113 ヘンリー理論
王都に戻って数日。
覚悟を決め、ヘンリーさんと二人で瞬間移動魔法を試そうとした。けれど、恐怖で冷や汗が出るし何度も挑戦しようとすると気持ちが悪くなってえずいてしまう。
大雑把な性格の私は、こんなこと初めてだ。
そんな私を見かねたのだろう。ヘンリーさんが優しく励ましてくれた。
「グリド先生は聡明で慎重な方です。以前はマイさんに『危険だから、瞬間移動用の魔法陣は教えない』と言っていました。その先生が大丈夫だと言うのですから、信じましょう」
「うん……」
失敗して変な姿になっても、元の姿に戻せるのかな。
「私、人体の正確な構造を知らないの。私程度の知識で自分とヘンリーさんを一回分解してしまったら元に戻せないと思う」
「知識ねえ……」
ヘンリーさんが首を傾げる。「それ、必要?」みたいな。なんでそんな顔をするの?
「自分たちに変換魔法をかけて外側は元通りに再現できても、体の中が間違っていたら困るでしょう?」
「よく考えてみてください。七歳からずっと世間を知らずに育ったリヨルに、人体の知識がありましたかね? リヨルは魔法のことしか知らなかったはずです。でも、変換魔法を核にした瞬間移動理論を完成できた」
「うん……それはそうだけど」
「魔法を使えない俺ですが、マイさんの言う変換魔法の理屈は、どうもあちこち納得がいかないのです」
ヘンリーさんが右手で私の手を取って、左手で私の手の甲をぽんぽんと叩いて、「落ち着いて聞いてくださいね」と言う。
「変換魔法は『中身に関する正確な知識が必要』というのは、マイさんの思い込みだと思います」
「そんな……いろいろ試したけど、中身の知識がないものは作れなかったもの」
伝文魔法を学ぶ前、トランシーバーがあったら便利だと思って挑戦したことがある。トランシーバー、バッテリー、ソーラーパネル付き蓄電池。どれも現れなかった。樹脂素材のものが無いから木製ボディを思い浮かべてもダメだった。構造を知らないから作れないんだと思った。
「変換魔法が成功する条件は、『中身の正確な知識』ではなくて、『材料が全て揃っていること』ではないでしょうか。オパールはその辺の土に材料が揃っていたのでは?」
「待って……」
あれやこれやを思い返した。オパールに関しては、確かに材料が揃っていたと思う。
荷車もキャリーケースも、材料が揃っていた。どんぐりはコーヒー豆に変換して見た目がそっくりになっても、味は違っていた。どんぐりには、何かの成分が欠けていたのだろうか。
「リーズリー氏の作った魔導具が変換魔法を組み込んでいるかどうかは知りませんが、魔導具も人体を一度消して移動させ、再び人体を登場させていますよね。魔法部の魔法使いが人体の詳細な知識を得ようとしたら、解剖する遺体を手に入れるところからです。彼らがそんなことをしていたら、筆頭文官の俺に情報が上がらないわけがないんです。でも俺はそんな話は聞いていません」
「うん……」
「リヨルは人体の知識なしで瞬間移動理論を構築し、リーズリー氏も人体の知識なしで瞬間移動の魔導具を作ったと仮定すると、瞬間移動させる魔法に人体の知識は必要ないことになります。そして人体の材料は全て揃っている」
「なるほど……。ヘンリーさんは頭がいいんですねぇ」
「今?」
ヘンリーさんは情けなさそうな表情で片方の眉を上げた。
「瞬間移動魔法を勧めるのは、今後の安全のためです。マイさんがいつ大きな権力に狙われるかわからない以上、瞬間移動魔法は身につけておいた方がいい。危険が迫ってから習得しようとしても遅いのです。災いはいつだって突然訪れるのですから」
それは、確かにそう。
「以前の俺はマイさんが心配で、目立ってほしくないと思っていました。あれだけの量のポーションを作れば必ず注目されるだろうと、本音ではやきもきしていたのです。でもマイさんがポーションを作らなかったら、流行り病の時にどれだけの人が命を落としたか。そうなったらマイさんは自分を責めて苦しんだはず」
「うん」
「俺はあなたが心配だからと、あなたの人生から笑顔を奪う側に立っていたのですよ。今は考えを変えました。マイさんには好きなように魔法を使って笑って生きてほしい。そして俺はあなたの背後を守る。その手段のひとつが瞬間移動魔法です」
重くなった雰囲気を変えるためだろう。ヘンリーさんが私の頬に手を伸ばし、指先で頬を撫でて微笑みかけてくれた。
「それと俺があちらの世界に行きたい理由がもうひとつ。俺は、あちらの世界を猛烈に見たい。マイさんから話を聞いても、想像がつかないんです。何十階もある建物、馬を使わない乗り物、空を飛ぶ乗り物、空に浮かぶ月。どの家にもある水が出る設備。全部この目で見たい。あちらの世界を、俺に見せてくれませんか?」
ヘンリー理論が正しいなら、安全にあちらへ飛べる。飛べる。飛べる、よね?
「うん……わかりました。私たちの未来のために挑戦します。忘れないうちに言っておきますけど、ヘンリーさんが私を守ってくれるように、私もヘンリーさんを守ります。どんな手段を使っても」
「実に心強い」
ヘンリーさんがニヤリという感じに唇の片側を持ち上げた。
「瞬間移動魔法に挑戦する前に、ヘンリーさんにお願いがあります」
「なんなりと」
「猫の姿になって撫でさせてくれますか? 心を落ち着かせたいの。ほら、見て。瞬間移動魔法を使う場面を想像しただけで、手が細かく震える」
「怖いのはわかります。猫になるのは、お安いご用」
そう言っていきなりシャツのボタンを外し始めたので、私は慌てて背中を向けた。
「目の前で脱がないでくださいよ。最近遠慮がなくなりましたよね」
「俺の裸なんてもう見慣れているでしょうに。まだ恥ずかしいんですね……」
そう言って背後から私の顔を覗き込んできたのは、子馬サイズの黒猫だ。
「わあ。久しぶりの猫ヘンリーさん!」
私の前に座った猫ヘンリーさんの首に腕を回して、深々と匂いを嗅いだ。相変わらず猫の匂いはしないけれど、柔らかな毛、充実した筋肉。ゴロゴロと音を立てている喉。最高だ。その喉に耳をくっつけ、低く響く音に耳を傾けた。
「ヘンリーさん、ちょっと横になってください」
「こうですか?」
「そう、それです。うう、最高。猫ヘンリーさんの腕の中で眠ったら、絶対にいい夢を見られます」
ヘンリーさんの懐に入り込んで全身をぴったりくっつけていると、高い体温に包まれて安らぐ。
「お望みなら毎晩猫の姿で添い寝をしますが、シーツに毛が付きますね」
「そうですねえ。この世界には粘着テープがないですもんねえ」
「その粘着テープとやらも、あちらで買ってきましょうよ。城には休暇届を出します。半年間、俺もあなたも休んでいなかったのですから」
「どうしましょうかねえ」
「おや。俺を猫にさせておきながら返事をごまかすとは卑怯な」
そう言って私の首を甘噛みする。
「痛い痛い! 人間の皮膚は余裕がないんですから。わかった、わかりました。行きましょう。あちらの世界へ」
「そうしましょう」
猫ヘンリーさんがザーリザーリと私の顔を舐めた。
猫ヘンリーさんの背中を撫でながら伝文魔法を放ち、ヘンリー理論が正しいと思うかをおばあちゃんに尋ねてみた。すると……。
『変換魔法に中身の知識は必要ないと思うけど。宝石の分子構造とやらを知らなくても、必要な材料があれば作れるからね』
「なるほど。もうひとつ聞きたいんだけど、おばあちゃんは解剖学の知識がある?」
『あるわけないわよ。なんでそんなことを聞くんだい?』
「んー、なんとなく」
おばあちゃんの返事に勇気を得て、その夜のうちに二人で瞬間移動魔法を試すことにした。まずは五歩くらいの距離で。
ヘンリーさんは物を送った時と同じように「俺が魔法陣を描きます」と言う。
「ヘンリーさんは私を大好きなのに、信用していませんよね」
「人柄は信用しています」
「私が描く魔法陣は?」
「……ちょっと信用ならない」
正直すぎて笑ってしまった。実は私もヘンリーさんに任せたほうが安全で確実だと思っている。
ヘンリーさんが魔法陣を描いている間に地下室に声をかけて、「これから自分の体で瞬間移動魔法を試します」と伝えたら、キアーラさんは「見学します!」という返事。今、部屋の隅で見守ってくれている。
「マイさん、その魔法陣を描き写してもいいですか?」
「いいですよ。あっ、でも、その魔法陣を使うにはかなりの魔力がいるらしいけど」
「図に書き添えます」
キアーラさんがすごく楽しそう。ヘンリーさんが描き終えるまで、結構時間がかかった。
「よし、完成です。抜けや間違いは絶対にありません」
「では魔力を注ぎますね。最初の目標地点はそこ、五歩先。ヘンリーさん、私の手を握って絶対に離さないで」
「もちろんです」
結果、私たち二人の瞬間移動はあっさり成功した。体はどこもなんともない、と思う。キアーラさんが「すばらしい! こんな素晴らしい魔法に立ち会えるなんて!」と興奮している。
念のために数日置いて、体力・気力・魔力が良好なのを確認してから、あちらの世界を目指すことにした。心配させたくないから、おばあちゃんには何も伝えていない。
出発当日、二人で魔法陣の中に立ち、向かい合って両手を繋いだ。ヘンリーさんが絶対に離すものかというように、しっかりと私の手を握っている。
「では、キアーラさん、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」
目を閉じて実家の二階を思い浮かべた。お仏壇とおばあちゃんの笑顔と「おかえり、マイ」という声も思い浮かべた。
目を開けてヘンリーさんが描いた魔法陣に魔力を注ぐと、床の魔法陣が白く輝き始めた。ヘンリーさんがさらに強く私の手を握る。魔力を注ぎ続けた。もう光で目を焼かれそうだ。
(今だ)
私は自分とヘンリーさんに、変換魔法をかけた。






