第72話「こだわってる場合じゃないな」
一人少ない中、キャプテンは決断する。
春瀬のキックオフとほぼ同時に、前半終了の笛が鳴った。
体が熱い。まだ心臓がドキドキしてる。
狩井君が右サイドを上がっていった時から、もう何を叫んでいたのか覚えてない。
ゆっくりと握っていた両手を開く。油が切れた蝶番のように、指の関節がギチギチだ。手のひらに爪が食い込んだ跡が残っている。
いつのまにか雨はやんで、観客が傘を閉じてレインコートを脱ぐ。スタンドはもう一度赤に染まり始めた。
楽観的な要素は何もない。点差だけ見ればまだ二点負けているし、後半は日本一の春瀬相手に十人での戦いが待っている。
それでも、私はマネージャーとしてすべきことをする。
あの白線の向こう側には行けないのだから。
「みんな、お疲れ!」
雨に濡れて冷えた体を温めなければいけない。タオル、ホットドリンク、ベンチコート。江波先生も手伝ってくれている。本当は紗良ちゃんにも手伝ってほしいんだけど、彼女はさっき雷に打たれように何かを思いついて、一心不乱にタブレットを操作している。
こういう時は話しかけちゃいけないんだ、きっと。
まだショック状態の梶野君も、もうちょっと後から声をかけよう。
「狩井君、ナイスゴール」
私はモト高に希望をつないだ右SB、狩井君の頭にタオルをかぶせ、わしゃわしゃと拭いてあげる。
「あ、ありがとうございます。あの、広瀬先輩、自分でできますから」
「遠慮しないで。前半のヒーローなんだから」
「子供みたいで恥ずかしいですよー」
耳が赤いのは寒さのせいだけじゃなさそうだ。
私は笑って、
「ごめんごめん。はい、じゃあ続きは自分で拭いて」
と、タオルを狩井君に渡す。
本当に、かっこよかったよ、狩井君。
そして私は、いつのまにか静かにベンチに座っている、もう一人のヒーローに駆け寄った。
「島君」
頼りになるキーパーは、いつも通りの顔で私を見た。
「広瀬さん、タオルをもらえるかな?」
「うん」
私はタオルを島君に手渡し、隣に座る。
「すごかったよ、あのセーブ。読んでたの?」
島君はうなずいた。
「一度見たから、覚えた」
「そういうもの?」
「うむ。フリーキックは反復練習の成果だ。だから自然と球筋がワンパターンになる。一度見れば十分だ」
「へえー」
そんなこと考えてたんだ。意外、って言ったら失礼かな。
「だからどんなフリーキックの名手でも、同じリーグにずっといると最初は決まってもその後はなかなか決まらなくなる。それでも決められる選手が超一流だ」
「それはわかる。来るとわかってても止められないってやつね」
「少なくとも、倉石はフリーキックに関してはそこまでではない。だが」
言って、島君は銀次君と話している未散に視線を送る。
「藤谷は、わかっていても止められない選手だ」
島君、見た感じは変わってないけど、いつになく多弁だ。やっぱりテンションが上がっているのかな。
「うちのキャプテンも、最近決まってないけどね」
「いずれ決める」
「本当?」
「保証する」
力強く言い切った。
自分の功を誇ることなく、ただキャプテンへの信頼を口にする人。
いつも面倒な力仕事を引き受けて、いつも私たちを助けてくれる人。
そして、いつも私に優しく、味方してくれる人。
私は島君の正面に立ち、彼の両手のひらをこちらに向けた。
「島君」
「ん?」
「私、今日の島君のスーパーセーブ、一生忘れない」
言って、両手でパチンとハイタッチした。
島君は私の顔をまじまじと見つめ、そして視線をそらして言った。
「自分の仕事をしただけだ」
その横顔が、ほんの少し微笑んでいるように見えたのは私のうぬぼれだろうか。
「やる気あるのか、お前ら!」
遠くから聞こえてきた突然の怒声に、びくっと体がすくむ。
みんなの視線が春瀬ベンチに向かう。三蔵監督を囲んで春瀬の選手たちが立っている。
そこから先は何を言っているのか聞き取れなかったけど、とにかくすごい剣幕で選手たちを怒鳴っている。前半最後に一点返されたことを怒っているのかな。病院で会った時は優しそうなおじさんだと思ったけど。
「あ」
春瀬の選手の中に一人だけ、冷めた目で横を向いている選手がいる。
倉石だった。
「夏希ー」
未散が呼んでいる。
「何ー?」
「伊崎は?まだトイレか」
そう言われれば、まだ戻ってない。
「まだ」
「腹でも壊したか?」
「私、見てくる」
「男子トイレだぞ、大丈夫か?」
「外から呼ぶだけだから」
私は通路へ走った。
世界がにじんでる。
体が重い。
せまいトイレの個室。灰色の壁。
それが俺の世界のすべて。
何もできなかった。
シュート一本も打てなかった。
久城のマークを一度も振りほどけず、熊野には何度も体ごと吹き飛ばされた。
情けない。死にたい。消えてしまいたい。岸野さんに合わせる顔が無い。広瀬先輩にだって。
俺は鼻をすすりあげ、両目を腕でこすった。
でも、本当はそれが理由じゃない。
こんな、こんなことは初めてで。
俺はもう、どうしたらいいか。
こんな時、どうしたら。
「伊崎くーん?いるんでしょー?」
広瀬先輩の声だ。
「……はい」
先輩の声はトイレの外から聞こえてくる。女子だから当たり前か。
「入るよー」
「えっ!」
数歩足音がして、俺が入っている個室に人がもたれかかる気配がした。ドアの下のすきまから、先輩の白いスニーカーが見える。
「ここ、男子トイレですよ」
「知ってる。それよりずいぶん鼻声だけど、どうしたの?」
「……」
聞かないで下さいよ、広瀬先輩。どうして構うんですか。普段、俺がじゃれついてもそっけないくせに,
こんな時だけ。
今日だけは、ほっといてほしかったのに。
先輩が続ける。俺の大好きな、落ち着いた綺麗な声で。
「試合に出たかった気持ちはわかるよ。でもさ、キーパーが退場になっちゃったら、FWを一人引っ込めるのはよくあることだし、未散が君を評価してないわけじゃ」
「そんなんじゃありません」
「……じゃ、前半シュート打てなかったこと?」
「ちがうんです!」
自分でも驚くほどの声が出て、抑えていたものが腹からこみあげてくる。
「ちがうんです……そんな理由じゃ」
「じゃあ、何?言ってくれなきゃわからない」
どうして、聞くんですか。言いたくない、こんな情けないこと。大好きな広瀬先輩に失望されたくない。鼻の奥がツンとして、また視界がぼやけてくる。
「俺……キャプテンに交代だって言われた時……」
「うん」
「……ホッと、したんです」
「……」
「最低です、俺。もう戦わなくていいって言われて、一瞬でもホッとするなんて。俺もう、サッカーやめたい」
言っちゃった。言いたくなかった。広瀬先輩にだけは幻滅されたくなかったのに。こんな情けないところ。
嗚咽が止まらない。
これは本当の俺じゃない。伊崎風は、天才で、イケメンで、逃げたりくじけたりしないスーパーアスリートのはずなのに。
「伊崎君」
しばらく黙っていた先輩が、おもむろに口を開いた。左足でトイレの床をカツカツ蹴っている。
「私ね、六年前足を大ケガした後、すぐにサッカーやめたわけじゃないの。手術してリハビリして、その後復帰しようとした時期がちょっとあって」
「……」
そういえば、そんなことも言ってたっけ。
「プレー自体は問題なかったんだけどね。どうしても、ケガした時の痛みと恐怖が記憶から消えなかった」
「……」
「そのうちケガした左足に力入れると、力が抜けて崩れるようになっちゃって。それで結局、チームもやめて二度とボール蹴らなくなっちゃった。私もその時、ちょっとホッとした」
意外と声が明るい。やっぱり先輩は大人だな。もう吹っ切れてるんだ。
「……後悔、してませんか?」
俺が聞くと、先輩は少し笑った。
「多分、してた。中学の時はずっとイライラして荒れてたし。あれはきっと、あきらめちゃった自分に失望して、腹を立ててたのかなって、今は思う」
自分への失望。今の俺と同じ。
「そういう時、どうしたらいいんですか?広瀬先輩は、どうやって立ち直ったんですか?」
同じだから何だって言うんだ。俺はもう、どうしたらいいか。
「立ち直ってないよ、まだ」
「え?」
「一度あきらめちゃったものは、もう戻らない。でも君はまだ、あきらめてないでしょ?今君は分かれ道にいるんだよ」
「……」
「私みたいに、後悔する方は選ばないで」
先輩の声はかすれていた。
ああ、俺はバカだ。最低だ。
広瀬先輩は、単なる経験談で俺に説教してるんじゃない。大人でもないし、吹っ切れてるわけでもない。
本当は話したくないつらい過去まで引っ張り出して、俺に寄り添おうとしてくれてるんだ。
大好きな、憧れの先輩に、ここまでされて、俺は。
「それに、後半冬馬が春瀬相手にどうプレーするかを見ることは、これからの君にとって絶対役に立つお手本になるから」
ファサッ、とトイレのドアにタオルが引っ掛けられた。
「その情けない顔が元気になったら、ベンチに戻ってきて」
「……先輩、すみませんでした。俺」
「もういいから。後半一緒に応援しよ」
「は、はい!少々お待ちください」
足音が遠ざかっていく。
引っ掛けられたタオルを引っ張り下ろし、顔に当てる。
俺は必死に声を殺して、泣いた。
「お、伊崎どうだった?」
一人で帰って来た夏希に尋ねる。
「んー、やっぱりお腹冷やしちゃったみたい。でももうすぐ来るよ」
「そっか」
言って、俺は夏希の顔をのぞきこんだ。
「何見てるの」
警戒したように、一歩後ずさる。
「いや、何か暗い顔してたから」
「してない」
「いや、でも」
「してない」
「……お前がそう言うなら」
これ以上食い下がるのはやめよう。
「キャープテーン!お待たせしましたー!」
通路から能天気な声がする。
タオルを頭上でブンブン振り回しながら、伊崎がダッシュでやってきた。
「おお、やっと来たか。腹は大丈夫か?」
「え?え、ああ、はい。もちろんです。伊崎風は常に元気印、赤丸急上昇のスーパーアスリートですから!」
よくわからないが、元気ならいいや。
「後半、応援頼むな。スーパーアスリート」
「任せてください!」
もしかして、トイレでいじけて泣いてるんじゃないかとチラッと思ったけど、俺の勘違いだったみたいだ。
「こばっち、どうした?」
後半開始まであと三分ほど。
こばっちはタブレットをひざの上に置いて、フィールドを見つめていた。
「藤谷君」
「うん」
「今からフォーメーション変えることって、可能?」
「へ?」
こばっちはタブレットを俺に見せた。
いくつもの赤い点がフィールド上に分布して、せわしなく動いている。
その中でも俺が目にとめたのは、ゴール前に位置している五つの赤い点だった。
「5バック……か?」
こばっちがうなずく。彼女の目は、初めて会ってから今までで一番真剣な光を放っていた。
「藤谷君、覚えてる?私をスカウトしてくれた時、どんなシュートも、ボールはどこか同じところを通るんじゃないかって」
「確かに言った。でも後から、そんなものは無いからパターンを収集するしかないって結論になった」
「でもね、それじゃ限界があるの。現に今日、今までにない攻め方で来られたら、一気に三失点した。データを集めるやり方では、どうしても後追いになっちゃう」
「そりゃそうだけど、今さらどうしようもないし。それが何で5バックになるんだ?」
「今までの守備は、入る確率の低いコースにシュートを打ってもらうことで、その後のカウンターにつなげていた。受け身だったの。でもそれだと、どうしてもこぼれ球を拾えなかったり、そのまま決められたりして、不安定だった」
確かに。
「それで、一人スイーパーを置くってことか」
スイーパーとはまた古い。うちにはリベロの直登がいるから、適役と言えば適役なんだが。
「それだけじゃなくて、キーパーもこちらから積極的に動かして、より限定的なコースに持ち込むこともできると思うの。そうすれば、そのスイーパーさんが、シュートを打つ前にコースをつぶせるかも」
「なるほど」
理論上は可能かもしれない。ふと顔を上げると、他のみんなもこばっちの周りに集まってタブレットをのぞきこんでいた。
「あの、キャプテン」
照井が言った。
「ん?」
「もしこの通り、DF一人増やすんだとしたら、誰が入るんですか?」
「そりゃ国分だ」
「えっ」
皆ひとしきりキョロキョロして、国分を見つける。
「ぼ、僕、出られるんですか?」
「もちろんだ。センターバックできるよな?」
「できます!キーパー以外ならどこでも」
そうなると、また一人交代してもらわなきゃいけない。前半終了時点で一人退場して、交代カードを二枚使う。大丈夫か?途中でケガ人が出たらどうする。
でもこばっちが考えてくれた、今までの守備の発展形とも言えるフォーメーション。何となくうまくいきそうな気もする。前半と同じことをやっていてはダメなのはわかってる。
でも。
「キャプテン、もう時間ないですよ」
黒須が切迫した声で言った。俺は吸い寄せられるように、夏希を探した。
「……」
うちの自慢の美人マネージャーは、俺の目を見て黙ってうなずいた。
『愚かな一貫性は、子供の空想が生んだバケモノ』
試合前に夏希から聞いた、コーチの伝言。
こだわってる場合じゃないな、もう。もとから俺たちに、守るものなんて無いんだ。
「こばっち」
俺は言った。
「何?」
「ありがとう。その案を採用する。皆藤、悪いけど国分と交代だ」
国分がびっくりしたように顔を上げ、皆藤が寂しそうな顔をした。心苦しいが、仕方ない。
「国分と照井でセンターバックのコンビ。その後ろに直登がリベロで動き回る」
三人がうなずく。
「サイドバックは、二人ともセンターラインくらいまで上がってくれ。実際のフォーメーションとしては、5バックじゃなくて3-4-1-1だと思ってくれていい。とにかく春瀬の両サイドにどんどんプレッシャーかけてくれ」
「僕も、攻撃に参加していいんですか?」
狩井が自分を指さして言った。
「あんな見事なゴール決めたんだから、参加させない手はないだろう」
「はいっ!」
「銀次も遠慮しないで、谷をぶっちぎれ」
「簡単に言いやがって」
銀次が笑う。
「任せとけ」
「頼んだ。中盤は、底に黒須。多少フォーメーションは変わるけど、今まで通りのプレーを頼む」
「はい」
「菊地、お前には特殊な任務を頼みたい」
「何だよ」
今日初めて髪をしばってきた菊地。このスタジアムのどこかで見ている子安先輩に、かっこいいとこ見せたいだろうけど。
「お前には、黒須の周りでボールを拾って、キープをお願いしたい」
「……汚れ役ってことかよ」
菊地のキープ力を中盤センターで発揮できれば、両サイドと俺が上がっていく時間をかせげるし、何よりパスコースが増える。皆藤にはできない仕事だ。
「イヤか?」
「一つ条件がある」
菊地は指を一本立てた。
「何だよ」
「中盤は俺と黒須に任せて、お前と冬馬は攻撃に専念しろ」
みんなが一瞬ざわつく。何だと?
「それは……どういうことだ?」
「そのままの意味だよ。お前が今まで中盤に気を配ってた分を、全部攻撃に集中してくれ。そしたら俺と黒須で後ろを支えてやる」
黒須もうなずいた。
「こんな時に言うことじゃないですけど、僕もいつも思ってたんです。もしキャプテンが攻撃だけに集中したら、どんなプレーするんだろうって」
「……みんなも、それでいいのか?」
部員たちを見回す。みなそれぞれにうなずいた。
「だから一回戦から俺が言ってただろ?余計なことはするなって」
冬馬がため息交じりに言った。あれ、そういう意味だったのか。
俺はみんなに言った。
「わかった。そうする。中盤から後ろはみんなに任せる。俺は冬馬と二人で、点を取ることだけ考える」
点を取ることだけ考える。
そんなの、小学生の時以来だな。
「じゃ、そろそろ行くぞ。夏希、梶野と伊崎のこと、頼む。あと皆藤も」
スパイクのヒモを結び直し、俺は立ち上がった。
前半の雨はすっかり上がり、ところどころに晴れ間も見えてきている。ついでに風も吹いてきた。後半は、俺たちの追い風になる方向で。
「わかった。しっかりね」
夏希が俺の二の腕をポンと叩く。
「くおらあああーっ藤谷いいいいっ!イチャイチャするんじゃねえ!」
聞き覚えのある声が、ベンチ近くの客席からとどろいた。
「……久里浜」
見上げると、桜律の久里浜が最前列の柵から身を乗り出している。相変わらずクドい顔だ。
いやみったらしく青いダウンジャケットを着ている。
「何だお前、応援に来てくれたのか」
「うるっせえ!誰が応援なんぞするか。お前が自分の実力を知るところを見に来たんだよ!」
相変わらずイヤなやつ。
「や、藤谷君」
すると隣から、神威君も顔を出した。こちらは赤いコートに赤いマフラーをきっちり身に着けてくれている。隣には彼女の城戸さんもいる。
「神威君も!わざわざありがとう」
神威君は久里浜のダウンジャケットのすそを持ち上げた。
「こんなこと言ってるけどね、こいつ裏側が赤のリバーシブル着てきたんだよ」
「やめろ!余計なこと言うな!」
男子二人が最前列でじゃれあっているのを横目に、俺は何気なく視線をずらす。
「あ」
見覚えのある面々が、こちらに手を振っている。
一回戦の誠友高校のキャプテン、出山さん。二回戦の厚尾からは試合前に会った篠浦と柏木さん。近くには転校していった佐々木さんの姿も見える。
三回戦で当たった国際大付の外木場がこちらに出っ歯を見せてニカッと笑っている。
準決勝の川添西の人たちも、自前の赤いジャージでほぼみんながスタンドにいる。あの野呂さんも。
よく見ると、夏希とデートした商店街でフットサルをしたチームもいる。あのひときわ大きな声で笑っているのがリカルドだ。
「未散、あそこ。ショップの嘉藤さん」
夏希が指さした先には、駅前のサッカーショップ『エリックス』の嘉藤さんの姿も見えた。
「みんな……来てくれたんだ」
目の下がじわっと熱くなる。俺はあわてて夏希の視界から顔をそむけた。
「幸せ者だね、キャプテン」
夏希がおかしそうに笑う。
俺は、
「うん」
としか答えられなかった。
それ以上は、鼻声がばれてしまうから。
「ふ、藤谷君」
毛利先生がひときわ小さな声で言った。
「はい?」
「く、く、悔いのないように、がんばってきてほしい。僕が言えるのは、これくらいだけど」
「ありがとうございます。先生も、ベンチをお願いしますよ。監督なんですから」
「うん!」
まったく、どっちが先生なのかわからない。
サイドラインに向かう。もうすぐ後半のキックオフが春瀬から始まる。
「直登」
ライン際で俺を待っていた幼なじみに、俺は声をかける。
「頼むぜ、最終ライン。照井と国分は一年だし、経験も少ない。お前にかかってる」
「わかってる」
「よっしゃ、じゃあ行くか」
「未散」
「ん?」
「昔よく遊びでやってたあのプレー、覚えてるか?」
何だ、いきなり。
「あのプレーって、あれか?もし実戦でやろうとしたら、みんなに止められる、あの無茶な」
「そう、それだ」
「それが何だよ」
「もしチャンスがあったらやってくれ」
直登の目は真剣だった。
「何でそんなこと」
直登の視線は青いユニフォームの一人の選手に注がれていた。
「倉石に、僕の名前を覚えさせてやる」
そのあまりに真剣なもの言いに、俺は思わず笑ってしまった。
「笑うなよ」
「いや、悪い。もしかして倉石がうちに来た時、お前を覚えてないって言われたの、ずっと根に持ってたのか?」
「そうだ」
「暗いヤツだなあ」
俺は直登の背中をポンポンと叩いた。
小学生の時から不思議なヤツだった。冷めてるかと思えば異常に負けず嫌いだったり。俺は今でもこの男の頭の中がサッパリわからない。
でもただ一つ言えることは、友達の少ない俺の側にいつもいてくれたのは直登だけだったってことだ。
「ありがとな、相棒」
少々照れながら言うと、直登はクスクス笑った。
「似合わないな、素直な言葉が」
「うるさい。行くぞ」
俺は自陣に走った。
目の前には真っ赤なスタンド。
風が強く、強く吹き始めていた。
つづく




