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効率、時間を殺すもの  作者: 小財 朗
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歴史的な見地からみるインターネット問題


第一章


魔法によく似通った科学技術は危険であり、正しさ、効率は利益や利潤を絡めた場合、エゴイズム、人類規模的なエゴイズムに変化する。


朗はここまで携帯、ガラパゴス携帯で書いた文章であるが、こう叫んだ、「現在だ!!」


それプラス、魔族による構造変換、魔法の現実化、つまり人間の内側と外側が同時に魔族によって支配されており、これを打ち破らんとする各国の書店はひめやかに私に小説を書かせ、一点を変えさせることで全体の支配域を挽回させるという目算のため、無理を効かせて佐藤亜紀の「鏡の影」を熊本市内のある書店の書架に置いておくのであった。


佐藤亜紀先生との邂逅は17、8年前に遡る。


当時、私はインターネットでブログを書いており、『世界の中心でニュースに叫ぶ』というブログ名であり、ただし、このブログは現在はもう存在していないのだが、政治や社会の、主なテーマはそういう物だったのだが、地元の図書館で借りた「文学賞メッタ斬り」という本の中で紹介されていた、佐藤先生のHP「新大蟻食の生活と意見」にTrackbackをしたのだった。


Trackbackした記事のテーマはサミュエル・P・ハンチントンの「文明の衝突」に関する一私見を書いたものであった。


この時のTrackbackに関しては、後に2chで書き込まれるなどの影響が出た。


繰り返しになるが、現在はもう『世界の中心でニュースに叫ぶ』は存在していない。


情報とは生きたものであり、一旦縁が切れたと思っていても、時と場所を変えて復活することは必ずある。


ネットは玉石混淆、その雑多性が面白い。大事に大事に人間関係を保つ努力をすれば、何時か大魚となって返ってくる。


魚の目。生き生きとしているが陸揚げされると時間によって徐々に、力を失っていく。


魚は水の中で戯れて生きているからこそ、活力にとむ。


水は魚を外から包み、魚はそれを内側に取り込む。


水、海の力は偉大なり。


歴史とは、海と陸の対立であり、それは自然環境や文化面にある違いを噛み砕いて人々の生活に交流をもたらし、各々の国、海がない国にとっては、川だろうが、歴史を進める。


陸の代表的な国としてあげられるのがモンゴルである。モンゴルと言えば、馬と羊である。


日本と違い遊牧の民である。


元は、1234年金を滅ぼし、ヨーロッパに攻め入り、1241年ワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド軍を撃破した。そして、1279年南宗を崖山の戦いで滅ぼして、全中国を支配した。


しかし、元のモンゴル人を重く用い、中国古来の文化や風土を軽視するという統治は長く続かず、広大な、世界史上から見ても広大な領土を誇った元は、インフレにより交鈔と言う紙幣を乱発し、わずかな間、王朝のその命脈を保ったにすぎなかった。


そして、時代はヨーロッパでは大航海時代、中国では明王朝の時代を迎えることになる。


歴史、東西の海の交流、本格的な世界規模での交易の花開く時期となるのである。


インターネットはインターネットが出来ない人を「疎外」する。仮に14世紀が21世紀と歴史的に見て似かよっているとして、この後に日本に来るものは、さらに進んだ技術がもたらす、更なる「魔法社会」ではないだろうか、と朗は疑問に思う。


魚は水なしでは生きられない。同様にお金がなくては人は生きられない。お金がない人にとっては豊かな異国の魅力的な品など手の出るものなどではなかった。


歴史は弱者のために形作られるべきであり、その手段、方法が政治である。


政治を監視する、という目的に立つ手段が、投票という民意を示す形での「審判」である。


ほら、と朗は言う。「私でさえ、早稲田大学に二浪して入り、その後、訳あって一休したしがない作家の私でさえ、歴史からこれだけ知識を得ている」。歴史を学ぶことは歴史から何かを学ぶというより、周辺の学問、例えば、文学や政治学や社会学などと繋ぎ合わせて、歴史の問題を探り当てていくものであろう。


第2章


自然科学には、1つの問いに対して1つの解つまり複数の答えを出さない、公式、真理を重視する学問的追求の姿勢が見られるが、例えば、それが自然科学分野が及ばない分野、人文科学分野(文学、歴史学、語学)、社会科学分野(法律学、政治学、社会学)等の他分野に問題解決のフィードが及んだ場合、自然科学は自然科学の問題解決の姿勢を貫いて良いものか、答えは「否」である。例えば、文学は一語読み違えればその文学作品は全く別の読み物になることはよく知られているし、法律は学説、通説、判例と

いくつかの法律に対する判断がある。しかし、と裕太は思う。光は地球で(現時点で)一番速く進むということは疑いようもないことだろう。

ところが、文学部の時生などは、色々創意工夫をすれば様々な光より速い進み進み方を考案できるという。例えば跳躍航方。ワープなどで名高いこの方法、距離を平面上の2点で図るのではなくて、一点と任意に取るもう一点を直接結びつけることで、移動にかかる時間と距離を事実上ゼロにするというものである。裕太も、小説やテレビのNスペ等で知ってはいたが、仲間内でそういう詳しい噺が身近で出ると、うーんと唸ってしまうのであった。 科学が猛烈な勢いで進歩するのはそれはそれで素晴らしく頼りになることではある。しかし、何時の時代も革新的な技術の進歩は世の人の過剰な競争心をかきたてて、かえって不和や争いの元を生み深刻な社会の歪みを生むことが多かったということは歴史が証明している。第一次産業革命はイギリスに多大な富をもたらしたが、著しい貧富の格差を産み、貧しい者は貧しい者として劣悪な状況で働かなければならなかった。この状況は1802年の徒弟法の成立まで続いた。現代のワーキング・プアーの人たちとどこが違うだろうか?インターネットの興隆により、パソコンの技術習得が遅れたばかりに職にあぶれ、ろくすっぽな行政のセーフティネットもないまま、都市をさ迷う人たちがいる。弱い人達、確かな年収もない人達に暖かな支援を差しのべる必要がありはしないか。「手」は何かと触り、暖め合うために在るんだよ。全ての善意を彼らに探り当てていくべきであろう。


・・システムというものは日本では1960年代に出てきたもので、現在は魔族のシステムが世界を蔓延している。人々は台湾や中国などで、魔法を使い、他人を支配したがっている。勝手に魔法をかけている、自動的に本人の意思の働かないところで魔法をかけているというのが実状だろう。歴史は、二つの異なる種族、人類と魔族の戦いで、人類側が勝つ契機をどれくらい与えてくれるだろうか。作家が頑張って、真相を伝える努力を惜しまなければ、と朗は少し悲観的にならざるを得なかった。しかし、すでに魔族によるコントロールされた天候は天皇陛下と皇后陛下のパレードによって、乱れ、人々は魔族の存在に気付きつつある。そして、魔法社会は下火になりつつある。というか、下火になったり再出現したりしている。


一人一人の、世界の一人一人の「魔」に取り込まれないというのが気持ちの強い持ちようが必要になると朗は結論付け、階下から運んできた生協のインスタント・コーヒーを一口飲んだ。


第3章


話は前章に出ていた天皇陛下、皇后陛下のパレードの頃に経ち戻る。


朗はセブンイレブンの喫煙コーナーで、今日もタバコを吸っていた。灰皿スタンドが、何時もの位置より駐車場側に設置してあるコの字型の車止め、車止めは形が大きく腰掛けられるようになっている、に寄せられるように置かれている。みな、疲れているのだろうか、と朗は思った。セブンイレブンには既に「オズの魔法使い」のポスターは無く、気配から言ってもそういう雰囲気はない。

皇室の即位の式があった。少し、遅れて、台風19号の影響から延期されていたパレードがあった。パレードでは、出発の際に天皇陛下が車に乗り込む際、何かあったのだろう少し魔法を使われた。しかし、全体的に見て、パレードはつつがなく行われ、「祝儀」にふさわしい祭典だった。

皆疲れているのだろうか。そういう、つまり「魔の邪悪な気配」は表面上は消えている、というのが朗の実感なのであり、喫煙コーナーで、朗が感じているのは、消費税の増税で生活に疲れた疲労感である。案外、それも喫煙コーナー、御代志の灰皿スタンドをめぐる正しい姿なのかもしれない。

くたびれたありふれた日常が何を意味するのか、ひとつには厳しさを増しつつある社会の無気力、無関心、社会的弱者に対するそれらの悪意ある透明なバリアだろう。これらをバリアを張っているのは悪意ある第三者であり、一つには地球を侵略しようとする、地球にインターネットの蜘蛛の巣を通して、社会を「悪意ある停滞」の状態に持っていこうとしている球体状の宇宙人、高等数学宇宙人である。

本を読もう。とにかく、記憶に残る読書を。今や、デジタル界の雄、Macはすでに落ちた。株式という暗黒の魑魅魍魎とした世界とMacは手を結び、その理念的価値を零にしてしまった。戦いは不利である。数学に対するに数学を以て、では持たないことはもう事実が証明している。国語を、最も、言葉に近い「小説」を読むことで、敵に打ち勝とう!たおやかな柔らかな文学の世界で、敵にダメージを与えて、自らの意識も少しずつ、アナログの宝の詰まったアナログの世界にチェンジしていこう。チェンジ、チェンジ、チェンジと朗はつぶやく。



第4章


幻の巨大時計が阿蘇山中空に現れた。「敵だ!」と朗は思い、すぐに「モモ」を手にとって、時計の姿をした物に対して、本を胸の前に手を伸ばして持ってくると、「魔の時計よ、退けー!」と叫んだ。


燃える展開の末に姿を消す時計、敵を退けた朗は満足してマルボロを吸うのであった。


敵は恐ろしく強大であるほど、外見はそうでない。見かけに騙されていてはその本質を見損なうことが多い。気を付けよう。


魔の時計は「声」によると時間でもって人の行動をステレオタイブ化するという。


時計の下の人達はどんな生活を強いられているのだろうか。


ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる灰色の時間銀行員の持っている腕時計と似ているのだろうかと朗は思い、時間を効率のみで考える危うさ、それは現代の世界を覆いつつある市場原理主義

の危うさと同じなのだが、それに気づけるかどうかは極彩色の感性、豊かで下品でキッチュな気持ちを持てるかどうか、にかかっている。


個性が、個性が圧殺されようとしている。時間が一人一人が豊かに持っていた時間が均一化され、平準化されようとしている。


パソコンに哀惜を込めて、さよならを告げよう。


コンビニ、携帯文化に未来への力動への可能性への萌芽が見られる。


スーパーに置いてなく、コンビニ、少なくともセブンイレブンに置いてあるもの、それは「効率さ」とは無縁な募金箱である。


先ずは一円募金、小さな勇気から。






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