第8話「明日、何時?」
紅白戦開始
黄色ビブスチームのゴールに元バスケ部梶野が立つ。
背が高く、体格もいいのでとても初心者とは思えないほど決まっている。キーパー用グローブは部室に置いてあった、三年の忘れ物。確か、見た目重視で買ったらいまいちフィットせず、そのまま放置してあった一品だ。とりあえず梶野の大きな手には合っているようだ。
元バレー部金原は、何度もジャンプして地面とシューズの感触を確かめている。
合うスパイクが部室になくて、普通のスポーツシューズで参戦。少々滑るかもしれないが、乾いた土のグラウンドならあまり変わらないだろう。
国分を左、狩井を右に置いて、センターは俺こと藤谷。狩井と国分は経験者とはいえ、どんな選手なのかはまだ手探りだ。
試合前、部員たちにはサイドをなるべく広く使うようにお願いした。ミニゲームだからと言って個人技の中央突破ばかりしていたら練習にはならない。
「いつでもいいぞー」
ボールを持つ青ビブスチームに叫ぶ。黒ビブスを着た主審役の芦尾がホイッスルを吹いた。
冬馬が菊地に軽くパスすると、菊地が猛然とドリブルを開始した。長髪をなびかせ、左サイドをひた走ってくる。中央には冬馬が走り、その後ろに黒須が距離を保ってついてくる。早めに一点取ってしまおうという作戦か。
菊地とマッチアップする狩井にしっかりついていくように言い、金原に冬馬を見逃すな、と伝える。国分はまずは逆サイドで様子見。
俺は菊地から中央へのパスコースを消しつつ、冬馬を視界の端に捕らえながらついていく。
ペナルティエリア付近で菊地と狩井がにらみあう。菊地は球離れが遅いのが欠点だが、それだけキープ力に自信がある証拠でもある。狩井がなかなか間合いに入れないでいる。菊地が一瞬身をかがめて、右足でボールをさらって左サイドを直進しようとした。
俺は振り返って、梶野にうなずく。梶野もうなずいて、ちょうどCB金原の陰に隠れるようなポジションに移動する。金原は、すでにペナルティエリアに入っている冬馬をチラチラ見ながら位置を微調整。
菊地の直進はほんの一、二歩で止まり、全力でついていった狩井の戻りが少し遅れた。それを見逃すほど菊地はお人好しではない。
右足のアウトサイドでボールを来た方向に戻すと、そのまま中央に切れ込んでくる。狩井が必死に追う。冬馬が舌打ちして、金原の背後から抜け出し、今まで狩井がいたサイドに移動する。俺は冬馬へのスルーパスを警戒しつつ、ゴール左側に寄って立っている金原とかぶさるような場所で菊地との距離を保つ。今菊地の視界には、ゴール右側がガラ空きに見えている、はず。
果たして菊地は追いすがる狩井を振り切ると、右足を大きく振りかぶってシュートを放った。ボールはまっすぐゴール右上へ突き進む。
菊地がガッツポーズをしかけた時、俺と金原の背後から梶野が大きく飛んだ。右上へ向かうシュートに必死に左手を伸ばす。俺は国分のいる逆サイドへ走りだした。
黒須が背後から追ってくる。
「ぬおおおおおっ」
太い声を上げながら伸ばされた梶野の左手が、ボールにかすかに触れた。方向が変わったボールは「ガインッ」とポストに当たり、国分の前へ落ちた。
国分は丁寧にトラップすると、俺に向かってインサイドキックで確実なパスを出した。
「国分、走れ!」
俺は叫んで、転がってくるボールを迎えに行く。体を左に傾けながら、ボールを足の裏で真後ろに軽く流す。俺の後ろにぴったりくっついていた黒須が、一瞬置かれる。右回りに反転して、転がったボールをダイレクトで国分にスルーパス。左サイドを懸命に走り、国分がボールに追いつく。直登はゴール前に張っている。
右は菊地が急いで戻ってきている。狩井も走るが、菊地のスピードには追いついていない。俺はセンターに走り、途中から右ななめに走っていく。黒須は少し迷って、俺を追いかけるのをやめて国分の蹴るコースを消しに行く。
国分はそれを見て、慌てて左足で山なりのクロスを上げる。中央で待つCB直登とGK島の頭上を越えて、逆サイドにまで届いた放物線の下、菊地が到着するより早く俺がトラップした。足元にストンと落として時間を置かず、右足でやや早めのクロスをゴール前に上げる。来るかな。
ゴール前の直登がクロスに反応してジャンプする。直登のジャンプ力はなかなかのもので、並の相手ならまず競り負けたりしない。タイミング、体の入れ方も抜群だ。
その直登の頭一つ上に、人影がおおいかぶさる。上がってきた金原がクロスに合わせようとジャンプしている。
「おおっ!」
高い。さすが元バレー部。
高さには勝った。しかし、なぜか両腕を体の側面にぴったり付けた人間ロケットの姿勢で飛んだ金原は、クロスを脳天に当ててしまった。ボールははるか上空に舞い上がり、五月の空に消えていった。
「あーっ!もうっ!」
球拾いの伊崎が文句を言いながらダッシュしていく。あの方向は、野球部だ。いやみの一つでも言われてくるかもしれない。伊崎、許せ。
「ちっ……くしょー!」
しゃがみこんだ金原が、悔しさを隠すこと無く頭を抱える。
「金原」
俺が近づくと、金原は顔を上げた。何とも情けない顔だ。
「藤谷、悪い。チャンスだったのに」
「それはいいけど、大丈夫か?頭の一番痛いところ当たったぞ」
「ああ。一瞬視界が飛んだ」
両目を押さえて頭を振っている。
「あとさ、何で両手ピッチリくっつけて飛んだんだ?空気抵抗とか?」
俺が続けて聞くと、
「ジャンプすると、いつものクセでスパイク打ちそうになるから、手を出さないようにだ」
真面目な顔で答えた。確かにそれはまずい。即イエローカードだ。でもだからって、人間ロケットにならなくたっていいだろう。
俺は笑いをこらえながら側に立っている直登を見た。
「直登が高さで負けるところは初めて見たよ」
あえてからかうように言ってみる。
「そういうこともあるさ。元バレー部のアタッカー相手じゃね」
何食わぬ顔で答える。つまんないヤツ。たまには悔しがるくらいの愛嬌を見せないものか。
「キャープテーン」
離れたところから、伊崎が呼ぶ。拾ってきたボールをこちらに転がす。
「おお、球ひろいご苦労」
伊崎が息を切らして戻ってきた。
「ご苦労じゃないっすよー。野球部の人たちに、サッカーにもホームランあるのかって、すっげーつまんないこと言われちゃいましたよー。ああいう寒いこと言われた時、どうすりゃいいんすか?」
「ホームランは三点ですって言っとけ」
伊崎の愚痴を適当に受け流して、俺は先程から何やら言い合いをしている別の二人に気づいた。
「何であれが決まらねーんだよ!せっかくコース開けてやったのに」
冬馬が菊地に大声を上げている。
「お前はフォワードなのに、何で弾かれた後詰めてねーんだよ!一年にあっさりつながれたのお前のせいだろうが!」
菊地も言い返す。周りで狩井と国分がおろおろしている。
「キャ、キャプテン。どうしましょう」
「ケ、ケンカになっちゃいました」
かなり怯えている。無理もない。冬馬は言うまでもなく、菊地も割りとケンカっ早い方だ。
「殴り合いにはならないから、心配するな。ただの議論だ」
たぶん。
「おい、その辺にしといてくれ。再開するぞ」
俺はエキサイトした二人には取り合わず、ボールを直登に渡した。
「そっちのゴールキックから」
「分かった。金原、大丈夫か?」
直登が聞く。金原は力強くうなずいた。
「あのプレーで今日が終わったら、悔しくて眠れなくなる」
クドい顔がさらに険しくなっている。理由は何にしろ、やる気になってくれるのは嬉しい限りだ。
小走りで自陣に戻ると、広瀬がベンチの前で立ち上がっていた。短めのスカートをヒラヒラさせ、ステップを踏むような、不思議な動きをしている。
あの女の子は何をしているのだろう。
声をかけようとした時、背中を向けていた広瀬がパッとこちらへ回転した。
「あ」
「あ」
バチッと目が合う。いかん、他人の鼻唄をうっかり聞いてしまったような気まずさだ。
広瀬は固まった表情のまま、静かにベンチに座り直した。
「今の謎の動きは何だ?」
聞くと、
「何でもない」
と言って脇にのけてあったベンチコートをバサッと頭からかぶった。
「はー、寒い寒い」
「うそつけ。さっき寒くないって言ってたじゃないか」
ふと、俺の脳裏にさっきの広瀬の動きと似たアクションがよぎる。もしかして。
「もしかして、俺がさっき黒須を抜いたターン、真似してたのか?」
ビクッ、とコートをかぶった広瀬が反応する。答えないところを見ると、正解だろうか。このままネチネチからかってもいいが、後が怖いからやめよう。特に今日は機嫌を取らねばならない日だ。
「今の広瀬のターンも、なかなかキレがあったぞ」
「そんなお世辞はいらない」
ムッとしている。裏目に出てしまった。
「おい藤谷ーっ!イチャイチャしてねーで始めっぞー!」
菊地が叫ぶ。冬馬との言い合いからの八つ当たりだ、きっと。
「イチャイチャなんぞしとらんが、いつでもいいぞー」
叫び返すと、菊地が再び左サイドを上がっていく。GKの島がゴールキックの準備に入る。
俺は後ろ歩きでゴール前に近づくと、梶野に声をかけた。
「梶野、さっきはナイスセーブだ」
「ああ、サンキュ。本当はキャッチしたかったけどな。菊地は、また打ってくるか?」
梶野が聞き返す。
「次は冬馬が黙ってないな。気をつけてくれ」
「了解」
島がゴールキックを直登につなげて、試合再開。直登が俺達の位置を見ながらドリブルで上がってくる。のっけから攻め上がるか。
右の黒須にボールを渡し、直登はゴールに向かって走りだす。ゴール前にはすでに冬馬がいるが、どうする気だ。黒須が右サイドでドリブルを開始する。
俺は金原に冬馬、狩井に菊地、国分に黒須をそれぞれチェックするように言い、自分は直登を正面から待ち受ける。
「珍しいな、上がってくるなんて」
「僕は一応リベロなんだけどね。忘れたのか?」
直登がゴール前へダッシュする。右サイドで、黒須と国分がやりあっている。国分も堅実だが、黒須の方がスピードで勝り、一歩前に出た瞬間すぐにグラウンダーのクロスを中に入れてきた。
いかん。
金原は高さこそあるけど、足元は素人だ。黒須め。ヤツは一年の割に抜け目がない。
俺は直登とポジションを争いながら、ゴール前で待つ。梶野は今度はゴール左に位置し、金原は冬馬を見つつ右をカバー。冬馬はニアサイドでボールを受けるとダイレクトで打つことはせず、ゴールに背を向けてすぐに中央の直登にパスを出した。
直登がボールを取りに向かう。俺も続いて体を寄せる。寄せながら、ゴールをうかがう。梶野も金原も姿がはっきり見えていて、シュートコースは閉じている。俺は国分に左サイドを上がるように指差して、ほんの少し、ペナルティエリア中央の直登から離れた。
直登は冬馬からのパスをスルーし、それを左サイドで待ち受けていた菊地が右足で巻きこむようなクロスを上げる。頑なに左足を使わないヤツだ。
いつのまにか、金原の前に入り込んでいた冬馬がジャンプする。いくら金原の方が背が高くてジャンプ力があっても、前に入られて先にボールに触られたらかなわない。
冬馬は速いクロスに頭を合わせて、ほんの少し方向を変えて、逆サイドに流すようにヘディングシュートを放った。
決められた、と思った瞬間、ゴール左上に向かって目一杯手を伸ばした梶野の手がボールに触れた。ペナルティエリアにボールがこぼれる。
「金原、クリア!」
俺は叫んで、ダッシュを開始する。金原は慌てて右方向に大きく蹴りだす。右サイドの狩井がボールを拾いに走る。スタートが一歩菊地に先んじたので、先に追いつくのは間違いない。中央を走る俺の後ろに直登が追ってくる。目視はしていないが、きっと来ているだろう。
狩井がボールに追いつき、すぐに中央の俺に折り返す。しかしボールが上がりすぎて、左サイドにまで点々とする。先に上がってきた国分が、追いかけてきた黒須を背後に見ながらこぼれ球をワントラップし、中央に左足でクロスを上げる。利き足ではないのか、ゴール前、というよりゴールに向かって直線的に速いボールが入る。
トラップでは、遅すぎる。
俺はゴール前に飛び込むと、背後から足元にスライディングをかましてきた直登をジャンプして交わし、クロスに頭で合わせる。おでこと首に衝撃を与えたボールは、GK島の足元でワンバウンドして、股を抜いてゴールラインを割った。俺は着地と同時に地面を転がり、ペタンと座り込んだ。主審の芦尾がホイッスルを吹き、控え組から歓声が上がる。
「ちょっとかっこつけすぎじゃないか?広瀬さんが見てるからって」
直登が笑いながら、座り込む俺に手を伸ばす。
「関係ないよ。お前も、ゴール前で後ろからスライディングってひどすぎるだろ。グラウンダーでもなかったのに」
俺は差し出された手を握り、立ち上がった。
「もしボレー狙いだったら、軸足削れたかもしれないからね」
直登はにこやかに答える。鬼か。
お尻の砂を払いながら自陣に歩くと、国分と狩井がかけ寄ってきた。
「キャプテン、す、すごいシュートでした」
国分が興奮気味だ。結果的にかっこいいヘディングになったのは、国分のクロスが悪かったからなのだが、それは言うまい。
「おう、ありがと。ミニゲームだけど、国分の初アシストだな」
「後ろから、茂谷先輩が来てるの分かってたんですか?」
狩井が入ってくる。
「はっきりは見てないけど、来るとは思ってた。あいつはえげつないから」
そう、イケメンの直登がセンターバックをやっている理由。それは、調子にのってるFWを妨害するのが気持ち良い、というかなりゆがんだものなのだ。せっかく背の高いイケメンに生まれたのに、どうしてああなってしまったのか。とても残念に思う。そして直登のルックスにキャーキャー言っている女子たちにそのゆがんだ性格を教えてやりたい。
ペネルティエリア付近で冬馬とすれ違う。
「悪かったな、ストライカーより先に決めて」
俺が笑いながら言うと、冬馬はフンと鼻を鳴らした。
「ミニゲームでそんなもんこだわんねーよ。それより、菊地のパスが悪すぎる。チームシャッフルしてくれ」
「十五分でシャッフルする予定だから、グダグダ言うなよ。それより、金原と梶野はどうだ?」
冬馬は背後をチラリと見た。
「ま、悪くないんじゃねーか。まさか素人連れてくるとは思わなかったけどよ。だけどな」
今度は左サイドに戻っていく国分を見た。
「あいつは、ヘタじゃねーがワンテンポ遅い。あれが左サイドバックの理想じゃないだろ、キャプテン?」
冬馬がニヤリと笑う。痛いところを突いてくる。
「候補はいたけど、断られた。すべてがそう上手くはいかないさ」
「お前はそれでいいのかよ」
冬馬が真剣な顔になる。それでいいだと?
いいわけ。
「いいわけ、ないだろ。でも仕方ないことだってある。今いるメンバーで、やっていくしかない」
「そうかよ。ま、キャプテンはお前だ。好きにしろって」
冬馬が自陣に戻っていく。言いたいこと言いやがって。やっぱり先に点決められてイラついてるんじゃないか。
その後、計三度のシャッフルを行い、ミニゲームを繰り返した。冬馬は一試合目の鬱憤を晴らすかのようにバンバンゴールを決め出し、菊地はヌルヌルしたドリブルで一年を抜きまくり、シュートを外しまくった。金原、梶野はチームが分かれた後も、俺が言ったことを実践してくれていた。
ミニゲームが終わり、ゲーム内でできなかったプレー、イメージと違ったプレーを個人練習して、とりあえず新サッカー部初日の午後練は終了した。時間は五時半を過ぎており、今の時期ならすぐに日が暮れてしまうだろう。
俺はベンチに歩いて行った。広瀬は立ち上がってベンチコートをたたんでいた。
「コートは、適当でいいぞ」
「一応ね。借りたから」
律儀なヤツだ。コートを受け取ろうとすると、梶野がボールをタンタンと付きながらやってきた。
「おお、梶野、お疲れ」
「忘れてないか?約束」
約束?懸命に記憶をたぐる。俺が梶野と約束。何だっけ。
「勝負だよ、フリーキック勝負」
そんな約束もしてたっけか。大口たたいた記憶もよみがえる。あんなこと、言わなきゃ良かった。
「そうだったな。今日はもうしんどいから、一回だけな」
「十分」
梶野は俺にボールを渡してゴールへ走った。
「勝負するの?」
広瀬が聞く。
「サッカー部に誘った時に、頼まれてね。誰かがYouTubeで、インハイ予選の時の俺のフリーキックアップしたみたいで」
「私も見た、それ」
「え、マジで?何で」
ひ、広瀬に見られていた?後から聞かされると、無性に恥ずかしい。
「あるルートから教わって」
広瀬はそれ以上答えなかった。何だ、あるルートって。
「じゃ、広瀬は勝負の立会人になってくれよ。結果の証人」
「ただ見てればいいの?」
「そうだ」
いつのまにか、部員たちも皆ガヤガヤと集まり始めた。練習で疲れているだろうに、野次馬根性の旺盛なヤツらだ。一年たちは携帯を構えている。動画でも撮る気か。撮られてると自覚すると、緊張するからやめてほしいんだが。
「いつでもいいぞー」
梶野がゴールから声をかける。両手を広げて少し前かがみに。キーパー初体験の日なのに、なかなか様になっている。頼もしい。
俺は記憶を頼りにインハイ予選の時とほぼ同じ位置にボールを置く。
「藤谷」
広瀬が声をかけてきた。
「何だよ」
「位置が、もうちょっと斜め後ろ」
俺はボールを言われた通りに置き直す。
「これでいいか?」
広瀬が指でOKマークを出す。
もしかして、ボールの位置を覚えるほど、何度も俺の動画を見たってことなのか?いかん、耳が熱くなってきた。考えすぎだ。
「いくぞー」
俺は息を大きく吐いて、助走に入る。左足を踏み出すと、右足を目一杯振りかぶる。
太もも、ヒザ、ふくらはぎ、足首と、順番に力が移動するのが分かる。インステップとインサイドのちょうど中間の場所が、ボールの右下をこすり上げる。
ボールを押し出してしなりを戻した右足が着地する。放たれたフリーキックは、ゴール左隅を越える高さで向かって行き、越える直前で、揺れて落ちた。
梶野は一、二歩動いただけで、サイドネットに吸い込まれたボールをただ見送るだけだった。
ギャラリーから歓声が上がる。
「キャプテン!すげーっす!」
「素人相手に大人気ないっす!」
「えげつないッす!」
一年たちの褒め言葉かどうかも怪しい歓声に手を上げて応え、俺は広瀬を振り返る。
広瀬は、ベンチから立ち上がっていた。
両手の拳をグッと握りしめて。たたんだコートが地面に落ちている。
俺はコートを拾い上げてパンパンと砂を払う。
「立会人の広瀬さん。勝負はどうでしたか?」
俺が言うと、広瀬は我に返ったように拳を下げて、握った手で咳払いをした。
「えーと、なかなかの、好勝負だったと思います」
「そっか。それは良かった」
梶野がボールをタンタンと付きながらゴールから歩いてきた。かなり悔しそうだ。
「……どこで飛べばいいかも、わからんかった」
「最初はそんなもんだ。すぐ慣れるよ」
「いや、多分お前のフリーキックがすごいんだよ」
「そうかな。とりあえず、約束は果たしたぞ」
「ああ」
皆がぞろぞろと部室に向かう。俺も向かおうとすると、誰かにグイッと腕をつかまれた。
「うわっ」
広瀬だ。
意外な力で俺を引き戻す。
「何だよ」
「これ」
手に持っていたのは、A4を半分に切られたプリント。入部届と印刷してあり、サッカー部と、広瀬夏希の名が丁寧な文字で書かれていた。
広瀬は俺の手にプリントを渡す。
「あ、あの」
「入部届。マネージャー、やってほしいんでしょ?」
「も、もちろん」
「明日、何時?」
「えーと、土曜は一日中練習だから、九時に、ここで。終わりは六時の予定」
「分かった。今晩電話していい?具体的な仕事内容聞きたいから」
で、電話だと?広瀬から?
「あー、えーと、うん。わかった。何時でもいいけど」
「じゃ、八時頃にかける。寄りたいとこあるから、今日はこれで帰るね」
「わかった。じゃあ、後で」
「うん」
それだけ言うと、広瀬夏希は振り返り、颯爽と校門へ歩いて行った。俺はしばらく放心状態で後ろ姿を見送って、部室へ向かうみんなの後を走って追いかけた。
「おい、みんな!広瀬がマネージャー引き受けてくれたぞ!」
部室に入りかけていたみんながピタリと立ち止まる。
「マジでか!」
「本当ですか!?」
「イヤッホウ!」
口々に歓声を上げる。伊崎がダッシュで練習場に戻り、校門の方へ手メガホンで大声を上げる。広瀬の後ろ姿はすでに小さくなっていた。
「ひろせせんぱーい!明日から、よろしくお願いしまーす!」
『お願いしまーす!』
一年の皆藤、照井、黒須、国分、狩井も揃っている。おとなしい狩井や黒須も、実は興味津々だったんだなと今更ながら気づく。男の子だもの。
広瀬はピタリと立ち止まり、チラッとこちらを向いた。そして小さく手を振ると、走って校門を出て行った。
「おおー!」
「めっちゃ可愛ええーっ」
一年たちのテンションが疲れも相まっておかしくなっている。早く解散しよう。
着替えを終えた俺の手には、金原史緒、梶野至、狩井昴、国分涼、そして広瀬夏希の名が書かれた五枚の入部届けが握られていた。
つづく