106 銀の輪の製作者
朝、目が覚めたらヘンリーさんが隣で眠っていた。
あれ? なんでだっけ。 あっ! 私が結界を張るのを忘れたから、帰るに帰れなかったとか? だとしたら申し訳ないことをしたわ。
ヘンリーさんを起こさないようにそーっと起き上がって着替え、朝ごはんを作るために厨房に入った。鏡を見たら、泣きすぎて目が腫れている。
朝食にはたまごサンド、レバーパテサンド、ソーセージ、残り野菜の朝食を作った。
ヘンリーさんが帰るまで誰も来ませんように。さっき朝六時の鐘が鳴ったばかりだから、誰も来るはずがないけど、不安だ。
婚約したら一年間は結婚しない。それは「子ができるような関係は慎みなさい」という貴族側のルールだ。それを破っているようにしか見えない今の状況は、かなりまずい。
朝食を並べ、ヘンリーさんを起こしに二階へ。
「ヘンリーさん、起きて。一度宿舎に戻って制服に着替えなきゃでしょ? 早めにここを出ないと」
声をかけると、ヘンリーさんがパチリと目を開けた。澄んだ緑色の目が、私を見上げている。
「俺、なんでマイさんのベッドで寝ているんだろう」
「それは私も知りたいです。起きてください。朝食ができました」
起き上がったヘンリーさんはブーツを手に、裸足でペタペタと階段を下りていく。シャツとズボンがしわくちゃだ。魔法でそのシワ、なんとかできないかな。今度考えておこう。
朝食を食べている途中でヘンリーさんが突然、「ああ、そうか」と声を出した。
「思い出しました。手をつないだまま俺まで眠ってしまったんだ。夜中に目が覚めて、喉が渇いていたから厨房に下りて水を飲んで、それから当然のようにマイさんのベッドに入った……ような気がする。おぼろげな記憶ですが」
「心配してくれたことは本当に感謝しています。誰にも見られないと思うけど、万が一ハウラー家のご両親に知られたら私、恥ずかしくて寿命が縮む……」
ヘンリーさんは勢いよく食べながら「実家に知られたら俺が謝ればいいことですよ」と言う。
違うって。「一年の期限を我慢できなかった二人」と勘違いされたら恥ずかしくて死にそうってことですよ。それを言葉にする勇気はないけども。
朝食を食べ終え、「鍵を早く取り付けてくださいね」と繰り返して、ヘンリーさんが宿舎へと帰った。
私は警備隊へ行って、ひと通りの事情を説明してから帰宅。いつもの暮らしに戻った。
午後二時にヘンリーさんがランチに来て、その直後に馬車が一台来た。下りてきたのはサラさんだ。「とりあえず用件だけ」と言う。
食事中のヘンリーさんの隣に私、向かい側にサラさんが着席してから、サラさんが話を切り出した。
「リヨルの古い手紙が昨夜見つかりました。旦那様がマイさんにも読んでほしいそうです。それと、いつでもいいので、変換魔法で壁を修復してくれないだろうか、とおっしゃっています」
「壁の修復、ですか?」
「はい。昨夜、旦那様が頭痛がするとおっしゃって、先日頂いたマイさんのポーションを飲んだのです。そうしましたら、『とても調子がいい』とご機嫌になって、変換魔法の練習を始めたのです。今までも小さなものなら変換できたそうですが、大きなものに挑戦しようとして……書斎の内壁を、ごっそり土くれに変えました」
サラさんのお口がへの字だ。
「わかりました。今夜私がお屋敷にうかがいます」
「俺も行きたい」
「お二人でいらしてくださいませ。お手数をおかけします」
夕方、市中巡回の途中だと言って、ヴィクトルさんが立ち寄ってくれた。
ヴィクトルさんの話では、賊の二人は「雇い主なんていない」と言っているそうな。銀の輪のことは何も聞かれなかったので私も言わなかった。
ヴィクトルさんによると賊はおそらく数年の強制労働送りになるらしい
夜になり、ヘンリーさんと二人でグリド先生のお屋敷を訪れた。ヘンリーさんはあの銀色の輪を持参している。
案内されて書斎に入ると、壁の一部がかなりの広さで消えて中の木材が見えている。床には乾いた土の山。変換魔法の半分が成功で、半分は失敗したんだね。
先生がヘンリーさんの持っている銀色の輪を見た。
「ヘンリー、それは?」
「昨夜マイさんの家に侵入した男が持っていたものです。おそらく魔力封じの魔導具かと」
「侵入者ですか? なんてこと」
サラさんが怯えた顔でそう言い、グリド先生は苦い顔になった。
「魔法部のポーションより効果の高い品を作れる女性。しかも一人暮らし。マイの噂は羽が生えているように広まっただろうな。マイを閉じ込めて働かせようと考える人間も出てくるというものだ」
「実はポーションだけじゃないんです。市場通りの火事に遭遇して、たくさんの人の前で魔法を使いました。私が『隠れ家』の店主だと知っている人もいたはずです」
「また派手に目立ったな」と言ってグリド先生が私を見る。
「ま、隠したところでマイの力は早晩知れ渡る。そして知った人の中には、マイがどこで暮らしているかを悪意なくしゃべる者もいるはずだ。夜は結界を張って眠るといい」
「それが……。結界を張って眠ったのですが、途中で消えてしまったみたいです。今までは朝まで結界が残っていたので安心していたんですけど」
「眠っているうちに無意識に魔法を消してしまうことは珍しくない。何の手も打たずに朝まで結界が残っている方がすごいんだよ。今後は結界を張る時に『日の出まで』と心で念じなさい。マイならそれでいけるだろう」
そんなタイマー設定があったのか。
「いつまでかを指定すれば、無意識下でも魔力が結界に流れ続けるはずだよ。まあ、魔力量の少ない者にはできないことなんだが。どれ、その魔導具を貸してごらん」
グリド先生は銀色の輪を手に持って顔を近づけ、表面と内側に刻まれている文字と記号をじっくり見ている。
「驚いた……。これは私の父が作った魔導具だよ。ここに父の印が刻まれている。父は若いころに城の魔法部に所属していてね。いつの間にかこれがひとつ、城から消えたのだ。闇市場にでも流れたのだろうと思っていたが、出てきたのは不幸中の幸いだ。マイ、今ここでこれを消してくれないか? これが消えれば、父も私も安心できる」
「わかりました」
変換魔法で銀色の輪を粉にした。サラさんがそれを箒とちりとりで掃き集めると、先生が「庭に撒いてしまいなさい」と指示して、サラさんが出て行った。
「父は生前、手を尽くしてこれを探していた。亡くなる間際まで、『自分が作った魔導具が悪用されたら耐えがたい』と繰り返していたよ。ありがとう、マイ」
「お役に立ててよかったです」
「私は父の苦悩を知っていたし、リヨルの苦しみも間近で見ていた。だから誰にも仕えずどこにも所属しなかった。マイもいずれ国から声がかかるかもしれないが、魔導具を作る時はよく考えなさい。作った人間が死んでも、魔導具は残る」
サラさんが戻ってきてから、グリド先生が机の上から紙を手に取って渡してくれた。折りたたまれた便箋が三枚。封筒には入っていない。
「マイ、これが壁から出てきたんだ。間違いなくリヨルの文字だよ」
受け取って開いた。一枚目にはこちらの文字で「私は元気に生きています」と書いてある。二枚目には同じ文章に「結婚しました」の言葉が付け加えられている。三枚目には「孫が生まれました。私は幸せです」の言葉が加わっていた。おばあちゃんの名前もグリド先生の名前もない。
「どうして壁の中に、と考えて気がついた。この部屋はリヨルが消えてから工事をしたのだ。リヨルの血が落ちていた場所を見るのがつらくてね。大きな部屋を壁で仕切って、書庫と書斎に区切ったんだ。その壁があった位置には、かつては私の机が置いてあった。リヨルは正確に手紙を届けてくれていたのだ。その手紙はマイが持っていなさい」
「ありがとうございます。いただきます」
それから床に積もっている粉末状の土に魔力を放ち、壁に変換した。
修復した壁はどこから見てもつなぎ目がわからない。サラさんがとても喜んでくれた。私のことをじっと見ていたグリド先生が意外なことを言い出した。
「マイ、週に一度の魔法のレッスンは終わりにする。お前さんはもう、自力で前に進めそうだ。私が関わると、逆にマイの自由な発想を邪魔するかもしれない」
「えっ。もう終わりですか?」
「どうしても成し遂げたいことを思いついた。今後は知りたいことができたらその都度聞きに来なさい。伝文魔法で質問してもいい。ああ、そう言えば、リヨルと会話はできたのかい?」
そうだった。それで教えてほしいことがあったんだ。
「言葉を送ることは送りましたが、おばあちゃんの声は聞こえませんでした。他の人に伝文魔法を使うと相手の気配や周囲の音が聞こえるのですが、おばあちゃんの時はそれが全くないのです。こう、トンネルが閉じている感じです。だから二回とも一方的に言葉を伝えて終わりにしました」
グリド先生が首を傾げる。
「おかしいな。マイはどの程度の魔力を使っているんだね?」
「最初は全力で魔力が空になるまで。二回目は半分ぐらいの魔力を使いました」
「そりゃ魔力を使い過ぎだったんじゃないかねえ。いいかね、マイが教会の鐘をゴンゴン鳴らしているとしよう。そのすぐ隣で誰かがしゃべったとしても、マイは自分が鳴らしている鐘の音しか聞こえない。距離が遠いと思って大量の魔力を込めているのだろうが、果たして距離の問題なのだろうか」
「あっ」
やっぱりそうなんだ? ミルフィーユの層もブドウの粒も、すぐ近くに存在しているのでは? と考えた私のパラレルワールド理論。あれ、当たりだったのかも。
「今ここでリヨルに伝文魔法を放ってごらん。魔力が適当な量かどうか、私が見てやろう。私もリヨルの声を聞きたい」
「はい。お願いします!」
肩幅に脚を広げて立った。すぐさま先生に「力むな」と注意される。全身の力を抜き、両腕をブルブルと振って深呼吸を一回。
「では、いきます」
グリド先生を眺めながらお仏壇を思い浮かべ、ヘンリーさんと会話する時くらいの魔力で伝文魔法を放った。すると、ザラザラしたあちらの気配が伝わってきた。
これは双方向で会話ができるパターンでは?
「おばあちゃん、聞こえますか。マイです。聞こえたら返事をしてください」
『マイ? マイ! 私だよ! 今日は会話ができるんだね?』
おばあちゃんの興奮した声が、グリド先生の書斎に流れた。






