115 ミッチェル・ハウラーの避難先
ウェルノス王国に戻って数日。
たびたび留守にする店主で申し訳なかったが、サンドル君たちは今回もちゃんと店を維持してくれていた。
「奉仕労働もとっくに終わったことだし、あと一年くらいしたらお店を開けるかもね」
「いやいや、店を持つのに必要なのは料理の腕だけじゃないっすから。もっとここで修業させてください」
「俺からもお願いします。もっとここで働かせてください」
サンドル君とアルバート君はまだ店を開くつもりはない、修行したいと言う。それなら彼らが独立開業するまで、私が知っていることをもっともっと教えよう。
そんな『隠れ家』に、新しい常連さんが誕生した。
「やあ、マイさん。今日も来たよ」
お客さんが少なくなる午後一時過ぎ、ハウラー子爵様がご来店。もう四日連続だ。一応庶民らしい服装だけど、漂い出る貴族のオーラは全然隠せていない。
子爵様が連日私の店に通ってくるのには理由がある。
「美味しくて軽いものはあるかな。その、太りにくいものがいいんだが」
美味しいものはたいていカロリーが高いのだから、悩ましい。だが。
「野菜とキノコがたっぷりで、ソーセージと赤身肉が入っているスープはいかがでしょう」
「それにしようか」
ここ数日で子爵様のお悩みを知り、今日はポトフを仕込んである。野菜と肉の出汁がたっぷりのスープを飲んで、子爵様が「んんん、美味しいね」と唸る。
「牛肉は脂肪の少ない赤身で、ソーセージは一本だけにしてあります」
「ソーセージは私の好物なのだよ」
「ですがソーセージは脂身を入れて作りますので」
「そうだな。一本を大切に食べようか」
切ないことをおっしゃる。
チリリンとドアベルが鳴り、ヘンリーさんが入ってきた。そして子爵様を見るなり苦笑している。
「父上、またですか」
「そう言うな。お前だっていずれわかる。食べても太らずにいられるのは、若い時だけなんだぞ」
「母上に叱られたのですね」
子爵様は無言だ。当たりなのだろう。
「結婚式後のパーティーに出す料理を試食するのは、私の役目なのだよ。料理人が張り切っていてね、どれも美味しい。ひと口でやめるのが難しいんだ。おかげで腹に肉がついた。結婚式用に仕立てた服が入らない」
「母上に試食を頼めばいいのでは?」
「コンスタンスは『ドレスが入らなくなったら困る』と言って自分はスプーンの先でちょっと食べるだけだ。残りを全て私に試食させる。そして『私はいいと思うけれど、あなたが決めてくださいな』と言うのだ。責任重大だから、どうしてもしっかり食べてしまう」
ヘンリーさんは「日替わりで」と言って子爵様の向かい側に座った。
今日の日替わりは豚肉の香り煮込みという名のルーローハン。コッテリなんですけど。
脂肪も炭水化物もたっぷりのルーローハンを「ああ、美味しい」とため息をつきながら食べるヘンリーさん。向かい側で恨めしそうに眺める子爵様。
「少しいかがですか?」
「分けてくれるか」
「母上には内緒ですよ」
「もちろんだ」
私は素早く小皿を出した。ヘンリーさんが気前よく三分の一ほどを小皿に分けると、子爵様が大切そうに食べて「これは……」と言って目をつむる。そして目を開けて私を見る。
「この香りはなにかな」
「クーロウ地区で香辛料を買い集めて自分で作りました」
五香粉はクーロウ地区でも見つからなかった。本当は売っているのかもしれないけれど、五香粉という名前じゃないから。たくさんの茶色の粉の中から五香粉を見つけるのは難しかった。お店の人に香りを言葉で伝えるのは、とても難しいと思い知った。
だから自分であれこれ買い集めて作った。
買い集めたのは山椒、クローブ、シナモン、八角、フェンネル、陳皮だ。全部を粉にしてブレンドして、好みの味にして使っている。サンドル君とアルバート君もルーローハンが大好きだ。
「ヘンリー、私の野菜スープも食べるかい?」
「いただきます」
再び素早く小さな深皿を出した。父親と息子は仲良くシェアして昼食を楽しんでいる。いい景色だ。
「さて、私はそろそろ帰るよ」
「私も城に戻ります。母上は相変わらず殺気を放っているのですか?」
「ああ。あんなに張り切らなくてもいいのになあ。子爵家が見栄を張ったところで、伯爵家や侯爵家から見れば、どうということはないんだ。祝福してもらえたらそれでいいと思うんだが」
「それを母上に言ったら絶対に、『人の苦労も知らないで』と激怒されますよ」
「もう激怒されたよ」
二人で立ち上がり店を出ていく間、ヘンリーさんがずっと肩を震わせて笑っている。子爵様によると、ヘンリーさんはご家族の前でもよく笑うようになったそうだ。
仕事終わりにもヘンリーさんがやってくる。
二階の空き部屋にヘンリーさんの私物が置かれ、少しずつ増えている。泊まっていくことも多い。なし崩し的に半同棲みたいになっているのを私は気にしていたのだが、ヘンリーさんは気にしていない。
「そもそも王命で一緒に暮らすようになったのですからね。貴族に何か言われたら『一緒に暮らし始めたのは陛下のご命令でした。では、陛下にあなた様のご意見をお伝えしておきます』と言ってやればいい」と言う。
それ、屁理屈じゃない? 陛下は辺境伯家限定で隣同士の部屋で過ごせって言ったんじゃない?
でもまあいいか、と思う。私に赤ちゃんができたら、間違いなくヘンリーさんの子供だし。
結婚式はもうすぐだ。
仮縫いで着たドレスは真っ白ではない。ベージュの、光沢のある絹のドレスだ。ネックレスをどうするかという話になり、私が何気なく「真珠が一番しっくりくると思うんですけど」とヘンリーさんに言った。
「真珠のネックレスですか。それ、魔法で作るんですか?」
「そう。材料さえ揃えば作れるはず」
「真珠のネックレスですか。うーん……」
「何か問題が?」
「日本では、真珠のネックレスは気軽に手に入るものですか?」
「お金さえ払えばね。品質によって値段は様々ですけど。東京の実家にはお母さんのネックレスがあったから、持ってくればよかった」
そこからずっとヘンリーさんが考え込んでいる。
「やっぱりいいです。私は真珠にこだわってるわけじゃないので。銀細工もあのドレスに似合うと思います」
「いや……真珠のネックレスにしましょう」
なんでヘンリーさんがそんなに悩むのかと思ったけど、考えてみたらこの世界には真珠の養殖技術は存在しないんだった。大きさや色味をそろえてネックレスを作ったら、ものすごく高価になるってことか。
「オパールでもいいですけど」
「いえ、マイさんが真珠がいいと思うなら、真珠のネックレスにしましょう」
ヘンリーさんの目が何かを達観した人の目になっていて笑ってしまった。
「親から渡された古い品だと言えばいいかもしれませんね」
「平民だったはずのマイさんは、じゃあどこの娘だったんだってことになります。その話は却下で」
そう言ってまた宙を見つめる。ヘンリーさんの「俺は全てを受け入れる」的な表情がもうおかしくて。
「笑い事ではないのですが」
「ごめ……ふふっ、ごめんね。他の花嫁さんはどんなネックレスをしているのかしら」
「貴族は金か銀の細工物のネックレスに瞳の色の宝石を組み込んだものですね。ピアスを買った店で見てみますか?」
「でも、黒い宝石はあのドレスには似合わないと思う。ヘンリーさんの瞳に色を合わせましょうか?」
「いや、やっぱり真珠でいきましょう。一生に一度のことなのですから、悔いが残らないようにしたい」
私が「別に他のネックレスでもいい。悔いなんて残らない」と何度言っても「あなたが最初に思い浮かべたのが真珠なら、他のものにしたら俺に悔いが残る」と譲らない。
こうして私が真珠のネックレスを作ることになった。
真珠を作るなら、私には強い武器がある。おばあちゃんの勧めで「世界の宝石一覧」という本を買って持ってきた。宝石の成分、産地、宝石言葉などが書かれている。
翌日、私は市場に行って貝を数種類買い集めてきた。
ホタテに似た白い二枚貝と、貝殻の内側がツヤツヤしているムール貝みたいな黒い二枚貝。
材料さえ揃っていれば、成功するはず。






