第9話「10番は、いるか」
マネージャー初仕事&ライバル登場
交差点を右に曲がると、本河津高校への一本道が続く。歩いて七、八分の距離。片側一車線、歩道付き。自転車専用道はまだない。
スマホを取り出す。午前八時十五分。
練習開始は九時からだから少し早いかな、と思ったけれど、中途半端な時間をつぶすアテがなくて家を出てしまった。
今日は朝から日差しが強く、冬の制服ではもう暑い。予報では、今日から一週間は梅雨前の最後の晴れ間で、少し蒸し暑くなるらしい。
スマホをバッグにしまい、少しだけ早足になる。私の前に、スポーツバッグを左肩にかつぎ、天を仰いであくびをしている黒いジャージの少年がゆっくりと歩いている。
「おはよ」
追いついて、私は声をかける。少年は立ち止まり、口を手でおさえながら振り向いた。
「おす。早いな」
「藤谷も」
「俺はいつもこんなもんだ」
藤谷が眠そうな目で無愛想に答える。その愛想の無さも、いつもこんなもんだけど。
私は藤谷の隣に立ち、学校に向かって再び歩き出した。
昨日、晩ご飯の時にサッカー部のマネージャーになることを家族に報告した。
母は笑顔で「しっかりやんなさい」と一言。妹は「元カレとヨリが戻った感じ?」と冷やかしてきたので、後頭部を一発はたいておいた。
姉に送った報告メールは、返事がまだ無い。マチュピチュの電波事情には詳しくないけど、多分届いていないのだと思う。その後、同じく報告メールを送った兄からの返事は、
件名:リハビリが絶好調すぎて怖い兄より
『そうか。がんばれ。部員たちに優しく、厳しく、愛情を注いでやれば、みんなはプレーで応えてくれるよ。』
というあっさりしたものだった。うーん。十六才の自分に、同級生や後輩たちに愛情なんて注げるのだろうか。そもそも愛情って何だろう。
考えれば考えるほどわからなくなり、約束の夜八時になって藤谷に電話した。
2コールで出た藤谷にいきなり「愛情って何?」と聞いてしまったのは今思えば失敗だったと思う。それでも彼はしばらく絶句した後、
「相手を大事に思う気持ちとかそんな感じのことだと思うけど、主語を省かないでくれ」
と真面目に答えてくれた。今会った反応を見る限り、特に気にしてはいないみたいだ。良かった。
「マネージャーの仕事って、昨日電話で言ってたドリンクの用意とか、タオルの管理とか、練習着の洗濯とか、練習メニューの進行くらいで本当にいいの?」
私はしばらく続いた沈黙を破るように聞いた。
「他に思いつくのは、全員参加の練習の時の球拾いとか、滅多にないけど練習試合で他校を迎える側になった時の来客対応とか、そんなのもある」
「えー、結構大変」
球拾い、と聞いて昨日のミニゲームで一年の伊崎君が文句を言いながらボールを追いかけていた光景を思い出す。ハードだ。来客対応も、愛想笑いが苦手な自分には想像しただけでつらい。
「大雑把に言うと、選手が練習のみに集中できるように、その他の細かい仕事を一手に引き受ける何でも屋さんだな」
「今まではマネージャーいなかったんでしょ。どうしてたの?」
私が聞くと、
「去年は俺ら一年が分担して色々やってたな。だから、ここからここまでがマネージャーの仕事ってのは、はっきり決めてないんだ。色々やりながら広瀬が勝手に線引きしてくれよ」
ちょっとめんどくさそうに藤谷は答えた。
「何、その丸投げ」
私はその態度に抗議する。反省の色は見えない。
それから、去年までのサッカー部の状況や部員たちの特徴を色々と聞いて、戦力はギリギリであること、新しい顧問はまだ決まっていないこと、そしてこれは言わなかったけれど、藤谷が本当にみんなのことをよく見ているなということに私は気づいた。
「とりあえず、みんなの顔と名前は一致するようにしてくれ」
という具体的な注文が藤谷の口から出た時、私の今日の目標が決まった。
いつのまにか私たちは校門に着いていた。一本道を振り返る。こんなに短かったっけ、この道。
校門で一旦藤谷と別れ、私は第一体育館内の女子更衣室に向かった。
この更衣室はかなり広いスペースを使っていて、部に関わらず多数の女子が利用できる。運動部の女子がいちいち校舎まで戻らなくてもいいように近年作られたものらしい。体育の授業で何度か使ったことがあるとはいえ、入学以来運動部とは無縁の生活を送っていた身には、入るのに少々勇気が必要だ。私は一度大きく呼吸して更衣室の引き戸に手をかけた。
「あの、もしかして広瀬夏希さん?二年の」
背後から声をかけられ、私はビクッと振り返る。そこには、可愛らしいピンクのジャージを来たショートカットの女子生徒が立っていた。私より背は低いのに、凛とした立ち姿が実際以上に彼女を大きく見せている。言葉遣いと、二年の、という言い方から三年生と判断して私は答えた。
「はい、そうですけど……何か?」
「あー、ごめんごめん。私の方が勝手に知ってるだけだから、いきなりびっくりさせちゃったね。私、三年A組の志田玲子。野球部のマネージャーやってるの」
「あ、野球部の」
そうか。当たり前だけど、他の運動部には女子マネージャーがすでにいるんだ。
「うちの部の男子たちがさ、二年に広瀬夏希っていうすごい綺麗な子がいるって言ってたから、一度見に行ったことがあるんだけど、いやー間近で見ると本当に顔ちっちゃくて可愛いねー。芸能人みたい」
「はあ、どうも」
いつも思うのだけれど、こんな風に外見を褒められた時はどんな反応が正解なんだろう。いまだに分からない。
「で、何してんの?」
志田さんがコロッと話題を変えた。展開の早い人だな。しかも早口だし。
「私、今日からサッカー部のマネージャーやるんです。だから、着替えに来ました」
「え、サッカー部?本当に?へー」
丸い目をさらに大きく開けて、志田さんは心底驚いたようにたたみかけた。
「あ、ごめんね。引き止めちゃって。びっくりさせたお詫びに、ここの使い方ガイドさせて」
「はい。えっと、助かります」
私はホッとして、スタスタ歩いて行く志田さんの後についていく。
「そっちのA列は、ロッカーが古くて閉まりにくいのがいくつかあるから、早く来た時は使わない方がいいよ。D列から向こうがオススメかな。窓はちっちゃい天窓があるだけだから、のぞきの心配は無いと思うけど、ガッツのある変態がいるかもしれないからね。用心のために天窓から死角になるG列あたりが無難」
「そ、そうなんですか」
ガッツのある変態。そんな人相手にどうやって用心するんだろう。
「私自分のタオル取りにきただけだから、出口で待ってるね」
「はい」
別に待ってくれなくてもいいんだけど、何だろう。
私はG列のロッカーを選んで、半袖の白い体操服と紺のハーフパンツに着替える。学校指定の全く可愛く無いデザインだけれど、自分のジャージが無いから仕方ない。でも志田さんのピンクのジャージはすごく可愛かった。あれ、いくらくらいするんだろう。
「着替えたー?施錠だけはしっかりね」
「あ、はい」
私はタオルと水筒と、そして昨日帰りに寄り道して買った品を取り出してロッカーを施錠した。慌てて出口へ急ぐ。
「すいません。お待たせしました」
引き戸を開けると、志田さんがタオルを手に待っていた。
「あ、ううん。全然、それはいいんだけど……」
なぜか志田さんの顔が曇る。
「どうかしました?」
「……どんなに可愛いジャージを選んで買っても、体操服の広瀬さんの方が可愛くてスタイルの良さが目立つって、世の中は非情よね」
手にしたタオルを自分の首に巻き、左右から引っ張る真似をしている。どうしよう、完全にいじけている。
「え、えっと、そのジャージ、すごく可愛いですけど、部活の時って学校指定のじゃなくてもいいんですか?」
話を振ってみる。志田さんはパッと明るい顔に戻った。本当に忙しい人だ。
「ありがとー。これ、先月買ったお気に入りなの。校則には、部活時は学校指定のものが望ましいって書いてあるけど、望ましいは禁止じゃなくて感想だからね。みんなで好きなの着てたら、なし崩し的にOKになった感じかな」
なるほど。私も今度の休みに新しいジャージを買いに行こう。
「広瀬さん。ジャージを褒めてくれたお礼に、マネージャーの心得を教えてあげる」
志田さんが言った。
「テレビで、大家族スペシャルって見たことある?」
「え?あの、はい、ありますけど」
母が好きで毎回見ている。最近は家族の話より、強烈な夫婦ゲンカの方が話題になっているけど。
「あの大家族のお母さんの仕事、あれがマネージャーの基本ね」
「そんなにですか?」
あれが基本?
「そう、基本。で、あの家族の男の子たちだけ3倍に増やして、素直さと可愛げを取り除いた感じかな」
「……ちょっと、自信なくなってきました」
私に務まるだろうか。しかも、みんなに愛情を注いで。
志田さんはそんな私を見て楽しそうに笑い、
「ごめんね、ちょっと大げさに言ったかも。でもそれくらいに思ってれば大抵のことはやり過ごせるでしょ?それにね」
と真面目な顔になって続けた。
「試合に勝った時、それまでの苦労が全部報われた気持ちになって、本当に嬉しいから。それがあるからがんばれるんだよ」
「そう、なんですか」
試合に勝つなんて、サッカー部はいつの話になるんだろう。試合が成立するかどうかさえ、今は怪しいのに。
あいさつを交わして体育館から去っていく志田さんを、私は思わず呼び止めた。
「志田さん!」
「何?」
「えっ……と、ありがとう、ございました。私、本当に初めて尽くしで、相談できる女の子もいなかったから、その……」
かあっと耳が熱くなる。こんな時、自分の愛想の無さと口下手が恨めしい。
志田さんは、さっきまでとは違うとても優しい笑みを浮かべている。その光景はどこか懐かしく、小学生の時、いつも一緒にボールを追いかけていた女の子を不意に思い出してしまった。
「まったく、元が綺麗な上にそんな可愛い顔されたら女の私でも萌え死にしちゃうでしょうに。気にしないで。困ったことがあったら、何でも相談して。野球部とサッカー部は伝統的に仲悪いけど、息子たちがじゃれあってる時、母親同士で雑談くらいはするもんでしょ」
ため息混じりに言って、笑った。
そして最後に、とても重要なアドバイスを私に残して志田さんは野球部の練習場へ走って行った。
「マネージャー続けてるとね、周りからおばんくさくなったって言われるから、気をつけてね」
ならない。私は絶対におばんくさくなんて、ならない。
練習場に着くと、藤谷が一人でボールを蹴っていた。ゴールを見ると、右下、左下のスミにボールが置いてある。
こんな風に、正面からゴールに向かうのは、十二才の秋以来かな。なぜか、ゴールがとても遠くに見える。
あの頃は、自分が世界の中心だった。グラウンドでも、学校でも、家でも。
私は左足のつま先で、地面をトントンと二度蹴った。
ボールを蹴る衝撃音に、ふっと我に返る。
藤谷は二十メートルほど離れた位置から低めのフリーキックを蹴っていた。2バウンドして、ボールは右スミに置いてあったボールにぶつかる。もう一つボールをセットする。再び同じ位置から放たれたフリーキックが、左スミのボールにやはり2バウンドして当たった。
「おー」
私が小さく拍手すると、藤谷が振り返った。
「お、来たな、マネージャー」
「うん、来たよ、キャプテン」
私が言うと、藤谷は一瞬困ったような顔をした。
「広瀬にキャプテンて呼ばれるのは、何か落ち着かないな」
「私も、マネージャーって呼ばれるの、変な感じ」
二人で笑い合った。藤谷と、こんな風に笑うのは初めてかもしれない。言えるかも。今なら。
「あのさ、藤谷」
「ん?」
藤谷はいつもの仏頂面に戻ってこちらを向いた。
「私ね、前に、その」
「うん。前に?」
サッカー、やってたって。ただそれだけ言えば、済む話なのに。
だけど、私の胸からは、喉からは、言葉が詰まったように出てこない。もし、言ってしまったら。
私が口ごもったままでいると、部室から部員たちがガヤガヤと出てきてしまった。
「あーっ!藤谷先輩、自分だけ広瀬先輩としゃべっててずるい!」
伊崎君が大声を出して走ってくる。
「話、後でいいか?」
藤谷は言った。その目は、強く聞き出そうとするでもなく、無関心なわけでもなく、ただ優しく相手に任せているようで。
「うん」
私は少しだけ、彼を恨んだ。
九時。時間ギリギリになってやっと冬馬がやってきて、部員十四人全員が揃った。
今になって急に、
「新しく入った人はあいさつしろ」
と藤谷が言い出して、金原君、梶野君、国分君、狩井君、私の五人がみんなの前に立つことになった。藤谷め、自分がやらされたら絶対嫌がるくせに。
四人があいさつを済ませ、最後は私の番。みんなの視線が集まる。早く終わらせよう。
「えっと、今日からマネージャーをすることになりました。二年の広瀬夏希です。初めてで分からないことばかりですが、がんばります」
ペコッと頭を下げて、そそくさと下がる。恥ずかしい。藤谷、後で絶対仕返しする。
私が下がったあと、なぜか部員たちの間に地鳴りのような「おお~っ」という声が響き、拍手が続く。何がおおーなんだか。
それから藤谷が、また声が小さいと野次られながら、今日は運動能力のデータを取る、と発表した。
短距離走、長距離走、ジャンプ力などのデータを全員分取って個々の強化ポイントをしぼり、二週間後にまた計測するらしい。タイム計測と記録も私の仕事。
そして記念すべき私の初仕事は、みんながストレッチをしている間に、プラスチックのタンク二つに水を汲んできて、粉ポカリでドリンクを作る作業に決まった。
「ねえ、藤谷。どこで水汲んでくるの?」
私が聞くと、藤谷は柔軟体操をしながら、
「あそこ」
とはるかかなたの水飲み場を指差した。
「冗談でしょ」
「俺はいつでも真面目だ」
タンク一つには軽く十リットルは入る。あれを二つ満杯にして、両手に下げてあんなところからここまで歩いて来いというのか。
「鬼」
「しょうがないだろ、入学した時からここが練習場だったんだから。俺のせいじゃない」
「せめて手伝い一人ちょうだい」
私が食い下がると藤谷は部員を見回して、
「島ー!」
と一人の名前を呼んだ。呼ばれて歩いてきたのは、背が私より二十センチは高い、大柄で筋肉質な男。昨日のミニゲームで藤谷にヘディングを決められていたキーパーの人だ。
まるで軍人のような雰囲気で、顔もいかつい。後で聞いたところによると、茂谷君と同じC組らしい。
「悪いけどさ、広瀬が水汲みに行くから手伝ってくれよ」
島君はいかつい表情を変えることなく、
「分かった」
と、よく響く低音の声で言ってタンクを一つ手に取って歩き出した。大股で、早い。
「ちょっと待って」
私もタンクも持ち、島君を慌てて追いかけた。
島君は極端に無口な人で、結局水飲み場に着くまで一言も口を開かなかった。最初は雑用を押し付けられて怒っているのかと思ったけれど、そういう雰囲気でもなく、本当にただ無口なだけなんだととりあえず結論した。
タンクに水を溜めている間も会話は無く、何となく根負けした形で私は口を開いた。
「普通さ、こういう仕事って一年が手伝うものじゃないの?」
タンクに水が溜まるのを見つめていた島君が、顔を上げる。
「藤谷は、そういう発想を嫌う。一年はたくさん練習して伸びる時期なのに、雑用に使うのはおかしいと。一年の時から言っていた」
「あー、言いそう」
私はうんうんとうなずく。あのヘソマガリが言いそうなことだ。きっとそれで、監督や先輩とケンカしたんだろうな。
「それでも藤谷は、文句を言わずに雑用をやっていた」
「へえ、意外」
「自分が上級生になったら、絶対後輩にそんなことはさせない、と。それでよく、菊地や芦尾と口論していた」
菊地君、はあの長髪の人で、芦尾君はちょっとぽっちゃりした人。よし、一致してる。
「菊地君や芦尾君は、後輩を使えっていう方?」
「自分たちだけ使われて、上級生になって使う立場になれないのはおかしいと言っていた」
確かに。それが、日本の体育会系の人たちの本音なんだろうな、と私も思う。今まで帰宅部だった私が言えることじゃないけれど。
「島君は、どっち派?」
「俺は、藤谷について行くと決めている」
驚くほどはっきりと、島君は言い切った。
「どうして?」
「藤谷は、普段はぼんやりしているし、見かけも頼りない。でも」
島君は練習場の方に顔を向けた。
「必ず、言ったことは守る男だ」
私も練習場の方を見る。みんながストレッチやウォーミングアップをしている中、一人だけトリッキーなリフティングに興じている選手がいた。
「秋の県大会優勝するって、言ってたけど」
「言っていた」
島君は手元に向き直り、そしてじっと私の方を見た。
「広瀬さん。とても言いにくいことなんだが」
「な、何?」
じっと見つめられ、一歩後ずさる。何か怒らせたかな。
「水が、あふれている」
私のタンクの口から、ゴボゴボと音を立てて水が流れ出ていた。
「そういうことは前置き無しで言って!」
私と島君が水で満たされたタンクを運んできた時、ちょうどウォーミングアップが終わっていた。ちなみに島君に、二つとも持ってくれる気はないかと聞いたら、
「両方取ってしまうと、マネージャーの手伝いというキャプテンの指示から外れる」
との理由で一つしか持ってくれなかった。十リットルのダメージで、すでに右腕に力が入らない。これも全部藤谷のせいだ。
その藤谷は、一年のおとなしそうな子とボールの取り合いをしている。確か、藤谷が黒須君と呼んでいたっけ。黒須には自分にはない守備の粘り強さやロングパスによる展開力がある、と今朝嬉しそうに話していた。目をかけている後輩なんだろうな、と思うと何だか微笑ましい。あの気難しい変人にも可愛い後輩がいたんだ。
粉ポカリをタンクに混ぜ込みグラグラ揺すっていると、一年で一番騒がしい伊崎君がやってきた。後ろに、これと言って特徴の無い子、顔が険しい子、顔色が悪い子も続いている。うーん、まだ一致しないな。
「ひ、広瀬先輩!お願いがあります!」
伊崎君が真剣な表情で迫ってきた。
「何?」
藤谷と黒須君も、何事かとこちらを見ている。
「このテストのどの種目でも、一位になったら、何かご褒美をください!お願いします!」
ものすごい勢いで頭を下げる。
「がいっしゃー!」
後に続いた三人も同じように礼をする。
「いきなりご褒美って言われても、困る」
「何でもいいんです、何でも」
考える。直接のスキンシップは避けたい。初日からあんまり甘やかしてそれが普通になっても困るし。
「じゃあ…デコピンしてあげる」
四人が固まる。ちょっと冷たすぎたかな。
「マ…マジですか!?最高のごちそうじゃないですか!約束ですよ!おい、みんな、ぜってー一位取るぞ!」
「ぬーい!」
謎の掛け声を上げて、一年生四人はダッシュしていった。デコピンされて喜ぶ心理はわからないけれど、やる気になってくれるんならいいかな。
「何だ、あいつら」
藤谷が一年生の去った後を見て言った。
「能力テストで一位取ったら、ご褒美ほしいんだって。藤谷も欲しい?」
「ご褒美の内容による」
「デコピン」
「それ罰ゲームじゃないか。どこがご褒美だ」
「伊崎君たちは喜んでた」
「あいつらがおかしいんだ!とにかく俺は遠慮する」
顔をしかめて藤谷はテストの準備に戻っていった。心配しなくても、藤谷が身体能力で一位になれるとは思わないけれど。
テストは凝り性の藤谷のせいで種目が多岐に渡り、しかも段取りの悪さと声の小ささで進行は停滞していた。
ただベンチに座っていた私は、昨日の帰りにスポーツショップで買った新アイテム、マイホイッスルを取り出し、藤谷に言った。
「メニュー表と、ファイル貸して。私が進行する」
「おお、頼む」
「私はマネージャーなんだから、ちゃんと使ってよね」
まったく、何のために勧誘したのか。
「広瀬。そのホイッスル、新しいのか」
藤谷が気づいてくれた。
「うん。昨日の帰りに買った」
プラスチック製の、赤いホイッスル。千五百円と結構な値段したことは内緒だ。
「そっか。確かに備品は衛生的にきついな。気が付かなかった」
険しい顔になる。自分を責めだす気配がする。
「いいって。私が好きで買ったんだから。最初は何から?」
「三十メートル走」
細かい。
その後は、マイホイッスルの音色も好調だったせいか、テストは段取り良く進んだ。あまり話したことのなかった部員たちとも話し、顔と名前は今はもうほぼ一致している。
もしかして、と私は思った。
藤谷は、私に部員一人一人の特徴が分かるように、今日を能力テストにしたのかな。でも本人に聞いても、きっと「偶然だ」としか言わないだろうし。考え過ぎかな。でもこのままだと、スッキリしない。
お昼を挟んで、テストの全種目が終了した。
ラストを持久走にしたせいで、みんな疲れきった顔をしている。なぜか発案者の藤谷がひっくり返って動かないでいる。タイムを見ると、持久走はビリだった。前の監督の時、スタメンで使われなかった理由はこれが原因じゃないかとさえ思う。
「広瀬先輩!」
伊崎君が嬉しそうに走ってきた。ご褒美がほしいと言ってきただけあって、三十メートルという超短距離走で彼は見事に一位になっていた。ちなみに五十メートル走は意外にも藤谷が一位になり、僅差で敗れた菊地くんの悔しがりようはすさまじいものだった。
「約束ですよ、ご褒美ください!」
後ろで照井君、狩井君、国分君がうらやましそうに伊崎君をにらんでいる。彼らは惜しくも一位を逃していた。
「分かったから、近い」
私は伊崎君を少し遠ざけ、おでこを軽く中指で弾いた。
「ふおおおおーっ!」
両手でガッツポーズして、練習場を走りだす。持久走が終わったばかりなのに、元気な子だ。
私は地面にあおむけに寝転がって胸を上下している部員に近づいた。
「藤谷、大丈夫?」
藤谷はむくりと起き上がった。
「マラソンは……む、昔、から……ハア、ハア、苦手、なんだ」
「説明しなくても、見れば分かる。それより、五十メートル走一位のご褒美、あげる」
私は右手をデコピンの形にする。
「え、遠慮すると、言ったはずだ」
「却下します。はい、覚悟きめて」
「理不尽だ!」
抗議する藤谷を無視して、私はペチンと藤谷の額を弾いた。
「オウフッ!」
藤谷が大げさにのけぞる。額をさすりながら、
「広瀬、指が長いから、しなって痛い」
と愚痴った。
「ありがとね、キャプテン」
「は?」
聞き返す藤谷の顔は見ないで、私はくるりと背を向ける。スッキリした。
休憩中、菊地君がスマホを見て言った。
「そういやさ、今日準決勝じゃね?インハイ予選」
時間はすでに四時近く。午後からの試合も終わっている頃だ。
「どうせ春瀬と桜律の決勝でしょ」
芦尾君が応える。
「あ、春瀬勝ってる。4-0だって。やっぱつえーわ」
菊地君が検索結果を伝えた。
「桜律は?」
藤谷も聞いてきた。
「ちょっと待て。えー、桜律も勝った。3-1だ。ま、順当か」
それから部員たちの間で、明日の決勝の優勝予想が始まった。私は話に入れず、ぼんやりと校門の方を眺めていた。
「ん?」
誰かが、校門からこちらに真っ直ぐ歩いてくる。そのまま見ていると、上下青い服にバッグをかついだ男であることがわかった。
「あれ、春瀬のジャージじゃないですか?」
気づいた黒須君が藤谷を振り返る。藤谷は立ち上がり、私の隣に歩いてきた。しばらくして練習場に入ってきた男に、部員全員が注目する。
その男は、水色から紺色に美しいグラデーションを表したジャージを来て、同じ紺色のバッグを右肩にかついでいた。髪は両耳が隠れるほどの長さで、背は百八十センチくらい。彫りの深い細面で、落ち窪んだ目には油断ならない光を宿している。
男は私に目をとめると、「ほう」という口の動きをして、顔、胸、腰、足と視線を移動し、再び顔に戻った。私の、一番嫌いな見られ方だ。
「ポン高に、こんな美人のマネージャーがいたとはね」
口の端を上げて笑う。私は眉間にシワを寄せ、一歩後ずさる。藤谷が男の視線をさえぎるように、私の前に立った。
今、守ってくれたのかな。
「誰ですか?無許可なら、不法侵入ですよ」
藤谷が言った。
男はポケットからスマホを取り出し、動画を見せた。私も何度も見た、藤谷のフリーキック動画。
「これを蹴った10番は、いるか」
「俺だけど、あんた誰だ?」
藤谷が答える。
男はスマホをポケットにしまい、ジャージに刺繍されている名前を指差した。
「春瀬高校の、倉石洋介だ」
「倉石……?」
菊地君がつぶやく。
「春瀬の倉石って、さっき終わった試合で二点決めてたキャプテンの倉石?!」
部員たちがにわかにざわつき始める。
私はこの異常な状況に戸惑いつつも、藤谷の後ろでちょっとだけ顔がほてっているのを感じた。
今日は暑くなる、という予報は当たっていたみたい。
つづく
たぶんしなくていい名前の由来解説
倉石洋介……ヨハン・クライフ