延長戦「すべて夕焼けのせいにして」
その後。延長戦という名のイチャイチャ回。
インターホンの音で目が覚めた。反射的に時計を見る。七時十分。
いつも起きる時間より二十分も早い。
誰だ、こんな朝早く。人の朝寝をわざわざ妨害するなんて。
今度はスマホが鳴った。
俺は五コール待って、もそもそと起き上がって画面を確認する。
表示されているのは『広瀬夏希』の四文字だった。俺は慌てて通話状態にする。
「お、おう、おはよう。どうした」
「やっと出た。今玄関にいるから、開けてよ」
「え」
何だと?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ」
ベッドから抜け出し、寝起きの頭を整理する。
何でまた?俺は何気なく頭に手をやり、チクンと走る痛みに手を引っ込めた。
「あ」
……そうか。俺、夏希に告白したんだ。それで、夏希も好きって言ってくれて。そして、そして……。
顔が熱くなり、額の傷口が鼓動と同じリズムで痛みだす。やばい、血行を良くするのは危険だ。
「ちょっとー、まだー?」
玄関のドアがドンドンと叩かれる。
「今行くー。近所迷惑だから叩くなよー」
俺は部屋着にパーカーを引っ掛けて玄関へ急いだ。
早々に制服に着替えさせられ、小テーブルの前で待機する。なぜかうちのキッチンに立ってフライパンを持っている、制服姿の夏希を見ながら。
台所仕様なのかイメチェンなのかは知らないが、今日はポニーテールだ。
「んー、もういいかな」
言って、少しかがんでコンロの火を消す。耳のそばのおくれ毛がほほにかかる。
……あんな綺麗で可愛い子が、本当に俺の彼女になったんだ。春瀬に勝って優勝したことより信じられない。
「ほっ」と言いながら、フライパンの中身を皿に移す。ちょうどいいタイミングでトースターが「チン」と鳴った。
「はい、ベーコンエッグ」
夏希が皿をコトンとテーブルに置く。
「おお……」
いつもはトーストだけで済ます朝食に、もう一品増えた。しかも作ったのは、生まれて初めてできた彼女だ。やばい、朝っぱらから泣けてきた。
「傷、まだ痛む?」
夏希が俺の額を見ながら言った。
「まだ縫ったばっかりだからな。でも触らなきゃ大丈夫だ」
俺は用意されたトーストと夏希手作りのベーコンエッグをモソモソと食べ始めた。トーストと卵はうちの冷蔵庫にあったものだが、ベーコンは広瀬が家からわざわざ持ってきてくれたものだ。ごっそさんです。
「どう?」
夏希が真剣な、そして若干心配そうな顔で聞いてくる。
「うまい。ベーコンのカリカリ具合が絶妙」
「よかったあ」
心底ホッとしたような顔で、俺の座椅子にもたれかかる。彼女になっても、相変わらず座椅子は占領する気だ。
いつもより豪華な朝食をとりながらも、俺はつい夏希をチラチラ見てしまう。
別にいやらしい目的じゃない。いや、ちょっとはあるけど。
「何、さっきからチラチラ見て」
「え」
バレてた。夏希は座椅子から身を起こし、テーブルにほおづえをついた。
「言いたいことがあるなら言ってよ」
「別にそういうわけじゃ」
「……やっぱり、ちょっと引いてる?」
「へ?」
何の話だ。夏希が何となく視線を下げる。
「昨日付き合うって決まったばっかりなのに、いきなり朝から押しかけて料理なんてしたら引かれるかなって」
「全然」
俺はベーコンの最後の一口を頬張った。
「その……」
恥ずかしい。でも、もう照れ隠しにからかったり、悪く言って傷つけたりはしたくない。ずっと憧れてた、生まれて初めての彼女なんだから。
「あ、朝から夏希に会えただけでも嬉しいのに、うまい手料理まで食べられたんだから、こんな良い朝はないよ」
耳が熱い。がんばった。俺はがんばった。
夏希は目をそらしたまま言った。
「……ありがと」
てっきり笑われたり、「何恥ずかしいこと言ってんの」とか言われるかと思ったが、そんなことはなかった。
「ベーコンエッグ、昨日の夜お母さんに教わって練習したの。うまくいってよかった」
そう言って、嬉しそうに笑う。
受け取ったのはベーコンエッグの話か。ドキドキして損した。
「でもさ」
俺は時計を見て話題を変える。
「まだいつもの出発時間まで十五分もあるぞ。ちょっと早すぎじゃないか?」
本音を言えばもうちょっと寝ていたかった。
夏希は黙って座椅子から立ち上がり、俺の隣にストンと座りなおす。
「私も、ちょっと早いかなとは思ったんだけど」
「うん」
「できたら学校に行く前に、ちょっとだけ、その……一緒にいられるかなと思って」
言って、俺の肩に頭をもたせかけた。
「……あの、夏希さん?」
「ん?」
「可愛すぎて学校行く気が無くなりそうなんですが」
「じゃ、さぼっちゃおうか」
本気とも冗談ともつかない言い方だ。
「俺にそんな度胸は無い」
「昨日は強引に奪ったくせに」
「あ、あの時はその」
奪った、と言われて思わず夏希の唇に視線が移る。薄いピンク色の唇。その柔らかさを俺は知っている。実はあんまり覚えてないけど。
鼓動がどんどん早まっていく。
「頭にカーッと血が上って」
「今は?」
今は?今は……。
「いや、今もだ」
彼女が目を閉じるのと同時に、俺は唇を重ねた。
モト高の校舎が見えてくる。
私は腕時計を確認する。思ったより出発が遅れてしまった。ほぼ私のせいだけど。
「あ、おい、夏希。見ろ」
「ん?」
未散が指さす先に、校舎の屋上から下がる大きな垂れ幕が見えた。
『祝 本河津高校サッカー部 全国大会出場決定』
「あれ、よその学校で見たことある!」
未散のテンションが上がっている。
「ああいうの見ると、本当に優勝したんだなーって思うよ」
「あれで思うの?」
わからなくはないけど、あの垂れ幕を喜ぶとは思わなかった。変なツボ。まだ分からないことが多いな。
「あ、ちょっと待って」
あと少しで校門というところで、私は未散を呼び止めた。
「何だよ。早く行こう」
「寝ぐせ。あとエリ」
片手を未散の後頭部に伸ばし、跳ねた髪をなでつける。ついでに片方めくれていたエリも直す。
「あ、あのさ」
「ん?」
未散が赤面して目をそらしている。
「顔が近すぎてさっきの続きしたくなるから、そのへんにしてくれ」
私は慌てて距離を取り、未散をにらんだ。
「スケベ」
「自分でやっといてそれはないだろ」
「……オイ」
突如、背後から聞こえた声に私たちは振り向いた。妙にドスのきいた低い声。
芦尾が右目の下をピクピク引きつらせながら立っていた。
「何朝っぱらから校門前でイチャついてやがるんだ、貴様ら」
「芦尾、落ち着け。今日はサッカー部のみんなが優勝をたたえられるおめでたい日だ。スマイル、スマイル」
未散が必死にとりなしている。こいつにそこまで気をつかわなくてもいいのに。
「そうそう。さわやかにしてれば、きっと芦尾のことかっこいいって言う女子も出てくると思うよ」
私が言うと、芦尾は顔をパッと輝かせた。
「チーマネ、それマジか?そんなことがあり得るか?」
まずい。適当なこと言ったら真に受けちゃった。
「か、可能性は、じゅうぶんあると思うよ。可能性は」
「可能性を二度繰り返したのは気になるが、とりあえず期待はしておく!」
力を込めて言って、芦尾は再び私たちをにらんだ。
「だいたいお前らもさ、いつまでも友達以上恋人未満のラブコメごっこしてないで、さっさとくっついちまえばいいんだよ」
「……」
何となく、二人で視線をかわす。
「ん?何だ、今の変な間は。……あ!お、お前らもしかして……」
私たちを指す芦尾の指がプルプル震えている。
もう一度、ちらりと未散を見る。彼はため息をついた。
「今日の午後練で色々報告することあるから、その時な」
「待てるか、今教えろ!」
「ええい、うっとうしい!さっさと自分のクラスに行け!」
未散が芦尾のお尻を蹴っ飛ばした。
「いってっ!チックショー、覚えてやがれ!」
まるでチンピラのような捨て台詞を残して、芦尾は校舎に走って行った。
教室に着くまでに、私たちはたくさんの先生や生徒たちに声をかけられた。その中には当日来られなかった盛田先生や、放送部の古市君も。盛田先生がいなかったらみんなは決勝まで体力がもたなかったと思うし、古市君はスタジアムを真っ赤に染めるだけの観客を集めてくれた。二人とも優勝の恩人だ。
知らない生徒たちにも「ありがとー」と手を振って応えながらやっと私たちのクラスに到着する。
「うわ」
B組の教室前の廊下に、ものすごい人だかりができている。どうしよう、教室に入れない。
「藤谷先輩、写真お願いしまーす」
「藤谷君、こっちもー」
「藤谷くうーん、ケガ大丈夫ー?」
未散の周りに、学年も関係なくたくさんの女子生徒が集まってきた。
土曜の決勝戦は、ローカル限定とはいえテレビで最後まで中継されていたらしい。あの同点フリーキックも、決勝点のボレーも。
そりゃ、あの試合だけ見ればかっこよく見えるのはわかるけど、問題は未散本人。
そんなに嬉しそうにニヤけなくたって、いいと思うんだ。昨日から付き合い始めた彼女の前なのに、遠慮というものが無いのか、あいつには。
一方私の方には、なぜか大勢の一年生女子がスマホを持って写真をリクエストしに来ている。別に男子に来てほしいわけじゃないけど、一体何なんだろう。
「夏希ちゃん、おはよう」
廊下での写真攻勢が一段落着いた頃、紗良ちゃんが声をかけてきた。まだバッグを持っている。
「おはよ。今来たの?」
紗良ちゃんはほおっと息をついた。
「そうなの。私のことなんて誰も見てないと思ったのに、結構声かけられちゃって。やっと解放されたよ」
「そうなんだ。私も今やっと落ち着いたところ」
未散はまだ何人かの女子に写真をせがまれている。両サイドから二人に腕を組まれてまんざらでもない顔だ。
「夏希ちゃん、顔怖いよ」
紗良ちゃんが私の顔をのぞきこんで言った。私は思わず両手でほほを押さえる。
「そんな顔してた?」
「してたしてた」
言って、紗良ちゃんは笑った。
「大丈夫だよ。藤谷君は夏希ちゃん一筋だから」
「う……」
何となく耳が熱くなるのを感じながら、私は人のいない方へ紗良ちゃんを引っ張って行った。
「わっ、な、何?」
「あのね」
紗良ちゃんの耳元で、私は未散に告白されたことを告げる。
「ええっ!そ、それで?」
「……私も、好きって」
言うと、しばらく口をぽかんと開けていた紗良ちゃんが満面の笑顔で私に飛びついてきた。
「よかったーっ!おめでとーっ!」
「わあっ!ちょ、ちょっと」
いきなりのハグに周りの視線が集まる。
「よかったね、よかったね。私、うれしいよ」
「紗良ちゃん……」
彼女が涙声になっているのを聞いて、私は親友の頭を優しく撫でた。
私より頭一つ分くらい背が低くて、でもとても頭が良くて、普段おどおどしてるけど得意な分野では強気で。
そして……同じ人を好きになってしまった戦友。
「泣かないでよ、もう」
ハンカチで戦友の目元をぬぐう。
「だってー」
「何やってんだ、お前ら」
いつのまにか撮影会終えた未散が、いぶかしげな顔で私たちを見ていた。あわてて紗良ちゃんが離れる。
「おす、こばっちー」
「お、おはよう。藤谷君も大変だね」
未散は後頭部をポリポリかきながらため息をついた。
「そうなんだよー。なかなか解放してくれなくてさあ。いやあ、参った参った」
なぜだろう。イライラする。私は目を細めて言った。
「その割には嬉しそうだけど」
「そんなことないよ。俺写真苦手だし」
「どうだか」
ちょっと陰険だけど、私の目の前で楽しんだんだからこれくらいは許してもらおう。
「こばっち。頼む」
突然、未散が自分のスマホを紗良ちゃんに手渡した。何?
「ほら、スマイルスマイル」
そして私の腕を取って、隣に引き寄せる。
「ちょっと」
「いいから。おう、こばっち頼む」
「はーい、撮るよー」
ピロリン、と音が鳴る。画面を見せてもらうと、そこには笑ってるのか何だかわからない私と、赤い顔をした未散が映っていた。
「恥ずかしいならやんなきゃいいのに」
私が言うと、
「うるさい」
と言って紗良ちゃんからスマホを取り返し、教室に入って行った。
「藤谷君らしいね」
紗良ちゃんがおかしそうに笑う。私は再び目を細めて教室を見た。
「信じられる?あれで気をつかったつもりなんだよ」
「そういうところも好きなんでしょ?」
「うー……紗良ちゃんが意地悪になった」
「私は元から意地悪だよ。じゃあ、あとでね」
自分のクラスに向かう紗良ちゃんを見送り、私はLINEを立ち上げて未散にメッセージを送った。
『ありがとう。さっきの写真、後で送って』
一限目は急きょ予定を変更して、全校集会が行われた。理由はもちろん、俺たち。
何でも校長が決勝戦をテレビで見て、感動のあまり号泣したらしく、ぜひ俺たちサッカー部を表彰したいと言いだしたという話だ。
数か月前、ここで陸上部と一緒になって校長相手に大暴動を繰り広げたことが、すべて遠い昔のように感じられる。あの校長、意外とサッパリした部分もあるんだな。
そして昼休み。弁当を食べようとした俺は、担任から校長室に行くように言われた。
めったに来ない校長室のドアの前。いやだな、緊張する。
夏希に「ついてきて」と言ったら、「職員室に用事がある」と断られてしまった。彼女のくせに薄情だ。
ノックをしてドアを開く。
「失礼します……えっ!」
校長室のソファには、校長先生ともう一人。スーツ姿の広瀬春海コーチが座っていた。
「コーチ……何で」
「やあ、藤谷君。改めて優勝おめでとう。ケガは大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます。ケガはもう、だいぶいいです」
「まあまあ藤谷君、かしこまってないで座りなさい」
校長にうながされ、俺は二人の向かいに座る。柔らかいソファに体が沈む。いくらぐらいするんだろう。税金なのに。
校長が一つ咳払いをして、口を開いた。
「あー、藤谷君。急な話で申し訳ないんだがね、今回のサッカー部全国大会出場に伴い、広瀬さんから少しお話があるんだよ」
コーチがニッコリと笑う。こんなに愛想のいい人だったかな。そういや夏希が「うちの兄さんは外面大王」だといつか言ってたっけ。
「何でしょうか?」
いくぶん緊張しながら俺は聞いた。コーチは表情を変えずに答える。
「単刀直入に言う。僕はここにいらっしゃる校長から、本河津高校サッカー部の監督のオファーをもらった」
「えっ!」
監督?広瀬コーチが監督!?
「そ、それで?」
「話を受けた」
「で、でも、資格はまだだって」
「本来は来年の夏にならないと取れないんだけどね。まずはアドバイザーという立場で実地研修も兼ねる名目でならと、特別に協会から許可が下りたんだ」
「そう……なんですか。それで、いつから?」
「全国大会が終わった後。一月下旬にある新人戦を目標にするという話で固まった」
終わった後?
「全国大会は、来てくれないんですか?」
コーチは首を振った。
「勝ってるチームはいじるなって、昔から言うからね。それに、春瀬を倒した君たちが全国でどこまでやれるか、見てみたい気持ちもある」
「そ、そうなんですか」
別にいじってくれてもいいのに。
その後は校長から「ぜひわが本河津高校を春瀬、桜律に並ぶサッカー強豪校に育て、三強時代を作りたい!」という熱のこもった演説をしばらく聞かされた。
サッカーに興味なかったくせに、いつのまにそんな野望を育てたんだ、この人。
「失礼します」
数分後、俺と広瀬コーチと二人で校長室を後にした。。
「コーチ、今日の練習は?見にきてくれるんですか?」
コーチは笑った。
「行かないよ。今日はギャラリーで一杯だから、そもそも練習どころじゃないだろう。何せ優勝したんだから」
「そっか……そうですね。すみません」
「優勝したのに謝るやつがあるか」
コーチはまた笑った。その笑顔は、心なしか以前よりも明るく感じられた。
今日はこれで帰るというコーチを校門まで送っていく。
二人で歩く道中、俺はとにかく落ち着かなかった。
すみません、コーチ。俺、あなたの妹と内緒で付き合って、しかも今朝部屋でチューしてました!
「藤谷君」
「うひゃいっ!」
もうすぐ校門というところで不意に呼ばれ、声が裏返る。コーチが不審な目で俺を見る。
「何だ、そのおかしな返事は。一つ、聞いていいかな」
「はいっ、何でも」
「君は、プロを目指す気があるか?」
「え」
二人で立ち止まる。コーチの目は真剣だ。俺はつばをゴクリと飲んで答えた。
「その……ぼんやりと夢見たことはありますけど。具体的に言われると、何とも。プロのスカウトを見かけたこともありませんし」
「今まではね。でもこれからは違う」
コーチは真面目な顔で続ける。
「決勝の延長後半で見せた数分間。あの春瀬の包囲網を一人で突破したドリブル、同点のフリーキック、そして終了間際のジャンピングボレー。全てが素晴らしかった」
「あ、ありがとうございます」
あの時のことは、はっきりとは覚えていない。頭のケガも痛かったし、何より何とかしようと夢中だったから。
「あの時の君はプレーイングマネージャーとしてではなく、一人の選手としてプレーに集中していた。だからこそ出来たと、僕は思う」
「そういうもんですか?」
「そういうもんだ。人間の頭には一定の容量というものがあるからね」
「なるほど」
「僕は君に、来年一年間は選手としてのプレーに集中してほしい。今まで君が頭をひねっていた戦術やマネジメントの部分は、ベースを残しながら僕がより発展させていきたいと思っている。そのために監督を引き受けたようなものだ」
「そうだったんですか……」
「さっき言った、延長後半のプレーを一年間コンスタントに続けられれば、必ずプロの目に留まる。元プロの僕が保証する」
俺が、プロ。現実味の無い話だ。多少水泳トレで鍛えたとはいえ、準々決勝で当たった桜律の選手たちと比べると俺はいかにも貧相であった。
それでもコーチははっきりと言ってくれた。プロに注目される選手になると。俺はもう、他人の評価を無下にするのはやめたんだ。
コーチの評価を、信じたい。
「ま、それはそれとして、だ。藤谷君」
「はい」
口調が変わり、コーチはひときわ愛想よく微笑んだ。
「夏希とはいつから付き合ってるんだ?」
「ぴょるっ!」
つばが気管に入り、思わずむせかえる。コーチは俺の背中をトントンしてくれながら言った。
「動揺しすぎだ。気づかないとでも思ったのか?」
「げふげふっ……すみません。昨日からです」
「ほー」
コーチがあごに手を当て、一人でうなずいている。
「なるほどね。優勝した次の日か。タイミングとしては悪くない」
何の評価だ。
「でも、何でわかったんですか?」
「昨日は実家の方に泊まったんだ。今日ここに来るために。そしたら夏希が、夜になって母にベーコンエッグの作り方を習っていた。あいつが家事を習うなんて、天変地異の前触れかと思ったよ!秋穂の話では、今朝はいつもより三十分も早く起きて、鼻歌交じりに家を出ていったそうだし」
「そ、そうなんですか」
天変地異とは、妹に対してひどい言いぐさだ。
でもどうしよう。何か恥ずかしい。嬉し恥ずかしい。
「おまけに秋穂が君とのことを冷やかしても、余裕の顔で受け流して「あんたも男探せば?」って言い返してね。ブチ切れた秋穂が荒れまくって弱ったよ」
「あははは……」
「それだけの状況証拠があれば、イヤでも気づくさ」
言って、コーチは深々とため息をついた。
「いつかこんな日が来るとは思っていたけど……可愛い妹を他の男に取られるのって、寂しいものだね」
「えっと……何かすみません」
「いや、相手が君で良かったよ。春瀬の倉石みたいな陰険な男だったら全力で妨害していたところだ」
「僕がどうかしましたか?」
『え』
ちょうど校門を出るところ。
俺とコーチの目の前に、春瀬のキャプテン倉石洋介が立っていた。
初めて見る、ブレザーの制服姿で。
「いや、何でも。君は手ごわい良い選手だって話していたんだよ。じゃあね、藤谷君。サッカー部には改めてあいさつに行くから、君から伝えといてくれ。それじゃ、倉石君」
「えっ、あの、コーチ!」
広瀬コーチは一人でスタスタと歩いて行ってしまった。悪口を聞かれたと言っても相手は高校生じゃないか。意外とビビリだな、コーチ。
「あの人……もしかして広瀬春海か?東京にいた」
倉石がコーチの後姿を見つめながら言った。
「そうだよ。そんでもって、うちのマネージャーの兄貴だ」
「ほう」
珍しく驚いたような口調になって、倉石は何度もうなずいている。
「で、月曜の昼間に何で春瀬の人がわざわざモト高まで来てるの?」
聞くと、倉石はその陰気な顔で俺に向き直った。
……いや、そんなに陰気でもないか。何ていうか、どこか吹っ切れたような、そんな顔。
「君は相変わらず年長者に敬語を使えないな」
「それは敬意の有無によるね」
「まったく失礼だ」
倉石が笑う。あれ、こんなに楽しそうに笑う人だったか?
「ここへは、三限からサボって電車で来たよ。君に伝えたいことがあってね。どうやって呼び出そうか考えてたんだが、ちょうど会えてよかった」
「サボってって……」
「これから卒業式までは、最低限の単位分とテストだけ出て、学校へはほぼ行かないつもりだ。部も昨日引退したし」
「何でそんな」
「卒業したら、俺はスペインへ行く」
「えっ……」
倉石は笑っていない。
「それはその……留学で?」
「いや。現地でテストを受けるつもりだ。プロチームのね」
「日本のプロチームからスカウトは?」
「いくつかあったが、全部断った」
あまりに急な話についていけないが、それでも根本的な疑問ははっきり浮かぶ。
「何で俺にわざわざ言いに来たんだ?授業サボってまで」
聞いている倉石の顔は、なんだか気持ち悪いくらい優しくて。俺は落ち着かない気分になる。
「しばしのお別れと、再会の約束をしたくてね」
「え?」
「五年以内に、俺はスペインリーグで一部のトップチームに入る。そしてチャンピオンズリーグでビッグイヤーを掲げるのが目標だ」
「本気で言ってる?」
「俺はいつでも本気だ」
言うと、倉石は右手を差し出した。
「約束しろ。君もプロになって、お互いが現役のうちにチャンピオンズリーグ決勝で戦うと。君にはそれだけの才能がある」
「急に言われても……」」
そんな大きすぎる夢、約束しろと言われても困る。それでも俺は、恐る恐る倉石の手を握った。
「約束まではできないけど、それくらいのビッグな気持ちでがんばる……じゃダメ?」
「別にいいさ」
手を離して倉石は続ける。
「俺は君に出会って、君たちのプレーを見て、考え方が変わった。揺さぶられた、と言った方がいいかもしれない。フットボールとは、本当にチームのためにプレーするということは、個々が自分の能力を信じて同じ方向にを向いてそれぞれのやり方で発揮することだと。まず個人があって、結果としてチームがあるんだ。春瀬のフットボ-ルは確かに良かったが、しょせん監督の空想を具現化するマシンに過ぎなかった。日本の軍隊式組織の延長線上だ。たとえ本人たちに自覚は無くてもね」
「あんた、そんなこと考えてたのか」
確かにうちは、組織って感じじゃなかった。ハタから見れば10番の俺を中心にした古いタイプのワンマンチームじゃないかな。
「君たちのフットボールは、君が卒業したらそれで終わりなのか?」
「え?」
「どんな伝統にも第一歩は必ずある。それが君たちじゃいけない理由は無いよ」
「何が言いたいんだよ」
「ああ、もう一つ。うちの監督、無事手術が成功したらしい。一か月の入院だけで現場に復帰できるそうだ」
「そうか……」
良かった。あの人がいなかったら、冬馬はうちに来なかったんだ。敵だけど恩人だ。
「それじゃ。全国でも期待してるよ」
倉石はクルリと振り向き、小さく手を上げて歩きだした。
「あ、あのっ」
思わず呼び止めてしまった。
「ん?」
立ち止まり、倉石は顔だけこちらを向いた。
「スペインでも……がんばって……ください」
顔が熱い。
倉石はこらえきれなくなったように笑い、
「ありがとう」
の一言を残して帰って行った。
一人残された俺は、倉石の背中を見送りながらお腹に手を置いた。
「腹減ったな……」
放課後。
陸上競技場でのギャラリー向けの練習をそこそこで切り上げ、私たちは部室に集まっていた。みんな練習着のまま思い思いの場所に座っている。
「藤谷ー。何なんだよ緊急ミーティングって」
菊地君がイスの背もたれに大きくよせかかりながら言った。彼は自慢の長髪を首筋が見えるくらいに切っていた。ということは、今までは優勝までの願掛けで伸ばしてたのかな?聞いても教えてくれないし。
まず未散が前に出て、全国大会終了後に兄さんが新監督(仮)に就任することを発表した。部員たちは「やった!」「すげー!」と、大盛り上がりで歓迎している。
私は校長室から帰ってきた未散から無理やり聞き出して先に知っていたけど、まったく、妹にまで秘密にしてるなんて信じられない。しばらく兄さんとは口きいてやらない。
ふと未散を見る。昼に帰ってきてからずっと、何か考え込んでいる風で、話しかけても上の空だ。兄さんの監督就任に思うことがあるのかと思ったけど、それとも違う感じだし。
よし。
「えっと、次に私から、みんなに報告があります」
私はみんなの前に移動する。未散が交代でイスに座る。みんなの視線が一気に私に集まる。
わ、どうしよう、急に恥ずかしくなってきた。
「広瀬せんぱーい、何ですかー?」
伊崎君がのんきな声をかけてくる。腹を決めよう。
「ええっと、本当は、わざわざ発表するようなことじゃないんだけど」
言って、チラリと未散を確認する。目が合った瞬間、彼はものすごくうろたえた顔をした。
「私、広瀬夏希は……キャプテン藤谷未散の」
「お、おい」
「か、彼女に……なってしまいました」
一瞬の静寂の後、さっきの新監督発表の時の十倍くらいの声が部室内に反響する。
「マジッスかーっ!キャプテン、ずっりいいいいっ!」
「いつそんな暇があったんですか!」
「おい藤谷!まさか知らなかったのは俺だけじゃないだろうな!どうなんだチーマネ!あーもう、大体分かってたけど、やっぱりハラ立つーっ!」
「うるさいな!ずるいとか言うな!変な言いがかりもやめろ!」
未散が一年たちに問い詰められている。対して二年の金原君たちは、
「ま、そんなこったろうとは思ってたよ。最近雰囲気良かったしな」
と特に驚いてはいなかった。それはそれでちょっとシャクだ。
「だから最初から言ってたじゃねえか。藤谷の女だって」
銀次君が私にニカッと笑いかける。
「あの時は本当にちがったんだって」
「わかったわかった」
ひとしきり騒ぎがおさまったのを見計らい、私は口を開いた。
「もう一つ、みんなに報告があります。すごく、大事な報告」
再びみんなの視線が私に集まる。息を吸い込み、私は言った。
「私は、来年四月から女子サッカー部を立ち上げます。それにともない……全国大会終了後、マネージャーを辞めようと決めました」
「あー、もう疲れた」
私は大きなため息をついた。
オレンジ色の帰り道。私と未散は二人並んで歩いている。
「伊崎があんなにゴネるとは思わなかったな」
未散が前を向いたまま答える。
部室でマネージャーを辞める件を発表した時、ほとんどの部員は「寂しいけど、がんばれ」と優しい言葉で応援してくれた。
こんなわがままな私に。感謝しかない。
でも一人だけ、伊崎君が大泣きしたのは予想外だった。
入部してからいつも私にじゃれついてきて、怒っても知らん顔で寄ってきて、いつのまにかバカな弟のような存在になっていた伊崎君。
そんな彼が、しばらくムスッと黙り込んだ後、顔をクシャクシャにして泣き出した。
「へぐっ……べ、べつに、辞めなくたっていいじゃないですかあ。グスッ」
「伊崎君」
私は伊崎君の隣に座り、タオルで涙と鼻水を拭いてあげた。
「ごめんね、勝手なことばっかり言って」
「お、お、俺が、ユニフォーム脱ぐのやめないから、嫌いになったんだあああああ……ぶえええええええっ」
「違うよ、そんなんじゃない」
「掛け持ちでもいいじゃないですかああああ……やだやだやだあっ……ずびびびびっ」
「私ね、不器用だから一度にたくさんのことできないの。本当に、ごめん」
結局部員のみんなにも協力してもらって、何とか機嫌を直してもらい、今やっと帰ることができたのだ。
あんなに泣かれたら、私までもらい泣きしそうだったじゃない。まったく。
「気にすんなよ、伊崎のことは」
「え」
「あいつには有璃栖がいるし、すぐにケロッと立ち直るよ」
「うん。そうだね」
「それに、土日は桜女の練習に参加するとしても、平日は俺たちと一緒に練習するんだろ?大して変わらないよ」
「うん」
昨日の夜、選手への復帰を電話で一条さんに伝えた。彼女は最初驚き、そこから涙声になって「おかえり」と言ってくれた。こっちまで泣いてしまったのは、未散には内緒だ。
その時、「だったら土日はうちの練習に参加すればいい。なっちゃんは女の子に人気があるから、みんなきっと歓迎するよ」と言ってもらえたのだ。
どうしようか迷っていると、一条さんは「いきなり全国レベルのうちはキツいかな?」と言った。私は「参加させて下さい」と即答した。何となく一条さんに乗せられた気もするけど。
「俺さ」
あと少しで。二人が別れる交差点。未散が立ち止まって私の方を向いた。
真剣な目に、一瞬ドキッとする。
「うん、何?」
「本気で……プロを目指そうと思う。日本でも、海外でも、どちらでもいい。とにかくもっとうまくなって、サッカーで飯を食っていけるようになりたい」
「……本当に本当に……本気?」
「そうだ」
未散は言った。
「でもそれ以外にも目標はあってさ。校長が言ったからじゃないけど、モト高をサッカーの強豪校にしたいと思ってる。決勝戦の日をスタートに、俺たちが新しい伝統を作るんだ」
モト高に入って、初めて会った時、藤谷未散はこんなキラキラした目をしていなかった。
スネたような、あきらめたような、そんな生気の無い目。
男の子がこんな風に変わる瞬間、一番そばにいられる女の子が一体この世に何人いるんだろう。
「やっぱり欲張りかな」
未散が恥ずかし気に笑う。私は首を振って、バッグから書類を取り出した。
「いいじゃない、欲張りで。私もそうだし」
言って、書類を未散に渡す。
「アスレチックトレーナー……?」
今日のお昼、盛田先生にもらった資格取得の手引き。進むべき大学や資格取得までの道のりが分かりやすく書いてある。盛田先生に相談したら、短時間でわざわざ作ってくれたものだ。
「将来、トレーナーになるのか?選手は?」
「ケガが治ったって言っても、これだけブランクがあったらもうトップには行けない。私はみんなみたいなチームを作って、選手として高校で完全燃焼するために女子サッカー部を作るの。それで女子サッカー部も、私が卒業した後も続いてほしいなって思ってる」
「そこまで考えてたのか……」
言って、未散は書類をめくる。
「へえ。トレーナーって言っても、ケガをした選手の復帰をサポートするとか、そういうのがメインなんだな」
「そう。特に若い頃にケガした選手を手助けしたいなって」
「そうか……」
未散は書類を私に返した。
「だが、そううまく行くかな」
「何でそういうこと言うの?」
私は口をとがらせ抗議した。
「もしもお前が資格を取ったら、その頃プロになってる俺はお前に専属トレーナーのオファーを出す。他の選手の足など触らせてたまるか」
大真面目で言う未散に、私は笑いをこらえることに失敗した。
「何言ってるの?勝手に想像してヤキモチ焼くって、意味わかんない」
「俺は真面目に言っている」
「はいはい。でも専属は高いよー?」
「そこは長期割引で頼む」
「あ、あの!」
突然後ろから呼びかけられた。
振り向くと、自転車に乗った男の子が息を切らせて私たちを見つめていた。
背格好は私と同じくらい。可愛らしい童顔で、サラサラの髪。着てる学ランは確か、紫台中学校だ。
「何?どちらに用事?」
聞くと、少年はペコリと私に頭を下げ、未散に向き直った。
「俺は紫台中三年の、馬上光仁って言います。本河津の10番の、藤谷さんですよね?」
「そうだけど、何?」
馬上君は自転車から降りて一旦止め、再び未散に向き直った。
「俺、土曜日県営スタジアムに赤い服着て見に行ってたんです!もう何ていうか、泣くほどしびれて……。俺来年、絶対本河津に入ってサッカー部にも入りますから!」
私と未散は顔を見合わせ、少年をまじまじと見つめた。
「サッカー、ずっとやってるのか?」
「はい!ずっと地元のジュニアユースにいたんですけど、ユースの募集が無くなるって聞いて。桜律のセレクションに受かりました」
「えっ!」
再び顔を見合わせる。
「さすがにそれは……桜律に行った方がいいと思うけど」
未散が引きつった顔で言った。馬上君は首を振る。
「もう決めたんです。本河津に行って、藤谷先輩と同じフィールドでプレーするって。だから絶対、絶対、待っててくださいね!それだけです!」
「あ、おい」
また自転車にまたがると、馬上君はものすごいスピードの立ちこぎで走り去って行った。
「……すごかったね」
「ああ」
未散がうなずく。
「何だろう……前途ある少年の人生を、俺が狂わせたような、妙な罪悪感が」
ブツブツ言いだした未散の背中を、私は笑って叩いた。
「もっと喜べば?うちを強豪校にするんでしょ。有望株を確保できたじゃない」
「そ、そういう問題かな」
「そうだよ」
フィールドでは勝負師なのに、人がいいというか何というか。
「あのさ」
不意に、未散が口を開いた。
「何?」
「まだちゃんと言ってなかったな、と思って」
「何を?」
私をまっすぐに見つめる顔が、夕日に染まっている。
「勝たせてくれて、ありがとう」
「……」
ほほがくすぐったい。
未散が私の顔に手を伸ばし、いつのまにか流れていた涙をぬぐった。
「泣くなよ」
「泣かさないでよ、バカ」
未散の肩に頭を押し付け、グリグリと押しつける。泣き顔なんて、絶対見せてやらない。
「ねえ」
「ん?」
「昨日言ってた、あの話」
「昨日?」
「ほら、全国の強豪と戦うには、その、男にならなきゃっていう」
未散がしばらく考え、そして赤面した。
「お、おう。あの話な。べ、別にいいんだ。俺も、ちょっと調子に乗りすぎたというか」
「いいよ」
「へっ?」
私は口をポカンんと開ける未散の手を取り、隣に並んだ。
「勘違いしないでよ?今からじゃないからね。近いうちに」
未散は空いた手を天に突き上げ、雄たけびをあげた。
「……いよっしゃあああっー!じゃあ明日?」
「子供みたいなこと言わない。大人になりたいんでしょ」
「くっ……確かに、俺の方にも予習が必要だ」
「スケベ」
「はい、何か?」
「開き直った!」
私は一抹の不安と後悔を抱えながら、歩く彼の横顔を見つめた。
いつまで、どこまで、私は彼と一緒に夢を追えるんだろう。
いつか私が必要なくなって離れてしまう日が、絶対来ないなんて誰が言える?
恋人以前の名前の無い関係のころはそんなこと思わなかったのに、彼女になったら不安になるって、矛盾してる。
「夏希」
しっかりと私の手を握ったまま、未散が言った。
「何?」
「何があっても、絶対、俺の好きな女はお前だから。それは、ずっと変わらないから」
「……きゅ、急に何言ってるの?」
「いや、あの、そういえば好きってちゃんと言ってなかったなって思って。女子はそういうのはっきりしないと不安になるって、何かで読んだ」
「……うん。ありがと」
どこまで一緒に夢を追えるかなんて、そんなことはわからない。でも私は、私の意志で一緒に横を走りたい。
「未散」
「おう」
二人が別れる交差点。手を離せなかった恋人たちは、黙って唇を重ねた。
真っ赤な顔をすべて夕焼けのせいにして。
おわり
ここまで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。通勤、通学、お昼休みの時間に楽しんでいただけていたのなら至上の喜びです。
続編の可能性はちょっとだけあります。
多分しなくていい名前の由来解説
馬上光仁……ロベルト・バッジョ




