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第62話「勝ってるんだよな?」

藤谷、不在。

未散の様子がおかしい。

前半からあんなに飛ばすなんて。本気でこのまま、八十分走り続けるつもりなの?


積極的にボールを追いかけ、奪い、黒須君に預けて前に飛び出す。冬馬とワンツーで抜け出してシュートを打つ。

菊地君が今大会初ゴールを決めてスコアを2-0にしてからも、ペースは落ちない。心なしか目も吊り上がって見える。彼が普段、あんな怖い顔をすることはないのに。いつも冷静で先の展開を呼んでいる藤谷未散が、今日は一体どうしちゃったんだろう。

いくら前半で勝負を決めると言っても、後半バテバテになってしまったら、逆転勝ちの連続でここまで来た相手の思うつぼになってしまう。


川添西ベンチに目を向ける。あの野呂さんの姿も見える。そしてベンチ近くの観客席は川添西の生徒たちで真っ赤に埋め尽くされていた。揃いの衣装ではないけど、応援する生徒たち各々がとにかく色々な赤い服を身に着けて、スタンドを真っ赤にしている。何かいいな、ああいうの。


スタンドには赤地に黄色い文字で「西高Fight!」と書かれた大きな横断幕も掲げられている。染め抜きかな。うちにもあんなのが欲しい。


「よっしゃ、藤谷!行けやあーっ!」


今日は珍しく真面目に応援している芦尾が、立ち上がって大声を張り上げる。どういう心境の変化かは知らないけど、ちゃんと声援を送ってくれるのはいいことだ。


前半三十分。相手FWの深浦がMF瀬良君に戻したパスを、皆藤君が取りに行く。交錯してこぼれたボールを黒須君が抜け目なく拾う。黒須君が未散にボールを預け、未散が左サイドの菊地君にパスを出し、そのさらに外を銀次君が猛スピードで上がっていく。菊地君は下がり気味になったDFラインへギリギリまでドリブルで迫り、チェックされる直前で銀次君にスルーパスを通す。ゴールライン際でフリーになった銀次君が、ダイレクトで浮き気味のボールを折り返す。


「行けえっ!」


私は思わず立ち上がった。折り返されたボールが、ペナルティエリア中央に向かう未散の前にやってきた。黒いユニフォームの10番が左足を振りかぶり、シュートモーションに入る。行ける!


「あっ」


しかし10番はシュートフェイントに切り替えて、左足でボールを巻き込むように右側に流した。そして右足でふわりとしたパスをDFの頭を越すように、ペナルティエリアに入れる。

浮き球に反応した菊地君が、CBの唐川と競り合い、強引にヘディングシュートを放つ。しかしシュートはキーパーの正面を突き、ボールは弾かれて高く空に浮いた。


ほんの一瞬、エアポケットに入ったように、ゴール前の選手たちが静止してボールを見上げる。そんな刹那の時間。


黒いユニフォームの9番が、くるりと背中を見せた。9が6になる。

逆さまになった冬馬が右足でボールを捉える。

間隙を突いた見事なバイシクルシュートが、至近距離でゴールネットに強く、強く突き刺さった。


「やった!」

「うおっしゃあああっ!冬馬すげー!」


抱き合おうとしてくる芦尾をすり抜け、私は紗良ちゃんと歓喜の抱擁をする。後ろで芦尾が「この流れでもダメか……」とつぶやいているのが聞こえたけど、聞かなかったことにしよう。


「すごい、すごいよ、夏希ちゃん!前半だけで3-0だよ!」

「うん、すごい!みんなすごい!」

フィールドを見る。選手たちが冬馬を取り囲んでいる。派手なシュートを決めたくせに、全然喜んでない。可愛くないなあ。


「あ」


今気づいた。輪の中に、未散がいない。少し離れたところで両ひざに手をついている。そして自分の右足を何度も叩く仕草。

胸がしめつけられるようないやな感じがする。

確実に、何かあった。

審判、早く、早く前半を終わらせて。うちのキャプテンを早くベンチに帰して。


川添西高校 0-3 本河津高校 得点 冬馬


十分後、短いアディショナルタイムを経て前半が終了した。帰って来るみんなの顔も明るい。


「楽勝スねー。今までで一番ラクな相手かも」

「あいつらのディフェンス、ザルだなありゃ」

「イヤッホウ!」

「……」

ただ一人、渋い顔で太ももを叩いている男を除いて。


「未散」

一人でベンチの奥へ行こうとする10番を、私は呼び止めた。

「何だ?」

振り返りもせず、未散が答える。

「足、どうかしたの?」

私が聞くと、部員たちみんなも会話をやめてこちらに注目した。

「キャプテン!ケガしたんですか?」

「藤谷、マジか!」

「アクシデンツ!」

ベンチが軽いパニックに陥る。未散が「落ち着け、静かにしろ!」と言ってもおさまらない。

結局ベンチが落ち着くまでにしばしの時間を要した。


未散は言った。

「どうかって、どうもしないよ。あれか、三点目の時ボレー打たなかったの怒ってるのか?ちょっとびびっちゃってさ」

「うそ」

「本当だって」

「島君、お願い」

「わかった」

島君が未散の前にぬっと立ちはだかる。そして素早く背後に回り、両腕をがっちりホールドした。捕まった未散がジタバタ暴れだす。

「さ、キャプテン。くすぐり地獄を味わいたくなかったら、白状しなさい」

「やめろ!おい、島、離せ!何でお前はいつも夏希の言いなりなんだよ!自分の意志は無いのか!」

「俺も見ていて違和感を持った。お前はずっと右足を気にしていた」

島君が静かに答える。未散は自分を見つめるみんなを一通り見回して、ため息をついた。

「……離せよ。わかったから」

「うむ」

島君が未散の両腕を離す。


「おー、いてー。お前思いっきり力入れただろ」

腕をさすりながらブツブツ文句を言っている。

「最初から素直に言えばいいのに」

言って、私は未散の右隣に座り、

「痛むの?」

と左手を太ももの上に置いた。

「わひゃ」

途端、下から突き上げるような感触が手のひらに伝わる。

「わっ!ちょっとやめてよね!」

私はあわてて手を引っ込める。急に太ももがビクンと動き出し、ふくらはぎもピクピクしだしたのだ。ちょっと気持ち悪い。

「何もしてない!ちょっとくすぐったかっただけだ」

「藤谷君。それ、けいれんって言うんだよ」

黙って見ていた江波先生が、未散の正面にしゃがみこむ。そして右足を触診する。

「うひゃひゃひゃひゃ」

くすぐったがりの未散が、いちいちうるさい。

「失敗した。今日は理沙にベンチ入りしてもらうんだった」

江波先生が渋い顔で独り言をつぶやく。確かに盛田先生なら、未散の足を見て適切な処置をしてくれたかもしれない。

でも私の考えは違った。

「大丈夫だってば」

未散が面倒くさそうに言う。

「どこが大丈夫なの。三点目のゴール前も、軸の右足に不安があったから左でボレーに行けなかったんでしょう?」

私がにらむと、ばつが悪そうにそっぽを向いた。子供みたい。

「三点差あるんだから、意地張ってないで交代して」

私の直感が告げている。絶対に、後半は出しちゃダメだ。だからこそ、盛田先生がいないから処置する人間がいない、という状況の方がいい。


「あのね、藤谷君。足のけいれんは、軽度なら疲労とストレスで説明がつくけど、無理すると肉離れだってありえるんだよ」

江波先生が少しおどすような口調で未散に言った。

「そ、それは困りますけど、そんなに深刻じゃないですって。痛みもないし」

「そういうことじゃない!」

私は立ち上がって正面から未散を見据えた。思ったよりも大きな声が出てしまった。一瞬ベンチが静まり返る。

「私も、ケガが直ってから復帰しようとした時期があった。でもやっぱり、下手したらすごい痛みがまた来るんじゃないかとか、色々心配になっちゃって。それで結局、かばったプレー続けて逆の足を痛めたりしたの。未散もそうなりたい?」

「……いや」

口をとがらせ、足元を見つめる。私は続けた。

「だったら後半はベンチで休んで。何のために3-0にしたの?自分で言ってたじゃない。早めに勝負決めて、ここまでずっとフル出場の人をなるべく休ませるって。自分こそ、ずっと出ずっぱりでしょう?」

「わかってる」

「だったら」


「怖いんだ、あいつらが」


未散がつぶやくように言った。

「何でえ、今さら。桜律相手にもびびらなかったくせによ」

銀次君が笑いながら言った。ベンチの雰囲気が一瞬やわらぐ。

未散は言った。

「怖いっていうのは、あいつらがここまで勝ち上がれた理由が分からないことだ。紅林くればやし監督は実績の無い単なる教師だし、DFラインもスピードがない。キャプテンの瀬戸はいい選手だけど、すごいパスを出してFWを走らせるようなタイプでもない。なのにここまで、後半で驚異的な逆転勝ちを何度もしてる。たとえ三点リードしてたって、その怖い後半をベンチで見てるだけなんて、俺には耐えられない。もしかしたら俺が引っ込むことで、露骨に温存されたって受け取って、やつらに火をつけてしまうかもしれない」

再びベンチに沈黙が訪れる。

「それに」

未散が続ける。

「この会場のどこかで、きっと春瀬の人間がビデオカメラで試合を撮ってる。足を痛めたなんて情報はやりたくない」

私は何も言えなかった。単に意地を張っているだけかと思っていたけど、やっぱりこの男は色んなことを考えている。考えすぎるほど考えている。

どうしたら、藤谷未散を止められるんだろう。後半は出しちゃいけない。未散抜きでもリードが三点あれば、勝てるはず。なのに。


「未散」


沈黙を破ったのは茂谷君だった。

「何だよ」

少し警戒したように、未散は座ったまま幼馴染を見上げた。

「広瀬さんの言う通り、お前は後半交代するべきだ」

「……」

無言で二人がにらみ合う。いつもにこやかでひょうひょうとした茂谷君が、いつになく真剣な顔をしている。整っている分、余計に怖い。

「合宿の時、自分で言ってたじゃないか。相手が強くなったら、プレーに集中しすぎて周りが見えなくなることがあるから、監督の仕事は広瀬さんと小林さんに頼むって」

「それは……確かに言ったけど、事情がちがう」

「ちがわないさ。お前はいかにも周りが見えてるみたいに言ったけど、全部自分が後半も出るためだけの理屈だ。この点差で恐怖や不安を理由に無理をして、決勝に出られないほど悪化したらどうするつもりだ?春瀬はケガを抱えて勝てる相手じゃないだろう」

「……わかってるよ、そんなこと」

未散が再びうつむく。

「後ろで見てた僕らだって、終盤何となくお前の動きが悪くなったのはわかった。春瀬の偵察班だってとっくに気付いてる。今さらやせ我慢したって、取り繕うのは無理だよ」

茂谷君が未散を責めることなんて、普段は絶対にない。自分が責められているような、イヤな気持ちになってしまう。

みんなも黙ったまま二人を見守っている。


しばらくして、未散は自分の左腕に手をやった。その手が黄色いキャプテンマークを静かに外していく。

「直登」

そして立ち上がり、外したキャプテンマークを茂谷君に手渡した。

「あとは頼むぜ、副キャプテン。あいつらは後半だけ謎の強さを発揮してここまで来てる。油断するな」

「ああ、わかってる」

受け取ったキャプテンマークを、茂谷君が左腕に巻く。

「直登。そのキャプテンマーク、広瀬コーチが高校の時着けてたんだぞ。大事に扱えよ」

未散が言うと、茂谷君は私の顔を見た。私はうなずいて、彼の左腕のキャプテンマークを微調整する。

「はい、これで完璧。似合うよ、副キャプテン」

「それはどうも、マネージャー」

丸坊主の男前が、珍しく照れくさそうに笑う。

その笑顔を見て、私は少しイライラした。私が説得しても聞かなかったくせに、この人の言うことは聞くんだ。やっぱり、付き合いの長さにはかなわないのかな。


ハーフタイムの十分が終わり、11人がフィールドへ向かう。本河津高校の選手交代は、10番の藤谷未散に代わって6番の国分君。未散のポジションにそのまま国分君が入る。

役割としては主に黒須君とツートップの間を立ち回り、チャンスがあればパスもシュートも狙うポジション。国分君がどこまで未散の代役を果たせるかはわからないけど、器用な彼なら何とかこなしてくれるはず。紗良ちゃんのシミュレーションでも、残り四十分間なら何とか乗り切れる計算だ。


少々緊張気味ながら、国分君は気合いの入った顔をしている。

「国分君、がんばってね」

声をかけると、国分君は「が、がんばります」とモゴモゴ言い、真っ赤になって走って行った。励ましのつもりだったけど、プレッシャーかけちゃったかな。

「黒須君」

もう一人、さっきからふさぎこんだような顔をしている後輩を、私は呼び止めた。

「は、はい」

気のせいか、声が震えている。ただでさえ悪い顔色がさらに青白い。

「大丈夫?そんなに気負わないでいいって。キャプテンが抜けたって、黒須君のやることは変わらないんだから。普段通り中盤をビシビシ仕切ってよ」

「いえ、そんな。僕なんか」

「毎日練習見てた私が保証する。君なら大丈夫」

「……ありがとうございます」

トボトボとした足取りでフィールドへ出ていく背中を見て、私は彼が何をそこまで恐れているのか、どうしてもわからなかった。


「ふー」

未散が両足を前に投げ出してベンチに座り、天を仰ぐ。スパイクを脱ぎ、ソックスも足首まで下げている。すね当てが丸見えでだらしない。そういえば、兄さんもよくこんな格好してたっけ。

「足はどう?」

隣に座って、私は聞いた。

「んー、だいぶ収まったよ。痛みもないし」

「そ。良かった」

「夏希」

未散が前を向いたまま言った。

「何?」

「悪かったな。お前の言うこと聞かなくて」

「どうしたの、今さら」

「別に、相手がお前だからひねくれたわけじゃないんだ。ただ、中途半端になっちゃうのがイヤだったというか」

「だから何の話?」

「……怒らないか?」

私は一つため息をついて、未散をにらんだ。

「そういう回りくどいの嫌い。怒らないから、はっきり言って」

「最後まで出て……お前の仇を、きっちり取りたかったんだ」

……仇?

しばらく考えて、思い当たった。顔が急に熱くなる。


私をケガさせた野呂さんがいる学校だから、圧勝することで仇を打とうとしたってこと?


「そ、そんなこと考えてたの!?あんたって人は!」

「怒らないって言っただろ!頼んでないとか、おせっかいとか、そういうのもやめてくれ。十分自覚してるから!それにほら、俺今ケガ人だし。あ、イタタタタ」

けいれんしていない左足を押さえるキャプテンを見て、私は訂正する気も失せていた。

まったく、この男は。


「……ありがと」


「へ?」

私が小声でお礼を言うと、よほど予想外だったのか、きょとんとした顔を返した。

今度は私が、前を向いたまま言う。

「でも、もうそんなこと考えなくていいから。そのせいでムキになって足痛めたりしたら、私は全然嬉しくない。むしろ恨む」

「そうだな……すまん」

「ううん。ちゃんと言ってくれてよかった」

何となく視線が合い、二人同時に慌ててそらす。


「クォラ」


地獄の底から絞り出したような、ドスの効いた声。

芦尾が私たちの間にぬっと顔を出してきた。歌舞伎役者のような目で私たちをにらんでいる。

「今から四十分間、決勝へ行けるかどうかって大事な時に、何をお前らはイチャついておるのだ!ハチミツレモンの残り汁ぶっかけるぞ!」

「落ち着け、芦尾。イチャついてなどいない。むしろ俺が怒られていただけだ。だから汁はやめてくれ」

「怒られていただと!むしろご褒美ではないか!なお許せぬ!」


「あ、みんな見て。川添西が円陣組んでる」


紗良ちゃんナイス!私たちの視線が相手ベンチ前に集まり、芦尾の責めは中断した。

川添西高の真っ赤なユニフォームが円陣を組んでいる。

「行くぞーい!」

瀬良君の野太い声がこちら側まで響いてくる。それに続いて、選手たちが声を揃えた。


『俺たちは最速!俺たちは最強!俺たちは最高!YEAH!』


真っ赤なスタンドが大歓声を上げる。川添西の選手たちが自信に満ちた様子でフィールドに散らばっていく。

「……俺たち、3-0で勝ってるんだよな?」

未散がつぶやくように言った。

「うん。そのはず」

答えながら、私も自信がなくなってきた。何なの、あのチーム。


相手は後半開始からかなり攻めてくるんじゃないか、と未散は予想した。

結論から言うと、かなりなんてものじゃなかった。怒涛の攻め、という表現がピッタリだ。

FWの岸ヶ谷、深浦、右MFの枕山、左MFの久江ひさえ、そしてセンターの瀬良君。彼らが前半とは別人のようにスピーディーにボールを回し、食らいつき、危険なエリアにボールを入れて来る。


「あいつ、俺のことにらんでるな」


未散がポツリとこぼす。川添西のキャプテン瀬良君が、流れが切れるたびにこちらのベンチを見て険しい顔を見せている。

「やっぱり怒ってる。なめられたと思ってる。刺激しちまった」

言って、両手で頭をかきながらため息をつく。私はジロリとにらんだ。

「今さらそんなこと言っても仕方ないでしょ。それよりしっかり応援して、キャプテン」

「わかってるよ。でも見てるだけで何もできないって、つらいな」

言って、自分の右足をペシペシと叩く。

「こばっち、かなり攻められてるけど、計算通り行けそうか?」

未散が紗良ちゃんに聞いた。

「うーん……そのはずなんだけど」

紗良ちゃんは渋い顔であごに手を当てた。

「黒須君の動きが、すごく悪くなってる。パスの成功率も下がってるし、パスカットの回数も減ってる。ひょっとして、黒須君もケガしてるの?」

後半開始前の黒須君の顔を思い出す。思いつめたような、今にも不安に押しつぶされそうな目つき。

「黒須君はケガじゃないよ」

後ろから江波先生が言った。振り返ると、腕組みをして渋い顔で立っている。

「じゃ、プレッシャーですか?」

未散が聞いた。先生は首を振る。

「それも違う。プレッシャーを感じるとしたら、藤谷君と同じポジションに入った国分君の方だしね」

「じゃあ」

「藤谷君がいない状況そのものが、彼を追い詰めてる」

先生は言った。私は未散と顔を見合せ、フィールドの黒須君を見つめた。










藤谷先輩がいない。

僕の視界には、いつも藤谷先輩がいた。サッカー部に入った時から、誰より早く僕に気付いてくれて、かばってくれて、誉めてくれた。

新チームになってからは、中盤の底を一人で任せてもらえるようになった。

もちろんプレッシャーはあったし、練習中からの要求も厳しい。でも僕はがんばれた。藤谷先輩と同じフィールドに立てるだけでも嬉しかったし、どうやって先輩までボールをつなぐか、ただそれだけを考えていればよかったんだ。

でも今は。


「黒須!」


菊地先輩の声で我に返る。足元に来たパスを受けきれず、ボールはサイドラインを割ってしまった。

「何ボーッとしてんだ、お前。ボールから目を離すなよ。基本だろ」

「す、すみません」

歯がカチカチ鳴って止まらない。寒い。

「大丈夫か、お前。顔色悪いぞ」

菊地先輩がいぶかしげに僕の顔をのぞきこむ。

「大丈夫です、すみませんでした」

僕はぺこりと頭を下げて、自分の持ち場に戻る。藤谷先輩と同じポジションには国分がいるんだ。普段通りのプレーで大丈夫だ。

……自分の持ち場?普段通り?

あれ、僕は。


僕は普段、どんなプレーをしていたんだろう。










「あ、またあいつだ」

後半七分。未散が露骨に顔をしかめる。ベンチで並んで試合を見るのは初めてだけど、想像以上にやかましくて面倒くさい。後ろのベンチで寝かせようかな。

でも確かに、今からスローインをしようとしている左SBの伊勢は、イヤな飛び道具を持っている。


ロングスローだ。


得点にこそ結びついていないけれど、前半から伊勢は長いスローインをどんどんゴール前に放り込んできた。背中を後ろにグッとそらして、そのまま前方に思いっきり放る投げ方。

ほとんどのボールが山なりなのが幸いして、今まで全て金原君がヘッドで弾き返してくれたけど、毎回ヒヤヒヤしてしまう。

それにしても。

いくらルールの範囲内とはいえ、足を使う競技で特技がスローインってどうなんだろう。私は邪道だと思う。


ゴール前に川添西のセンターバックコンビが上がる。背の高い瀬良君もいる。伊勢の位置は左サイド、ゴールラインとセンターラインの真ん中辺り。またふわっとしたボールを入れて来るのかな。

「あ」

ボールを持った伊勢が、今までの二倍ほど助走距離を取った。そしておもむろに走り出す。

伊勢の両足がサイドラインに重なり、背中が弓のように反っていく。


「ふわあっ!」


声を上げながら、伊勢がロングスローを放つ。


「うわっ!」

「うそっ!」


私も未散も、思わず声を上げた。伊勢の放った助走二倍のロングスローが、今までとは違って真っすぐに、そしてすごいスピードでゴール前に向かっていったのだ。

高さにそなえていた金原君が、少しだけジャンプのタイミングに遅れる。

誰より先に反応したのは、川添西の瀬良君だった。

金原君と茂谷君の前に体を入れ、腕で二人を押さえつけ、思い切りジャンプする。

速く直線的なスローインに、瀬良君が頭で合わせる。


「あーっ!」


放たれたヘディングシュートはニアサイドにワンバウンドして、飛びついた梶野君の脇の下を抜けていった。


川添西高校 1-3 本河津高校 得点 瀬良


赤いスタンドが湧き上がる。まだこっちが二点勝ってるのに、向こうは逆転したかのような盛り上がりだ。

ヘディングシュートを決めた瀬良君に選手たちが集まる。その笑顔はまるで、自分たちが逆転勝ちするのを信じて疑っていないようで、私は少しイライラした。

「……まずいな」

未散が言った。


フィールドの真ん中には、呆然とした顔で黒須君が立ち尽くしていた。今のスローインは黒須君のトラップミスからだ。あの顔は絶対気にしている。

「藤谷君。黒須君がずっとこの調子だと、本当に逆転されちゃうよ」

紗良ちゃんがタブレットを見ながら泣きそうな声でうったえる。

未散は拳を額に当てて、

「分かってる。でもここで引っ込めたりしたら、黒須は終わる。この試合を拾っても先は無い。春瀬に勝てなきゃ意味が無いんだ」

と、うめくように言った。

「藤谷君の言う通りだよ」

江波先生も言った。

「男の子にはね、一人で立つためのブレイクスルーの儀式が必要なの。今私たちは、黒須君が一人前になれるかどうかの分水嶺を目の当たりにしてるんだ」

黒須君は、いつも未散を見ていた。ものすごく未散を尊敬している。だからこそ、いつかは離れなきゃいけないのはわかる。

でもそれって今じゃなきゃダメなの?ひどいよ、あと一つで決勝なのに。


「……誰か、倒れてる」


ふいに未散が立ち上がった。

「え、誰?」

私もつられて立ち上がり、目を細める。黒いユニフォームを着た選手が、左足をかかえてうずくまっている。

背番号は、5。

「金原君だ!」

嘘。どうしよう。何があったの?きっと今、瀬良君と競り合った時に何かあったんだ。黒須君がまだ立ち直ってないのに、金原君までケガ?

どうしよう。


「照井!念のため出る準備しとけ。こばっちは、照井と直登が組んだ時のデータを出してくれ。夏希と先生は、金原のことを頼む」

「はい!」

「わかった!」

未散が線審に声をかけ、試合が一時中断する。


しばらくして、金原君が担架に乗ってベンチに運ばれてきた。苦痛にゆがんだ表情で左ひざを押さえている。

どこまで効果があるかはわからないけど、私はとりあえず濡れタオルを彼の左ヒザに置いた。

「うわっ、冷て」

「金原君、何があったの?蹴られたの?」

「いや、バレー部時代の古傷だ。今さらぶりかえしやがった」

「何でこんな時に」

聞いていた未散が口を開く。

「人工芝か」

金原君がうなずく。

「着地でちょっと固いとは思ってたけど、ああ何度もロングスロー入れられたらな」

そういえば。

「桜律戦の同点ゴールの後、右足軽くひねったって言ってたけど、関係あるの?」

金原君は首を振った。

「わからん。でも、その違和感で無意識に右足かばって、そのせいで左ヒザに負担がいったかもしれねえ」

言って、金原君は拳で地面を叩いた。

「クソッ!こんな大事な時に。自分が情けねえよ」

一言声をかけようとした時、相手スタンドから大歓声が上がった。


川添西の選手交代。

FW深浦に代わって入るのは、先日私をサッカー部まで案内してくれた、一年生の大江君だった。


つづく

多分しなくてもいい名前の由来解説


紅林監督……ベニテス監督

久江……キューウェル

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