第71話「風」
絶体絶命。
ゆっくりと梶野に近づいていく。
一歩足を踏み出すたびに、体から力が抜けていくのがわかる。あれだけうるさかった観客たちも、ウソみたいに静まり返っている。
雨がさっきより冷たい。
梶野は芝に両ひざをついてうなだれていた。
「藤谷……俺……俺……何とかしたくて……俺」
「わかってる。お前はよくやった」
俺は梶野の前にしゃがみこみ、肩に手を置いた。
本当に、ここまでよくやってくれた。
キーパーの仕事は九割がセービングだと割り切り、島にセーブの基本だけを教え込んでもらった。本当なら島のためにも専門のGKコーチを呼びたかったが、あいにく弱小高にそんなツテはない。広瀬コーチの人脈を頼むのも、図々しく甘えすぎているようでためらわれたし。今思えば、図々しくても何でもいいからGKコーチを呼んでもらえばよかったかな。
今さら言っても遅いか。
もう何もかも、遅い。
俺は主審に言った。
「主審。一人メンバー交代したいんで、いったんみんなベンチに引き上げていいですか?すぐ戻ります」
主審は腕時計をチラリと見て、
「三分を過ぎたら遅延行為を取るよ」
と感情のない声で言った。
直登と菊地がうつろな目をした梶野を両脇から抱えて歩く。
いいな。俺だって、本当は立っていたくないんだ。
ベンチには、泣きそうな顔のこばっちと、絶対泣かないと決めているような怖い顔をした夏希が待っていた。
ああ、何て言おう。何て言えば、夏希は納得してくれる?彼女の顔がまともに見られない。
誰も一言も話さない。みんな俺に注目し、俺の言葉を待っている。
本当に、キャプテンなんてやるもんじゃない。
「えー、まず伊崎。悪いが島と交代してくれ。冬馬のワントップでいく」
「……」
「伊崎、聞いてるか?」
意外にも、伊崎は特に文句も言わず、
「へーへー。どうせそんなこったろうと思ってましたよ」
と冷めた反応を返し、両手を頭の後ろで組むとくるりと背を向けて歩き出した。
「どこ行くんだ?」
「トイレですよ。雨で冷えちゃって」
こちらに背を向けたまま手を振って、伊崎は暗い通路へと消えていった。
何だ、あいつ。怒ってるのか?珍しい。後で謝っとくか。
「えっと、時間が無いから手短に。みんなに言っておくことがある」
言おう、ちゃんと。
もう……ダメだって。
あきらめようって。
がんばったじゃないか。公式戦で勝ったことのない同好会レベルのサッカー部が、インターハイ優勝校と決勝戦やってるんだ。すでに奇跡だぜ、これ。
雨のせいか、ふがいない俺たちのせいか、客席からチラホラと席を立って帰っていく人が見える。それも当然だ。
「ここまで、スコアは0-3だ。そして今のプレーで一人退場。幸いPKにはならなかったけど、至近距離のフリーキックを、多分倉石が蹴る」
俺は続けた。
「これから先の時間は……」
サッカーを楽しもう。それでいい。
球蹴り遊びに人生賭けてムキになるなんて、そもそもおかしいんだ。
幸運の連続で、今年は決勝戦まで来られた。青春時代の思い出としては上等だ。
「もう……」
必死に言葉をつなごうとする。
でも、声が出ない。
「島君っ!?」
夏希の声がしたのと同時に、俺の体が宙に浮いた。
正確には、胸倉を島の両手でつかまれ、足元が十センチほど浮いていた。ユニフォームの首がギリギリと締まる。声が、というか息ができない。
ちょうど真正面に島の顔がある。怒ってるのか?どういうつもりだ?
「島っ!何やってんだ!下ろせ!」
「島君!」
「島先輩、主審が見てますよっ!」
みんなが島の腕をつかんでゆすり、俺はようやく地面に足を下ろした。何度かせきこんで深呼吸する。
「ゲホゲホッ!……おい、島、何のつもりだよ!」
のどを押さえながら抗議すると、島はその細い目をさらに鋭くして俺を見返した。
「今、何を言おうとした?」
「……いや、それは」
俺は島から、そしてみんなの視線から逃れるために足元を見つめた。
「俺が、試合に出たくないとでも思っていたのか?」
島の言葉に、俺は頭を上げた。
「島……」
「俺だって、選手だ。コーチじゃない。試合には出たい。でもキャプテンのお前が本気で優勝を目指すと言ったから、梶野の控えでここまでついてきた」
「……」
俺は黙って島の言葉を待つ。
「それなのに、ようやく俺の出番が来たというのに、お前は勝負を投げるのか?俺はお前の戦術に入っていなかったのか?」
「……」
言葉がない。
島は、いつも無口で、俺の言うことには逆らわなくて、面倒な力仕事も率先してやってくれるいいヤツだ。自分の出番が減るのもわかったうえで、梶野にキーパーの基礎を教えてやってくれた。
そういうやつだと思ってた。ずっとそうだと思ってた。それだけだと思ってた。
「答えろ、藤谷」
「……」
島の低い声が突き刺さる。
俺は、最低だ。
島の気持ちなんて、全然考えてなかった。誰だって試合に出たい。それは下級生というだけで控えにされていた去年、自分がイヤほど味わっていたはずなのに。
残り時間はあきらめて楽しもうなんて、ただの逃げだ。ごまかしだ。
俺は軽蔑してた先輩たちと同じことをやろうとしてたんだ。
「お前は……」
俺は精一杯胸を張り、背筋を伸ばす。声が震える。
「お前は……俺が、一番頼りにしてる、秘密兵器だ。今までお前は経験者なのに梶野の控えに回ってもらった。すまないと思ってる。でも俺は、キーパーとしてのお前に何も期待してないわけじゃない」
「それは?」
島が聞いた。俺は夏希の方を向いて言った。
「夏希、覚えてるか?お前がマネージャーとして練習に参加した初日。倉石がうちに乱入してきたこと」
「う、うん。はっきりと」
夏希が神妙な顔でうなずく。
「倉石はあの時、フリーキックを俺に見せつけに来たわけだけど、キーパーには梶野じゃなくて島を置いた。別に梶野に意地悪したわけじゃない」
そうだ。今考えればバカみたいな、でもあの時は必要だと思った考えすぎの準備。
「島は、初見のテクニシャンにこそ弱いが、一度見た球筋や選手の特徴は忘れない男だ。だから俺はあの時、島に倉石のフリーキックを見せた」
みんなが一瞬ざわつく。
「じゃあキャプテンは半年前の段階で、春瀬と当たった時に備えて島先輩に倉石のフリーキックを見せてたって言うんですか!?」
黒須が目を見開いて言った。
「そこまで考えてたわけじゃないけどな。梶野に変な先入観持たせたくないってのもあったし。そこは色々だ」
俺は島に向き直った。
「島、倉石のフリーキックを覚えてるか?」
島がうなずく。
「止められるか?」
「むろんだ。球筋やクセは、距離に関係ない」
俺はうなずき、みんなを手招きして声をひそめた。
「いいか?倉石がボールに触る寸前まで、みんなしょんぼりした顔してろ。もう何もかもあきらめましたって顔で、心がヘシ折られた感じで」
「それで?」
菊地が聞く。
「倉石がボールに触った瞬間、みんなは近くにいる春瀬のヤツらを邪魔しろ。ファウルはダメだ。とにかく体入れて、うまく走れなくすればいい」
「ようやくお前らしい、セコい作戦が出てきたな」
菊地が笑う。
「ほっとけ。この作戦は、まず島が倉石のフリーキックを止めなきゃいけない。そして」
俺は銀次を見つめた。
「一世一代のカウンターを仕掛ける。銀次、倉石がボールに触れた瞬間、相手ゴール前にスタートしてくれ。たとえ谷が追いかけてきても、今年一番速く走ってくれ」
銀次はかすかに笑い、
「任せろ。人生で一番速く走ってやるよ」
と言って、春瀬ベンチを振り返った。
黒須が小さな声で言った。
「キャプテン、主審が時計見てます」
「よし、そろそろ行くぞ」
みんなでぞろぞろとフィールドに戻る。あえて力ない足取りで。
「藤谷」
ゴールへ向かう島が隣に並んだ。
「ん?」
「乱暴をした。すまない」
「何言ってんだよ。お礼を言わなきゃいけないくらいだ。目が覚めたよ」
ここまでよくがんばっただの、サッカーを楽しむだの。そんなの、必死にやって負けたらかっこ悪いから、予防線張って言い訳してるだけなんだ。
俺はそんな人生は送りたくない。島はそれを思い出させてくれた。
「頼みがある」
「え?」
何だいきなり。
「何だよ」
「広瀬さんが」
「え?」
島の口から意外な名前が出る。頼みじゃないのか。何の話だ?
「夏希が何だ」
「さっきからずっと、泣くのをこらえているような、とてもつらい顔をしていた」
「……」
「もう彼女に、あんな顔はさせないでくれ。それが俺の頼みだ」
それは……どういう。
「島、お前まさか」
「行くぞ」
島は走って俺を追い越して行った。
ペナルティエリアからボール二つ分ほど離れた正面に、倉石が立っている。ヤツは俺の方を見ているが、何かしゃべったら作戦がバレるかもしれない。俺は倉石と目を合わせないように、ボールから離れた右サイドに移動する。狩井と皆藤もこちらだ。
二人には俺を走らせるために、守備に専念しろと指示してある。
壁には照井と菊地。直登と銀次は左サイドへ。ここは直登が食い止めて銀次を走らせる予定だ。
島がゆっくりとゴール前に歩いていく。
頼むぜ、島。全てはお前にかかってるんだ。
俺たちが、この絶望的な状況からまだやれるかどうか。
「あ」
空を見上げる。
いつのまにか、雨が止んでいた。
俺はグローブのテープを締め直し、左右二回ずつ、手のひらを開いて閉じた。主審はまだ笛を吹かない。壁の距離にこだわっているようだ。
ベンチを見る。
広瀬さんが両手を組んで祈っている。
気が強くて、率直で、誰にも臆さない彼女が、泣きそうな顔で祈っている。
あなたを笑顔にできるのは、藤谷しかいないんだと、俺はすぐに気が付いた。
多分、あなたが気付くより前に。
今日の結果に関係なく、あなたはいつか俺を忘れる。
あなたの目には、最初から藤谷しか映っていなかったのだから。
でも、もしかしたら。
このフリーキックを止めることができたら。
あなたは俺を忘れずにいてくれるだろうか。
主審が甲高いホイッスルを吹いた。
壁に入った菊地と照井が身を引き締める。
ふとスタンドが視界に入る。
雨が止んだことで傘が閉じられ、皆レインコートを脱いでいる。観客席に少しずつ、赤色が戻り始めた。
倉石が足を踏み出す。短い助走から迷いなく右足を振りかぶる。
うつむいていた俺たちは、一斉に顔を上げた。
倉石の右足がボールに触れる。
銀次の体が沈み込んで反転する。
気付いた谷を直登が押さえる。
倉石の蹴り上げたボールが壁の右側を巻くようにゴールを襲う。
ゴール右端から左端へ、鋭く曲がっていくボール。
「ぬおおおおっ!」
微動だにしなかった島が、ひざを曲げて大きく左端にジャンプした。
倉石のフリーキックは、吸い寄せられるように島の両手に収まった。
「よっしゃあああっ!」
止めた!銀次に続いて、冬馬と俺が春瀬ゴールに走り出す。春瀬のユニフォームも遅れて追いかけて来る。
「ふんぬっ!」
島の渾身のスローイングが俺の前に飛んできた。俺は進行方向を向いたまま、落ちて来るボールを右のインステップで捉え、ダイレクトパスを銀次に通す。
青いユニフォームの谷が、追い上げてきた。
チクショウ、来やがった。谷、おめーは速えよ。足の速さだけならかなう気がしねえ。
でもな、俺はかけっこやってんじゃねえんだよ。サッカーやってんだ。
藤谷が俺を左サイドバックとして期待するなら、それに応えなきゃいけねえ。あいつに借りた、この具合のいい青いスパイクに賭けても。
藤谷のダイレクトパスが俺の進行方向にバウンドする。やっぱうめえわ、あいつ。
なあ、藤谷。
今さら恥ずかしくて聞けねえけどよ。いつか聞かせてくれよな。
他にも足の速いやつなんて探せば一杯いたはずだ。なのにおめーは俺にこだわった。
背後に谷の気配がする。ヤツに追いつかれる寸前、俺は藤谷からのパスを、左足のインステップでダイレクトにとらえる。
三か月間、ずっと練習してたインステップのダイレクトクロスだ。
うまく上がってくれよ!
「おらあああっ!」
蹴るんじゃない、勢いを利用して弾け。そうお前は言った。
弾かれて高く上がったボールは、ゆるやかな弧を描いてペナルティエリアの手前に曲がっていく。
なあ、藤谷。
何で俺を選んだんだ?
銀次のクロスが美しい弧を描いて向かってくる。完璧なインステップクロス。ニアサイドの冬馬が春瀬のDFを引きつける。ボールは走りこむ俺の前に来るはずだ。
「うっ」
まずい、ボールが想定した位置に来ない。
向かい風か!ダメだ、このままじゃ俺が先に通り過ぎる!
誰か右から詰めて来るか?いや、来るわけがない。チクショウ、守備に専念しろなんて、上がるななんて言わなきゃよかった。たった一回のチャンスかもしれないのに。
でも。
だけど。
頼む、来てくれ。
来い、来い、来い来い来い来い来い!
俺は頭上を通り抜けるボールを目で追い、叫んだ。
「狩井いいいっ!」
上がるなって、キャプテンが言った。だとしたらそれは正しい。キャプテンは間違わない。
僕と国分がサッカー部に一か月遅れで入部したのは、三年の先輩たちが意地悪だと、四月に伊崎から聞いていたから。
五月に入って、伊崎が「今度のキャプテンは怖くないぞ」って言ったから、行ってみようと思った。
キャプテンは僕に、「お前のインサイドキックは県下一正確だ」って言ってくれた。右SBのレギュラーにもしてくれた。銀次先輩の練習も任せられて、代わりに僕は銀次先輩から速く走るコツを教わった。
すべては、キャプテンに出会ってからなんだ。
地味で目立たない、公式戦で一度も得点したことのない僕が、うまくなれたのも、決勝戦まで来られたのも。
なのに僕は今、ゴールに向かって全速力で走っている。
どうしても、そうしなきゃいけない気がするから。
すみません、キャプテン。
今日僕は、初めてキャプテンの指示に逆らいます。
信じられない。
俺の頭上を越えて、逆サイドにこぼれていくはずのクロス。
そこに赤いユニフォームが走りこんできた。
「すいませーん!」
なぜか謝っている狩井が、ハーフバウンドのボールをインサイドキックでとらえる。戻って来た久城が必死にシュートコースへ足を伸ばす。
県下一正確なインサイドキックは、難しいハーフバウンドさえ正確にとらえ、九城の足を越え、GK杉崎が飛びつく指をかすめてゴール右上に突き進む。
あと一瞬早くても、遅くても、どこかにぶつかっていただろう。
うちの自慢の右SB、狩井昴のボレーシュートは、春瀬高校のゴールネットに突き刺さったのだ。
春瀬高校 3-1 本河津高校 得点 狩井
「狩井!」
決まった!決まった!一点返した!
「狩井?」
駆け寄ると、狩井はなぜか今にも泣きそうな、情けない顔をしてゴール前にへたりこんでいた。
俺はひざをついて、狩井を強く抱きしめる。
「バカだな、お前は。上がるなって言ったろ」
「すいませーん。指示に、そむきましたあ」
「もうどうでもいいよ、そんなこと。本当に、よく詰めてくれた」
狩井の頭をくしゃっと撫でて、俺は駆け寄って来たみんなとタッチした。狩井もみんなにバンバン叩かれている。
まだ終わらない。俺たちは終わってない。
春瀬相手にまだ二点負けてる事実はもちろん重いが、0-4になるところを1-3にしたんだ。このゴールには、一点以上の価値がある。
「ようやくエンジンがかかってきたようだが、手遅れだ」
自陣に戻る途中、すれ違いざまに倉石が言った。
俺はそれには答えず、空を見上げた。
「なあ、倉石。知ってるか?」
「何だ」
「雨がやんだ後って、風が吹くんだぜ」
つづく




