凍りの薔薇
王都クレリアの外れ、賑わう街から離れた場所に、その屋敷はある。
周囲には鬱蒼と木々が茂り、月明かりしかない世界を暗黒に染め上げている。
季節にふさわしくない冷たい風が吹き、館を中心に壁のように立ち並ぶ広葉樹はざわざわと蠢いた。
館は蹲る大きな影のようだ。
三つの尖塔と幾つもの煙突が空に向かって突き出されている、一見してけっこうな身分の者が住まう屋敷としては申し分がないだろう。
だが唯一の微かな灯りを抜かして、館の窓は目をつむっているかのように光がない。
サディール館……かつて屋敷はそう呼ばれていた。
否、今もそうなのだろう。
だが近辺にたまに近寄る人々からはもっとよく似合っている、不本意な名を貰っている。
『化け物屋敷』と。
日の光の下で見ると納得する。
サディール館は荒れている。荒れた風を装っている。
白い壁の幾つかは漆喰が剥がれ、内部の木壁が露出している。塔の一つは屋根に大きな穴が開いている。窓は幾つか破れ、窓枠が死体の腕のように垂れ下がっている。周りの壁は崩れ、門は傾いている。
完全なる廃屋、風雨に晒された哀れな過去の遺物。
何も知らない者、はそう見るだろう。
違う、それは全て間違っている。
実はこの館は二重構造になっており、外見では分からない小さな部屋が内奥に存在する。
そこはしっかりとした壁により守られ、頑丈な扉で硬く閉ざされている。
サディール館の真の姿は、『凍りの薔薇』の本拠地なのだ。
サディール館の傾いているように見える、そう作られた頑丈な門の中、一台の馬車が止まっていた。
どこにでもある普通のキャリッジ。つまり四角い箱状のワゴンを二頭の馬で引く四輪の馬車で、色は闇に溶けるような黒。訓練された茶色の馬たちは、いななくこともなく静かに主の帰りを待っている。
場違いに明るい一つの光が、その傍らで揺れる。
髪をきつくまとめた一人の長身のメイドが、油断なく馬車の周囲を見回っていた。
紺色の服を纏ったメイドは、名をクローイと言う。
彼女こそ、レオノーラのもう一つの顔を知り協力する、数少ない人物だ、
そうした中、クローイが見張っている屋敷の深奥、真の部分の重い扉を、ドレスから目立たない灰色の衣服に着替えたレオノーラが、押し開いた。
その部屋は半分地下である。
前方の斜め上にのみ窓が存在し、そこから狼の瞳のような月が見える。
その他は暗闇だけだが、部屋の中心に置かれた一つのテーブルだけは確認できる。
円形のテーブルの上にランタンが一つ置かれ、それを中心にして数人の人影があった。
レオノーラは開いた扉から部屋に入り、彼らの間を通り窓の下に、月の光の中に進む。
数人……五人の影は、彼女の前に一列に整列した。
「凍りの薔薇、結集いたしました。レディ・ローズ」
燃えるような赤い髪の青年が、恭しくレオノーラに告げる。
心身共に鍛え上げられたと声だけで分かる、均整のとれた身体の精悍な顔の若者だ。名前はクリスティアン。ただここでは『赤薔薇』と呼ばれている。
クリスティアンにレオノーラは頷くと、他の凍りの薔薇達を見回した。
「先程の事件の詳細は聞きましたね?」
レオノーラの言葉を待っていたかのように、彼女の侍女に扮装していた少年・シリル『黄薔薇』が勢いよく頭を上げる。
「今回使われた毒は貝毒だよ。致死性は高いね」
「問題ない。毒を運んだ侍従を斬り捨てればいい」
即座に答えるクリスティアンに、細いフレームの眼鏡をかけた、ダークブラウンの髪色の美貌の男、アーデルベルト『黒薔薇』が反論する。
「考えなしすぎますね、赤薔薇は……その侍従がエリアル殿下を狙った主犯とは限らないでしょう?」
「あるいは、本人さえも知らなかった可能性もある」
アーデルベルトの言葉を受けたのは、褐色の肌を持つ目つきの鋭い男、『青薔薇』ことヨアキムだ。
「いやぁ、完全に毒杯を運んだ侍従は白だなぁ」と薄茶色の髪をぞんざいに背中で結わえた、
『緑薔薇』ウルリヒが入ってくる。
「わたしの調べた所によると、侍従の名はウォーレン。裕福な庶民の娘と貧乏貴族との間の子で、当然エリアル殿下の命を狙う理由がない」
「……と、なると調べないとならない。面倒だな」
クリスティアンが嘆くが、レオノーラは怒りに拳を震わせていた。
「調べるまでです。ついに敵は実力を行使してきました。我が君のお命が危なかった、我等『凍りの薔薇』はそれを見過ごさない」
レオノーラは超新星を宿す瞳で五人を見回した。
「オーダーです、凍りの薔薇よ」
凍りの薔薇。
クレリアス北方の限られた地域のみで起こる現象。
冬の深まる時期、月夜の晩に花のように凍る霜の結晶。
人々はその氷が、まるで季節故に寒さに凍えている薔薇のように見え『凍りの薔薇』と呼ぶ。
そして……同時に、それはエリアル王子派の裏の暗殺集団の名前である。
エリアル王子自身も知らない、彼のためだけに働く影の者達。
レオノーラ・アヴリーヌは、『凍りの薔薇』の頭目『レディ・ローズ』だった。