114 覚悟はできている
「あの魔法を使ったのかいっ!」
おばあちゃんの叫び声がすぐ近くから聞こえて目を開けると、もう懐かしい我が家だった。
おばあちゃんは私たちを見て最初こそ怒ったけれど、すぐに私を抱きしめて「マイ!」と言って泣き出した。私も二度と会えないと思っていたおばあちゃんの顔を見たら、子供みたいに泣いてしまった。
少し落ち着いてからヘンリーさんがおばあちゃんに、「初めまして、ヘンリー・ハウラーです。驚かせて申し訳ありません。グリド先生の新しい魔法陣を使いました」と言って魔法陣の描かれた紙を取り出した。おばあちゃんが手に取ってじっくり見ている。
「あちこち手直しして、誤作動が起きにくくしてある。グリドさんはさすがだね。さて。おなかは空いてないのかい? まだなら夕飯をつくるけど」
「おなか、すごく空いてる! おばあちゃんが作るご飯を食べたい!」
「よしよし。すぐに作るよ」
少ししてテーブルに豚肉の生姜焼き、サラダ、サーモンのマリネ、だし巻き玉子、ナメコとお豆腐のお味噌汁が並んだ。私が好きなものばかり。ヘンリーさんが「どれも美味しい」と言って全部を完食した。おばあちゃんは「ヘンリーさんは食べっぷりがいいね」と嬉しそう。
食後は三人で怒涛のおしゃべりになった。
おばあちゃんはウェルノス王国の言葉を忘れていなかった。三人の会話は日本語を知らないヘンリーさんのために、ウェルノス王国語だ。
おしゃべりの途中で「そうだ」と思い出してカーテンを開けると、懐かしい夜景が広がっている。東京の夜はとても明るい。空にはお月様が出ていて、ヘンリーさんが「あれが月ですか!」と興奮して眺めている。
夜太郎と白雪はなかなか出てこなかったけれど、夜中にそーっと姿を現してくれた。
私は思うさま夜太郎と白雪を可愛がった。ヘンリーさんは警戒された。
その夜は私の部屋のベッドでヘンリーさんとくっついて眠った。ヘンリーさんはベッドに入ったまましばらくテレビを眺めていたが、途中で寝落ちした。本当はヘンリーさんも世界の壁を超えることに緊張していたんだと思う。
翌朝、おばあちゃんと二人で朝食を作った。
「またマイとこうして料理を作る日がくるとは思わなかったよ」
「私も。おばあちゃん、包丁使いながら泣いたら危ないよ」
そう言う私も涙が出て困った。
おばあちゃんが作るお味噌汁と卵焼きは、やっぱり最高に美味しい。
「いつまでこっちにいられるんだい?」
「俺は十日間の休暇を申請しました。できる限りこの都市を見て回りたいです」
「十日間あればずいぶん見て回れるね」
おばあちゃんは「近所の人に見られたら説明が厄介だから、近所だけでもこれを」と言って、家にある品を変換してサングラスと帽子を作ってくれた。おばあちゃんが魔法を使うところを初めて見たけれど、あまりに動作が少なくて素早いから、私でさえ手品に見えた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。楽しんでおいで」
同じくおばあちゃんが作ってくれたヘンリーさんの服は、白いシャツ、濃いグレーの細身のパンツ、薄手のジャケット。足元は革のショートブーツだ。スタイルがいい人は、ただ立っているだけでもかっこいい。
私たちは東京の街を歩き、バスや電車に乗り、美味を堪能し、新幹線で大宮まで往復した。ヘンリーさんはタワーマンションを見ては「信じられない。なぜこの建物は自重で倒壊しないのか」と言い、新幹線に乗った時は「こんな移動手段を我が国でもいつかは実現させたい。でも俺が生きている間には無理でしょうねぇ」とつぶやいた。
「ヘンリーさん、これからどこに行きましょうか」
「電気の仕組みを知りたいです。どうやって家庭に配るのかも知りたい。建築現場も見たい。あっ、水道の仕組みを学べる場所はありますか?」
「できるだけ希望に沿える場所を回りますね。書店でその手の本も買いましょう」
一日中歩き回って家に帰れば、おばあちゃんにベタベタ甘えた。2回目の夜は、おばあちゃんと一緒に眠った。「相変わらず甘ったれだねえ。ヘンリーさんをほったらかしていいのかい?」と苦笑されたけど、今だけはおばあちゃんと一緒に眠りたい。
夜太郎と白雪と私とおばあちゃん。ベッドが満員だった。
最初はヘンリーさんを敬遠して様子見していた夜太郎は、そのうちヘンリーさんに頭をこすり付けるようになった。白雪は今もヘンリーさんを警戒していて、シャーシャー言い続けている。
私とヘンリーさんは連日、朝に出かけて夜帰る。
ヘンリーさんの希望で、最初はライフラインや公共事業の仕組みを学べる施設を回っていたけれど、今日は私の提案で池袋の水族館に来た。
大水槽を見るなりヘンリーさんが「これは……」と言って水槽に駆け寄った。全部の水槽を熱心に見て回ったヘンリーさんが、今はカフェでコーヒーを飲んでいる。
「こちらの世界は、何もかもが俺の想像をはるかに超えていました。来てよかった。本当によかった」
こんなに喜んでもらえるなら、勇気を出して来た甲斐がある。
気がつくと、周囲の席の女性たちが微笑むヘンリーさんに目を奪われている。そうでしょうそうでしょう。ヘンリーさんはかっこいいでしょう?
「ヘンリーさん、あちらの世界に戻ったら、アルセテウス王国へも行きましょう。一度行った場所じゃないと場所を想像できないから、最初は船で。できればカルロッタさんに会いたいです」
「俺も会いたいです。行きましょう。俺が説得しますから」
水族館を出てウェルノス王国の言葉でしゃべりながら歩いていると、見知らぬ男性がヘンリーさん目がけて近づいてくる。日に何度もこの手の人がヘンリーさんに寄ってくる。
「すみません、芸能関係の仕事に興味はありませんか?」
「ありません。彼女と日本旅行を楽しんでいるところなので、失礼します」
日本語でそう言ってヘンリーさんがサングラスを持ち上げた。鮮やかな緑色の瞳で旅行中だと伝えると、全員が引き下がる。
「すっかり日本語が上手になりましたね」
「今のセリフだけね。リヨさんに日本語の知識を注ぎ込んでもらえないかな」
「それ、聞いてみましたけど、おばあちゃんは魔力が減っていてもう無理だそうです。私を送り出した後、魔力が全部は戻らなかったんですって。それでもまだすごい魔力量ですけど。無理はさせられないから、私が頑張ってその高等な魔法を身につけます。でも、私がその魔法を覚えるよりヘンリーさんが日本語を習得する方が早そう」
ふふっと笑ったヘンリーさんが急に真面目な顔になり、「ここに入りましょう」とコーヒー専門店を見た。ヘンリーさんは本物のコーヒーに魅了されたらしく、毎日種類を変えてコーヒーを飲んでいる。
最初におばあちゃんが淹れたコーヒーを飲んだ時の感想は「どんぐりコーヒーは全く別物でしたね」だった。今日はナッツフレーバーのコーヒーを飲んで、「美味しい。だけど俺は、香りをつけていないコーヒーの方が好きです」と言う。
コーヒーを飲んでいる途中で、ヘンリーさんが急に背筋を伸ばした。
「辺境伯領から帰ったあの日、俺だけ残るよう陛下に言われたでしょう? あのあと、陛下に『偉大な力を持った魔法使いは、過去に何度も現れている』と言われました。しかし先代と先々代の国王陛下の治世に偉大な魔法使いは現れず、今の陛下の代にマイさんが現れた。だから陛下は『国のため民のために、マイに感謝して大切に守る』とおっしゃってくれました」
ヘンリーさんがエメラルドの瞳で私をジッと見る。
「でもね、マイさんは既に多くの命を救いました。あなたは十分に役目を果たしたのです。だから……マイさんがこちらの世界に残りたいのなら、このまま残っていいんですよ? その時は俺も一緒に残ります」
ヘンリーさんはおそらく、本気で全てを捨てるつもりだ。
だけど私は、こちらの世界に残るつもりはない。
私の人生はあの時、病院のベッドで終わっているのだ。
おばあちゃんだって、私との永遠の別れを覚悟して私を送り出したはず。
私の覚悟はできている。あちらの世界で、ヘンリーさんやあちらで出会った人たちと生きる。私の人生を奪おうとする人が現れたら、「私はいつでも姿を消せる」とわからせよう。
「私はウェルノス王国へ帰ります。サンドル君たちに店を持たせると約束しましたし、ソフィアちゃんがどんな美人さんで美犬さんになるのかも見届けたいです。シルヴェスター先生の魔法ももっと学びたい。カリーンさんやロミさんともっと仲良くしたい。キアーラさんも待っています」
そう言うと、ヘンリーさんは私の本心を確かめるように私の目を覗き込んだ。
「わかりました。結婚式がもうすぐですから、帰ったら忙しいですよ。辺境伯領から帰った後、実家へ顔を出したのです。養母が結婚式の準備に張り切りすぎていて、殺気をまき散らしていました」
「殺気。ふふっ」
「俺は早くマイさんと正式な夫婦になりたいです」
「う、うん」
多分私は赤くなっている。ヘンリーさんが私を見て微笑んだ。それから通りの向こう側を見て、またパアッと明るい顔になった。
「あの書店に行きたい。本をもっと買いたいです」
「好きなだけ買ってください。おばあちゃんから、お小遣いはたっぷり貰っています」
日本語や外国語の本を、変換魔法でウェルノス語の本にできるのは確認済みだ。
おばあちゃんは昨夜、お小遣いを渡してくれながら「たいていの宝石は作れるんだよ」とあっさり白状した。タンスの二重底を開けて見せてくれたのだけど、多種多様な大粒の宝石が布の上に並んでいて、私とヘンリーさんはちょっと引いて無言になった。私が作ったダイヤを見た時のヘンリーさんの気持ちが、よく分かったわ。
「マイのおじいさんは大学で物理の講師をしていたからね。どの宝石がどんな成分か、その成分が何に含まれているか、丁寧に教えてくれたんだよ。マイの父親はおじいさんの生徒さ」
「物理の専門家と変換魔法の使い手なんて、最強の組み合わせだわ。私がオパールを作れたのはお父さんの言葉のおかげなの。あちらに行ったばかりの頃にオパールを作って、とっても助かったっけ」
おばあちゃんが少し目を赤くした。
「へえ、そうだったの。博之さんの言葉を覚えていたのかい。きっと絵里と博之さんが、あの世で喜んでいるよ」
「やだ、そんなに泣かないでよ。ねえ、おばあちゃんはあっちの世界に行かなくてもいいの? 一度くらい行ってみない?」
私がそう尋ねると、おばあちゃんは笑って首を振った。
「千住が私の故郷だ。友達もたくさんいるし、お客さんは飽きずに通ってくれている。私はこの先も千住で生きるよ。マイのおかげで、グリドさんやサラさんと話ができるようになった。それで十分さ。そうだ、亮ちゃんがしょっちゅう来てくれているんだよ。来るたびにマイから連絡はあったかと聞かれるんだけど、どうする?」
隣にいるヘンリーさんをチラリと見て、おばあちゃんが気まずそうに尋ねる。
「会う。ヘンリーさんと一緒に会うよ。私は病院を抜け出して海外を放浪しているうちに病気が治って、ついでに婚約したって言う」
「そうかい。じゃあ私から連絡しておく」
そして小声の日本語で「泣かれるのは覚悟しときな」とつぶやいた。
夜遅いにもかかわらず店に駆け付けた亮ちゃんは、「お前が行方不明の間、俺がどれだけ心配したと思ってんだ!」と泣いて怒って再会を喜んでくれた。
ヘンリーさんを見て、「結婚しないって言い続けてたマイが婚約ねえ」と感心したように言う。
ヘンリーさんはニコニコしながら日本語のやり取りを聞いていたけれど、亮ちゃんが帰った後で、「俺だけ話を理解できなかった。二人でしゃべったことを翻訳して」と真剣な顔で言う。私が翻訳しているのをおばあちゃんが含み笑いをしながら聞いていて恥ずかしかった。
「ということで、ヘンリーさんが心配することは何もありません。亮ちゃんの前で猫にならなくてよかったわ。それだけが心配でした」
「猫になるってどういう例えだい? ウェルノス王国にそんな言い回しがあったかね?」
おばあちゃんが真面目な顔で聞いてきた。
「あ、そうか。おばあちゃんは獣人さんのことを知らないんだね」
「ジュウジン? 何の話?」
「あっちの世界には獣人さんがいて、ヘンリーさんのお母さんは猫型獣人さんで、ヘンリーさんはそのお母さんと一般人の父親との間に生まれた人なの」
おばあちゃんは「はぁ?」と言ったきり無言。ヘンリーさんが心配そうに私に聞いてきた。
「俺が猫に変身して見せるべきですか? それともあの姿を見せたら、驚いて倒れるかな?」
「うーん、大丈夫だと思うけど……」
「ちょっと待ってよ。猫になる? ヘンリーさんは猫になれるの? なれるものならなって見せてほしいわね」
「では、実際にお見せしますね」
廊下に出たヘンリーさんが猫の姿で戻ってくると、ソファーでくつろいでいた夜太郎と白雪はすっ飛んで姿を隠し、おばあちゃんは口を開けて動かなくなった。そしてしばらくしてから日本語でつぶやいた。
「おやまあ……。マイは面食いで猫好きだったけど、両方同時に手に入れたのか」
「そうなのよ。自慢の婚約者なの。一番素敵なのは中身だけどね」
おばあちゃんは「ぬけぬけとのろけるねえ」と言いつつ、ヘンリーさんの全身を近くでシゲシゲと見て「本当に猫だ。それも見目麗しい大猫だよ」と感心している。
「おばあちゃん、私ね、ヘンリーさんと結婚したら、三人は子供を生むつもり。そこはなぜか自信ある」
「これから三人か。そりゃ気張らないとだね」
「では俺は未来の腹黒宰相として活躍するべく、努力します。マイさんはのびのびと生きてください。マイさんの背後は俺が守ります」
ヘンリーさんはこちらに来る前、宰相様に休暇を取ると報告に行ったら「宰相付き文官」の打診を受けたそうだ。今まで文官にそんな役職はなくて、ヘンリーさんのために新設されるらしい。
それを聞いたおばあちゃんが嬉しそうだ。
「イケメンで仕事ができて誠実。そして猫にもなれる。マイは最高の人に出会ったね」
「それもこれも、おばあちゃんのおかげです」
◇
十日間の休暇は終わり、いよいよ帰る日になった。
最後の日も夕食の時間までたっぷり東京を見学して回り、お土産の買い物をした。それからおばあちゃんが待つ『喫茶リヨ』へ。
今日はずっと、ヘンリーさんに教えてもらった『偉大な力を持った魔法使いは、過去に何度も現れている』という陛下の言葉を思い出している。というのも……。
本当は、おばあちゃんが『偉大な力を持った魔法使い』になるはずだったんじゃないだろうか。
前回の流行り病も今回も、本当はおばあちゃんがポーションを作って活躍するはずだったのでは?
だけどおばあちゃんはこちらに来てしまった。
それから数十年。魔力を蓄える器だけがやたらに大きくて、魔力を持たない私が生まれた。そして病気で死ぬ間際におばあちゃんの魔力を注がれ、あちらの世界に送られた。
結果、魔力を生み出せるようになった私を通して、おばあちゃんの魔力と魔法の知識は多くの人の役に立った。
まるで、あちらの世界が欠けたジグソーパズルのピースを取り戻したみたいな流れだ。
もしかして私は、最初からあちらに送られる運命だったのだろうか。
真実はわからない。
私はヘンリーさんと家族になって、魔法と料理で誰かを笑顔にしたい。
「マイさん? どうかしましたか?」
「ん? なんでもないです。今夜はすき焼きだっておばあちゃんが言ってたから、早くすき焼きを食べたいと思っていました。ヘンリーさんも、食べたらすき焼きの美味しさに驚きますよ」
「へえ、楽しみだな」
『喫茶リヨ』に戻り、三人ですき焼きを囲んだ。
ヘンリーさんは「すき焼きを『隠れ家』のメニューに入れてほしい」と、繰り返した。
「この人はマイ以上に食いしん坊だよ」とおばあちゃんが言って、三人で笑った。
さあ、いよいよ帰らなくては。
帰りの魔法陣もヘンリーさんが描いた。おばあちゃんは鋭い眼差しでヘンリーさんの手元とグリド先生の魔法陣を見比べていたが、魔法陣が完成すると満足げにうなずいた。
「いいね、完璧だ。マイが描くんじゃ、ちょーっと心配だけど、ヘンリーさんなら安心だよ」
「光栄です。マイさんは性格が少々大雑把ですからね」
「そうなんだよ。そこがマイの残念なところであり、いいところでもあるんだけどね」
「二人して失礼なことを言い合ってるわ」
たくさんの本とお土産を魔法陣の中に置いた。おばあちゃんが見守る前で、私とヘンリーさんが向かい合って立ち、手を繋ぐ。
さあ、帰ろう。別れの挨拶は心行くまで済ませてある。
「では、帰りましょうか」
「はい。ソフィアちゃんに早く会いたいです」
「じゃ、帰るね、おばあちゃん。お世話になりました」
「体に気をつけるんだよ」
「おばあちゃんもね。またいつか遊びに来るね」
「来なくていいんだよ。その代わりに声を聞かせておくれ。グリドさんには悪いけど、マイが世界を超えるのかと思ったら私の寿命が縮むよ。ヘンリーさん、どうかマイをよろしく頼みます」
「全力でマイさんを大切にします」
おばあちゃんが私の顔を見ている。あの日、私を病院のベッドから送り出すときとは全く違う、穏やかな笑顔だ。
さあ、帰ろう。あちらの世界へ。
私はおばあちゃんに向かってうなずき、『隠れ家』の二階を思い浮かべながら目を閉じた。
目を開けて魔力を注ぐと、床の魔法陣が白く眩しく輝いた。
……………………
ここまでお読みいただきありがとうございました。
しばらくしてから「その後の隠れ家の話」を投稿します。






