辺境伯の婚約者
ベッドに横になって今日一日を振り返る。
昼前に私の様子を見に来たジャックにお姫様抱っこされてミハエル様の部屋に行った。そこで人頭犬へと退化(?)したミハエル様の姿を見て驚いたけど、ミハエル様と二人きりになってキスされて……。
気付いたらミハエル様に抱きしめられてソファに座っていた。
その後、ジャックにもうしばらく滞在してくれと頼まれた。
なんか、疲れた一日だったな。
流石にキスしたら治ったなんて言えないよね。
転生前とは時代が違う。 貴族内では結婚が今後の家格にも影響する時代だ。いくら婚約してない身軽な体だといえど、簡単に好きな人と付き合える時代ではない。
なのに付き合ってもいない男女がキスしたなんて知られたら、それこそ両家の親が出てくる騒ぎになる。
もしもミハエル様の犬化が呪いによるものならば、呪いが解けない限り再び犬化する可能性は多いにある。
(……そしたらまたキスしなきゃいけないの?)
ミハエル様とのキスを思い出すと一気に顔が熱くなった。いたたまれなくなり頭まですっぽりと布団に隠れる。
たかがキス。
そう割り切るつもりだけど、ミハエル様の情熱的なキスの感触を思い出すとたかがと言えなくなる。
(婚約者でもないのにまたあんなキスをしなきゃならないのっ?)
あまりにも官能的なキスに意識を手放してしまった自分を思い出して恥ずかしくなる。
転生前では一応恋愛経験はある。キスがどういうものかもそれなりに知っていたつもりだ。
けれどキスの上手い下手がわかる程の経験値は無かったようだ。
(キスが上手い人ってこういうことなの?)
3年ぶりに犬化が解けたというミハエル様の立ち姿を思い出す。
輝く銀色の髪はレオンと同じで、少し長めの癖毛は撫でるとレオンの感触を思い出せそうだ。黄金色に輝く瞳に、高く整った鼻筋、薄い唇はいつも微笑んでいて、誰がどう見てもイケメンだった。背も高く、細く見える身体は実は筋肉質で私を軽々とお姫様抱っこしてくれる程。
(………絶対モテてたよね。そりゃキスの経験も豊富なはずだよね)
本来であれば私なんかが傍に近付けるはずも無い存在のミハエル辺境伯様。そんな彼とキスが出来ただけでも果報者だろう。
たまたま私がレオンを保護しただけ。何処か別のご令嬢が保護していたら私がミハエル様の秘密を知る事も無かったよね。
とはいえ今は捻挫と背中の傷のせいで、ミハエル様に過保護にされている。
夕食時、食堂に移動しようとすると当然のようにお姫様抱っこされて移動した。部屋に戻る時も同様だった。
ここまで過保護に甘やかされると流石に勘違いしそうになる。
(私は婚約者じゃないのに……)
そもそも私とキスして治るなら、ミハエル様の婚約者や恋人がキスしても治るのでは? そうすれば私は家に帰れるはずだ。
呪われてるかもしれないミハエル様を気の毒には思うけれど、婚約者に逃げられた自分はどうみても役不足だ。
(……ジャックに正直に話そう)
自分のようなはみ出し者でなく、ミハエル様に相応しい立場の女性に変わってもらおう。
そう心に決めて、レオンのいない冷えたベッドで身を丸めて眠りについた。
***
「婚約者も恋人もいませんよ」
ニコリと微笑む童顔のジャックは向かいのソファに座っている。
朝一で側仕えのカーラに、ジャックを呼んでと頼んだら、朝食を乗せたトレイを持つジャックが部屋に来てくれた。
ありがたく朝食を摂りながら、羞恥をかなぐり捨てて全てを話した。そうしてジャックに告げられた返答に言葉を失った。
「まぁ、確かにイザベラ様以外の女性でも呪いが解けるのかは試してみても良いのですが、ミハエル様がそれを承諾するとは思えないので難しいでしょうね」
「…………」
「それに、試すにしても、犬化したミハエル様を他のご令嬢に見せるのはリスクが伴ってしまうのでやはり厳しいかと」
「……そう、ですよね」
確かにいきなり犬化したミハエル様とキスしろだなんて、どんなに見目麗しい御方だとしても自分の時のように異質な目で見て否定してしまうだろう。
「……そんなに体裁が気になるのでしたら、いっそ貴方様がミハエル様と婚約するのはどうですか?」
「…………は?」
「結婚するのは無理だとしても、婚約だけなら出来ますからね。一度婚約破棄してる貴方なら何度婚約破棄しても変わらないでしょ?」
ニコリと微笑んだままのジャックが悪魔に見えた瞬間だった。
「ミハエル様は今は理由あって結婚出来ないのです。もちろん結婚する時は相応の相手が望ましいのでどのみち貴方とは縁を切って頂くことになります」
「…………」
「ですのである意味、貴方のように身をわきまえてる方のほうが今は都合が良いのですよ」
私自身客観的に見て、自分はそこそこ正直な性格だと思う。
けれどジャックのように包み隠さずバカ正直に話すことは出来ないと思った。
要は、私はミハエル様の呪いを解く為の駒。キスはしてもそれ以上の関係は許されないという事。あまりにも明け透けな言い草に、食事中だというのに、思いっきりあんぐりと口が開いちゃったじゃないか。
当然だが、ジャックは私がどんな一生になろうが気にも止めないようだ。辺境伯の側近ともなるとそれくらい非情でなければ務まらないのかもしれない。
なんかバカバカしくなった。
私の怪我を案じてくれていると、邸の者達皆が優しくて居心地良く感じていたのに。まさか私を邸から逃さない為だったなんて。
それなら私の傷なんて治らない方が良くない?治療なんてしなきゃいいのに。あー、傷が悪化して私が死んだらミハエル様は呪いが解けなくなるかもしれないか。だからか。納得したわ。
邸内で何処ぞの令嬢が死んだなんて、体裁が悪いどころじゃないもんね。バカみたい。
「………分かりました。そういうことなら婚約も婚約破棄も出来る範囲ご協力致します。
その代わり、ミハエル様の呪いが解けた後は二度と私に関わらないとお約束して下さい。
呪いが完全に解けた後、再び似た呪いをかけられたとしても、二度は無いと。私とは金輪際一切関わらないと約束して下さい」
「………分かりました。お約束致しましょう」
ヤケクソになった私に出来る精一杯の強がりだった。
「では後程正式な書面をお持ちします。ご両親には……」
「婚約破棄するのですから両親には伝えないで下さい。ミハエル様が私と婚約する気があるのならいつでも署名します」
「ご理解ありがとうございます。では早速用意致しますので私はこれで失礼致します」
こうして、私はいずれ訪れる二度目の婚約破棄を了承した。