婚約者を交換しろ? ありがとうございます。それは願ったり叶ったりでございます。
「あらマリーベル。おはよう」
「おはようございます、お姉様」
私こと、マリーベル・ドンアイードは、朝の屋敷の中を歩いていた。
朝食を取るために食堂へと向かっていたのだ。
その途中で、姉であるクリーベル・ドンアイードと鉢合わせをした。
真っ赤な髪は腰まで伸びており、それは私と同じ癖毛。
容姿は美人で評判、スタイルも抜群。
誰もが振り向き、誰もが憧れる素敵な女性。
ここまでは誰もが知っていることであるが……
性格には難がある。
彼女は私に近づくなり、返し手で私の頬をぶつ。
予告も前触れもなく、当然のように私をぶった。
私は軽い脳震盪を起こし、その場に膝をつく。
「…………」
混乱はしない。
いつものことだからだ。
姉は昔からこうである。
少しでも癇に障れば私に暴力を振るう。
こんな姉なのだ。
恐怖心を抱いて当然であろう。
私は体を震わせながら彼女を見上げる。
「言ったでしょ。朝から顔を見せないで頂戴って」
姉の隣にいるエミリーは、冷たい瞳で私を姉と一緒に見下ろしていた。
彼女は最近この屋敷で雇われた侍女だ。
白髪を後ろで束ねており、背もそこそこ高い美女。
優秀らしく、姉は大変気に入っている。
私は姉に殴られたところをそんな彼女に見られたのが恥ずかしくなり、視線を逸らす。
「申し訳ありませんでした、お姉様……」
「分かればいいのよ。分かれば」
「ううっ!」
姉はヒールで私の足を踏みつける。
酷い痛みに私は顔をしかめた。
姉はそんな私を見て鼻で笑うだけ。
彼女が私にこんなことするのに理由はない。
ただちょっと気に入らないだけ。
それだけなのだ。
それが昔から行われてきたので、私も受け入れてしまっているし、彼女も当たり前だと考えているのだろう。
私は静かに怒りの炎を胸に宿す。
だが姉に感づかれるわけにはいかない。
そんなことがバレたら、どうなることやら……
想像するだけで、背筋がぞっとする。
「ふん」
姉は私を蔑むような目で見下ろし、去って行った。
私は深呼吸し、腹立たしい気持ちを無理矢理抑える。
そして足を引きずりながら食堂へ向かった。
食堂へ行くと、お父様とお母さまがまだ食事をしているようだ。
私は朝の挨拶を済ませ、テーブルの席に着く。
「マリーベル。クリーベルと朝から顔を合わせたのか?」
「はい。お父様」
「……なぜもっと時間を遅らせないのだ? クリーベルと顔を合わせばあいつが怒って当然であろう」
「そうよ。あの子を怒らせないで頂戴。怒らせるあなたが悪いのだから、もっと気を付けなさい」
お父様もお母様もお姉様の味方だ。
昔からそう。
姉はその美貌から、将来良い条件で結婚できるであろうと期待されてきた。
それに引き換え妹の私は並みの容姿。
二人も姉の肩を持ち、いつからか私を見下すようになっていた。
二人に期待はしていないけれど、それでもやはり寂しくて悔しい気持ちはある。
だけど私は彼らに何も言うことはできない。
なので二人が納得する言葉を口にするのだ。
「申し訳ございませんでした」
これでやり過ごす。
私はこれまでそうしてきたのだ。
それにこれも後少しの辛抱。
姉が婚約者である侯爵家に嫁げば、環境も変わるはず。
私はその希望を胸に、絶望の今日をまた過ごすのであった。
姉は既に婚約者がいた。
ロイド・エヴィデンス。
侯爵家の嫡男。
とても素晴らしい男性だという話は耳にしている。
両親は自分のことのように喜んでいた。
良い条件の男性のもとへ姉が嫁げることに。
それも当然のようにだ。
だけど私もそれは思っていた。
だって姉は本物の美人なのだから。
性格はともかく美人なのだから。
悔しいぐらい美人なのだから。
それに見合うぐらいの男性が結婚相手だとしたら当然のことであろう。
それぐらいロイド・エヴィデンスという方は良い噂ばかりを聞く。
条件としても姉が嫁げる範囲では最高峰のものではないだろうか。
ハッキリ言ってしまえば羨ましい。
私だって、そのような方と……
だけど私は自分のレベルをわきまえている。
姉と同レベルの条件で結婚など夢のまた夢。
両親に迷惑がかからないように、速やかにどこかに嫁げればいいと考えるぐらいだ。
正直言って、早く誰かにもらってほしいと思っている。
姉はもう少しでこの家を去るが、私もこの家を去りたい。
いい思い出など何もない。
辛く屈辱的な毎日だ。
姉がいなくなったとしても、姉に感化された両親がいる。
ここにいる限り、私に真の平穏は訪れないのだ。
誰か……誰か私のことをさらってほしい。
ここから私を連れだして。
そんなある日のことであった。
私にも婚約話が来たのは。
「カ、カイウス・クルセイル……様?」
カイウス・クルセイル――
ロイド様と同じく、侯爵家の男性。
クルセイル家はエヴィデンス家よりも裕福で、同じ爵位だけど少し上に位置する存在らしい。
これも噂に過ぎないが、カイウス様は大変美形で彼に恋する令嬢も多いとか。
しかし、なぜそんな方が私に婚約の話を……?
両親は奇跡とでも言わんばかりの顔で、私を見つめていた。
「いやぁ……まさかお前などにこんな好条件の話が舞い込むとはな」
「これも日頃の行いのおかげね。私たちの良き生き方が功を成したのよ」
「間違いない! 感謝するのだな、マリーベル」
「……ありがとうございます、お父様、お母さま」
どの口がそんなことを言うのだろう。
私は開いた口が閉じなくなっていた。
だけど私はカイウス様の持つ噂の一つに、引っかかることがをあった。
それは――
「マリーベル」
「お姉様……」
両親と顔を合わせている時であった。
姉が醜悪な笑みを浮かべてやって来たのは。
そして彼女は私の顔を見るなり顔をぶつ。
「っ……」
「相変わらず見ているだけで苛立つ顔をしているわね」
「……申し訳ありません」
姉の行為に両親も笑う。
私は悔しさに握る手に力を込めるが、表情は申し訳ないように装っていた。
すると姉は、とんでもないことを言い出す。
「あなたの婚約者と私の婚約者、交換するわよ。いいわね?」
姉の隣には侍女のエミリーがおり、微笑を浮かべながら私たちのやりとりを黙って見ている。
私は唖然としながら、姉の話を聞いていた。
「噂も聞いているし、エミリーからカイウス様のお話は伺った……ロイド様より絶対に価値があるお方だわ」
「…………」
「そもそもロイド様は穏やかでいい人だけれど、どこか頼りないような感じがしていたの。そこでカイウス様とのご縁談があんたに来たわけよ」
「それで、婚約者の交換をしろと?」
「ええ。そうよ」
愕然とし呆れ返る私。
この人は何を言っているのであろう。
婚約者を交換するなど出来るはずがない。
相手に失礼だし、それに納得するとでも思っているのだろうか?
しかし姉はいつものように、私を見下しながら話を続ける。
「エミリーから縁談の話が来ることは事前に聞いていたの。本当に優秀で頼もしいわ、あなた」
「恐縮でございます、お嬢様」
姉に対してニコリと笑うエミリー。
「で、先手は既に打っておいたの。あなたがロイド様の婚約者になれるように、話は既につけておいたわ」
「は、話をつけておいたって……どうやって?」
「簡単な話よ。あんたが優れた人間だという情報をエミリーに流させておいた。それを鵜呑みにしたロイド様は、あんたを私の代わりに婚約者にしてもいいと申し出てくれたのよ」
ふんと鼻を鳴らす姉は傲慢な態度で肩にかかった髪をファサッと手で後ろにやる。
「あんたが私より優れているという嘘を流してやったのよ。ありがたく思いなさい。美貌だけはどうしようもないけれど、それでも私より上だという噂は嬉しいでしょ?」
その姉の愚行を優しさだと思ったのだろうか、両親はうんうん頷いている。
私はそんな家族の反応に吐き気を催す。
こんなバカなことを本気でやってしまったこと。
そしてそんなバカなことをバカだと思っていない家族の思考に。
ただただ吐き気がした。
だがそれと同時に、私は密かに歓喜を胸に秘めていたのだ。
だってカイウス様は――表面的には女性からの評判はよいが、裏の顔があるという噂がある。
彼は姉と同じく傲慢で、平気で女性を殴りつけたり、当たり前のように罵詈雑言を人に浴びせるという。
火の立たないところに煙は立たない。
それが嘘だったとしても、私は彼に近づきたくないと考えていた。
そんな噂が流れている男性とは距離を置きたい。
しかしそんなことを姉は知らないのだろうか?
そりゃカイウス様に比べると、少々ロイド様の方が格下に映るのかもしれない。
だけどそれ以上にカイウス様には悪い噂が目立つように思える。
これは私の憶測ではあるが……カイウス様の話はエミリーから聞いたと言っている。
エミリーは貴族のパーティーなどに出たことはない。
彼女ではカイウス様の噂話を知る余地もないのだ。
そんな彼女からカイウス様の経済的魅力だけを聞き、そして姉は判断した。
ロイド様など目ではないと。
「…………」
私は姉の問いに無言で頷いた。
ここは姉に素直に従おう。
きっとその方が幸せになれる。
私の直感が心の中で叫ぶ。
絶対に姉の気が変わるようなことはするなと。
私はなんとも言えない幸福感に包まれていた。
このままいけば、私の方が幸せになれる。
私は幸せになり、姉は不幸になるのだ。
なぜかそんな確信めいたものを胸に感じ、私は黙って高揚していた。
「分かったわね。婚約者を交換するのよ」
「はい、お姉様。仰せのままに」
願ったり叶ったり。
これはきっと、私の幸福へと続く道。
突如現れた、奇跡の道だ。
◇◇◇◇◇◇◇
「マリーベル。君を迎えに来たよ」
初めて出会ったロイド様は、とても美しい男性だと思った。
茶色の髪はサラサラしていて、私を見つめるその瞳は情熱的な赤。
私の屋敷へとやって来たロイド様を見た女性たちは、ほっとため息をつく。
そのあまりの美しさに、心を奪われているようだった。
私もロイド様に心を奪われた者の一人だ。
一瞬で、彼に恋に落ちた。
「は、初めまして、ロイド様……」
「…………」
ポーッと見上げる私を見て、ロイド様は苦笑いをする。
「初めてではないのだけれどね」
「え? も、申し訳ありません! ロイド様のようなお方と会っておいて、忘れるなどと……」
「いや。別に気にしていないよ。君と結婚できる。その事実だけで俺は満足している」
大きく頼りがいのある手で私の頬に触れるロイド様。
顔は赤くなっているだろう。
その手の温かさと私を見つめる瞳に、ときめき続ける私。
いきなりこんなじゃ、明日まで心臓が持つのだろうか……
彼は私と会ったことがあると言っているが、今の私は思考回路がとろけてしまっている。
今は何も考えられない。
このような美しい人が、私を迎え入れてくれるなんて……
その奇跡を噛みしめるだけで、何かを考える余裕などなかった。
「では、娘のことをよろしくお願いします」
「ええ……」
お父様の言葉に、ロイド様はどこか冷たい様子を見せる。
私に向けられる太陽のような温かさはなく、極寒の寒さを覚えさせる冷たい目。
だけど不思議と、私は彼の目が怖くなかった。
だって私を見る時は、絶対に笑顔を絶やさないから。
「あっ」
ロイド様は私の身体を抱き抱え、お父様とお母さまに背を向ける。
そして歩き出し、温かい顔で私を見つめていた。
「俺の大事なマリーベル。ようやく君をこの手に抱くことができた。これからは一生君を放すつもりはないから覚悟しろ」
「は、はい……」
これは夢? それとも幻?
彼の想いがストンと胸に落ちる。
ロイド様は本気で私のことを想ってくれているのだ。
不思議だけど、夢のようだけど、これは事実なのだ。
私は胸をドキドキさせながら、彼に抱かれていた。
「……君のことは色々と調べさせてもらった。もうこの屋敷の敷居を跨ぐ必要はないし、そうさせないつもりだ。いいね?」
「……はい」
ポロリと涙がこぼれた。
ロイド様は私のおかれた状況を理解されているのだ。
私が両親と姉からぞんざいな扱いを受けてきたことを知っている。
私をここからさらうために現れてくれたのだ。
涙が止まらない。
そしてロイド様の愛を感じていた私は、グチャグチャの顔で笑みを彼に向けるのであった。
◇◇◇◇◇◇◇
ロイド様の屋敷は、私の家のそれとは比べ物にならないほどに大きかった。
感嘆の声を上げ、私は屋敷へと誘われる。
「おお。君がマリーベルだな。私はロイドの父、エイガスだ。よろしく頼むよ」
バチッとウィンクをするエイガス様。
中年ではあるが、ロイド様と同じく端正な顔立ちをしている。
彼のお父様ということは、私の義理の父親となるお方。
粗相のないようにしっかりと挨拶をしておかなければ。
「初めましてエイガス様。不束者ですが、よろしくお願いします」
「ははははは。そんなかしこまる必要はない。これから私たちは家族になるのだからね」
「そうよ、マリーベル。遠慮なんて必要ない。私たちは今日から家族なのだから」
エイガス様の隣に佇む美しい初老の女性。
彼女はロイド様のお母様、キンバリー様と言うらしい。
皆笑顔で私を受け入れてくれているが……正直戸惑っていた。
こんなに温かい家庭など私は知らない。
温かさに慣れていない私は、急に不安になってきた。
「どうした、マリーベル?」
ロイド様はそんな私の肩を抱き、優しく微笑んでくれる。
「あの……こんな風に笑いかけてもらえることがあまりなくて……なぜか怖くなってしまったのです」
「マリーベル。人から優しくされることに慣れていないんだね。君は優しい女性だというのに、残酷な家庭で育ってきたんだな」
ロイド様は私の髪の匂いを嗅ぐ。
近づいたロイド様の胸の辺りから、男性特有の香りが鼻孔に飛び込んでくる。
なんというか、自分を守ってくれる匂いのような気がした。
「これまで辛い日々だったかもしれないけれど、これからは違う。優しい人の周りには優しさが溢れているものなのだよ」
「私が優しい?」
「ああ。優しく、そしてこの世の何よりも美しい」
「う、美しくなんてありません! 姉なんかと比べると、醜い容姿――」
ロイド様は私の唇に人差し指を当て、言葉を遮る。
「君は周りから醜いと言われ続け、暗示のようなものにかかっているんだ。大丈夫。マリーベルは美しい。君の姉など足元にも及ばない程に美しいよ」
「それは言いすぎでは……?」
「そんなことないぞ! マリーベルほど綺麗な女性は初めてみる」
「あら? 私よりも彼女の方が美しいと言うのですか、あなた?」
キンバリー様の言葉にギクリとなるエイガス様。
彼は焦りながら言い訳をした。
「い、いや……君の次に美しい! うん。マリーベルは私が今まで見た中で二番目に美しい女性だ!」
「ふふ。冗談ですよ。マリーベルは私よりも美しいですわ」
キンバリー様の言葉にホッとするエイガス様。
ロイド様は私の肩を抱きながら、二人のやりとりを見ていた。
「俺の理想の夫婦像が常に目の前にあった。マリーベル。俺たちも幸せになろう。俺たちには……君には幸せになる権利があるのだから」
「はい!」
私は胸を熱くさせ、素直にロイド様にそう答えた。
それから、穏やかで幸せな日々が続いていく。
罵倒を浴びさせられてきた日々が嘘のようだ。
朝目覚めると、ロイド様の愛の囁きから始まる。
「おはよう、愛おしいマリーベル。今日もお前の可愛い顔を見れて嬉しいよ」
私は恥ずかしくなり、毛布に顔を埋める。
毎日耳元で囁かれる言葉は、いつまで経っても慣れそうにない。
ロイド様の腕の中で目覚め、ロイド様の腕の中で眠りにつく。
そんな幸せな毎日が怖い。
そう思えるぐらい、今までの暮らしとはかけ離れていた。
「おはようございます、お義父様、お義母様」
「おはよう、マリーベル。また一段と美しくなったんじゃないか?」
「それだけロイドに愛されているということね。女は男に愛されて美しくなる。これからあなたはもっと美しくなるわよ」
義理の両親の言葉に顔を赤くする私。
全てのことが慣れなさ過ぎて戸惑うばかり。
こんな温かく優しい人間が、こんな当たり前のようにいてくれる。
私はそんな幸せを噛みしめるように、ロイド様の手に腕を回す。
こんなことして、鬱陶しがられないだろうか?
一瞬そんな不安な気持ちが胸を過るが、それは杞憂に過ぎなかった。
ロイド様は煩わしく思うどころか、どこか嬉しそうな笑みを浮かべている。
「まさかマリーベルの方から腕を組んでくれるとは……父上。今日はパーティーにしましょう!」
「お、大袈裟ですよ、ロイド様。ただ腕を組んだけではありませんか!」
「ただ腕を組んだだけ。そういう当たり前のことがとても嬉しく幸せなのだよ。これを喜ばない男は愚か者としか言いようがない」
「だけれど、パーティーは流石に大袈裟です」
少し呆れる私に、ロイド様は無邪気な笑みを向ける。
ああ。どこまでも彼に惹かれていく。
私はきっと、もうこの人なしでは生きていけない。
それぐらい彼の事が好きだし、彼と一生を共にしたいと考えている。
私は実家にいた時のことを思い出し、ポロリと涙をこぼす。
ロイド様はそんな私の涙をハンカチで拭ってくれる。
そして私たちは笑みを交わし合うのだ。
「ここには君を傷つける人は誰もいない。もう泣かなくてもいいんだよ」
「ロイド様……ありがとうございます」
「…………」
ロイド様は少しだけ俯き、そして悲しそうな笑みを私に向ける。
「君のご両親の話だけれど……流行り病に倒れたようだ」
「え……?」
両親が病に倒れた?
いきなりのことで私は一瞬戸惑うが――心が動くことはなかった。
ロイド様も私の気持ちを察したのか、優しく私の額に口づけをする。
「君のご両親は君をないがしろにし、傷つけてきたのだ。因果応報という言葉がある。全てが巡り巡って、自分達の身に降りかかっているんだよ」
「因果応報……」
「ああ。だからご両親は辛い目に遭い、君は幸せになる。自分の生き方は自分に返ってくるんだ」
私はロイド様がそんな風に言ってくれるような生き方をしてきたのだろうか?
少し首を傾げながら、彼の胸に頭を預けた。
◇◇◇◇◇◇◇
クリーベルは、クルセイル家に嫁ぎ、悠々自適な生活を送っていた。
実家より広い屋敷、彼女を敬う人々、そして強く優しい旦那。
彼女の人生は完璧であった。
鳥の鳴き声だけが響く朝、屋敷から町の風景を見下ろし、クリーベルは鼻で笑う。
これが全部私の物。
私が通れば道を開き、誰もが私の顔色を窺う。
これこそ私の求めていた夢の生活。
私の人生は常にいい方向に向いている。
「クリーベル。ここにいたのか」
「あら、カイウス様。おはようございます」
「おはよう。どうだい? ここの生活にも慣れてきたか?」
「はい。屋敷に仕えてくれている人も町の人も親切にしてくれますから、気楽なものですわ」
「そうか。なら良かった」
穏やかに笑うカイウス・クルセイル。
黒い髪に茶色の瞳。
大きな背に、鍛えられている引き締まった肉体。
家柄もよく完璧な男。
まさにクリーベルにとって理想の男性像そのものであった。
彼女はカイウスの胸に頭を預け、景色を眺めながら笑みを浮かべる。
やはり正解だった。
ロイド・エヴィデンスを選ばなくて。
カイウス様の変な噂は耳にしていたが……エミリーの言った通りだ。
噂は噂に過ぎない。
彼女はカイウス様のことをよく知っていたらしく、私に事実を教えてくれた。
噂は彼に恋い焦がれた女性が流したものであると。
誰かに取られたくない。
その一心で流してしまった嘘。
なんて愚かなことを。
カイウス様はこんなに優しく、強いと言うのに。
クリーベルはカイウスの端正な顔を見上げ、見惚れていた。
これだけ素晴らしいカイウス様。
私に見合う男性は彼ぐらいしかいない。
ええ。まさに運命だわ。
私とカイウス様は、結ばれる運命だったのよ。
クリーベルはマリーベルのことを思い浮かべ、ほくそ笑む。
ロイドも悪い男ではないけれど……エミリーの話によると、あの家にはもう大したお金も残っていないというじゃない。
残念だけれど、あの子は最期まで不幸なまま。
私の妹として生まれてきたのが運の尽き。
私の犠牲になるために生まれてきたのよ、あの子は。
マリーベルはこれまでクリーベルによって惨めな日々を送ってきた。
そしてクリーベルの代わりにロイドのもとに嫁いでいった。
彼女にとっては、自分の人生を豊かにするための踏み台、あるいは下僕程度ぐらいにしか妹のことを思っていない。
マリーベルのこれからを想像し、クスクスと笑う。
「どうしたのだ、クリーベル?」
「いいえ。妹のことを思い出していましたの」
「そうか……妹想いのいい姉だ。俺は君と結婚できたことを誇りに思うよ」
「カイウス様……私もでございます」
二人は抱き合い、町の景色を眺める。
だが綺麗な朝日は長くは続かない。
遠くから黒い雲が屋敷の方へと流れている……
それは、突然に起こった。
ガッシャーンとグラスを叩き割る音が室内に響く。
クリーベルは驚愕し、カイウスの表情を見つめていた。
「カ、カイウス様……?」
夜の寝室で酒を飲んでいたカイウス。
彼は深酒をし、座った目つきをしている。
「クリーベル……なんだその目は!」
口調も乱暴なものになり、クリーベルに詰め寄るカイウス。
クリーベルは怯え、壁際まで後退する。
カイウスは壁を拳で殴りつけ、彼女を威嚇した。
「ひっ!」
「なんだその顔は……俺が怖いとでも言うのか!」
「い、いいえ……滅相もございません」
「ならばなんだその顔は! 笑え! 俺が怖くないと言うのなら笑え!」
クリーベルは無理矢理に笑みを浮かべる。
どういうことだ……これがカイウス様?
優しいカイウス様はどこにいったの?
こんなの……私の理想の男性じゃない!
カイウスは酒を飲むと暴力的になるという一面があった。
マリーベルたちが聞いていた噂の正体はこれである。
普段は紳士な男であるが、酒が入ると目も当てられないほどの狂人と化す。
凶悪で狂暴で狂気。
酒が入ると人が変わることを知っている屋敷の者は、絶対夜に彼の部屋には近づこうとはしない。
酔っている時の彼へ純粋に畏怖の念を抱いているからだ。
「なんだその笑いは……お前、俺を舐めてるのか」
「カ、カイウス様……お酒の飲みすぎですわ」
「舐めてるなぁ……俺を舐めるな!」
バチン! と全力でクリーベルの頬をぶつカイウス。
体の大きい、しかも鍛え上げられた男性の一撃は重く、クリーベルの体を吹き飛ばした。
「ぎゃっ!!」
床で頭を打ったクリーベルは脳震盪を起こす。
鼻からは血を流し、涙を浮かべてカイウスを見る。
「な、何をするのですか……」
「躾だよ躾。俺を舐めているお前を躾してやってんだよ!」
「ぐふっ!!」
カイウスは手加減無しでクリーベルの腹に蹴りを入れる。
胃液を吐き出し、腹を押さえるクリーベル。
カイウスはさらにクリーベルの髪を引っ張り上げ、無理矢理顔を向けさせる。
「お、お許しを……カイウス様、お許しください」
「だったらその顔をなんとかしろ! イライラすんだよ!」
左手で何度も往復ビンタをするカイウス。
みるみるうちにクリーベルの顔が腫れていく。
クリーベルは終わらない暴力に涙し、絶望する。
なんで……なんでこんなことになってしまったの?
今朝までは幸せだったのに……何故急にこんなことに?
「お、お願いです……お許しを……」
「口答えするな! 俺に口答えをするんじゃない!」
カイウスの暴力は止まらず、クリーベルは一晩中殴り続けられた。
◇◇◇◇◇◇◇
「すまない……クリーベル、本当にすまなかった」
「…………」
血まみれになったクリーベルに頭を下げるカイウス。
彼は酒が入ると自分を制御できない。
クリーベルを傷つけようとは微塵も思っていなかった。
悪いのは全て酒だ。
クリーベルは昨日のカイウスのことを思い出し、ガタガタと震える。
とにかくこの人を逆撫でするようなことは止めておこう。
酒さえ入らなければ素晴らしいお方なのだ。
「に、人間ですもの、こういうこともたまにはあります……仕方ないことですわ」
「ありがとう、クリーベル」
「ですが、一つだけお願いがあります」
「なんだ? 言ってくれ。俺が君にしてあげられることならなんでもしよう」
「……お酒をおやめになってくれませんか」
カイウスは真っ直ぐにクリーベルを見つめ、強く頷く。
「約束しよう。愛するお前のためだ。もう同じ過ちは犯さない」
「カイウス様……」
涙をこぼし、クリーベルは感激する。
ああ。私はカイウス様に愛されているのだ。
何も心配する必要はない。
昨日のことは一夜限りの悪夢だったのよ。
彼は酒を止めると約束してくれた。
もうあんなことは絶対におきない。
カイウスに抱きしめられるクリーベルは、幸せを感じていた。
◇◇◇◇◇◇◇
「俺に酒をやめろだと! 何故お前が俺に命令するんだ!」
「う……うううっ」
何度も殴られたクリーベルは、ぐったりとして地面に寝そべっていた。
カイウスは夜になり、当然のように酒を飲み、狂暴化している。
約束はどこへ……酒をやめると言ったのに……
「わ、私はお願いをしただけであって、命令など――」
「俺が間違っているというのか! お前は俺に命令したのだ! この俺に命令をしたんだぞ!」
「も、申し訳ありません」
ボロボロ涙をこぼし、懇願するクリーベル。
もう殴られたくない。
もう痛いのは嫌だ。
もうこんな夜はまっぴらだ。
だがカイウスの暴力は続く。
「おい、これが何か分かるか?」
「そ、それは……」
カイウスが手にしたのは、一本鞭。
それを見たクリーベルは顔を真っ青にしさらに懇願する。
「お願いです……おやめください……お願いですカイウス様ぁ!」
涙をどれだけこぼそうとも、どれだけ許しを請おうととも、カイウスは止まらない。
力の限りクリーベルの背を打つカイウス。
「うぎぃいいいいいい!!」
「まだ俺に酒をやめろと命令するのか!」
「しません! 命令などしません! 申し訳ありませんでした!」
「ふん、やっと認めたか。そうだ! お前は俺に命令したのだ! これは罰だ! 俺に向かって命令したお前への罰なのだ!」
「んぎぃいいいいいいいい!!」
全力で鞭を打つカイウス。
クリーベルの背からは血が滲み、彼女は痛みに震えていた。
そんな血を見てカイウスは片頬を上げ、さらにクリーベルを叩きつける。
彼女を鞭打つのは数時間も続き、それを聞いていた屋敷に仕える者たちは震え上がっていたという。
◇◇◇◇◇◇◇
「あら、マリーベル様。今日もロイド様と仲が良さそうですね」
「ええ。おかげさまで」
ロイド様が治める町を二人で歩いていると、果物屋のおかみが私たちに声をかけてきてくれた。
私は笑顔で返事をし、ロイド様は私の隣で微笑んでいる。
「少し顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
「ええ。最近仕事が忙しくて、嬉しい悩みです」
「……あまり無理はなさらないでください。あなたが倒れると家族も悲しむし、私も悲しいです」
「マリーベル様……本当にお優しいお方ですね」
私が優しい?
自覚のない私は、そんな言葉を聞いてキョトンとしていた。
するとロイド様は私の身体を抱き寄せ、耳元で囁く。
「君は優しいよ。だから俺は君に恋をしたのだから」
ロイド様の吐息が耳に当たり、顔を赤くする私。
彼の声は美しく、聞いているだけでもときめいてしまうというのに……その上息までかけられたとなれば、もう心臓が爆発しそうになる。
ロイド様は意図してないのだろうけど、恥ずかしい。
いつかロイド様に慣れて、照れなくなればいいのだけれど……
だが私は綺麗な彼の顔を見上げて密かに思う。
慣れることはないかも知れない……だってこの人といるだけでずっと嬉しくて幸せで、胸の高鳴りが収まらないのだから。
毎日一緒にいるはずなのに。
家族と暮らしていた不幸な日々が嘘のよう。
毎日が嘘みたいに幸せだわ。
おかみと別れ、私たちは屋敷へと歩き出す。
そこで私は、ロイド様に引っかかっていたことを聞いてみた。
「あの……私に恋をしたと言ってくださいましたが……私たちはどこで出会ったのでしょうか? 情けないのですが、まだロイド様とのことを思い出せなくて」
「…………」
ロイド様は立ち止まり、私に向き合う。
彼は優しく、そして何か懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
「あれは何年も前の話だ……まだ俺たちは子供だった」
「子供の頃……」
「ああ。ダーリフォン家でパーティーをした時のだけれど……まだ思い出せないか?」
「ダーリフォン……ああ。確かに子供の頃に一度お伺いしたことがありました」
ダーリフォン家。
ロイド様と同じく侯爵の爵位を持つ家で、昔そこで開かれたパーティーに家族で参加したことがある。
私が今住むエヴィデンス家の屋敷と比べてもそん色ない大きさの屋敷。
そこで私は、一人の男の子と出逢っている。
そんな記憶が呼び起こされた。
まさか……あれがロイド様だったのだろうか?
◇◇◇◇◇◇◇
パーティー会場では私含めて子供は大勢いた。
両親と一緒にいる子供や、一人でいる子供たち。
あるいは、子供同士で会話をしていたり。
私はポツンと淋しく一人会場にいた。
姉は子供たちと楽しそうに話をしていた。
一緒にお話をしたかったのだけれど、姉に近づいたら怒られるし酷いことを言われるし、遠くから眺めているだけだった。
一人ぽんやりと暇な時間を過ごしている時、一人の女の子が泣いていることに気が付く。
私はその子に近寄り、どうしたのか尋ねてみた。
「どうしたのですか?」
「ドレスを汚してしまって……お母様に怒られてしまいます」
よく見ると、彼女の着ていた白いドレスは食べ物がついてしまい汚れていた。
私は彼女に笑みを向け大丈夫だということを伝える。
「これぐらいなら洗えば大丈夫ですわ」
彼女は私の顔を見て「本当に?」と聞いてくる。
私は首肯し、彼女の手を引いてお水を借りに行こうとした。
するとそれを見ていた姉が私に言う。
「あら? 他の女の子をどこに連れて行くつもりかしら? 一人寂しいからって他人を巻き込むのはどうかと思うわよ? 行くなら一人で行きなさい」
「そうじゃありません。ドレスを汚してしまったみたいなので洗い落としに行きますの」
姉は私の言葉に腹を立てたのだろう。
眉間に皺を寄せ、手に持っていたお皿を私にぶつける。
私の服は汚れ、さらに姉は私の頬をぶつ。
「口答えしないで! 私がそうしろと言ったらそうするのよ!」
「……申し訳ありません。ですがこの子のドレスの汚れを落としてあげたいのです」
「この――」
再度私の頬をぶとうとした姉。
だが、それを寸前で止めてくれた男の子がいた。
「酷いことをするんじゃない。彼女はよいことをしようとしているだけじゃないか」
「…………」
男の子に睨まれた姉は、舌打ちをして手を引く。
その男の子は、私と同じで一人でいた。
とても綺麗な顔立ちをしていて、私は一瞬見惚れてしまう。
だが、私の後ろで不安そうにしている女の子の様子に気づき、私は笑顔を向けた。
「私もこれでドレスの汚れを落としにいかないといけなくなりました。お揃いですね」
周囲の子供たちが温かい目を向けてくれていたのが分かる。
男の子は、何やら驚いたような、感心したような、そんな表情をしていた。
そして私が手を引いて、彼女と会場から離れようとすると、後ろから男の子が聞いてくる。
「君の名前は?」
私は振り向き、名前を名乗ろうとする。
だが私が答えようとすると、悪意に満ちた笑みを浮かべた姉が代わりに口を開いた。
「クリーベル・ドンアイード。それが彼女の名前ですの」
「クリーベル……」
皆の反応が良かったからだろう。
周囲に聞こえないように、男の子の近くでそう言った姉。
全ての手柄を自分の物にしようとする。そんなこともいつものことだった。
私は姉の言葉を気にすることなく、女の子の手を引いてその場を離れた。
◇◇◇◇◇◇◇
「……あの時の男の子が、ロイド様でしたの?」
「ああ。姉から酷いことを言われてもあの子に優しさを見せた君に俺は一瞬で惹かれた……まだ俺は子供だったけれど、運命だと感じた」
ロイド様は私の手を取り、甲に口づけをする。
「あれから君のことを想い続けていた。君のことを何も知らないけれど、自分の運命の相手だと信じてね」
「ロイド様……」
私もなんとなくであるが、あの時の男の子のことが気になっていた。
当時はロイド様と同じ……同一人物だから当然なのだけど、あの力強い赤い瞳を思い起こしぼんやりとしていた記憶がある。
まさかあれがロイド様だったなんて……
私もいまさらながら運命めいたものを感じ、胸を熱くさせた。
「だけど君の名前、クリーベルじゃなかった」
「ええ……姉はいつもそう。私から手柄を奪うような真似をしてきましたの。あの時だって、一人でいたロイド様にはバレないだろうと、自分の名前を言ったのです」
「うん。情けない話だけど、もっと後にそのことは分かった。気が付いたのはクリーベルと婚約の話が進んだ後だったけどね」
片方の眉を上げ、困ったように笑うロイド様。
そうか……ロイド様は、私に婚約を申し出てくれていたのか。
だけどあの時姉の名前を聞いていたので、話は姉の方に行ったと……
「君に婚約を申し出たつもりだったのだけど……まさかお姉さんだったとはね。最初お姉さんと会った時は、優しい君はどこに行ってしまったのかと思ったものだよ。顔は似ていたから、この人で間違いないと思っていたんだけど」
「姉は強気で気丈な人ですから」
「君に気づいたのは婚約を交わした直後だった……俺は絶望したよ。まさか君の姉に騙されたまま結婚しなければいけないのかとね」
ロイド様は私の手を引いて、屋敷へ向かって歩き出す。
私はロイド様に、素直な気持ちを伝えた。
「でも、こうして一緒になることができた。奇跡のようなことが起こりましたの。姉が婚約者を交換しろだなんて」
「…………」
ロイド様は宝物でも見つめるような目で私を見つめている。
私は頬を染めながら彼の赤い瞳を見つめ返す。
「良かった……あなたと一緒になれることができて、本当に良かった」
「俺もだよ。俺は君以外の者と一緒になるつもりなんてなかった。君だけが俺の幸せなんだ。これからもずっとそばにいてほしい」
「そばにいてほしいのは私の方です。ロイド様、私を貰ってくれて、ありがとうございました」
「お礼を言うのは俺の方だ。俺のもとに来てくれてありがとう、マリーベル」
周囲から見ればバカみたいに映るのだろうか。
私たちは笑顔を交わし合いながら、お互いの存在に感謝し合っていた。
ああ、なんて幸せな時間なのだろう。
彼がいるだけで、甘美な時間が過ぎていく。
どんな煌びやかなパーティーを開いたとしてもこんな喜びは感じられないだろう。
ロイド様がいれば、それだけで私は幸せなのだ。
◇◇◇◇◇◇◇
クリーベルはカイウスから毎日暴行を受けていた。
顔はいつも腫れ上がり、背中は血が滲んでいる。
体の痛みは引くことなく、心は疲弊していく。
なんでこんなことになってしまったのか……
カイウスのいない時に、一人涙を流すクリーベル。
最近では酒を飲まなくてもクリーベルに暴力を振るうカイウス。
酒は人の本性を暴くというが、まさに彼は支配欲、そして暴力性を備えていたということであろう。
普段のカイウスは理性によって抑制された偽りの姿。
クリーベルに暴力を振るい続けることによって、彼女に対してだけその本性が露わになってきたのだ。
外面はいいが、クリーベルに対しては暴力的で支配的。
クリーベルにとって、地獄の毎日であった。
そして彼女は考える。
どうやってここから逃げ出そうか。
そんなある日、クリーベルは両親が病に倒れているという話を聞いた。
すぐさまカイウスに赦しを乞うクリーベル。
「両親が流行り病に倒れたと聞きました。どうかお暇をいただけませんでしょうか?」
「そんなことを言って、ここから逃げ出すつもりだろう?」
ビクッと体を震わせるクリーベル。
苦し紛れに、なんとか言葉を振り絞る。
「そ、そのようなことするはずがありません! 私はカイウス様の物。なぜあなたのもとを逃げ出す必要があるのですか?」
「俺の暴力に耐えられないんじゃないか?」
「そ、そんなこと……」
酒が入っていないカイウスは、クリーベルに威圧的な態度で続ける。
「別に逃げるなら逃げたければいい。だが、その後のことは分かっているな?」
一本鞭を手に取るカイウス。
クリーベルは体に刻み込まれた痛みに、無意識に体を震わせ涙を浮かべてカイウスの足元にすがる。
「カイウス様! 逃げるなんてそのようなことは考えておりません! だからお許しを――うぎぃいいいいい!!」
パァン! と乾いた音が響き渡る。
カイウスは鞭でクリーベルの背中を打った。
痛みに耐えるクリーベル。
ここで口答えをすれば、さらにひどい目に遭わされる。
黙っておくのが正解。
必死で笑みを浮かべてカイウスを見上げる。
「…………」
だがカイウスはニヤリと笑い、鞭を打つ手を止めない。
美しいクリーベルの顔が、痛みに酷く歪むのが快感になり始めていた。
彼女を打つたびに、快感が押し寄せてくる
カイウスは奇声を上げながらクリーベルを打ち続けた。
クリーベルは黙って痛みに耐えながら決断していた。
ここを逃げよう……この地獄から逃げ出そう……
そうだ……マリーベルを犠牲にすればいい。
あいつを私の代わりにカイウス様に捧げれば……
いつしかカイウスに受ける暴力の恨みを、マリーベルへの憎しみに転換させるクリーベル。
この痛みは、あいつが受けるべきなんだ!
◇◇◇◇◇◇◇
ロイド様と過ごす穏やかな日々。
愛する人が傍にいて充実した毎日を私は送っていた。
だが、そんなある日のこと。
「マリーベル!」
「……お姉様……どうしてここに?」
「カイウスのところから逃げて来たのよ!」
私の住む屋敷へと、フードをかぶったお姉様が現れた。
外は雨が降っているので、それをしのぐためのフードだと思っていたが……どうやら違う。
顔が醜く腫れあがっているのを隠すために、かぶっているようだ。
「そのお怪我、どういたしたのですか?」
「どうしたもこうしたもないわよ! いい? あんたの旦那と私の旦那、交換しなさい!」
「こ、交換……?」
私は唖然としていた。
婚約者の時点でもどうかと思っていたが、次は旦那となったロイド様を交換しろだと?
結果はどうあれ、以前の私なら姉に逆らうことなく素直に頷いていたのかもしれない。
だけど今は嫌だ。
絶対にロイド様を渡したくない。
例え嘘だとしても、私は頷くことはできない。
「嫌です」
「は、はぁ!?」
彼の愛を失うぐらいなら姉の暴力など微塵も恐怖を感じない。
断言した私に、虚を突かれたように目を丸くする姉。
私は背筋を伸ばし、毅然とした態度で姉と対峙した。
「カイウス様と何があったのかは知りませんが、私たちには関係ありません。それに旦那の交換など、誰も納得するはずがない。お姉様はそこまで愚かな人でしたか?」
「こ、この……私に口答えする気か!」
怒りを露わにし、姉は右手を大きく振りかぶった。
私は彼女から目を逸らすことなく、恐怖心を抱くことなくそれを迎え入れようとする。
だが――
「っ!」
「こんなところで何をしているのかな、レディクルセイル」
「ロイド様……」
私が姉にぶたれると思っていたが、ロイド様が彼女の手を取り寸前で止めてくれた。
彼の登場にホッとしながらも、姉に対しての警戒を緩めることはしない。
ロイド様は私の隣に立ち、以前お父様たちに見せたような冷たい視線を姉に向ける。
「ここはお前が来るような場所じゃない。お前はお前のいるべき場所へ帰れ」
「私のいる場所はここよ! ねえロイド様、マリーベルより私の方があらゆる面で優れているの。だから貴方は、私を妻に迎え入れた方が幸せになれますわ」
「幸せ? 冗談はよしてくれ。俺の幸せはマリーベルとある。彼女以外に俺を幸せにしてくれる人などいない」
カッとする姉は、声を荒げてロイド様に言う。
「私の方が美人だし聡明です! こんなゴミみたいな女――」
「マリーベルの方がお前よりも美しい。比べ物にならないほどな」
「う、嘘……私がこいつより劣るわけないのよ!」
ロイド様の背に触れると、彼の内は炎のように熱かった。
だけど姉を睨むその瞳は、怖いほど冷たいもの。
でも私は感じる……ロイド様は私を守ろうとしてくれている。
そのことが私の心に伝わり、これ以上ないほどに安心感を覚え、胸が高鳴った。
「君がマリーベルに勝っている点など一つもない。それだけは断言しておこう。ああ、意地の悪さ、そして心の醜さは勝っているけれどね」
「なっ……」
姉は怒りのままにロイド様を怒鳴り付けようとするも、冷静さを保つために大きく息を吸い込んでいた。
そして引きつった笑みをロイド様に向け、震える声で言う。
「わ、私はマリーベルよりも美人で有名でしたの。そんな私が彼女よりも劣ると? 勉学に関しても私の方が上。負けている要素など微塵もございません」
「女性は綺麗だと言われ続けると本物の美しさを手に入れる。マリーベルはお前たちから見下されてきた。だけど今はどうだ? 町の誰もが真実を口にすることによって、彼女は本来の美しさを取り戻したのだ。お前にはない、眩い輝きを放つ美しさ。それは彼女から放たれる光だ。お前がマリーベルより美しいなどと、おこがましい限りだよ」
姉の額に青筋が見える。
爆発寸前なのだ。
今にも怒りそうな雰囲気。
しかしそれでも、ロイド様は続ける。
「勉学に優れているからなんだ? 彼女は優しさを備えている。頭のよさなどよりそちらの方がよっぽど大事な物だ」
「優しいぐらいなら私にもできますわ! もし私を妻にしてくれるのなら、彼女よりも優しい女になってみせます!」
「優しいぐらい、というのが難しいものなのだ。お前には無理だ。心が邪悪なお前にはな」
歯を食いしばり、眉間に皺を寄せる姉。
彼女はロイド様から、私に視線を向ける。
「マリーベル! あなたからも頼みなさい! 私を妻にしろと!」
「嫌です。絶対に嫌です。私はロイド様とこれからもあり続けるのですから。私はロイド様のものです」
「俺もマリーベルと共にあり続ける。俺はマリーベルのものだから」
情熱的に私を見つめるロイド様。
私も熱を込めて彼の目を見つめ返す。
姉は髪をかきむしり、地団駄を踏んで叫び出す。
「元々あなたは私の物のはず! あなたと最初に婚約したのは私なのだから!」
「…………」
「ただいま戻りました。ロイド様」
「ああ。おかえり、エミー」
姉の言葉に冷酷な視線だけで応えていたロイド様。
すると玄関から一人の女性が姿を現せた。
「……エ、エミリー?」
姉はその女性の顔を見て驚愕する。
髪の色は白髪から赤に変わっていたが……彼女は紛れもなく、姉の元侍女のエミリーであった。
◇◇◇◇◇◇◇
それは今より少し前の話――
自分が想い続けていたあの女の子がマリーベルだったと知ったのは、ロイドがクリーベルと婚約を交わした後であった。
あれだけ想っていた女性のことを間違えたことに対し、自分に怒るロイド。
しかし今更婚約を破棄するわけにはいかない。
そんな無礼なことが許されるはずがない。
そう考えるロイドは、どうにかしてクリーベルとの婚約を解消しようとしていた。
だがそれだけではない。
クリーベルとの婚約を解消しつつ、マリーベルを妻として迎え入れる。
その二つを、誰もが納得する形で行わなければならない。
ロイドは毎日毎日、そのことを思案し続けていた。
「ロイド様。何を思い悩んでいるのかは存じ上げませんが、根を詰めすぎると身体に毒でございますよ」
「エミー……」
エミー、それはエヴィデンス家に仕える侍女で、ロイドの世話をしている女性であった。
歳はロイドとそう変わらず、聡明な顔立ちをしている。
ロイドはそんなエミーの言葉に従い、息抜きに彼女と共に町へと出かけた。
「一体何があったのですか? 差し支えなければお聞かせいただけませんか?」
「実は……恥ずかしながら、自分の想い人を勘違いしていてね」
「クリーベル……様でございますね?」
「ああ。でも、クリーベルというのは俺の想い人の姉であった……もっとしっかりと調べておけばこんなことにならなかったのに、俺は何も見えていなかった……恋は盲目とは上手く言ったものだ」
自虐的に笑うロイド。
エミーはそんなロイドの横顔を見て、クスリと笑う。
「冷静沈着、そして冷酷で有名なロイド様が女性に熱を上げているだなんて、そんなことを知ったら、ロイド様を知る者ならば驚くでしょうね」
「ははは……そんなに冷たいかな、俺は」
「ええ。自分の大事な物以外には」
「……確かにそうかも知れないな」
ロイドはいつも世間に冷めている男であった。
それは子供の頃からであった……が、マリーベルとの出会いが彼を変えたのだ。
彼女の温かい優しさが、彼の心に温もりを取り戻させた。
だからこそロイドはあの優しさを持つマリーベルに焦がれていたのだ。
どうしてもマリーベルと添い遂げたい。
ロイドは町を歩きながらも、彼女とのことを考え続ける。
「物事を上手く運ぶには、クリーベル嬢を騙さなければならない……だがそのためには、誰かの協力が不可欠だ。俺に力を貸してくれる人は……誰かにそんな汚い仕事を任せられるのは気が引ける――」
「私がいるではありませんか」
「……君が?」
「ええ。協力が必要なら、私は喜んでお引き受けさせていただきます」
ロイドはエミーの申し出に胸を熱くさせていた。
彼女が力を貸してくれるというのなら……上手くいくかも知れない。
「人を騙す汚い仕事だ。君はクリーベルに恨まれるかも知れないぞ?」
「ロイド様の幸せのためならば構いません」
「エミー……」
「そもそもクリーベルという女性のことは、全く存じ上げませんので」
あっけらかんと言うエミーに、ロイドは声を出して笑う。
エミーだけではない。
バレれば俺も彼女に恨まれるであろう。
彼女の親たちも怒るかも知れない。
世間の評判も悪くなるだろう。
だが……それでも俺は、マリーベルを妻に迎え入れたい。
彼女でないといけないのだ。
彼女でないと意味がないのだ。
彼女こそ運命の相手なのだ。
ロイドは心を氷のように冷たくし、エミーに為すべきことを伝えた。
◇◇◇◇◇◇◇
エミーはマリーベルたちの屋敷、ドンアイード家へと仕えにやってきていた。
彼女の作戦は三つ。
一つ目は、クリーベルからロイドへの印象操作。
二つ目は、カイウスがどれだけ素晴らしいかをクリーベルに刷り込むこと。
そして三つ目は、マリーベルの情報をロイドに届けることであった。
エミリーとしてドンアイード家に入り込んだエミー。
最初にマリーベルに会った印象は、とても心の優しい女性。
素晴らしい人だ。この方ならロイド様に相応しい。
それに引き換え、クリーベル・ドンアイード……
なんと心の醜い女性。
傲慢で強欲で横暴。
こんな女性もいるものなのだな……
クリーベルに仕え、マリーベルをイジメる彼女に怒りを覚えるエミー。
だが今はマリーベルを助けることはできない。
エミーは怒りを胸に宿しつつ、マリーベルに対して申し訳なさを感じる。
今は我慢なさってください。
きっと将来、貴方は幸せになりますから。
クリーベルに誠心誠意仕えるフリをするエミー。
エミーに対して信頼するようになるクリーベル。
彼女が心を開いたと判断したエミーは、クリーベルにロイドとカイウスの話をする。
カイウスは素晴らしい男性である。
そしてロイドはカイウスの足元にも及ばない男であることを。
それを毎日毎日繰り返し、クリーベルに伝え続けてきた。
するとある日のこと――
「ああ……私はロイド様と結婚しなければいけないのかしら?」
「そうでございますね……このままいけば、ですが」
「このままいけば……か」
「ですが、いいお話を耳にしました」
「……どんな話かしら?」
それはカイウスがマリーベルに婚約の申し出をするという話であった。
クリーベルはニヤリと片頬を上げる。
上手くやれば、マリーベルからカイウスを奪い取ることができるかも知れない……
私には優秀なエミリーがいるのだから。
そしてエミーは、卑しく笑うクリーベルの姿を見て、同じように悪意ある笑みを浮かべるのであった。
◇◇◇◇◇◇◇
エミーがドンアイード家に仕えている間に、ロイドはクルセイル家へとやって来ていた。
ロイドを見るなり、カイウスは彼に気を使うように訪ねる。
「ロ、ロイド……何か用事か?」
「ああ。大事な大事な用事さ」
冷たい視線をカイウスに向けるロイド。
カイウスはロイドに怯えるばかり。
「これは君にとってもそれなりに有益な話だ」
「有益な話……」
「ああ。俺に恩を売れるチャンスというわけだ。悪くない話だろ?」
「あ、ああ……それは素敵な話だな」
強く、聡明、そして切れ者であるロイドは、他の貴族たちから恐れられていた。
彼が野心を持てば、この国さえも治めてしまう可能性だってありえる。
それほど彼の能力は高かったし、人望も厚かった。
ロイドの一言で王族を裏切る貴族は大勢いる。
そんな彼に対して、同じ爵位であるというだけのカイウス。
どう太刀打ちしても彼には敵わない。
それに……
「君には、マリーベル・ドンアイードという女性に婚約話を持ち出してほしい」
「ドンアイード……その名は聞いたことある気がするが、何故だ?」
「理由は俺がマリーベルを妻として迎え入れたいからだ」
「そ、それなら君がその女性に直接話を持ち掛ければ……」
「それが少し話がこじれてしまってね……俺がマリーベルと婚約するためには、君にマリーベルに婚約を持ち出してもらわなければならない」
「ど、どういうことだ……?」
ロイドはカイウスに話を分かりやすく説明する。
カイウスはロイドの話を把握し、静かに頷いていた。
「じ、じゃあ、俺にそのクリーベルという女性と結婚しろと?」
「ああ。彼女の見た目は綺麗だし、俺への恩を売れる。悪くない話だろ?」
「だ、だけど、一生を共にする人を君が決めるというのか?」
「政略結婚などいくらでも転がっている話だ。君がこの話を受けいれたら、俺という味方を得ることができる。君にとって有益すぎる話のはずだ」
「だ、だが……」
「もし断ったら……俺が怒るとどうなるか、分かっているな?」
背筋をゾクッと震わせ、カイウスは何度も頷く。
カイウスの酒癖の悪さはロイドも知っていた。
彼にはクリーベルぐらいがちょうどいい相手だろう。
そう考え、彼にこの話を持ち出したと言うわけだ。
話を受け入れたカイウスに笑みを向け、彼の肩をポンと叩く。
「では、そういうことだ。よろしく頼むよ」
「わ、分かった。任せてくれ」
こうして、カイウスはマリーベルへ婚約の申し出をすることとなった。
クリーベルが代わりに妻となることを知りながら。
◇◇◇◇◇◇◇
「エミリー! なんであんたがこんなところにいるのよ!?」
「申し訳ございません。どちら様でございましょうか? 私、エミリーではなくエミーなのですが……」
「んなっ……」
姉はエミーと名乗る女性に怒声を浴びさせるも、彼女はとぼけた表情を浮かべていた。
どう見てもエミリーなのだが……どうなのだろう。
私は戸惑いながら、ロイド様の顔を見上げた。
するとロイド様は、いたずらっ子のような表情で私にウインクする。
ああ。やはりエミリーで間違いないのだ。
そう確信した私は、二人のやり取りに視線を戻す。
「どちら様か存じ上げませんが、酷いお顔……誰かに暴力を振るわれたのですか?」
「あんたが絶賛していたカイウスによ! 何よあれは! 家柄が少々いい酒癖の悪い男じゃない! あんなのだったら、この家の方がマシってもんでしょ!」
ふーふー肩で息をしながら、姉は罵声じみた声でエミリー……いや、エミーにそう言った。
やはりエミーはとぼけるばかりで、肩を竦めているだけだ。
「なんのお話でしょうか? さっぱり分かりません」
「この、クソ女が――」
「俺の屋敷で醜いことは止めてくれ。マリーベルの目に毒だ」
「毒はマリーベルよ! こいつといてもなんの得もない、周囲を苛立たせる毒でしかないわ!」
「人によっては毒だって薬になり得る。お前から見れば毒だったかもしれないが、俺にとっては幸福の元だ。マリーベルをこき下ろすような真似は止めろ」
「私は事実を言っているだけなの! ねえ、マリーベルなんて止めて、私を妻にしてちょうだい。私の方があなたを幸せにできるから、ね?」
綺麗な言葉遣いも忘れ、姉はロイド様にすがっている。
しかしロイド様は醜いものでも目にしたかのように、姉を見下ろしていた。
「俺にはマリーベルがいる。それぞれ相応しい相手というものがあるものだ。君には君にふさわしい相手がいるはずだぞ?」
「わ、私に相応しい相手……? それがあなたでしょ?」
「だから俺に相応しい相手はマリーベルだ。君に相応しい相手……それは」
ガチャっと玄関の扉が開き、見たことのない男性が姿を現せる。
男性の顔を見たロイド様は、ニヤリと笑った。
「ほら、お前の相応しい相手が迎えに来たぞ」
「……ええっ?」
自分の背後にある男性の気配に、姉は震え出す。
ゆっくりと振り向き、唖然とした顔でその男性と顔を合わせる。
「……カ、カイウス……様」
カイウス・クルセイル。
その男性は、姉を妻に迎え入れたお方であった。
「ロ、ロイド……」
カイウス様が怯えた様子でロイド様に視線を向けている。
ロイド様はカイウス様を静かに見据えるだけ。
「カイウス」
「な、なんだ」
「俺はお前たち夫婦の関係に口を挟む気はない。そしてお前がどれだけ酒を飲もうとも何も言わない。だが、マリーベルに迷惑がかかるようなことがあれば……容赦はしない。いいな?」
「わ、分かった。肝に銘じておく」
「そして君の家内は、そのマリーベルに問題を持ち込もうとしているぞ。どうするつもりだ?」
「ロ、ロイド様!」
姉が涙を浮かべてロイド様の腕を取り、震えながら彼に訴えかける。
「お願いでございます! もうマリーベルに代わってくれなど申しません! せめて、せめて私を助けてください! お願いです……お願いします!」
ロイド様は表情を変えることなく姉に言う。
「マリーベルは長年辛い目に遭ってきた。原因は全てお前だ。お前も人の痛みというものを知る方がいいだろう。カイウスの下でそれを学べばいい」
「お、お願いです……ご慈悲を……」
「カイウス」
「ああ……クリーベル」
カイウス様に名前を呼ばれ、ビクッと体を震わせる姉。
先ほどよりも震えは酷くなり、涙をこぼしながらカイウス様の方を見る。
「カイウス様……お許しください……お願いでございます、もう私を解放してください」
「……俺たちは夫婦だ。余所様のところで家の話をするなんてみっともない真似は止めろ。話なら家で聞く」
「マリーベル! 助けなさい! 今すぐにロイド様に頼んで私を助けなさい!」
「お姉様……」
私は姉を助けたいとも助けたくないとも思わなかった。
このまま放っておいても私の人生にはなんの影響も与えないだろう。
だけど、徐々に助けてあげなくてはという慈悲の心が少しだけ生まれ出す。
私が一歩前に出ると、ロイド様が私の身体を抱き寄せる。
そして真っ直ぐな瞳で私を見つめた。
「マリーベル。君はもう姉に関わらなくてもいいんだ。姉の家のことはもう放っておくといい。君は俺とのことだけを考えておけばいい。姉は君の幸せとはなんら関係ないのだから」
ロイド様の優しい笑顔に、私は何も言えなかった。
結局、これも全て姉のやってきたことのツケというものであろう。
私はそう納得し、姉を連れ去るカイウス様の背中を見送った。
「助けて! 助けて! お願い……助けてぇええええええええ!」
バタン! と扉は閉じられ、カイウス様と姉は屋敷から姿を消してしまった。
「マリーベル様。前の家ではあなた様をお助けすることができなく、申し訳ありませんでした」
「エミリー……いえ、エミー。まさかあなたがこのお屋敷に仕える人だったなんて、夢にも思いませんでした」
エミーは私に頭を下げ、姉に仕えていた時のことを謝罪している。
だけど私は知っている。
彼女は私を助けるために黙って姉に仕えていたことを。
どんなことをしていたのかは知らないが、ロイド様の優しい瞳がそれを物語っている。
「エミーはこれから君に仕えることになる。マリーベルのことをよろしく頼むよ、エミー」
「かしこまりました。誠心誠意、マリーベル様にお仕えいたします」
私はふと、何故カイウス様がこの場に現れたのかが気になり、ロイド様に訊ねる。
「あのロイド様。何故、カイウス様はここに……?」
「彼女が消えたら、まず真っ直ぐにここに来るだろうと伝えておいたんだよ」
「なるほど」
なんと聡明なお方。
姉がここに来るのを読んでいたとは……
そんなロイド様は私の腕を引き、庭へと向かい歩き出す。
後ろからエミーが微笑ましく私たちを見ながら同行している。
庭には花壇があり、まだそこには何も植えられていない。
それを見渡しながら、ロイド様は言う。
「エミーが帰って来たから、またここに一杯の花を植えてもらおう」
「花ですか……どんな花を植えるつもりなのですか?」
「スターチスの花だ」
「スターチス……」
スターチス。
花言葉は「変わらぬ心」。
「これからも君を愛し続けることを誓う。俺の心はいつまでも君のものだ」
「ロイド様……私も貴方を永遠に愛します」
「それは光栄の限りだ」
私たちは顔を合わせて微笑み合う。
エミーはクスリと笑い、花を植える準備を始める。
「仲がよろしいようで。エヴィデンス家の将来を心配する必要はなさそうですね」
「ははは。子供は十人以上できるかもしれないな」
「ロイド様……それは張り切り過ぎではありませんか?」
「いやしかし、マリーベルが愛おしくて愛おしくて、彼女との子供ならば何人でも欲しい気持ちなんだ」
ロイド様とエミーの会話に私は顔を赤くする。
子供が十人だなんて……そんなに頑張れるかしら?
ロイド様はそんな私の頬に触れ、温かい瞳で見つめてくる。
姉たちに向ける冷たい目は嘘のように。
私を真っ直ぐに愛してくれる熱い瞳。
「これからも何も心配する必要はない。俺が君の幸せを守る」
「何も心配などしておりません。ロイド様がいれば私は幸せなのですから」
私はロイド様の胸に頭を預け、エミーの作業を二人で眺めていた。
きっとこの花壇に植える花と同じように、私たちの幸せはいっぱい咲き誇るのだろう。
変わることなく永遠に。
私たちの愛のように。
おわり
最後までごらんいただき、ありがとうございました。
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