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コトノハに願いを込めて  作者: タンボ
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空白と虚無

自分が書きたいものを書きます

「だーかーらぁ、お前は家に入れないんだって。頼むからいい子でいてくれよ」

 朝の島散歩を済ませ、なおも元気に尻尾を振り続ける飼い犬——ハマをなんとかリードに繋ぎ止めた俺は、玄関近くの洗面所で顔を洗い、大小様々なダンベルの転がる廊下を歩きながら、家のリビングに戻った。

 時刻は朝の七時。テレビでは朝のニュース番組が各チャンネルで放送され、通勤前の人達に情報と美人アナウンサーを提供。視聴率を巡る死闘が繰り広げられている。

 そんな群雄割拠の世界を、画面越しに見つめる老人が一人。山盛りご飯の茶碗を前に、すでに数百回は回したであろう納豆が、依然として箸の猛攻撃に晒されている。ちゃぶ台にあぐらをかいて座るその光景は、まさに絵に描いたような昭和の家庭風景だ。

「ただいま」

「——おう! 帰ったか。どうだ? 今日のハマの調子は」

背後から告げると、俺の爺ちゃん——言宮(ことみや)権兵衛(ごんべえ)は振り向き、孫の顔を見てにかっと笑いながら返した。

「うん。今日も南の浜で、二個も糞を回収したよ」

「おおそうか! うむ、結構なことだ。九歳の犬とは思えぬほど健康じゃな。これで北の浜でも二個落とせば、東西南北コンプリートか」

 なんとも不衛生かつ不名誉な制覇であろうか。どのコンビニでもそんな汚いスタンプラリーはやっていない。もしあるとしたら、もらえる賞品はビニール袋だろう。何が入っているかは言わないでおく。

 俺は爺ちゃんに向かい合うようにして座り、並べられた白米と納豆を一瞥。それから中央に置かれた醤油を手に取り、納豆に少量かけてかき回す。ある程度の粘り気を生み出してから白米に乗せ、最初の一口を頬張った。

「特に体力とかも落ちてはないんじゃろ?」

「今日もきっかり二周してきた。全く、こっちが連れ回されて疲れちゃうよ」

「ハマが飼い主か! はっはっはっ、そりゃ面白い! そのうち、わしまでリードで繋がれたりしてな!」

「ははっ、確かに面白そう」

 乾いた笑いの下に隠して、俺は「あり得ないでしょ」とツッコミを入れた。

 もちろん冗談なのはわかっている。だがもし、この世の頂点に犬が立ったとしても、この老人を手懐けることは不可能だと思う。

 流れ着く流木のように太く、屈強な両腕。高層ビルのように角ばった両足。巨大化した肩甲骨は肩幅を限界以上に広げ、地割れを体現したかのような腹筋に支えられている。もはや筋トレ云々のレベルではない。立てば怪獣、座れば要塞、歩く姿は主力空母。これが俺の爺ちゃん、七十一歳のプロフィールだ。この三箇条で説明は終わる。

 俺はテレビに視線を戻す。すると、いつもは今話題のお店を回るコーナーの時間のはずが、番組の顔であるアナウンサーを初め、主立ったメンバー全員がスタジオに並び、どこか物悲しげな表情で佇んでいた。

 全員の整列を確認し、アナウンサーは話し始める。

『本日は、あの東海大震災が起きた当日。あの未曽有の災害から、五年の月日が流れました』

 粗い映像が流れる。大海の魔の手が港を飲み込み、船を食らい、家々を引き壊していく様子だ。「逃げろ! 逃げろ!」という撮影者の声が聞こえ、やがて映像が上下に揺れ始めると、画面は暗転。数秒の間を置き、番組のナレーションがその後を繋いだ。

 ——近年、世界各地で災害レベルの異常気象が立て続けに発生。国連は、この一連の大災害を『災厄』と称し、この非常事態の原因究明、そして新たなる災害防止のため、世界災害協力機構『UDCO』を発足。対処にあたった。しかし、人類は未だ有効な対策を打ち出すことができておらず、世界は今も、人の理解を越えた未知の脅威に晒され続けている。

 この災害大国である日本も例に漏れず、今から五年前、『災厄』の魔の手が伸びた。

突如として巨大地震が発生。駿河湾沖を震源としたこの地震は、映像にあった巨大津波を引き起こし、たくさんの命を奪い去ったのだ。

 俺の両親と家、そして記憶までも道連れにして。

「どうだ? 何か、思い出せたことはあったか?」

「……ごめん」

 俺は謝るが、爺ちゃんは小さく笑いながら「謝るな。お前のせいじゃない」と、優しく返してくれた。

 どうして俺だけが生き残ったのか。それは今でも思い出せない、自分自身の謎だ。覚えているのは、破壊された街を見て泣き叫ぶ俺と、ハマに顔を舐められながら目覚めた俺。核心に迫るどころか、何の役にも立たない惨めな自分ばかり。

 外でハマが吠えている。彼もまた、件の大災害を生き延びた生還者の一人——いや一匹だ。俺と一緒に救助されたが、元の飼い主はすでにこの世にはいなかった。それを不憫に感じた爺ちゃんが、俺と一緒に引き取ったのだ。

「ハマと界人が来て、この島もかなり賑やかになったものじゃ。やはり元気な者が一人でもおらんと、神様も寂しがられるからのぉ」

「ここの神社の神様って、意外とかよわいんだね」

「こら界人! そんな罰当たりなこと言っちゃいかん!」

「はいはい。反省します」

「全く、冗談でも言うでないぞ。最近の人達は、寺社仏閣に対する気持ちがかなり薄れておる。おかげで我らが葉隠(はがくれ)神社(じんじゃ)の収益も、滑り台のように下がっておるし」

「わざわざ葉隠(はがくれ)(じま)なんて孤島にやってきて祈る人なんて、今の時代いないよ。まぁ、誰かさんが筋トレにハマらなければ、もう少し余裕はあったかもね」

「うっ……流石は我が孫。なかなか鋭いことを言う」

「いや誰でもわかるから」

 ——神。

そんなものを未だに信じている人間が、果たしてこの地球上のどこにいるのだろう。たいそう立派な社殿の中にふんぞり返り、人々の純粋な願いとお賽銭を常に要求し、本人の努力の賜物を、ご利益だと言って手柄を奪う超常の存在。だが蓋を開けてみればそれは単純で、ちょっと肌触りの良い石だったり、木目が綺麗な木の欠片だったり、はたまた空気だったりもする。

そこに由緒が正しいらしいお札を貼り付ければ、あら不思議。みんなの憧れ神様の完成、というわけだ。実に下らない。

 爺ちゃんの仕事が神主でなければ、きっとそう叫んでいただろう。

「おっと、少し話し過ぎたか。そろそろ出発の時間じゃな」

 爺ちゃんの一言で、俺はテレビ左上の時計に目を向ける。そこには雲をモチーフにした形の文字で、七時半、と表記されていた。

「あ、爺ちゃん……俺、今日もいいや」

「…………そうか。なら、わしは神社の方へ向かうぞ」

 爺ちゃんは優しく笑うと、部屋の隅に畳まれた装束を抱えて、そそくさと玄関へ向かう。やがてドアが開き、鍵が閉まるまでの音を聞き届けると、俺は小さくため息を吐いた。テレビでもちょうど追悼の時間が終わりを告げ、入ってきたニュースを報道するいつもの雰囲気に戻っている。

『昨日未明、立体化した渦潮が大阪湾、播磨灘などの淡路島近海に多数発生し、明石海峡大橋が破壊されるなど、甚大な被害が出ました。さらに、周辺の埋め立て地にも被害が拡大しており——』

 俺は伝えられる新たな災害の発生場所と被害、そして死傷者数の推移を左から右へ聞き流し、最後に残った一粒を口に運ぶ。ご飯と共に食べない納豆は意外と無味だ。いつも配分を気にしなければならない、と考えているのだが、結局白米の方が先に食べ終わってしまう。流石は日本の主食、といったところだ。

「————」

 朝食を終え、手持ち無沙汰になった俺に、間髪入れず固定電話が鳴り響く。わざと部屋にスマホを置いてきたのだが、敵はお見通しのようだった。

 言い訳はまだ思いついていない。だがいつまでも着信音を聞いていたら、ストレスで俺の寿命が減る。とにかく静かな空間を求めて、俺は受話器を握った。

「はい、もしも——」

「——おはよう界人君! 今日の海も綺麗だよ!」

 静寂は、まだ訪れそうにない。



もしよろしければ乾燥コメント、よろしくお願い致します

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