第73話「誰が本当にやるんだよ」
茂谷直登という男。
「は、始まっちゃうね、後半」
紗良ちゃんが言った。
「うん。始まる」
私は前を向いたまま答えた。
五人になったDFライン。春瀬の選手が何人かニヤニヤしながら話している。負けてるのに守備を増やしてきた、と笑ってるのかも。考えすぎかな。
「あのね、夏希ちゃん」
「何?」
「私、今さらだけどちょっと怖くなってきちゃった」
見ると、紗良ちゃんの顔がかなりこわばっている。
「どうして?」
彼女が握っていた両手を開く。その手はカタカタと震えていた。
「計算は、合ってると思うの。でもどこかに計算ミスがあったらどうしよう、とか。そもそものデータが間違ってたらどうしようとか、さっきからそんなことばっかり考えちゃって」
「紗良ちゃん……」
私はそっと、両手で彼女の手を握った。
「えっ、わっ、あの、夏希ちゃん?」
紗良ちゃんが一瞬パニックになる。
「知ってた?こうすると、震えって止まるんだよ」
「そ、そうなんだ。覚えた」
しばらくして、手の震えが少しずつ収まっていく。
「あ、あの夏希ちゃん?もう、大丈夫だと思うから」
紗良ちゃんが耳まで真っ赤になっている。私は慌てて手を離した。
「あ、ごめん」
「ううん、ありがとう」
彼女はふー、と胸に手を当てて、息をついた。
「夏希ちゃん」
「ん?」
「藤谷君が、夏希ちゃんをマネージャーに誘った理由、何となくわかった気がするよ」
そう言って、紗良ちゃんは八重歯を見せた。
それから少しして、私は一番目立たない場所に小さく座っている梶野君を見た。
退場直後からは多少持ち直しているけど、それでもまだ雰囲気が暗い。
私は立ち上がり、彼の隣にドスンと腰を下ろした。
「梶野君、前に来て応援してよ。私たちだけじゃ声が小さくて」
梶野君はプイと横を向いた。
「変な気つかうなよ。余計みじめになる」
ああ、もう、すっかりすねちゃってるし。予想通りといえばそうなんだけど。
「あのね。うちはただでさえ人数少ないんだから、一人遊ばせておく余裕なんてあるわけないでしょ。グダグダ言ってないで早く来て」
一気にまくしたて、私は梶野君の手を引っ張った。
「お、おい、引っ張るなよ」
何とか前に引きずって来ると、待っていた伊崎君と梶野君がバッタリ顔を合わせる。
梶野君が目をそらし、
「伊崎、その……」
と口ごもる。
それを見た伊崎君は、もう片方の手をぐいっと引っ張り、
「何をモゴモゴ言ってるんですか。梶野先輩も一緒に応援するんですよ!さあ、さあさあさあ!」
と、満面の笑みで言った。
言葉を失った梶野君は、引かれるままに前のベンチに座る。金原君も一緒に手招きしている。
何でも自分でやろうとしちゃいけない。それはわかってるけど。
何となく、男同士の友情に負けた気分。
さて、と私はもう一人を振り返った。
国分君と交代した皆藤君がいる。彼はどう思っているんだろう。普段から「イヤッホウ」しか言わない変な子だし、表情が変わらないから落ち込んでるのかどうかもわからない。
「皆藤君」
とりあえず声をかけてみる。
「ハイッ!」
ムダに大きな返事がかえってきた。落ち込んではなさそうだ。
「皆藤君も、応援お願いね」
「もちろんっス!うちは後半に強いですから、ここからですよ!」
元気いっぱいだ。神経が太いのか、切り替えが早いのか。とにかく心配しなくても良さそう。
私は皆藤君の頭を優しくなでてあげた。
「君はいい子だねー。ラクで」
「わっ!な、何スか?何のご褒美ですか?イヤッホウッ!」
「あ、皆藤だけズルい!広瀬先輩、俺も!」
「伊崎君はいいから、前向いてなさい」
「えー、何でですかー。ブーブー」
騒がしい一年たちとわいわいやっていると、ふと視線を感じた。
江波先生がニヤニヤしてこちらを眺めている。
「何ですか?先生」
「いや、別に。ただ広瀬さんも、すっかりマネージャーらしくなってきたなと思ってね」
「それ、誉めてます?」
「もちろん」
そうは言っても、どこか笑顔に底意地の悪さが宿っている。
先生は一言付け加えた。
「みんなのお母さんて感じだね」
「お、おか……」
私の脳裏に、以前野球部マネージャーの志田さんと話した記憶がよみがえる。
彼女は言った。
『マネージャー続けてるとね、周りからおばんくさくなったって言われるから、気をつけてね』
なってない。
絶対なってない、はず。
後半開始のホイッスル。飯嶋と倉石のキックオフでボールが動き始めた。
俺と冬馬は基本的に前に残る。相手へのチェックは外へ追いやるくらいで、守備は最低限におさえている。
攻撃だけに専念しろ、と菊地は言った。みんなも同意見のようだった。なぜだろう。
小学生の時に弱いチームに移ってから、中盤でパスを出す方が多くなった。そうしないとボールに触れないから。待ってるだけじゃボールが来なかったから。
その代償としてか、以前に持っていたはずのゴールを決めるのが何より楽しいという感覚は、とうに忘れてしまった。今さら時間を過去に巻き戻すなんて、不毛な気もする。
後半三分。
ボールがモト高エリアに運ばれる。ガラ空きの右サイドで飯嶋がボールを持つ。飯嶋は二、三歩中に切れ込み、マイナスの角度で中央に折り返した。
走りこんだ倉石がボールをスルーして、さらに後方から走りこんだ別府に渡る。別府が黒須のチェックを体でおさえこみながら、中央にスルーパスを出す。
左サイドから須藤が斜めに走りこんでくる。
「おっ」
須藤にパスが渡る寸前、スイーパーの直登がボールをカットする。直登は一旦ボールを黒須に預けて、前に走っていく。客席が一瞬どよめき、次第に歓声に変わる。
黒須が左サイドの銀次めがけてロングパスを出す。
追い風に乗ったパスは思った以上に伸びていき、サイドラインを割ってしまった。谷がスローインのために外へ出る。
俺は黒須に近づいた。
「黒須」
「すみません、風を計算に入れてませんでした」
黒須が神妙な顔で言った。
「いや、それでいい。ちょうどギリギリ、ラインを割るかどうかくらいで出し続けてくれ」
「どうしてですか?相手ボールになっちゃいますよ」
「それくらい攻めなきゃ、春瀬相手にフリーにはなれないからな」
「あ、そういうことですか。わかりました」
黒須がうなずいて戻って行く。
谷のスローインでゲームは再開する。俺は再び前線に戻る。
途中、春瀬の4番別府が俺に声をかけてきた。眉毛の太い、妙に落ち着いた雰囲気の男だ。
「がっかりしたよ」
「え?」
俺は立ち止まり、聞き返す。
「倉石が入れ込んでる君が、どう巻き返してくるかと楽しみにしてたんだが。まさか守備を固めてくるとはな」
「こっちは一人少ないんだから、何もおかしくないだろ」
「常識的には、そうだ」
言って、別府は小さくため息をつく。
「しょせん、君らも普通のチームか」
彼はそのまま俺の顔をみることなく、持ち場に戻って行った。
後半十分。
倉石が中央からドリブルで持ち上がる。左サイドの長谷にボールを渡して自分は中央に走りこんでいく。長谷は倉石には戻さず、誰もいないペナルティエリア後方に浮いたクロスを上げた。
「うわっ」
CBの久城がいつのまにか上がってきている。直登は倉石をマークしていて当たりにいけない。
久城はフリーの状態でジャンプした。
「ふおおおおおっ!」
その時、野太い雄たけびとともに、グリーンのユニフォームがジャンプして久城にヘッドで競りかけていった。
「島っ!」
GK島が、ペナルティエリアの外に出てヘッドでクロスを跳ね返した。
島と久城が濡れた芝にもつれて転がり、バウンドしたボールに赤と青のユニフォームが殺到する。
「おらあっ!」
一番最初に追いついたのは、菊地だった。家下とぶつかりながらボールを黒須に渡す。
俺はゴールへ向かって走りだす。
「狩井!」
ボールを受けた黒須が右サイドにロングパスを放つ。風に乗ったボールがサイドラインに流される。追いかける左SBの虻田が少しスピードダウンする。
「キャプテン!」
サイドラインギリギリで狩井が飛び出した。
虻田より先にボールに触ると、そのままライン際をドリブルで上がっていく。そして虻田が追いつく前に低いアーリークロスを中央に入れる。
ゴール前に走る冬馬がCBを引き付ける。上がった久城の代わりに別府がゴール前に入る。つまり今、中盤に別府はいない。
「いよっっしゃああっ!」
もうこれ一回かもしれない。こんないい場所でフリーなんて。
熊野がボールに反応し、ゴール前からペナルティエリアの外まで出て来る。
そこだ。
俺はアーリークロスが到着する前にダッシュして、ペナルティエリア外の右側でボールをトラップする。そして背後の熊野をマルセイユルーレットで抜き去った。
目の前は、キーパーのみ。
「うらああっ!」
滑り込むように右足を一閃する。
斜め四十五度に放たれたシュートがゴール左上に向かっていく。
キーパーの伸ばした手の向こう側へ。
頼む、入ってくれ!
「ふんっ!」
シュートがゴールへ入ろうとした寸前、青いユニフォームがヘッドでボールを後ろにそらした。
ボールはゴールのはるか上空へ飛ばされて、選手はネットに転がり込む。
俺は冷たい芝の上にあおむけになり、まだ灰色の雲が覆い隠す空を眺めた。
……外した。
「未散」
いつのまにか上がって来た直登が、俺に向かって手を差し伸べている。
その手を握り、俺はゆっくりと立ち上がる。
「すまん、今のは決めなきゃいかんかった」
「いや、僕のせいだ。捕まえきれなかった」
「え?」
直登の視線の先には、ゴールの中から引き起こされている選手がいた。
「倉石……だったのか」
反対側のゴール前にいたのに、ここまで走ってきてシュートコースに飛び込んだ、だと?
「何なんだ、あいつ。俺のシュート読んでたのか?」
直登は首を振った。
「そこまでは読んでない。直感的に分かったんだ」
「何で言い切れるんだよ」
「わかるから」
直登は笑った。
「さあ、コーナーキックだ。あれ、頼むぞ」
左のコーナーフラッグ付近にボールを置いて、三歩後ずさる。
いつも思うけど、この旗いる?邪魔でしょうがない。
俺はゴール前に集まっている赤と青のユニフォームの集団を見つめる。
直登、本当にやる気か?小学生の時も、中学のサッカー部でも、監督に「無茶なことするな」と止められて公式戦では一度もできなかったプレー。
確かに二人でいつもやってた練習では、結構うまくいってたんだけどな。
でも俺たちはもう、高校生だぜ?県大会決勝だぞ?
本気か?
俺は視線を右にずらして直登を見つめた。
ゴール前の集団のやや後ろに、直登は立っている。
あいつのあんな顔を見るのはいつ以来だろう。
わくわくしてやがる。
いつも背中を見ていた。
初めてサッカー選手としての君を見てから。
君に完敗したあの日から。
周りは僕をバカだと言った。あんな地味なヤツにこだわって何になるんだと。
それでも僕は幸せだった。
DFになった僕の視野で、君がゴールを決めて喜ぶ。僕の少年期には確信しか無かった。
あの大会までは。
決勝戦で交代を命じられ、泣きながらベンチに帰って来た君に、僕は何も言えなかった。
二人でチームを移り、君は中盤にコンバートした。
そして君は、ゴールへの執念も、勝利へのこだわりも無くしてしまった。
だからインターハイ予選の後、君が勝ちたいと言ってくれたことが、僕は本当に嬉しかったんだ。
広瀬さんと接してどんどん元気になっていく君が、キャプテンとして後輩たちを、同級生まで引っ張っていく君が。
ただひたすら、まぶしかった。
僕は少しずつ、ゴール前の集団から離れていく。
ペナルティエリアから出て、半円の外側まで。
倉石、お前は未散になぜか執着している。
だが藤谷未散へのこだわりは、僕の方が上だ。お前にはただの興味でも、僕には青春の全てを賭けた歴史がある。
厚みが違うんだ。
主審のホイッスル。
未散が左足を踏み出して、右足を振りかぶる。
ここからは、はっきりと見えないけれど。
なあ、未散。今もしも僕と同じ気持ちなら、君は笑っているか?
未散のコーナーキックが、ゴール前の集団から遠ざかっていく。
半円の端に立つ僕のもとへ、大きな弧を描いて左からボールが飛んでくる。
美しい回転がかかったボールが僕の目の前にやってきた。
バックスイングを小さめに、未散がかけた回転を損なわないように。
僕は右足をボールに合わせる。
深い、重い衝撃が右足にかかる。振りすぎないように、弱気にならないように。
狙うは一点。
僕は右足を斜めに振り抜いて、ボールの行方を追った。
倉石。
これが入ったら、僕の名前を覚えろよ。
僕は本河津高校サッカー部背番号7、茂谷直登だ!
直登の蹴ったボールがゴールへ向かっていく。
斜めに、切るように合わせたボールがシュート回転でゴールに向かう。
キーパーも、DFも、うちの選手も誰も一歩も動けない。
ボールはゴール左上のバーに当たり、真下に落ちてそのままゴールネットにバウンドしていった。
主審のホイッスルを聞く前に、俺は走り出していた。
やりやがった、本当にやりやがった!
離れたところからコーナーキックを直接ボレーなんて、誰がそんなバカをマークするんだよ。フリーに決まってるじゃないか。
でもだからって、県大会決勝で、誰が本当にやるんだよ!
「直登おおおおおー!」
俺が到着した時には、我が幼馴染は赤いユニフォームにもみくちゃにされていた。
「未散」
部員たちをかきわけて、直登が俺を呼んだ。
直登のこんなストレートな笑顔は何年ぶりだろう。
俺たちは無言で右手を高く上げ、全力でハイタッチをした。
春瀬高校 3-2 本河津高校 得点 茂谷
自陣に戻る途中、春瀬ベンチから怒鳴り声が聞こえた。三蔵監督だ。
監督は一人の選手と向かい合っている。選手の背番号は、10。
倉石だ。
「お前は黙ってプレーしていればいいんだ!」
もう一度、三蔵監督の怒号が響く。
倉石はうなずきもせず、そのまま振り返ってフィールドに戻って来た。
つづく




