幸福と絶望
夕暮れが涙に映る。音を立ててオレンジ色の世界が落ちた刹那、闇が僕の前に広がった。嗚呼、良かった、と僕は安堵する。僕にとってはあんまりにも世界は眩しすぎる。空の青さに疲れ果て、僕は闇へと意識を沈めた。
まぁ、よくある、つまらない、意味のない、無駄な、愚かな、ただの感傷。人が鼻で笑うような悩みなんだけど。そう。僕は、幸せになりたかった。なれなかった。
幸福という言葉の意味をついぞ知らぬまま大人の階段を上りきり、尚且つ人を笑顔にすることをとうの昔に諦めた男、つまり僕は、世間のほとんどの人と同じように、ただ生命を維持しているだけの日々を送っていた。生きることこそが最大の労働。わーかーほりっく。人間ってすばらしい。
そんなことを、ぼんやりと考えていた時のことだったと思う。突然、それは僕の前に飛び出した。
「よう!少年!あきらめるにはまだ早いんじゃねーの?」
もう長いことあってない弟によく似たそれは、僕の周囲を周り、僕の意識を惑わせる。
「幸せ、見つけにいこーぜ」
そいつは、僕の体を浮き上がらせた。
夢か、と僕は考えた。夢に違いない。だけど、僕はそれに逆らうことなく、流されていった。状況に流されることが得意だからなのか、あるいは自分が自分であることに既に限界を感じていたからなのか。理由は分からないけど、嫌な気分はしなかった。お手並み拝見、と言ったところだろう。
「1週間前」
そいつは僕の記憶を遡っていた。過去の自分を俯瞰している状態に戸惑いながらも、辺りを見渡す。覚えてる。そりゃそうだ。狭い部屋に机が1つと椅子が1つ、自分の家なのに小さく座ってるのは僕。もしゃもしゃとアイスを頬張っている。ソーダ味、口のなかで弾ける。
たかがアイスを食べることの何が幸せなんだよ、と僕は考えた。口には出さない。夢なんだから、もっと良いもの見せてくれたっていいのに。
「不満そうだな」
そいつは口角を限界まで上げた。その顔、悪巧みするときの弟にそっくりだ。
「んじゃー、もっと飛んで1年前!」
そこには海辺を歩く僕がいたーー
「だから何だよ!ただおじさんが散歩してるだけじゃねぇか!」
夢につっこんだって無駄だ落ち着け、と別の意識は説くものの、僕はたまらず口を挟む。くたびれたおじさんだった。子供の時、ああはなりたくないと思ってたおじさんそのもの。ずっと疲れた顔して、足元を見て歩を進める。1年前でこれなら今は、なんて。都合の悪いことには蓋をした。
つごうのわるいことはかんがえない。
むなしくなるからじぶんをだまし。
だましたことさえわすれてしまう。
おもしろいけどたのしくない。
そんな、じんせい。
僕は自嘲し、そうすることで自分の哀れさを減らそうとする。
「えーじゃーあー、いっそ子供まで!」
今度は。
僕は、弟といた。そこにいた僕を、僕は、全く覚えていなかった。頼まれた買い物を終えたのか、僕と弟はお釣りで買ったのであろうソーダ味のアイスを1つ、2人で分けあっていた。炎天下、青すぎる空なんかものともせず、笑い声を空へと打ち上げる。
「アイス、なんて……」
その状況をみたせいで、語尾が震える。
僕と弟は。
幸せそうに。
2人でアイスを分けあう。
1週間前の僕が食べていたアイスよりも格段に安いそれを、世界一美味しいものであるというように、ただひたすらに、頬張っていた。
視界が変わる。今度は、友人と海辺を歩く僕。下らないことでたのしそうに、面白そうに、僕は全力で生きていた。
すとん、と。音にするなら多分そう言う音。僕の心が、あるべきところに落ちていく。
そうだった。
幸せなんて。半分こしたアイスくらいで十分だ。
「今度は。忘れるんじゃねーぞ」
そいつは茶化すように笑って、僕の前から消滅した。言葉にできなかった。夢は終わった。僕は1も2もなく電話をとる。朝っぱらから迷惑だと思ったけれど、幸運にも相手はすぐに出た。
「もしもし?久しぶり。俺だよ。幸太。いや、ちょっと面白いことがあってさ………」
さっきまで聞いていた声と何ら違わないその声に、少し笑いそうになる。
僕は、久方ぶりに自然に笑った。
「今日、会えないか?」
朝焼けが涙に映る。音を立ててオレンジ色の世界が落ちた刹那。
ーーーー青が、僕の前に広がった。