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第76話「答え」

藤谷未散のフリーキックは復活するか

広瀬夏希を初めて見たのは、入学式の朝だった。


今よりもっと髪が短くて、今よりもっとキツい雰囲気だったような覚えがある。

整った顔だちにスラッと背も高くて、体育館の中で男女問わず周りの注目を集めていた。


もちろん俺もその中の一人だ。


こんな綺麗な女の子はいったいどんな男と付き合うんだろうと、ぼんやりと考えていたことを覚えている。運よく同じクラスになったけど、話したのは数えるほど。プリントを回す時や係の仕事、消しゴムを拾ったこともあったっけ。

ただそれだけ。


でも俺は満足だった。広瀬夏希のような美人は、俺とは違う世界に住んでいるんだ。


ずっとそう思ってた。


なのに何で、その高嶺の花の女の子が、今俺の真上で涙を流しているんだろう。

ああ、俺はいま仰向けに寝かされているんだ。頭がボーッとして気持ち悪い。生え際のあたりが心臓と同じテンポで痛む。


「未散!大丈夫!?」

「キャプテン、伊崎です!わかりますか!?指何本?」

「おい、藤谷、返事しろ!」

「おー……」


俺は無意識に夏希の顔に下から手を伸ばした。

彼女の頬から、涙が落ちそうだったから。


「あ」


綺麗な顔に、真っ赤な血がついてしまった。いや、いま気づいたけど、顔だけじゃない。着ている白いジャージにも、髪にも、そして手も俺の血に染まっていた。

「……ごめん、汚した」

「そんなこといいから!痛むの!?」

「……おでこがズキズキする」

夏希の手が痛む傷口をタオルで圧迫する。

そっか、さっきポストに激突して額を切ったんだ。倉石に競り負けて、こぼれ球を詰められてしまった。一点勝ち越されちゃったんだ。

やばいな。もう時間がない。前半はあと何分だ?


「試合は?」

「もうすぐ延長前半が終わる。あの芦尾が体張ってがんばってるよ!」

「そっか」

言って、俺は自分でタオルを押さえて上半身を起こそうとした。

「まだ寝てなきゃ」

「大丈夫だって」

再び寝かせようとする夏希の手を制し、俺は傷口からタオルを外した。白いタオルが真っ赤に染まっている。


大丈夫な根拠なんて無い。でも行かなきゃ。試合に戻らなきゃ。

そのために、半年間やってきたんだから。これくらいで引っ込めるか。


「見せて」

上半身を起こした俺の正面に、江波先生がしゃがみこむ。タオルをどけて、表情一つ変えずに傷口を観察している。

「顔面はね、血管がたくさん通ってるから最初の出血は派手なんだよ。でも傷自体はそんなに広範囲じゃない。血も止まってきてる」

「……良かった」

聞いた夏希が自分のタオルで顔をおおった。

「じゃあ、すぐ試合に戻れますか?」

俺が聞くと、先生は静かに首を振った。

「傷が大したことなくてもパックリ割れてるのは事実だし、激しく動いたらまた出血するかもしれない。傷口をふさがないことには試合に戻せないよ」


そんな。


「どうすれば傷がふさがるんですか!?」

「……残念だけど、病院に行って縫わないと無理だね」

こばっちが周りを見回す。

「あの、運営付きの医療班っていないんですか?」

「予算の都合とかで、去年から無くなったんだ。それぞれの学校で用意しなきゃいけない」

「そんな……」

江波先生は大きく息をついた。

「せめて医療用の接着剤でもあればいいんだけど」

「先生、ばんそうこうと、テーピングテープでガチガチに固めたらどうすか?」

菊地が言った。

「最初の一、二分はいいけど、傷口自体はふさがってないから、また出血する。そうなったらまたここに逆戻りだよ。そんなことしてるうちに試合が終わる」

「何か、何か他にないんですか?」

こばっちが江波先生に食い下がる。先生は黙って首を横に振る。

血は止まりかけている。問題は割れた傷口。そこを閉じればいいんだ。


閉じれば。


俺の頭に、一つの選択肢が浮かんだ。

バカげてる。

絶対怒られる。

それに怖い。でも、今はこれしかない。


「先生」

俺は江波先生の白衣のポケットを見て言った。

「今日ホッチキス、持ってましたよね」

先生の手が反射的にポケットを押さえる。そして厳しい目で俺を見つめた。

「何を考えてる?これは文房具だ。医療用じゃない」

「知ってます。でも傷口はふさがります」

「バカなことを言うな。ダメだ」

「先生!」


「未散!」


横に膝立ちで控えていた夏希が、おもむろに俺の首に腕を回した。彼女の綺麗な顔が間近に見える。

「お、おい」

突然のハグに、俺は体を硬直させる。ふわっと香るいい匂いに、柔らかい腕。頭に血が上ってまた出血したらどうするんだ。

「もう、いいじゃない」

「え?」

何を言ってる?何がいいんだ?

夏希は聞いたこともない涙声で言った。

「ここまで、よくがんばったじゃない。相手はインターハイ優勝のチームだよ?一人少ない状況で、同点に追いついただけでもすごいことだよ」

「夏希……」

「勝手に変な治療して、感染症になったりしたら大変なんだよ!もしかしたら、変な病気にかかってサッカーできなくなっちゃうかも……」


いつも強気で、負けず嫌いで、俺たちが弱音を吐いて甘えようものならケツを蹴っ飛ばしてでもゲキを入れる女。

そんな広瀬夏希が、泣き声でもうがんばるなと言っている。


「夏希」

俺はゆっくりと、彼女の腕を外した。

俺のせいだ。

俺がふがいないから、好きな女にこんな顔をさせてしまった。

「消毒液はあるから、芯と接触部分を消毒すれば雑菌に感染する危険性は低いと思う」

「そういう問題じゃ」

「それに」

俺は言った。

「血まみれになって、泣きわめいて、しかも試合に負けた一日が、お前の十七歳の誕生日の思い出になるなんて、俺は認めない」

夏希は一瞬ポカンとした表情になり、再び手の甲で目をこすった。

「こんな時に何言ってんの……?ほんと、バカ」


「江波先生」


ずっとおろおろしながら見ていた毛利先生が、ずいっと身を乗り出してきた。江波先生が思わずのけぞる。

「何、あんた。どうせ血を見るのも苦手なんでしょ?あっち行ってなさい」

「行きません」

いつになく、というか初めて見る、毛利先生の毅然とした表情。こんな顔もできるんだ。

「え、江波先生は、藤谷君の傷をホッチキスでふさぐことはできないと言うんですね?」

「そうだ。当たり前じゃないか」

「で、でも、でもですよ?我々大人が目を離したスキに、こ、子供たちが文房具を使って悪ふざけをしてしまうことは、良くあることだと思うんです」

俺は夏希と顔を見合わせ、江波先生がいぶかしげに毛利先生をにらんだ。

「何が言いたい?」

「もしも、もしもですよ。たまたま消毒液をかけたホッチキスを使って、この子たちがふざけて藤谷君の傷をふさいだとしても、それは顧問である僕の管理責任になります。江波先生の責任じゃありません。後で何かとがめられたら、僕が辞めます」

「あんた……」

江波先生はしばらく黙り込み、ポケットからホッチキスを取り出し、夏希に渡した。

「あの、先生」

「さっきからポケットが重くて困ってたんだ。広瀬さん、持ってて。あ、くれぐれもいたずらに使わないようにね」

言って、救急箱から消毒液を出して俺の脇に置いた。

「私はあっちのベンチで寝てるから、後は君たちで勝手にやりなさい」

「先生……ありがとうございます」

俺が言うと、

「知らない。聞こえない」

とそっけなく言い、本当にベンチに寝転がってしまった。


「毛利先生も、ありがとうございました」

言うと、毛利先生は弱々しく笑った。

「今まで何の役にも立ってなくて、足を引っ張ってばかりだったからね。一度くらい、みんなのためにがんばりたかったんだ。先生として」

言って、ベンチの江波先生を見やった。

「江波先生には、悪いことしたけどね。悪役にしちゃった。あんなにいい人なのに」

「大丈夫ですよ。あの人さっぱりしてますから」

「そ、そうかなあ」


横から菊地が真剣な顔で俺を覗き込んできた。

「藤谷、本気か?」

俺は黙ってうなずく。

「むちゃくちゃなヤツだ。やっぱりお前には勝てねえはずだよ」

菊地は笑って俺の肩を叩いた。


俺は大きく息を吐いた。

「こばっち、ホッチキスの芯と、はさむ部分を消毒してくれ。男子みんなは、俺を押さえててほしい」

「おう」

「任せろ」

「ホールド・オン!」


皆藤が俺を真後ろから羽交い絞めにして、両脇から金原と菊地が腕を押さえる。梶野がドスンと両足を押さえつけた。

それくらいしないと、俺が逃げてしまいそうだ。


「伊崎とこばっちで、傷口を合わせてくれ」

「は、はい!」

「わかりましたあっ!」

二人の細い指が額の傷口を慎重に合わせる。ひやっとした感触が気持ちいいけど、やっぱり痛い。


どうしよう、すでに後悔し始めている。やっぱり無茶だよな。でも今さら「なんちゃって」なんて言えない。やるしかない。でも怖い。


「夏希、お前がやってくれ」

「何で私なのー!?」

消毒されたホッチキスを手に、夏希は涙目で抗議した。

「頼む」

「誕生日に、傷口をホッチキスで止める思い出なんていやだよ!」

「頼む。お前しかいない」

時間がない。俺の真剣な目を見て、夏希は腕で目をこすった。


……あ、目つきが変わった。口元もギュッと結ばれている。


「……知らないよ、どうなっても」

「ああ」

「後でグチグチ言わないでよ」

「わかってる」

「じゃあ……行くよ!」

体を押さえる手に力が入る。

つっぱった額の皮膚に冷たいホッチキスが触れる。俺はギュッと目を閉じた。


バチン、バチン。


「いっ……てええええええっ!誰が二回やれって言ったーっ!」


押さえる腕を振り払い、俺は額を押さえて転げまわった。すごい激痛だ。死ぬ。死んでしまう。

「だって、一回じゃすぐ取れちゃうと思って」

夏希が口をとがらせる。

「一回でいい!あー、痛かったー!……あ」

四つん這いになった俺の目の前に、江波先生が立っていた。あきれたような顔でため息をつき、俺の前にしゃがみこんだ。

「まさか本当にやるとはね、このバカ者」

言って、傷口をそっと撫でる。

「つっ……先生、痛いです」

「とりあえずガーゼ当てて。上からきつく包帯でしばるから。広瀬さん、手伝って」

「はいっ!」


延長前半が終了した。ヘロヘロになったみんながベンチに戻ってくる。そして俺の頭に巻かれた包帯を見てざわつきだす。


「おい、どうやって傷ふさいだんだ?パックリいってたぞ」

銀次が勢い込んで迫ってくる。俺はホッチキスの一件を説明した。

「お前バカじゃねーの!?普通そんなことやんねーよ」

「すまん、バカなんだ」

「開き直るなよ!信じられねえやつだな、まったく」

直登も珍しく、

「そういう無茶はしてほしくなかった」

と、不機嫌ににらんでいる。

「悪かったよ。でも何とかなったから」

俺はそそくさとみんなの前から逃げ出した。


「あ」


冬馬がライン際で一人、電光掲示板を見つめている。


春瀬 4-3 本河津


俺はゆっくりと9番に近づき、隣に立った。

そして声をかける。


「なあ冬馬」

「あん?」

冬馬が前を向いたまま答える。

「あと一点、何が足りなかったのかな?」


俺は言った。インハイ予選一回戦で負けた後も、同じことを冬馬に言った。

覚えててくれるかな。


しばらくして、冬馬が体ごとこちらを向いた。

「お前は大きな勘違いをしている」

そして口の端を片方上げる独特の笑いを浮かべ、Vサインを出した。


「あと一点じゃない。あと二点だ」


そして俺たちは笑い合った。初めて聞く、冬馬のカラッとした笑い声だ。

「そんなことよく覚えてたな、お前」

すぐにいつも通りの仏頂面に戻り、冬馬が言った。

「忘れるわけがない。あの時俺は」


そうだ、あの時だ。予感があった。人生の分岐点だと。


「あの時、あの試合で、勝ちたいって気持ちがよみがえったんだ。冬馬のおかげだよ」

言うと、冬馬は露骨に顔をしかめた。

「やめろ、気持ち悪い。しかも負けてる時に言うことじゃねえよ」

「そりゃそうだ」

「それに……するのは俺の方だ」

冬馬がムニャムニャと何か小声で言った。横顔が何となく赤い。

「え、何て?」

「何でもねえよ!ほら、行くぞ」

ごまかすように、冬馬はフィールドへ走り出した。



みんながフィールドに戻っていく。

私は放心状態でベンチに座り、走っていくみんなの背中を見つめていた。

背番号10の頭には白い包帯がギチギチに巻かれている。


ひどい男。


私の誕生日の思い出を守る、みたいなかっこいいこと言ったくせに、傷口をホッチキスで止めさせるなんて。まったく、信じられない。


頭から血を流して、担架で運ばれてきた未散を見た時、私が一番最初に感じたのは恐怖だった。

頭が真っ白になって、ただ名前を呼ぶことしかできなくて。

何がそんなに怖かったんだろう。自分が大ケガをした時を思い出したから?

ちがう、きっとそうじゃない。


「お疲れさま」


隣に座った紗良ちゃんが、私にタオルを差し出す。

「ありがと」

受け取って、私は目元を重点的にぬぐった。

「ねえ、紗良ちゃん」

「何?」

「私、何やってるんだろうね」

「え?」

「マネージャーとして、みんなを励まさなきゃいけないのに、もういいからやめろって言ったり、泣きわめいたり。マネージャー失格だよ、私。自分が情けない」

だめだ。愚痴っぽくなってる。でも止まらない。

「本当は励まさなきゃいけないはずなのに、これ以上傷つくところを見たくないって気持ちになっちゃって。私、自分がこんなに弱い人間だと思わなかった」

「ちがうよ」

紗良ちゃんが静かに言った。

「……どうして?」

タオルで口元を押さえ、私は聞いた。

「夏希ちゃんは、マネージャー失格じゃないよ。さっきだって、江波先生のお手伝いをテキパキこなしてて、すごいなって思ったし。それに、みんな夏希ちゃんに励まされてがんばってきたから、ここまで来られたんだと思う」

「紗良ちゃん……」

「でも、ある一人に対してだけ、マネージャーじゃいられなくなっちゃうんだよね?泣いたりわめいたり、これ以上傷つくところを見たくなくて止めようとしたり」

「え……」

「それは、失うかもしれないって考えたら怖くなっちゃったからだと思う。でも、自然なことだよ」

紗良ちゃんの柔らかい声が、言葉が体にしみこむ。それは私の中にある、固い何かが溶けていくようで。

「夏希ちゃんは、弱い人間なんかじゃない」

言うと、紗良ちゃんは優しい笑みを浮かべ、私の頭をそっと撫でた。


「恋をしてるんだよ、きっと」



「戻ってきたか」

倉石がセンターサークルに立って待っていた。やけに楽しそうな顔をしている。

一応、俺のケガに責任の一端があるはずなのに、全然気にしてないようだ。

俺は包帯を微調整しながら答える。


「残念だったな。監督と同じく病院送りにできなくて」

倉石は鼻でフンッと笑った。

「あの老人はずっと心臓に持病を抱えていた。発作がたまたま今日だっただけだ」

「あんたに怒って、頭に血が上ったように見えたけどな」

「成功体験にとらわれている老害は、事実を突きつけられると大抵怒り狂う。彼は過去の人だ」

「でも目の前の試合に勝つことをまず考える、勝負の世界に生きる人だ」

言って、俺は倉石をにらんだ。

「あんたは何を考えてる?監督を病院に追い払ってまで、何がしたいんだ。目的がわからん」

「俺は」


言いかけた時、主審がそれぞれのサイドに分かれるように声をかけてきた。俺はもらったボールをフィールドのど真ん中にセットする。

去り際に、倉石がポツリと俺だけに聞こえる声で言った。


「ただ、ボールを蹴って走りたいんだ」


延長後半のホイッスル。

少し前線に走ってみる。傷口はふさがったけど、痛みが消えたわけじゃない。心臓と同じリズムでズキズキ痛む。傷の痛みか、ホッチキスの痛みか、もう区別がつかない。我ながらバカなことをしたもんだ。


春瀬の攻撃は止まらない。うちの三人のCBとGK島がよく守ってくれているが、このままズルズル行けば追加点を取られるのも時間の問題だ。


チャンスが欲しい。


流れの中からなんてぜいたくは言わない。一人少なくても互角にやれる状況、例えばセットプレーを作り出すしかない。


でもどうやって?


チャンスらしいチャンスも無いまま、四分が過ぎた。残り十一分。

俺の治療時間があったとはいえ、アディショナルタイムはさほど期待できない。


主審のホイッスルが鳴った。


見ると、センターサークル付近で芦尾がふくらはぎを押さえてひっくり返っている。そばに立っているのは倉石だ。

主審がイエローカードを倉石にかかげた。立ち去る倉石を見送りながら、俺はあわてて芦尾に駆け寄る。

「おい、芦尾!お前何したんだよ」

黒須と一緒に両手を引っ張り、芦尾を引き起こす。

「何だその言いぐさは!俺は被害者だ!」

お尻の芝を払いながら芦尾が抗議する。

「でもちょっとだけ、挑発しちゃったかな?」

「何言ったんだ?」

「監督と対立するキャプテンって、パパに反抗する中学生男子みたいですなーって」

「そりゃ蹴られるわ」

挑発というより、ただの悪口だ。


「……ん?」


小走りに自陣へ戻る倉石に、春瀬の選手たちが誰も声をかけない。普通イエロー受けたら、誰かが「気にすんな」の一言くらいかけるものだと思う。

でもみんな遠巻きに倉石を見ているだけ。


「もしかして……」

「何ですか?」


俺のつぶやきに黒須が耳ざとく反応する。

「いや、三蔵監督がいなくなってから、春瀬は実質倉石が監督みたいなもんだよな」

「はい。うちと同じです」

「倉石以外の選手は、それに戸惑ってるんじゃないかと思うんだ」

黒須がうなずく。

「それは何となく感じました。倉石が一人で突っ走って、チームの連動生がだんだん無くなってきています」

「でもなあ」

俺は傷口のそばをボリボリかいた。

「だからって、あと十分で何ができる?」

「藤谷先輩ならできますよ、何でも」

黒須が真剣な顔で言った。

「プレッシャーかけるなよ」

「事実ですから」

「わかったわかった」

何でもできますよ、か。本当にそうならどんなにいいか。


センターサークルからのフリーキックを左サイドの銀次に送る。銀次がボールに追いつく直前、やはり谷が体を入れて、あっさりとボールを奪っていく。タフな銀次もかなりバテてきている。一度くらい純粋なスピード勝負で谷に勝たせてやりたいが、あいにくそんな余裕はない。


モト高サイドへ飯嶋が右サイドから迫って来る。ゴール前にはすでに倉石が走りこんでいる。


いや、上がるのが早すぎる。


ゼロトップじゃなかったのか?

飯嶋がチラッとゴール前を見て、ボールを一度切り返す。タイミングが合ってない。


飯嶋の切り返しに、いち早く黒須が反応した。カットされたボールが宙に浮き、こぼれたところを銀次が中央に戻す。芦尾がダイレクトで右サイドに流す。


狩井がボールを持って右サイドを上がっていく。俺も一気に加速して、春瀬ゴールへ向かう。冬馬が春瀬のDFを引き連れてニアサイドへ移動していく。


逆サイドはガラ空きだ。


ペナルティエリア近くまできた狩井が、チラッと俺を見た。俺はゴール正面からニアサイドに進路を変えた。


左SBが滑り込む寸前、狩井が低く強いボールをあえて人が密集しているニアサイドに入れる。

ファーサイドに行こうとしていたDFが再びニアサイドに戻ろうとする。

受けた冬馬がダイレクトで後ろの俺にボールをはたく。俺はマーカーを引き連れ、ボールに向かう。


そして、ボールに触らずスルーした。


ゴール正面、約三十メ-トル。

待っていたのは背番号13、芦尾陸。


「いよっしゃあああっ!」


芦尾が雄たけびを上げ、右足を大きく振りかぶる。

「行くぜ、この芦尾陸第三の必殺シュート!狙いはゴールじゃない、神だ!ビッグ・バビロン!!……あふうぅぅんっ!」


ホイッスル。


芦尾が再びふくらはぎを押さえて転げまわっている。今度は春瀬の別府にイエローカードが掲げられた。


「チックショー、いてえ、いてえよー!」

「おい大丈夫か?」


みんなが集まって芦尾をのぞきこむ。軸足を思いっきり削られたように見えるけど。

芦尾は地面をドンドンと拳で叩いた。

「痛いのは足じゃない!俺の、俺の必殺シュートが不発に終わったのが痛いんだ!」

さりげなく名言ぽいことを言いながら、芦尾が本当に悔しがっている。ペラペラしゃべってるから止められたんだ、とはかわいそうだから言わないでおこう。


俺は戻ってきたボールを受け取り、GK杉崎が守る春瀬ゴールを見つめる。

ゴールほぼ正面、距離は三十メートル弱。

「芦尾」

俺は言った。


「お前の仇は、俺が打ってやる」


直登と目が合った。

我が幼なじみは、黙ってうなずいた。


延長後半六分。

芦尾がファウルを受けた位置に、静かにボールを置く。

芝はまだ濡れているが、滑るほどじゃない。十分踏ん張れる。


キーパーが左右のポストを何度も往復している。壁は五枚。モト高の選手は冬馬しかペナルティエリアにいない。

ベンチを見る。夏希が組んだ拳を口元に当てて祈っている。


落ちなくなったフリーキック。ずっと原因がわからなかった。落ちなくなってから、今日まで何本蹴っただろう。


行きついた答えは、考えてみればバカバカしいくらいに単純で、でもだからこそ、その答えに自信を持つのが怖くて。俺にとって練習は、恐怖や不安を振り払うためのものなのかもしれない。


主審のホイッスル。


俺はボールから五歩遠ざかる。歩数に意味はない。

問題は、距離。


キーパー役を買って出た夏希を驚かすためにふざけて蹴った、長めのフリーキック。あの時何で落ちたのか。


左足から踏み出して数歩、ボールのやや後ろに左足を踏み込む。体が斜めに倒れ、右足は限界まで後ろにしなる。


貧弱な体を鍛えた結果、俺の筋力は上がっていた。今までの蹴り方で、一番得意な距離でフリーキックを蹴った時、落ちないのは当然だった。


しなった右足を一気に戻し、ボールの斜め下にスパイクを潜らせる。そして一気に、こすり上げるように右足を振り抜く。


落ちてなかったんじゃない。本当は落ちていたんだ。

あと少し、距離があれば。


パワーが上がった俺のフリーキックは、今までの蹴り方では落ちるタイミングがゴールの向こう側にスライドしていたんだ。


じゃあ、どうするか。


蹴り上げたボールが、鋭く回転しながら壁の外側を大きく巻いていく。ゴールの右サイドからも離れていく。キーパーは動かない。


ボールは大きな弧を描き、落ちながら左へ曲がり始めた。


まるで大きな鎌のように。


そうなんだ。


曲がり始めが遅くなったなら、その分ゴールまで遠回りすればいい。

倉石、お前がわざわざ見せに来た、死神の鎌のような遠回りするフリーキック。しっかりパクらせてもらったぜ!


左に大きく曲がりながら落ちたボールが、ゴール右隅に向かっていく。

ジャンプしたキーパーが左手を伸ばす。

ボールがポストの内側に当たる。


耳に心地よい金属音。


キーパーは芝に倒れこみ、ボールはシュルシュルと回転しながら背後のゴールネットに飛び込んだ。


真っ赤な観客席から地響きのような歓声が上がる。俺は黙って両手を天に突き上げた。


ベンチを見る。

立ち上がった夏希が、同じポーズをしていた。


春瀬高校 4-4 本河津高校 得点 藤谷


残り時間九分。


つづく

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