第70話「見えねえよ」
多分しなくてもいい名前の由来解説
家下……イニエスタ
虻田……アビダル
杉崎……スビサレータ
ポツポツと雨が降り始める中、センターサークルで倉石とコイントスを行う。
結果、前半は俺たちのキックオフから始まることになった。
「できれば晴天でやりたかったな」
倉石が誰にともなくつぶやいた。珍しく同感だ。
赤いユニフォームのチーム写真を撮って、一旦ベンチへ。屋根がありがたい。
幸い芝はまだそれほど濡れていないが、雨粒が少しずつ大きくなっている。水はけが悪いスタジアムではないけど、それでも降り続ければ限度があるだろう。ずっと降り続けるという予報ではなかったし、とにかくなるべく早く上がってほしい。
スターティングメンバーは、GK梶野、DFが左から銀次、照井、直登、狩井。中盤の底に黒須で、右サイドの下がり目に皆藤。左サイドの上がり目に菊地。
菊地と皆藤を結んだ線上、トップ下が俺、藤谷。FWは冬馬と伊崎の2トップ。控えがGK島、MF国分、FW芦尾。DFにはケガで出られないが、一応金原が登録されている。
監督は毛利純先生。チームドクターが保健室の江波先生。そしてマネージャーが広瀬夏希と小林紗良の二人。両マネージャーとも、背番号入りのユニフォームをしっかり下に着こんでいる。
フィジカルトレーナーの盛田先生は今日もスタンドで、赤いジャージを振り回して応援してくれる予定で、特別コーチの広瀬春海さんもスタンドのどこかにいるはずだ。
試合開始を目前にして、みんなが思い思いに体を動かしている。自然と言葉数が減ってきている。
「金原」
俺はベンチに座る短髪の男に声をかけた。
「ん?」
金原は肩をすくめて、ベンチコートのチャックを一番上まで閉めている。意外と寒がりだ。
「応援頼むな」
「おお、任せとけ。キャプテンに余計なことかもしれねえけどよ、お前も照井のこと頼むぜ。あいつも、素人の俺に色々教えてくれてたからよ」
「そうだったのか」
「ああ」
金原の視線がフィールドへ向かう照井の背中を追う。
照井も練習に協力してくれてたのか。自分の出番が減るって知ってて。
「よっしゃ、行ってくる」
ベンチに声をかけると、
「待って」
と、夏希が呼び止めた。
「何だよ」
夏希は答えず、俺の左腕を取って黄色いキャプテンマークをベリッと外した。
「キャプテンマークは、もうちょっと上がいい」
「そうか?別にどこでもいいけど」
「ダメ」
キッパリと言い、夏希がキャプテンマークの位置を調整する。
「ヒューヒュー」
「熱いよー」
「チキショー!俺もリフティング十回できるぞー!」
スタンドから野次が飛んでくる。観客がいつもより多いと、こういう弊害もあるのか。
「外野は気にしないで」
「そう言われても」
「兄さんからの伝言」
「え」
夏希は言った。
「愚かな一貫性は、子供の空想が生んだバケモノだって」
「はあ?」
何だそりゃ。
肩に近いくらい上げられたマークをピシリと締めて、夏希は俺の左腕をパシンと叩いた。
「行ってらっしゃい、キャプテン」
「おう、行ってくるぜ!」
甘い笑顔は無かった。それでも俺には、彼女の真っすぐな目が一番の応援になる。
あんな曇りの無い目で期待されたら、がんばるしかない。応えてみせようじゃないか。
雨粒がまた少し大きくなった。
センターサークルには背番号9、冬馬が先に来て待っていた。今あいつの視界には、青く美しい王者のユニフォームが映っているはずだ。
自分をセレクションで落としたチームと決勝で戦うって、どんな気持ちなんだろう。見返してやったって思えるだろうか。いや、ここで負けたらやっぱり落として正解だったとなるのが怖いかな、俺なら。
冬馬が歩いてくる俺に気付く。
「おせえよ」
相変わらず容赦がない。
「すまん」
特に反論もせず、俺もセンターサークルに入る。
「とうとう来たな、ここまで」
「ああ」
「調子は?」
冬馬に尋ねる。
「雨は嫌いだ」
エースは空を見上げて、顔をしかめる。
もし優勝できたら、この無愛想な男も笑顔になるのかな、なんてことを考えてしまう。
「なあ、冬馬」
「何だ、緊張してんのか?口数多いぞ」
「そうかもな」
「で、何だよ」
「ありがとな、うちを選んでくれて」
俺を、選んでくれて。
冬馬はいぶかしげに俺を見つめた。
「気持ち悪いこと言ってんじゃねえよ。ほら、主審が笛吹くぞ」
主審が腕時計の時間をセットする。ホイッスルを口にくわえる。
全国高校サッカー選手権大会Y県予選決勝、春瀬高校対本河津高校。
ホイッスルの甲高い音色が、雨の隙間をぬって耳に届く。
冬馬が俺にパスを出した。
始まった。とうとう始まってしまった。
私はひざの上に置いた、未散専用のベンチコートを強く握りしめた。見てる私の方が緊張している。
冬馬のパスから始まってまだ五分も経っていない。なのにボールはいつのまにか春瀬の中盤が回している。降り出した雨なんて気にもしていないような、スムーズで速いパス回し。
手元のメンバー表に目を落とす。
見た目は4-3-3のフォーメーション。中盤の底に背番号4をつけた三年の別府が座り、右に二年の家下。左に三年の長谷。三人とも大柄ではないけど、どことなく体に厚みがあって、ちょっとぶつけられたくらいじゃビクともしない強さがある。左に大きく張り出したウイングの位置には三年の須藤で、反対側には二年の飯嶋。二人ともさっきから左足しか使っていない。左利きの選手って、そういうこだわりがあるみたい。
そして春瀬には、本来いるべきトップに選手がいない。その代わりトップから少し下がり目の場所に、キャプテン倉石がいる。いや、いたりいなかったりしている。
開始からもう、攻撃でも守備でも区別なく、適切な位置に適切なタイミングで顔を出している。憎たらしいし嫌いだけど、うまいのは間違いない。
かなり高い位置にいるDFラインは、右から谷、熊野、久城、虻田。谷以外はみんな三年。キーパーはこれも三年で、杉崎という背が高くて手足も長い人。しかもさっきから、ごく普通にパス回しに参加している。DFライン自体が高いので、ペナルティエリアギリギリまで出てきている。よほど足元に自信があるんだ。
「夏希ちゃん」
隣の紗良ちゃんがポツリと言った。
「ん?」
「変だと思わない?」
「何が?」
「春瀬が全然シュート打たないの」
「あ」
確かに。
うちの守備は相手のパスコースを限定して追い込み、シュートコースをわざと開けて上手い選手が早めに足元からボールを離すように持っていくものだ。なのに春瀬は開けたコースに全然シュートを打ってこない。
「まずいな。照井が戸惑ってる」
金原君が渋い顔で言った。照井君は今週ずっと、CBの動き方を何度も何度も繰り返し練習していた。練習通りなら、相手がもっと打ってきていいはずなのに。
「序盤だ。ただの様子見かもしれない」
島君が言った。
「だといいけど」
皆藤君と黒須君が、二人でボールを追いかけまわす。それをあざ笑うかのように、春瀬がパスを回し、少しずつモト高ゴールに近づいていく。
「おいおいお前ら、まだ始まったばっかりだぞ。相手はインターハイ王者なんだから、苦戦は承知の上だろうが」
芦尾が珍しくまともなことを言った。でもその通りだ。
フィールド上の未散は、どう判断してるんだろう。読まれてる?偶然?
やべえ、完全に読まれてる。
キックオフから五分が過ぎた。春瀬はボールをキープして少しずつゴールに近づいてくる。その間にもパスミスやトラップミスはない。いくら皆藤や黒須がタフだと言っても、あの調子で走らされてちゃそのうち足が止まる。
俺から前線の冬馬と伊崎へはまだ一本のパスも通っていない。
それに照井だ。
相手がシュートを打ってくる前提で練習していたものだから、パスだけで様子見という春瀬の出だしに明らかに戸惑っている。
早くシュートの一本も打って落ち着かせてほしいんだが。
前半八分。
左サイドの長谷からようやくタテに速いパスが出る。須藤が狩井と競り合いながら中央へグラウンダーで折り返す。春瀬のFWはいない。
読んでいた直登が飛び出して、折り返されたボールを取りに行く。
「直登、待て!」
俺はとっさに自軍のゴール前に走り出す。
直登の前に、風のように倉石が躍り出た。カットしたボールを一旦後ろの別府に戻し、別府が右の家下にダイレクトで回す。チェックに行った銀次をあっさりかわして、家下はタテに速いボールを入れる。
反応したのは、9番の飯嶋。
速いパスが吸い付くように足元に収まり、そのまま角度の無い位置からドリブルでペナルティエリアに侵入する。照井と黒須を流れるようなステップで抜き去り、左足を振りかぶる。狩井がボールに足を出したところで左足を止めて、狩井もかわす。
「ふっ」
そして左足を素早く一閃して、今度こそシュートを打った。
「ぬおおおおっ!」
間に合え!どっかに当たれ!
俺はゴールに向かってスライディングで飛び込んだ。同じタイミングで直登も足を伸ばす。
梶野がゴール左隅にジャンプする。
ボールは俺の足をすり抜け、直登の足に当たる。イレギュラーバウンドしたシュートは梶野が飛んだのとは反対側に跳ねて、パサリとネットを揺らした。
春瀬高校 1-0 本河津高校 得点 飯嶋
「くそっ!」
直登が珍しく感情をあらわにして、濡れた芝を拳で殴った。
「やめろ、直登。手を痛めるぞ。失点はお前のせいじゃない」
俺は濡れた前髪を後ろになでつけ、飯嶋を囲む春瀬の選手たちを見つめた。
最初は様子見だと思ってた。こちらの出方を見るための。
でも違う。
三蔵監督は、俺の戦術を見抜いている。簡単にシュートさえ打たなければ、俺たちにチャンスを与えることもないんだと。
「キャプテン、すみません。練習と全然違って」
照井が青ざめた顔で立ち尽くしている。
「いや、照井はよくやってる。俺の見通しが甘かっただけだ。お前はその調子でがんばってくれ」
「は、はい」
失点したのにその調子でがんばれなんておかしいかな。でも今はそれしか言いようがない。
「で、どうすんだ?ここから」
冬馬が不機嫌な顔で言った。今までこいつがボールに触ったのは、確かキックオフの一回だけだ。不機嫌にもなろう。
俺はみんなを集めて言った。
「とにかくもう、受け身でボールを待つのはやめだ。こっちから取りに行く。あいつらだって、この雨の中ずっと今まで通りのパス回しができるわけじゃないだろうし」
みんなが無言でうなずく。
「確かにあいつらみんなうまいけど、左の須藤と長谷はそれほど特別な感じはしない。だから狩井は、皆藤と協力してあいつら二人からボールを奪え」
「はい!」
「イエッサ!」
「特に狩井。お前は今日は攻撃参加無しと思っていい。サイド攻撃は左から銀次をどんどん走らせていくから。今日は守備に専念だ」
「わかりました!」
狩井が力強くうなずく。こういう素直なところは本当にありがたい。
「よっしゃ、じゃあ行くぞ」
「そうだな、まだ一点だ!」
菊地が明るい声を張り上げる。
まだ一点。確かにその通りだ。
しかし問題は、春瀬から得点を奪う方法が俺の頭に何一つ浮かんでこないことだった。
「うー、憎ったらしい!もう点取られちゃった」
私は近くに座っている芦尾のお腹をペチンと叩く。
「いって!俺に八つ当たりするなよ!」
「だって……叩きやすそうだったから」
「そんな理由でいちいち叩かれてたまるか!」
お腹をさすりながら講義する芦尾を無視して、私は紗良ちゃんに声をかけた。
「どう思う?やっぱりうちのやり方が読まれてるのかな?」
紗良ちゃんは首を振った。
「まだ始まったばかりだから、何とも言えないけど」
「けど?」
「私たちは前評判が高かったわけじゃないから、ここまではあまり研究されずに来られたと思うの」
「うん」
「でも春瀬くらい強いところになると、相手がどこであれしっかり研究しててもおかしくない」
それは、確かに。
「問題は、あえてコースを空ける守備が見抜かれているかどうかってことだな」
金原君が後を続けた。紗良ちゃんがうなずく。
「そう。もしかしたら、春瀬はそれを確認するために序盤を使う気かもしれない」
「てことはアレか?俺たちは確認のための時間であっさり先制点取られたってのか。クソッ!」
芦尾がいまいましげに言って自分の太ももを叩いた。
私は再びキックオフした未散と冬馬を見つめた。
どうするの、キャプテン。
先制してからも春瀬は、やみくもにシュートを打たない姿勢を崩そうとはしなかった。
今はとりあえず、須藤と長谷のいるサイドでボールを奪うことに専念しよう。倉石は言うまでも無く、右の飯嶋と家下はちょっと手がつけられないうまさだ。
前半十六分。
しばらくして、狙い通りに春瀬のパスが左の長谷に回った。
「おっ」
雨に濡れたボールがわずかなトラップミスを誘う。
今だ!
「イイイイイヤッホウッ!」
けたたましい奇声を上げながら、皆藤がこぼれたボールに食らいついていく。慌ててボールを拾った長谷が反転する。
「よしっ!」
反対側からボールを奪った狩井を見て、俺は前方へ走り出した。
「キャプテン!」
狩井が走り出した俺に長いボールを送る。
「チッ」
目の前に立ちはだかったのは、4番の別府。俺は別府に背中を向けてパスをもらうと、左のアウトサイドで体の外側にボールを流した。すかさず反転し、別府が距離をつめてくる寸前に右足で逆サイドに長いパスを送った。サイドラインへ流れるボールに左SBの銀次が走る。
行ける!
「え」
雨の中でも変わらぬスピードで走る銀次を、外側から青い影が追い抜いていく。
谷だ!
銀次を気にする風も無く、濡れた芝生の上を軽やかに春瀬の右SB谷が駆けていく。
カットしたボールをCBの熊野に送り、自分はサイドを再びフルスピードで上がっていく。
「チックショオ!」
追いかける銀次の声がここまで聞こえる。俺は黒須に「戻れ!」と声をかけつつ、ゴール前に走る。
ボールは熊野から別府に渡り、別府が右の家下に回して自分も上がっていく。
家下は中央の倉石にボールを渡して、先に上がった谷のフォローに回る。
照井も直登も、ゴール正面とは言えペナルティエリアから離れている倉石にはつめていかない。
「うわ」
決して油断してたわけじゃない。
だけどほんの少し、エアポケットに入ったような刹那の時間。倉石は体を反転させて、おもむろにロングシュートを放った。
コースを狙いながらも強烈な威力を持つシュートがゴール右上を襲う。
「ふんっ!」
梶野が必死に手を伸ばしてロングシュートを弾く。こぼれたボールがゴールライン際にバウンドする。
最初に触ったのは、谷だった。
谷はダイレクトのインサイドキックで、山なりのボールを逆サイドに蹴り上げた。
待っていたのは、須藤。
「ふおうっ」
左足をダイレクトに合わせる。
低くて速いボールがゴールに向かう。
走り出した倉石と体を合わせて、俺も走る。
殺到する赤いユニフォームの中で、青いユニフォームの10番倉石が誰より先にボールに触る。
スライディングで伸ばした足でほんの少し方向を変えられたボールが、梶野の股下を抜けていく。そのままボールはゴールラインを割り、ネットを揺らした。
春瀬高校 2-0 本河津高校 得点 倉石
立ち上がった倉石が、長い前髪をかきあげる。濡れた芝に座りこんだ俺を見下ろし、言った。
「こんなものか?」
俺は何も答えられなかった。
今俺の目に映るのは、呆然と立ち尽くす左SB。
最強の飛び道具。今までスピードでは誰にも負けなかった、軽部銀次が。
初めて負けた。
観客席を埋め尽くしていた赤色は、雨傘やレインコートの色でところどころ虫食いのようになっている。試合開始時の盛り上がりはどこかへいってしまった。
「キャプテン」
センターサークルに行くと、伊崎が珍しくしおらしい顔になっていた。
こいつにこんな顔させてちゃダメだな。俺は無理やり笑顔を作った。
「情けない顔すんな。相手が強いのはわかってたことだろ?」
「でも」
「二点取ったら、多少は向こうも手をゆるめる時間があるはずだ。もう迷わずお前と冬馬にボール出すから、思い切って行ってくれ」
「は、はいっ」
両手を握りしめ、伊崎が気合を入れる。
悪いな、こんな上っ面のことしか言えないキャプテンで。
わからない。待っていてもカウンターのチャンスは作らせてくれない。取りに行けば逆襲を食らう。
俺は冷たい灰色の空を見上げた。
光が見えねえよ。
幸いにも、二点取った春瀬が多少は手をゆるめるという俺の予想は当たってくれたようで、その後更なる失点は防ぐことができている。敵も雨の中で無理はしたくないという考えだろうか。
中盤の攻防を繰り返し、少ないチャンスを伊崎と冬馬につなげて、何度も跳ね返される。そんなことを繰り返しているうちに、前半も三十五分を過ぎた。
二点差ならまだ大丈夫だ。このままハーフタイムに避難して立て直したい。
オーバーラップしてきた谷を銀次が必死に食い止めて、右からのコーナーキックになった。
春瀬のセンターバック、久城が上がって来る。こいつのヘッドは要注意だ。
キッカーの飯嶋がコーナーフラッグにボールを置く。
ホイッスルとともに左足を踏み出す。チョコンと出されたボールが近くにいた家下から戻り、左足で巻き込むようにゴール前へクロスを上げる。
目一杯ジャンプした梶野の手を越えて、ボールは逆サイドへ。走りこんだ虻田がダイレクトでもう一度中央へ低く折り返す。
来た!それはもう見たやつだ!
俺は一歩先んじてボールに反応し、足を伸ばす。
「うおっ!」
露骨に体を接触させてきたのは、久城だった。ファウルすれすれの守備で俺は行く手をふさがれ、ボールは中央へ。
待ち構えていたのは、家下だった。
直登と照井がゴール左上にコースを開ける。そこに打ってくれれば、練習通りになる。
右足を振りかぶった家下は寸前で足を止め、アウトサイドで右に流してDFを引き付けていく。
また逆サイドに返して振り回す気だ。
俺は左に張っている春瀬のユニフォームをチェックした。
「え」
家下が選択したのは、シュートだった。
梶野と直登のちょうど中間。そこしかないという隙間に、角度の無いところから強烈なシュートを右足で放った。
モト高の誰もそのシュートには反応できず、ボールはゴールネットの上部を下から突き上げた。
濡れたボールが真下にバウンドし、梶野の後ろに転がっていく。
「チッ……クショー!」
ボールを拾った梶野が、苛立たげにグラウンドに叩きつける。周りに跳ねた水がかかっても、それをぬぐう者はいなかった。
春瀬高校 3-0 本河津高校 得点 家下
私だけじゃない。
誰も口を開かない。
前半三十五分を過ぎて3-0。相手は日本一のチーム。強いのはわかっていた。でも。
こんなのって。
「梶野が冷静さを失ってる」
島君がポツリと言った。確かに梶野君はいらだっている。二点目を倉石に股抜きで決められたのがよほど頭にきたみたいだ。茂谷君が肩を叩いて一生懸命なだめている。
「藤谷は、何か考えてるのか?」
芦尾が言った。
「わからない」
私も首を振るしかない。未散はサッカーのことは何でも話してくれたけど、戦術の話は一人で盛り上がって話すだけで、聞いてもよくわからなかった。
隣の紗良ちゃんも、泣くのをこらえている子供のような顔でタブレットをつかんでいる。
「私、間違ってたかもしれない」
消え入りそうな声で紗良ちゃんが言った。
「間違ってなんかないよ」
「ううん、間違ってた。だって、私のシミュレーションと計算が正しかったら、こんな点差にはならないはず。何かが、何かが足りない……」
紗良ちゃんは口元に手を当てて、一人でぶつぶつと考え始めた。
兄さん、マネージャーってこんな時、どうしたらいいの?
「強いな」
四回目のセンターサークルで、冬馬と向かい合う。怒っているのかどうかもわからない、いつも通りの不機嫌な顔だ。
「強いなじゃねえよ。お前は守備にバタバタ走りすぎだ」
「しょうがないだろ、俺は中盤だ」
「そんなことはどうだっていい。お前は俺にパスを出すことだけ考えろ」
勝手なことばかり言いやがって。ずっとそれがやりたくて苦労してるんだ。
「わかってるよ」
俺は答えた。
ウソだ。俺は何もわかってない。わかっていたら、0-3なんてスコアにはなっていないはずなんだ。
前半三十九分。千歳一隅のチャンスがやってきた。
DFのボール回しに参加していたGK杉崎が、濡れた芝に足を取られて珍しいミスキックをした。
冬馬と伊崎が一気にGKへ詰めていく。慌てた杉崎が長い脚を必死に伸ばしてボールを左に蹴りだす。左サイドにこぼれたボールに、菊地と銀次が反応する。
「よしっ!」
俺は右サイドに走りこむ。菊地がライン際ににスルーパスを出して、銀次が走る。
「あ」
またしても、谷だった。
銀次が追いつくよりも一歩先に、谷が体を入れてボールを奪う。そしてCBの熊野にボールを預けてサイドライン際をオーバーラップする。銀次がそれを追いかける。
熊野はその場で右足を振りかぶり、思いっ切り振り抜いた。
中盤の全てを否定するようなロングフィードが、モト高ゴール前に飛んでいく。飯嶋がいち早く反応する。直登が後から飯嶋につく。
「ちょ……梶野おっ!」
バウンドしたボールが、ペナルティエリアにかかるかどうかというところ。
飛び出した緑のGKユニフォームがボールに飛びつき、飯島がその場でひっくり返った。
主審のホイッスル。
ボールを抱えた梶野が呆然とした表情で、近づいて来た主審を見上げている。
俺の心臓がはっきり音を立てて鳴っている。
ウソだろ。
おい、やめてくれよ。
梶野の元へ向かう俺が見たものは、主審が高くかかげた赤いカードだった。
本河津高校 GK梶野 前半39分 退場
つづく




