120 乾燥魔法
私があちらの世界のコピー機を使って拡大コピーした魔法陣。
それを(そういやあれは張り合わせないと使えないな)と思って引っ張り出し、閉店後の店のテーブルに広げた。これから小麦粉糊で張り合わせるつもり。
するとそれを見たヘンリーさんがビュン! と音を立てそうな勢いで私の前に来た。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕にその作業を任せてください」と言う。別にいいけど、なんでそんなに必死なんだろう。「どうぞ」と場所を譲ると、ヘンリーさんは殺気を漂わせるレベルでコピーした魔法陣を貼り合わせている。細い絵筆を使ってすごく慎重に。
「ヘンリーさん、すごく真剣ですね」
「それはそうですよ。貼り合わせるのがわずかでもずれたらどうなるか、想像しただけで恐ろしいですからね。俺にはこの発想はなかった。グリド先生に聞いたら、正しい魔法陣であることが大切で、紙に描かれているか、床に描いているかは重要ではないはず、とおっしゃっていましたよ」
「はず、なんですね」
私はなぜヘンリーさんがこんなにコピーした魔法陣に夢中になっているのか理解できないでいる。ヘンリーさんが楽しそうな顔で私を見あげた。
「なぜ俺が興奮しているか、わかりませんか?」
「わかりませんけど」
「瞬間移動魔法と言いつつ、魔法陣を描き終えるのに結構な時間がかかるでしょう? その手間を省けるのです。これは偉大な発想の転換です。飛びたいときにパッと移動できる。それでこそ真の瞬間移動魔法です」
ヘンリーさんが「これでよし」と背中を伸ばした。
「まずは物で試しましょう」
「せっかくなので、シュークリームをハウラー家のお屋敷に送りましょう。子爵様には何を知られても安心ですし」
「そうですね。シュークリームは母上の大好物ですから、きっと喜びます」
ヘンリーさんが唇に指先を当てて考え込んでいる。
「俺が実家のホールに行きます。結婚式をしたあのホールです。テーブルを出しておきますから、そこに送ってもらえますか? 出現する場面をこの目で見たい」
「わかりました。では九時の鐘が鳴ったら送りましょうか」
「九時の鐘ですね。では俺は今から実家に向かいます」
「いってらっしゃい」
ヘンリーさんが、なんだかはしゃいでいる。
私はシュークリームを木箱に並べて、コピー紙の魔法陣の上に置いた。九時の鐘の音を待って魔法陣に魔力を注ぎ、もうこれ以上は込められないと感じたところで変換魔法を放った。シュークリームは一瞬で消えた。
「あら、こんなふうになるんだ?」
魔法陣をコピーした紙は、真っ白に輝いていた文字と図形だけが消えている。何も書かれていなかった部分の紙は残っている。残っている紙を見て思ったんだけど、魔法陣を印刷する手もあるんじゃないかしらね。木版画とか、シルクスクリーンとか。
しばらくしてヘンリーさんが店に戻ってきた。大変にご満悦だ。
「無事にシュークリームが届きました。印刷された紙でも問題なくものを送ることができる。これは素晴らしい発見です」
もしかしてヘンリーさんの頭の中では、壮大な物流革命が生まれているのだろうか。
「魔法使いの宅配便をやるつもりはありませんよ?」とヘンリーさんに念を押したが、宅配便という言葉が伝わらなかった。宅配便が何かを説明すると、「そんなことはさせませんよ。今、配達を仕事にしている人たちから仕事を奪ってしまっては気の毒です」と笑って終わりだった。
『隠れ家』は毎日順調で、キアーラさんは調理補助や後片付けだけでなく、下ごしらえも問題なくこなせるようになった。でもね。ちょっとそこは気になる。
「キアーラさん、魔法の記録に差支えが出るほど働かなくていいんですよ?」
「賃金をいただいている分は、必ず働きます。それより、マイさんはシルヴェスター先生の魔法で試したい魔法はありませんか?」
「あります」
「どの魔法にご興味が?」
「いろいろ試したいのですが、今一番興味があるのは、『乾燥』です」
「それはまた地味な魔法を選びましたね」
「と、思うでしょう?」
これはね、フリーズドライにも匹敵する魔法ですよ。
凍らせることなく食材から水分を抜く。これでできることをたくさん思いつく。一番は携帯食料、保存食料だ。スープ、果物、野菜、ジュース。
「シルヴェスター先生は、どういう経緯でこの魔法を生み出したのでしょう?」
「洗濯物です。長雨のときに洗濯物が乾かなくて、私が夏場でも暖炉に火を入れて乾かしていたんです。そうしたら、この魔法を考案して洗濯物を乾燥させてくださったんです」
そういうことか。私は変換魔法で水と洗濯物を分離していたけど。そうだ、脱水機。あれを作って売り出したら、需要があると思う。
「マイさん?」
「今、考えたことがあるんです。魔法を使わずに洗濯物から水を抜く方法です」
「それは洗濯を仕事にしている人たちに喜ばれますね」
「これはヘンリーさんに相談した方が間違いなさそう」
なんかワクワクする。その道具を売って得たお金を有効利用する手もある。
「そういえばマイさん、お引越しは進んでなさそうですが?」
「引っ越し先のあのおうちが空になるのを待っています。奥さんが今の家に愛着があるらしいから急かしたくなくて」
キアーラさんが微笑みを湛えて私の顔をまじまじと見ている。
「私、変なことを言いました?」
「私はかなり気が長いんですが、マイさんもそうなのかしらって」
「いえ、私はわりとせっかちです。でも、ヘンリーさんとお付き合いするようになって、少し考え方が変わったんです。優先順位を考えたら、家との別れを惜しんでいる奥さんを急かしてまで引っ越したいかと言ったら、そうでもないから」
キアーラさんが「そうでしたか」と納得した様子。
「そうやって影響を与えながら互いに似てくる夫婦と、互いに譲り合って仲良くしている夫婦がいるんですよね。どっちもいいと思いますけど、マイさんとヘンリーさんは似てくる夫婦なのかなって」
「そうかもしれませんねえ」
「これは老婆心で申しますけど、夫か妻の片方だけが譲り続ける夫婦は破綻することが多いのでお気をつけて」
「気をつけます」
私はもともと荷物が少ないし、厨房は物が多いけど店はこのまま使うから引っ越しには関係ない。それに比べて、引っ越し先のご夫婦は何十年もあの家に住んでいて、荷物が多い。まあ、のんびり構えよう。
とりあえず乾燥魔法を習得しようと、シルヴェスター先生の魔法の記録を読んで気がついた。この魔法は水魔法の応用だ。
水魔法はおそらく周囲の空気や土から水を集めているはず。無から水を生み出すのは、いくら魔法でも難しいはず。それに対して、乾燥魔法は範囲を限定して濡れた衣類から水を取り出しているのだ。その「範囲を限定する方法」が、記録を読むとちょっとややこしいのだ。
「だったら結界を張った中に洗濯物を吊るして、その中で水魔法を使えばいいのでは?」
自分の発想ににんまりして一日を過ごした。
翌日、お城の仕事を終えたヘンリーさんが店に来て「今日から引っ越しの日までは、ここで暮らしたいんですが」と言う。
「あれ? お向かいの家に引っ越してから一緒に暮らすのかと思ってました」
「俺の優先順位はマイさんと一緒に過ごすことなのですが。迷惑ですか?」
「いえ。もう半分一緒に暮らしているようなものですから、迷惑じゃないんですけど……」
「けど?」
ヘンリーさんが甲斐性無しに見られるのでは? という表現は強すぎて、頭の中で言葉を探してしまう。
「俺は他人がどう評価するか、気にしませんよ。陰口を言うとしたら貴族ですが、将来の宰相に嫌われてもいいと思う貴族は少ないはずです」
「お強い」
「陰口は、耳に入らなければ存在しないのと同じです」
「ほんとにお強くていらっしゃる」
ヘンリーさんが「ははっ」と笑う。
「俺をそう変えた人が何を言っているんだか」
「私ですか?」
「そうですよ。目立ってもいい、それで厄介なことに巻き込まれてもいい、魔法で人を助けられるなら助けるんだって突っ走っているのはマイさんでしょう。俺はマイさんに影響されたんですよ」
「あー……たしかに」
キアーラさんの言うとおり、私たちは互いに影響を与え合う夫婦みたい。
そして夕食を食べながら説明した携帯食料、保存食料の話は、ヘンリーさんの目を輝かせた。
「保存性もですが、食料を軽く小さくできる。これはすごい発明ですよ! 荷物が軽く小さくなれば、運搬や移動の効率が上がります。まずはハウラー家で事業を起こし、有用性を実証したら国の事業にしてもらって、売り上げで教育の充実を……」
ヘンリーさんが楽しそうでなにより。






