124 モルとジェノとヘンリー
魔法部雑用係のモルは集合住宅に住んでいる。
左官職人だった父が亡くなり、母と妹の三人暮らし。母は洋服店でドレスを縫い、妹は子守りをして日銭を稼いでいる。
モルは採用試験で気が利くことを認められて魔法部で働き、三人の給料で慎ましいながらも楽しい暮らしを送っている。
「母さん、明日は家賃を納める日だから、『隠れ家』のクッキーを大家さんに持っていっていいかな」
「いいの? モルはいつもだいじに食べてたじゃない?」
「ほんとはひと袋全部渡したいけど、それは俺の給料がもっと上がってからにするよ。明日は半分だけおすそ分けするつもり」
モルはこの集合住宅の大家に感謝している。
父がちょっとした怪我から高熱を出して亡くなった時、大家が家賃を待ってくれた。二ケ月家賃を溜めたら追い出されても文句は言えないのに、八ヶ月も待ってくれた。
その間に妹には子守りの仕事を見つけてくれたし、自分には「お城で雑用係を募集しているよ」と教えてくれた。
溜めていた家賃は分割で月々の家賃に足して返した。
溜めていた家賃を全部支払うまでモル一家は節約して暮らしていたから、『隠れ家』でランチを食べてクッキーまで買ったのは父が亡くなってから初めての贅沢だった。
翌日、来月の家賃とクッキー半袋を持って大家のロディアスの部屋を訪れた。
ロディアスは数年前にこの集合住宅の持ち主になった。その前は何をしていたのか知らないが、裕福なのは間違いない。四十室もある集合住宅を一括で購入したという話は、住民なら誰でも知っている。なにせ前の大家がそう言ったのだから間違いない。
「ロディアスさん、来月のお家賃を支払いに来ました」
「やあ、モル。毎月ありがとう。お茶を一杯飲んでいかないか? たまには誰かと飲みたいんだ」
「はい。いただきます。美味しいクッキーを少しだけ持ってきたので、一緒にどうぞ」
「お。嬉しいなあ」
招かれて部屋に入るのは初めてではない。ロディアスは何回かに一回はこうして招き入れてお茶をご馳走してくれる。
ロディアスは一人暮らしで、部屋の中は整然と片付いている。窓際には高価そうな天体望遠鏡が置かれ、星を観察するのが趣味だと聞いたことがある。
ロディアスが台所でお茶を淹れて運んできてくれた。
長い黒髪を後ろでひとつに結んでいて、シャツにベストにズボンという服装だ。髪をひとつにまとめると左顎の下にある引き攣れた感じの大きな傷跡が目立つが、それをじっと見るのは失礼だということぐらい、モルはわかっている。
「魔法部の仕事はどうだい? 魔法使いは気難しいから大変だろう? 君に募集のことを教えたものの、魔法部の雑用係に決まったと聞いてずっと心配しているんだ。いじめられてはいないか? 暴力を振るわれたりしていないだろうね?」
モルがこれを聞かれるのはもう三度目だ。そのたびに「そんなことは一度もない」と説明しているのにロディアスは魔法使いを毛嫌いしている。それがなぜなのかはわからない。
「魔法使いの方々は魔法のことに夢中で変わっている人が多いですけど……。意地悪されたことはありません。暴力を振るわれるなんて全くありません。俺が失敗してガラスの道具を割った時も、『ちゃんと片付けてね』と言われるぐらいです。お茶、いただきます。これをぜひ味見してください。美味しいんですよ」
「ありがとう。いただくよ。んんっ? これは美味しいクッキーだな。どこで買った?」
「『隠れ家』っていうカフェで買いました。お給料が出た日は、友達と毎月行くことにしているんです」
『隠れ家』という名前を出した時、ロディアスの動きが止まった気がした。モルは(気のせいかな)と思ったが、気のせいではなかった。
「その店は、若い女性の魔法使いがやっているという店だね」
「魔法使いかどうか、俺は本人に聞いたわけじゃないのでわかりません。でもそういう噂ですね。お母さんの知り合いが魔法で火事を消すところを見たんだそうです。そして『隠れ家』の人だと、うちのお母さんに教えてくれたって言う、また聞きのまた聞きですから本当かどうかわかりません」
ロディアスが熱心に聞いている。
「その女性は、店で魔法を使っていないってことかい?」
「僕は見たことがありません。カウンターの内側で、普通に料理をしていますよ」
「ふうん。そうか。流行り病のときに無料で配られたポーションもその店の魔法使いが作ったという噂だけど、そうなのかい?」
「ええっ? マイさんがですか? 全然知りません。本当かなあ。少なくとも店では話題になっていませんよ」
話はそこで唐突に切り替わり、ロディアスはモルの妹が子守りをしている家でとても褒められているという話になった。
モルは満足して家に帰り、ロディアスとした話は忘れてしまった。
だが翌日にお城の食堂でジェノと昼食を食べている最中にその話を思い出した。
「なあジェノ、マイさんが魔法使いだって話は本当かなあ」
「さあ。そういう噂だけどね。ハウラー様は何も言っていないし、宰相様付きの文官様になってからは大部屋にはめったに来なくなってしまったから。全然わからない。なんで?」
「俺んちの大家さんがね、流行り病のときに大量のポーションを作って寄付したのがマイさんていう噂だと言うんだよ」
「ええ? そうなの? だったら僕、ハウラー様にお礼を言いたいなあ。うちの母さんは、あのポーションのおかげで助かったんだよ」
「うちだってあのポーションがなかったら、妹はどうなっていたか」
そんな話をした後、ジェノは宰相宛の書類を大部屋のギルシュから頼まれた。
日に一度は宰相の部屋に行くが、ヘンリーがいつも忙しそうにしているのもあり、雑談をしたことはない。
(そうだ。この書類を届けるときに、聞いてみよう)
ジェノは書類を抱えて宰相の部屋を訪れた。
ヘンリーは相変わらず忙しそうに書類に取り組んでいたが、ジェノを見ると微笑んでくれた。以前は目元を少し緩めるだけだったが、結婚してから変わった。誰が見ても微笑みとわかる表情になった。
(ハウラー様はお幸せそうだ)と、ジェノは我が事のように嬉しい。
「やあ、ジェノ。いつもありがとう」
「これはギルシュ様からの書類です。あの、ハウラー様、少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「いいよ。なんだい?」
「マイさんは、いえ、奥様は、流行り病のときにポーションを作ってくれた魔法使いなのでしょうか。もしそうなら、母があのポーションのおかげで助かりましたのでお礼を言いたいのです。雑用係が立ち入ったことを口にするのがマナー違反なのは知っています。でも、もしそうならお礼を伝えていただきたくて」
ヘンリーが手に持っていたペンを机に置いて、ジェノを見た。
久しぶりに見るヘンリーの完璧な無表情に、ジェノは(しまった)と冷や汗をかき始めた。
ヘンリーの無表情にはいろいろな種類があって、今はあまり機嫌が良くない時の無表情だ。
「すみませんでした! 忘れてください!」
「その噂が本当か間違いか、答えないよ。君に悪意がないことはわかっている。でもね、本人が名乗り出ない善行は、気づいても気づかない振りをしてあげるのが礼儀だと覚えておきなさい」
「はいっ! 申し訳ありませんでした!」
「怒っていないさ。ただ、少し驚いたかな。それ、誰に聞いたのか教えてくれるかい?」
「罰を与えますか? すごくいい大家さんらしいので、僕のせいで罰を与えられたら、僕……」
ジェノが泣きそうになっているのを見て、ヘンリーはジェノの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「罰を与えるつもりはないし、私にそんな権限はないから安心しなさい。どんな人かなと思っただけだよ」
「ありがとうございます。本当にすみませんでした!」
「それで、大家さんはどんな人かな?」
(うっ。ハウラー様は大家について質問を諦めないつもりだ。どうしよう。モルに迷惑をかけちゃう)
焦ったジェノが「ええと、ええと」と言葉を探していると、ヘンリーがとても優しい声を出した。
「すごくいい大家さん『らしい』ということは、仲良しのモルの家の大家かな?」
(あああ! ハウラー様は頭がいいだけじゃなくて勘もいい方だった!)
ジェノは天を仰いだ。
番外編はなんかもう、「本編は無事に完結したよ」ってのびのびしちゃって、書きたいことがいっぱい出てきちゃってw






