ちっとも凄くない寺生まれのKさん 『大晦日・大掃除』前編
――いつから一緒に居たのか、なんて覚えてない。
気づいたら隣に居て、何をするにも一緒で、時々それを疎ましく思ったこともある。
彼は小さな頃から何でもできて、私よりずっと大人で、だから親や周囲から比べられる事も多かった。
彼は努力を怠らないし、周囲に酷く気を遣うし、私も何かと世話を焼かれていた。
そんな彼を凄いと思って憧れる反面、比較されないよう距離を置きたかった。
私自身、彼と自分を比べて落ち込むこともあって、何とかそこから抜け出すよう努力した。
料理に手を出したのは、その一環だ。女の子らしいことなら、男の子である彼と区別してもらえるかと思って。
その考えは見事に当たって、私は彼に勝ったような気がして嬉しかった。
殆ど毎日彼の家に行って料理をしていたのは、彼の為なんかじゃない。負けっぱなしだった私が、彼に対して優越感を感じられるからだ。
そんな自分が死ぬほど嫌になったのは、中学二年生の時だった。
いつもの家の用事から帰ってきた彼は、神様に見捨てられたような顔をしていた。
飼い主に捨てられた子犬のような、信じていた人から裏切られたような、崖に突き落とされたような。
どう表現すればいいのか、私の貧相な頭じゃ分からないけど、とにかく辛そうだった。
その時、私は初めて気づいたのだ。
彼の辛そうな顔を見るのが、初めてではないことに。
ずっとずっと前から、彼は辛そうにしていた。
何でもできて大人っぽくて、何一つ躓くことなんてなさそうだった彼が、ずっと助けを求めていたことに気づけていたのに。
私は、ずっと彼のその顔を見ない振りをしてきたのだ。
いや、違う。正確には見えていたはずなのに見えていなかった。
目には映っていても、頭がそうだと認識していなかった。
だって、そんなことあるはずないから。
何でもできる彼が、私より辛いはずなんてないから。
そんな思い込みで、私はずっとずっと彼を見捨ててきたのだ。
初めて料理を作りに行った時の彼の顔を覚えている。
本当に嬉しそうで、今思えば酷い出来栄えの料理を美味しいと食べてくれた。
それは、私に気を遣ったのかもしれないけれど。
その時の彼が、今まで見たことなかった表情だったことに違いはなかった。
――最低だ、私って。
自己嫌悪が行き過ぎて、自分が酷く醜い怪物にしか思えなくなった。
それから、本当に彼の為に料理を作るようになった。
いや、これも嘘だ。結局は、私が罪悪感から逃れる為にしたことだ。
罪滅ぼしなんて言えたものじゃないけれど、少しでも彼が笑顔になってくれればと本格的に料理の勉強をした。
それ以外じゃ、彼に何もしてあげられそうになかったから。
酷い女だと思う。最初は優越感で、そのあとは罪悪感。結局自分のことしか考えてない。
いつも隣に居て、いつだって優しく気遣ってくれていたのに。
私はといえば、比較されるのが嫌で内心遠ざけた挙句、この有様だ。
辛くないはずがないのだ。十にも満たない子供の頃から遊ぶ時間もなく勉強して運動して気を回して、楽なはずがないのは誰だって分かる。
それなのに、一番一緒にいた私はそれを分かろうともしなかった。
だから、少しでも彼の為に何かがしたかった。
彼が煙草を吸うようになった時、それを否定しなかった。
経緯を考えれば、少しくらい何かに逃げたい気持ちは分かる。それが煙草だったのは、彼なりのせめてもの反抗なのかもしれない。
そう思えば、私に何を言う筋合いもなかった。
今でも、彼は私に何かと気を回してくれる。その事が嬉しい反面、少しだけ辛い。
ちくちくと、私の胸を突き刺す何かがある。
それはきっと、心の中にいる過去の自分を突き刺す私の針だ。
何かが分かったからって、新しい自分になるわけじゃない。
自分は過去からずっと繋がっていて、それが断ち切れるわけでもない。
だから、なんだろうか。
今の私は、自分の気持ちがよく分からないのだ。
はっきりと言葉に出来る彼女が、私――島原依歌には心底うらやましかった。
※ ※ ※
十二月三十日。大晦日の一日前。
大掃除も普段使う部屋以外は済ませてしまい、夕食も作り終えて自宅のお風呂に入る。
お風呂は、泊まるわけでもない限り仁の家では入らない。
仁の後に入るのも前に入るのも、変に意識して恥ずかしくなる。
気にしすぎだと言われればそうかもしれないが、それでも止むを得ない限りは入らないようにしていた。
だって、そうして変に意識すると胸の奥がちくちくと痛むのだ。
恥ずかしがる自分が何かとても悪いことをしているような気になって、針が刺さる。
理由なんて分からない。ただ、出来れば避けたいことには違いなかった。
今頃、仁もお風呂に入っているだろうか。
それとも、とっくに上がって鬼瓦さんが入っているのだろうか。
考えた瞬間、胸が締め付けられるように息苦しくなった。
怜さんがやってきてから数日。胸が苦しくなることが増えた気がする。
前もたまにあったそれは、昔のことを考えた時の症状だ。
かつて仁に見守られながら、見捨てていた自分。その事を考える時に感じる苦しみと同じものを、鬼瓦さんのことを考えると感じる。
正体はさっぱり分からない。でも、気持ちの良いものではないのは確かだ。
鬼瓦怜さん。突然現れた仁の許婚。
人形みたいに綺麗で、仁と同じくらい何でも出来て、仁の事を本気で想っている。
並んだらお似合いのカップル、に見えるとは思う。仁もそんなに顔は悪くないし、背もそこそこ高い方だし、鍛えてるだけあって体つきもいいし。
そんなことを考えると気分が沈んで、顔の下半分を湯船に埋めて溺れた振りをしてみる。
鬼瓦さんの想いは、昨日今日の代物なんかじゃない。だから、もう簡単には駄目だとか言えなくなってしまった。
零れそうな溜め息の代わりに息を吐いて、ぶくぶくと泡を立てる。
私は一体、何をしているのだろうか。
仁が誰と結婚しようがいいはずだ。
私が料理を作りに行っていたのは優越感と罪悪感の賜物であり、それ以上でも以下でもない。だから、鬼瓦さんが作るというのなら抗弁する理由もない。
そのはずなのだ。
鬼瓦さんと角を突き合わせて喧嘩してまで、作りに行く必要なんかないはずだ。
いや、やっぱりそれじゃ駄目だ。それじゃ、私がいつまでも苦しいままだ。ちゃんとこの罪悪感が消え去るまではやらないと。
結局は自分の事ばっかりか。
心の中で響く声に、息が詰まりそうになる。
鬼瓦さんは、自分の全てを仁に捧げると言った。だから、本当は嫌だろうに仁が言ったから私と交渉に応じて譲歩もした。
それに対して私はどうだ。
筋のない我が儘を喚き散らし、仁に強制までして立場を勝ち取った。
酷い話だ。どこが罪滅ぼしだ。むしろ罪を増やしているじゃないか。
それでも、あそこで引き下がったら二度と仁に近づけないような気がした。
一体私は何がしたいのか。
自分の気持ちが、自分でも良く分からない。
人が聞いたら色々言うのかもしれない。
恋とかなんとか、実際そういうのでクラスメイトからからかわれることも多い。
そうなのかな、と思うときもないではない。
けれど、別に常にドキドキしたりはしない。そういうのとはちょっと違う。むしろ、落ち着いてしまうことの方が多くて、私はそっちの方が好きだ。
これは、家族愛とかそういう類のような気もする。
そうでなくとも、過去の所業から目を背ける為に恋と錯覚するなんて良くある話だ。
下手をすると同情とか、捨てられた子犬を拾うような気持ちとか、将来の安定の為とか、手近で済まそうとしているとか、大好きなお菓子を奪われまいとする独占欲とか、そういった打算や哀れみの心なのかもしれない。
理屈だけで人は動かないというなら、感情だけでだって動かないはずだ。
彼は気がつくし、何でも出来る。努力を惜しまないし、浮気だってしないだろうし、決めたことや約束は守ってくれる。
都合の良い男だからと、私が思ってないと言い切れるだろうか。
今の私の立場は、他の子よりずっと彼に近いのは理解している。家族愛と似たものかもしれないが、彼なりに私を想ってくれているとは思う。
ただその想いが欲しくて錯覚しているわけではないと、どうしたら断言できるだろう?
既得権益を主張するようなものだ。みっともないことこの上ない。
もしも私が鬼瓦さんのように言えたのなら、きっとそんな全ては吹き飛ばせるのだろう。
けれど、私には無理だ。
私が一番、私を信じきれない。
散々見捨てておいて、都合がいいからと彼を利用しているかと思うと吐き気がする。
鬼瓦さんが心底羨ましい。
同じくらい、私もはっきり言葉にしてみたかった。
それでも、感情と理屈が絡まりあって、何も言えなくなるのだ。
お風呂は、のぼせる寸前であがった。
※ ※ ※
寺生まれだが、霊感などの『ソッチ』の力がまるでない俺――吉備綱仁。
隣の駐在所に住む幼馴染――島原依歌に世話を焼かれながら、なんとなくと惰性で生きてきた俺の前に許婚と名乗る女の子が突然現れた。
クリスマスに寺に来たその子の名は、鬼瓦怜。
親父の了承も得たという彼女に俺も依歌も何も言えず、一緒に暮らすことになった。
その出来事をきっかけに、俺達の関係は少しずつ変わっていく。
これは、俺達三人と、その周囲の人達を含めた町の物語。
なんてことはない、特別でもない日常。
世界を揺るがしたりなんか少しもしない、心が絡まるだけの出来事だ――
※ ※ ※
寺の大掃除は、実際本気でやろうと思ったら一日で終わるものじゃない。
大晦日になんて始めようものなら年が明けてしまう。
だから、クリスマスが終わってから少しずつ少しずつ片付けていくのだ。
まずは使っていない部屋から、次に蔵や押入れの中を全部表に出して掃除してしまう。離れはやらない。『ソッチ』の扱いはよくわからないから、手を出さないほうが賢い選択というものだろう。
特に大変なのが親父が書斎にしている部屋で、敷き詰められた本棚から本を全部出して虫干しして、本棚の埃を落として拭き掃除をする。本の量も凄いが、中には古くてページが解けているようなものもあり、虫干しする場所にも気を使うのだ。
そんなこんなで大晦日までにあらかた済ませて、普段使う部屋だけやってしまえばいい、という状況を作り上げる。大仏様も勿論大晦日だ。
そして迎えた十二月三十一日。
朝から手伝いに来てくれた依歌と一緒に、怜も含めた三人で残りの大掃除に手をつけた。
箪笥の引き出しを全部開けて中を取り出し、本当に何もかも掃除して回る。防虫剤を取り替えて、引き出しを天日干しにし、箪笥を動かして隅々まで拭いてしまう。
力仕事は、俺の仕事だ。
「仁、持ち上げて」
「あぁ」
「仁様、これはどちらに?」
「あぁ、机の上に置いておいてくれ」
慣れたもので、依歌も怜もてきぱきとこなしていく。
居間も同じく炬燵を隣の部屋に追いやって掃除だ。大仏様も拭いて一通り終わり、ついでに明日の準備をした頃には昼も過ぎて、炬燵を戻して昼食を摂る。
大掃除といえばアルバムを取り出して眺めていたら時間がなくなった、なんて話をよく聞くが、うちでそんなことをするのは親父くらいのものだ。
今年は親父がいないから実にスムーズに終わった。いつもだったら、大掃除だけして明日の準備は夕食の後に回しているのに。
あの親父は何かにつけてアルバムを見ては人を呼びつけて昔話を聞かせるから、本当に湯水のように時間が消えて困る。
俺も、年を食えば親父のようになるのだろうか。
どうだろうな、と思う。昔のことはあんまり思い出したくないし、懐かしむようなものもない。まだ若い身空で思い出話に耽るのも不健康というものだろう。
寺の掃除が終われば、次は依歌の家に行って手伝うのが毎年のことだ。
依歌の家でもある駐在所は、詰め所と家が一体となった構造をしている。
玄関とは別に詰め所の入り口があり、依歌の父親はそこに詰めているかパトロールに出ているかのどちらかだ。
公務員でありながら実質的に24時間勤務なのは大変を通り越しているんじゃないかと思うが、おじさんは会うといつも笑顔でそんなことを感じさせない。
親父より少し年上のおじさんは中々豪胆で、ヤクザの親分と酒を酌み交わして仲良くなってしまうような人だ。
まぁ、そのヤクザの親分が町内会長やってるこの町もどうかとは思うが。
おじさんは生まれも育ちもこの町で、思い入れが深いらしい。公務員なんだから転勤しないのか、と聞くと「転勤なんぞしたら娘に刺される」と言って笑っていた。
大人の世界でそれが通じるのかは不明だが、まぁ色々あるんだろう。
すぐ隣にあるのに、実は依歌の家に行くことはあまりない。
いつも依歌がうちにきてくれるから、というのはあるが、俺の方からも積極的に訪れることはなかった。
必要がないから、というのが主な理由ではあるが、他にもないではない。
そこを踏み越えれば、幼馴染ではなくなる気がしたからだ。
俺の方から依歌の家を必要もなく訪れる、というのは、新しい関係性を意味してしまうような気がしていた。
そこを踏み切る強い理由は俺にはなかったし、何より依歌が戸惑うだろうと思う。
依歌とは生まれた時からの幼馴染。それ以上を彼女もまた望んでいないように見えた。
相手が望まないのに、俺が望む理由もない。それに、実際依歌だって何の理由もなしにうちに来たりはしない。
守るべき一線が、そこにある気がしていた。
なので、大晦日の大掃除の為に訪れるこの時は、少しだけ特別だった。
詰め所を一瞥して依歌が玄関を開け、声をかける。
「お母さーん、ただいまー!」
「はいはーい!」
詰め所側の奥の方から声がして、おばさんが玄関に出てくる。
少しばかりふくよかだが、笑った顔は依歌とそっくりで気持ちが良い。
幼い頃から母のいない俺に、母親代わりに接してくれた優しい人。なんだかんだこの人にも頭が上がらず、俺は会釈して挨拶する。
「どうも、大掃除の手伝いに来ました」
「あら~! 毎年ありがとうねぇ。あ、それでそちらが噂の?」
おばさんが視線を横に向け、好奇心たっぷりと言った様子で怜を見やる。
玲は小さく微笑んで、深々と頭を下げた。
「初めまして、島原さんのお母様。先日より仁様の所でお世話になっております、許婚の鬼瓦怜と申します」
「あらあらまぁまぁ! どうもご丁寧に!」
怜に応じて深々と頭を下げ、興味津々と言った具合に俺と怜を見比べる。
そして、意地悪そうな笑みを浮かべて依歌を肘でつついた。
「あんた、ピンチじゃない? もっと積極的にいかないと!」
「うるさいなぁ! いいから、大掃除するよ!」
眉を寄せて身を捩り、依歌がずんずん奥へ進んでしまう。
本人はどうだかしらないが、傍で見ている分には暖かくていいやり取りだと思う。
俺達を置いて言ってしまう娘に目を細め、おばさんは口に手を当ててこちらを振り向く。
「ごめんなさいねぇ、あの子ったら。とりあえずいつも通り、あの子の部屋からお願いしてもいいかしら?」
「はい。終わったらダイニングでいいんですよね?」
「えぇ、そう。いつも通り。ほんと、仁君がいてくれると助かるわぁ」
「普段助けてもらっていますから、ほんの恩返しです」
「そんなこといいのよぉ! 好きでやってるんだから!」
嬉しそうに笑うおばさんに笑い返して、依歌の後を追って階段に向かう。
二階に上がったところで、ようやく追いついた。
「お母さんと何話してたの?」
「いつも通りだって」
「他も何か話してたでしょ」
「怒りっぽい娘でごめんなさいって」
「怒りっぽくない!」
頬を膨らませて威嚇してくる様はどうみても怒りっぽいと思うが、それは言わないことにする。
「さっさと始めよう。日が暮れる」
「そうやってまた話題を逸らす!」
「逸らしてない。こうしてるとまたおばさんにからかわれるぞ」
納得してくれたのか、依歌はやや不満そうにしながらも部屋を開けた。
依歌の部屋に入るのは、大掃除の時を除けば一年に一度あるかないかだ。特段用事もないし、勉強会なら居間でできるから当然と言えば当然だが。
十畳程の広さに、少し大きめのベッド。フローリングの床に壁にはどこかのバンドのポスター。本棚には漫画が並び、机には教科書やノート。うちの寺とはある意味別世界で、最初見た時は女の子の部屋とはどこもこうなのだろうかと思った。
クローゼットなんて最初は開け方が分からなかった。収納ボックスなんて見たことがなく、何が入っているのか聞いたら赤くなった依歌に殴られたことを覚えている。
普段あるクッションとかはなく、クローゼットも開かれている。準備は万端、後はベッドや机などを動かしながら掃除するだけだ。
「それじゃ、いつも通りでいいか?」
「うん。動かすものは全部右の部屋ね。左の部屋は――」
「――絶対見ない、分かってる」
念を押す依歌に頷いて、大掃除を始める。
二階には空き部屋が二部屋ほどあって、うち片方にはクローゼットの中身が置かれている。そっちは、男子立ち入り禁止だ。
勝手の分からぬ怜に手解きしながら、ベッドのマットなど重いものを片付け始めた。
見られたくないもので詰まった左の部屋を見たことは、本当に一度もない。
それも、俺達の距離感を守る為に大事なものだと分かっていた。
※ ※ ※
依歌の部屋の掃除を終え、階下に下りておばさんの手伝いに回る。
毎年の事ながら大掃除の間はおじさんは巡回に出ていて、家にはいない。おばさんが「邪魔だから」と追い出しているという話だが、本当かどうかは俺も知らない。
聞いてみたい気もするが、本当にしろ嘘にしろ、二人とも笑うだけだろう。
こういう時、少しだけ依歌が羨ましくなる。母と親父も、こんな感じだったのだろうか。母を知るおじさんやおばさんは、大層仲が良かったとあれこれ教えてくれる。
話を聞く度に安堵して嬉しくなると共に、本の中の物語みたいな現実感の無さが押し寄せてくる。
写真やビデオで母の声も姿も知っているし、なんとなく母親なんだという感覚もある。けれど、物心ついた頃に亡くなった母を俺は覚えてはいない。
母の話は、どこか俺一人だけ疎外されているような、自分が酷く薄情であるような、そんな風に思ってしまうこともある。
だから、俺はいつしか母の話を聞かなくなった。どうせ大晦日になるとアルバムを引っ張り出しては親父が語りだすのだ。わざわざ俺から聞く必要もない。
今年はそれがないのが、少し寂しかった。
おばさんの指示を受けながら掃除していると、電話の置いてある台の前で怜が立ち止まっているのが見えた。
「どうかしたか?」
「あ、仁様。いえ、すみません」
怜は頭を下げて、台の上に視線を残しながらその場から立ち去ろうとする。
視線の先を探れば、一枚の写真立てがあった。
飾ってあるのは、小学四年生くらいの俺が涙目の依歌を背負っている写真。
思い出した。そういえば、遠足の時に依歌がこけて怪我をしたのだ。迎えに来てもらおうとする先生に、皆と一緒に学校まで帰ると泣き喚いて、そういうことならと俺が負ぶって学校まで連れて行った。
迎えに来たおばさんは笑って、自分の娘が泣きそうになっているのも構わず写真を撮った。その時のものだ。
料理を作りに来てくれるようになったのは、確かそのお礼とかだったと思う。
「小4くらいの俺と依歌だな。何か気になるか?」
去ろうとする怜の背中に声をかける。
玲は、こちらから聞かない限り自分のことは何も言おうとしない。何か思うところがあっても口を閉ざし、何でもないように振舞おうとする。
生まれ育った環境を思えば仕方ないことだ。少しお節介でも聞いておかないと、風船が破裂するように限界が来る。
依歌からすれば俺もそうだと言われそうだが、俺は言うべきことは言っている。
言わないのは、本当に言うことがないからだ。
もしかしたら怜もそうかもしれないが、それなら何もないと言うだろう。
「……お二人は、本当に小さい頃からご一緒だったのですね」
「あぁ、まぁ。赤ん坊の俺を連れて、生まれたばかりの依歌に会いに行ったらしいからな」
同じ病院で生まれ、同じ町で育った。
物心ついた時には隣に居るのが当たり前になっていたから、もう家族といって差し支えないだろう。
振り向いた怜は、頭を垂れた花のように寂しげに微笑んだ。
「島原さんが羨ましいな、と。そう思っただけです」
「…………そっか」
それ以外、何を言えばいいかも分からない。
怜は目礼だけして、次の指示を聞きにおばさんの所に向かった。
小さく溜め息をついて、手に持った雑巾を握り締める。
時間は巻き戻らない。どんなに羨んでも、過去は変わらない。
母は蘇ったりしないし、怜が幼馴染になることもない。
それでも、夢想に耽ってしまうのが人の性とでも言うのだろうか。
無駄だからと考えなくて済むのなら、それほど楽なこともないというのに。
煙草が吸いたい。
なんとなく動けずにいると、上の片づけを終わらせた依歌と鉢合わせてしまった。
「仁、何サボってるの?」
「……いや、お前が羨ましいなと」
「は? なにそれ?」
「悪い、忘れてくれ」
「ちょっと、どういうことか説明してよ」
不服そうに絡んでくる依歌に、どう話したものか暫し考える。
確かに、このままだと納得いかないだろう。だが、
「すまんが、説明が難しい」
「も~! またそうやって話を逸らす~」
話を逸らしているつもりはないが、上手く言えないのも事実だ。
依歌からの抗議を甘んじて受け止め、馬車馬のように働く。
結局はないものねだりだ。相手を羨ましく思えば、相手だってこちらを羨ましく思っているのかもしれない。
だから、一方的に気持ちをぶつけるのはアンフェアだ。恨むなんて以ての外で、他人の気持ちを何も考えないやつのすることだ。
そう思っているのに口から毀れたのは、少しだけ依歌に甘えたかったのかもしれない。
高校生にもなって恥ずかしい。我が事ながら情けなくなる。
なるべく依歌の方を見ないようにしながら、大掃除を終わらせた。
煙草は、大掃除が終わってからゆっくりと吸った。
年明けに後編出します




