ぬくもり
セドリック視点です。
薄れゆく意識の中、俺を縛っていた瘴気が晴れていくのを感じて目を開けると、ノアとアレクが傍にいた。死にぞこないの都合のいい願望かと思ったが、それは救いの手を延べる現実のものだった。
自分のために、助けに飛び込んできたノアとアレクを見て、形ばかりの拒絶はしたけれど、諦めと共に喜びが浮かぶのを感じた。
贅沢な最期だと思った。君とアレクに看取ってもらえるなんて。
朦朧とする意識の中、そんなことを言った気がする。
いくら血縁に道具として使い捨てられる生だったとしても、こんな結末なら案外悪くないのではないかと思った。
そういえば、アレクとの付き合いは、いつからだったか……。
出会ったその日から、俺は気に入ってしまったんだよな。もっともそれは、ノアに対してもそうだったと思う。
胸を焼くような毒の痛みに、視界は揺れるし意識は飛んでしまいそうだったが、二人をこの目に焼き付けて逝きたくて再び目を開ける。
温かい茶色の瞳と、深い青の静かな瞳が俺を見つめている。
イライアスもエドワード殿下もだが、幼い頃から擦り切れていた俺の生き方を、何も言わずに受け止めてくれたな。今のように取り繕えてもいなかったのに、アレクはとても自然に俺の生活に溶け込んできた。
そうだ。あの時アレクも、こんな風に俺の顔を見下ろしていたな。
ほんの少しの間、俺は昔の思い出に沈んでいた。
あの日は、冬らしい曇天で、殴られて仰向けに倒れたまま空を見ていた。
十二の冬に幼年学校の宿舎に入り、やっとグレンフィル家から一時逃れられたと思っていた。だが、どこで仕入れた情報かは知らないが、ここでも周りは俺がグレンフィル家の恥である私生児だと知っていた。
子供の悪意はある意味純粋なほど真っ直ぐで、大人の目が無い所ではグレンフィル家でのものよりも強烈なこともあった。ただ、真っ向からねじ伏せればいいものがほとんどで、どちらかと言うとこちらの方が俺の性に合っていたが。
この日は、俺より体格のいい三人掛かりで殴ってきた。俺が女顔なのが気に入らないとか、訳の分からないことを言っていたので、簡単な火の魔法で髪と眉を燃やしてやったからだ。二人までは伸したが、最後の一人で力尽きて空を眺める羽目になった。
『痛い、……それよりも、寒いな』
人通りの乏しい裏庭で、しばらく痛みと戦って空を睨んでいたが、何故か寒さの方が身に染みた。
そんな風に凍えた俺の視界に、ふと大きな影が差した。
『大丈夫か?』
そいつが声を掛けてきた。
第一印象は「デカい」だったか「黒い」だったか。倒れ込んだ俺を、不思議そうにのぞき込んだアレクだった。
『何だよ。見世物じゃねえんだ』
知らない顔で、明らかに俺よりも年上でデカくて強そうだったが、負けん気が強くてそう言った気がする。それにアレクは、無言で瞬きをした。
何で覚えてるかというと、アレクの青い目が物凄く印象的だったからだと思う。
それからアレクは、無言で俺の隣に腰を下ろし、持っていた布で俺の顔を拭き始めた。訳が分からなくて一瞬固まったが、何をされたか気付くと、頭がカァッとなって手を振り払った。女みたいな顔と細い体型を馬鹿にされたのかと、穿った考えが浮かんだからだ。
『ふざけんな!』
『後は自分で拭け』
食ってかかると、アレクは布を俺に握らせた。口の端が切れていたから血を拭えということかと思ったが、握った布は何故か透明なもので湿っていた。そこで俺は初めて、自分が涙を流していることに気付いた。それを俺は恥ずかしく思い、乱暴に拭って涙を止めたのを覚えている。
それが収まるまでには少し時間を要したが、何故か初対面の上級生は、俺の側から離れていかなかった。デカい人間が隣にいるせいか、冬の冷たい風も遮られて、先ほどまで感じていた寒さは随分と和らいでいた。
チラッと盗み見た上級生は、もう子供とは言えないほど精悍な顔つきをしていたが、雰囲気は驚くほど空虚だった。目にその姿を捕えていなければ、そこにいることを疑うほど静かで、これだけ図体がデカいのに空気のようで邪魔じゃなかった。
しばらくして痛みが落ち着いたと思い、起き上がろうとした動きで激痛が走った。腹を蹴られていたからそのせいだと思われた。
悶えている俺が落ち着くのをまって、アレクは着ていたコートを脱ぐと、俺を背負おうとした。
『何だよ! 放せよ!』
抵抗するが、アレクはビクともしなかった。二歳しか違わないのに、既に背丈も体格も成年にも劣らないアレクには、仔猫ほどの抵抗だったようだ。
アレクはやはり無言で俺を背負うと、俺の背を覆うようにコートを器用に羽織った。
アレクのコートは、俺をすっぽりと包んだ。
『アレクシス・エインズワースだ』
ポツリと名乗られて、一瞬何のことか分からず驚いて固まっていた。
しばらくしてから、俺の名前を聞いているのだと思い当たった。圧倒的に言葉が足りないと思った。だが、何故か不快な感じはしなかった。
『……セドリック・グレンフィル』
俺が名乗ると、アレクは無表情なのにどこか満足げに頷いた。
後にも先にも、あれほど奇妙な自己紹介は無かったな、と思い起こす。
それで俺を背負う男が、この学校で有名な辺境伯家の次男だと分かった。
学校一強いどころか、並みの騎士でさえ勝てないと評判の剣士で、寡黙だが何故かいつも周りに人が絶えないような人間だと聞いていた。
この全寮制の幼年学校は、王都に邸宅を持たない貴族や裕福な平民または、家門で問題のある子弟が入ることがほとんどだ。王都に邸宅があるような貴族は、十五歳で王立の学園に入るまでは、自宅で家庭教師を雇うことが一般的だからだ。だから、ここに入寮しているヤツは、大抵が王都に邸宅を持てないような裕福でない貴族の子供が多い。だが、エインズワース辺境伯家は建国功臣の古い家柄で、武門の最高峰であり、豊かな領地を持っていて王都にも上から数える方が早い程の大きな邸宅を持っていたはずだ。
そんな高貴な家柄の正当な血筋で、武門に相応しい実力も持っているのに、何故彼はこの学校に入っているのか。
彼の噂を聞いた時から、俺はずっと疑問に思っていた。
恐らく、俺と同じように一族から持て余されているのだろうと結論付けていたが、俺への態度や周りを惹きつける人柄を考えると、彼という人間自体に問題があるわけではないようだった。
一つだけ、彼は辺境伯家とは疎遠である、ということだけが、不穏な噂として耳に入った。
そのことで、アレクが一つの夢を諦めたということを。
ただ、擦れてしまった俺とは違い、アレクはそれを表に一切出さずに、傲慢になることも荒れることもなく、淡々と自分の状況を受け入れているようだった。
日常の一片に漏れてしまいそうな出来事だったが、それが長く俺の人生に影響を与えるとは、その時は思っていなかった。
その時はただ、アレクの背中とコートから受け取る温もりが、何故かとても体の芯まで温かくしてくれたことを、悪くないと感じていた。
その後は、何故か有名人のアレクは、何くれとなく俺を気に掛けるようになり、学年を超えて交友を深めると、周りの態度までも変わっていった。
十五歳でアレクが学校を修了する頃には、周りには俺を蔑む人間はいなくなっていた。
俺は、下町の家族だけいればいいと、当たり散らして周りと壁を作り、孤独になることで身を守るだけでは駄目なことを知った。アレクのように居るだけで周りに安心感を与えることは無理でも、人より幾分出来の良い頭と顔を生かし、敵を作らないように、軽薄だが気のいい人間を演じることが出来るようになった。すると、驚くほど生きやすくなって、自分だけでなく周りの人間を気遣えるようになり、人との付き合い方を学んだ。
アレクは卒業しても、度々俺を訪ねてきてくれて、外に連れ出してくれた。
アレク自身は何も語らないけれど、噂で彼が置かれた状況は知っていたが、自分だって挫折を繰り返し、決して恵まれた環境ではないのに、どこまでも面倒見のいいお人よしは、いつまで経っても変わらなかった。
学校の外での交流は続き、その時出会ったのが、当時騎士団に入ったばかりのイライアスだった。
少し真面目が過ぎるきらいがあったが、イライアスもアレクと同様、俺をグレンフィル家の厄介者とは見ずに、ただセドリックとして付き合ってくれた。俺が懐くまで時間はかからなかった。
年の違う友人たちは、ようやく探し当てた家族と同じく、俺の一生の財産となった。
そして、父の思惑で王立の学園に編入した際に、エドワード殿下と出会った。
最初は、王太子に取り入れという父の命令に背いて距離を置いていたが、ここでもやはりアレクとイライアスの伝で、エドワード殿下との縁が出来た。
エドワード殿下は、理想の王太子像をそのまま具現したような方だったが、その実、俺と似通った、非常に捻くれた人間であることが分かった。そのせいか、殿下とは何故か馬が合って、在学中には側近候補とまで言われるようになったが、俺たちはあくまで悪友という距離感を変えなかった。
それはグレンフィル家の利益にはならない線を越えず、殿下とは利用し利用される関係ながら、どこか心地良さを伴っていた。
いつか、グレンフィルのしがらみが消えた時には、本当にこの方について行きたいと望むほどに。
俺は、幼年学校に入る際に、グレンフィルとの「死の制約」を勝手に結ばされたが、家族やアレク達と結んだ絆は、古代の忌まわしい魔術の繋がりよりも、遥かに強いものだった。
それこそ、命を賭けても惜しくなかった。
魔術で縛ることでしか服従を得られない、希薄な人間関係しか築けないグレンフィル家の人間に比べれば、俺の人生は悪くないものだったんだと思えた。
回顧していた幼い日と同じ青いアレクの瞳が、自分に向けられているのを見て、自分が今、毒に冒されて命が消えようとしていることを思い出した。
全てを捨て去る覚悟をして、目を閉じたはずなのに、幼い日にアレクが暗闇から引き揚げてくれたように、今、俺の目の前に目映い光があった。
生を諦めた俺に、まだ夢を見させてくれる光だ。
ノア。俺はまだ、生きていてもいいのだろうか。俺の心の一部となった仲間たちと、まだ一緒にいてもいいのだろうか。
それならば、俺は生きていきたい。
生まれて初めて、心の底からそう願った。
気付けば、俺を縛っていた「死の制約」も、全身を蝕んでいた激痛を伴う毒も、全てから解放されていた。
やっと掴んだ、本当の自由だった。
倒れた俺を、アレクが受け止めてくれる。
初めて出会ったあの日、俺を背負ってくれたアレクの温もり、そのままに。
アレクやみんなのことが好きすぎなセドリックです。
本日は二話更新します。
もう一話もご覧ください。