傷にポーションをかけた。
(うわ、しみるぅ)
私も試したことがないけど、きっと治るはず。
全員が見守る中、まずは手からの出血がすぐに止まった。そのまま見ていたら、ジワジワと傷が塞がって行く。高速度撮影の映像みたいだ。
「そんな……。本当に効くポーションを作れるなら、なんで食堂なんてやってるんだ」
「料理が好きだからです。あと、ポーションでお金を貰わなくても、商売繁盛で儲けていますから。うちの料理は美味しいんです。うちで働いている若い子たちだって、お客さんに喜ばれるのが楽しみで働いています。みんながみんな、お金のためだけに働いていると思わないでほしいわ」
しゃべっているうちに傷口は塞がって、傷跡だけになった。その傷跡も薄くなっていく。
私のポーション、効くねえ。






