第60話「今日は無理」
銀次、動く。
「伊崎くん!」
「はい、せんぱーい!」
練習場に夏希と伊崎の声が響き渡る。ドリブルで持ち上がった夏希から、走りこむ伊崎に横パスが出る。伊崎は難なく合わせて、島が守るゴールを破った。
「よっしゃあー!広瀬先輩、ナイスパス!」
「伊崎君もナイッシュー」
二人が笑顔でハイタッチをする。俺はそんな光景を、地べたに座ってストレッチしながら眺めている。
俺の考えすぎかもしれないが、川添西高に行ってきてからの夏希は、何となく変わった。
どこがどうと具体的に聞かれると困る。
極端に明るくなったわけでもないし、キツい人当たりが柔らかくなったわけでもない。普段は愛想が無いのは同じだし、芦尾のセクハラや伊崎の暴走にもいつも通りきっちり怒っている。
しいて言えば、触れられたくない敏感な部分を守っていた、警戒心みたいなものが薄れたとでも言おうか。
加えてなぜか、今までは気まぐれにしか参加しなかった練習に、積極的に参加すると言い出した。今は部員十五人中七人がボールを使った練習を盛田先生に禁じられているので、単に人数不足という理由もある。でも俺が頼みもしないのに、自分からプレーすると言ってきたのだ。足の古傷の心配もあって理由を聞くと、なぜかちょっと赤面して、
「……少しでも、みんなの役に立ちたくて」
とつぶやいた。
そんな顔で可愛げのあることを言われてしまっては、お願いするほかないではないか。今のところ左足をかばうような仕草もないし、力が抜けて転ぶ場面も見られない。
ケガの後遺症は心因性だと、以前言っていた。やはり川添西高で野呂さんと会って、何か思うところがあったと考えるのが自然だ。
夏希が左サイドから、前に立ちはだかる照井を抜こうとしている。長い脚を使った、微妙な時間差のキックフェイントで照井をかわそうとするが、最後は体を強引に入れられてボールを失った。
「もーっ!今のあり?ずるい!」
何もずるくは無いディフェンスに文句をつけて、照井の背中をベシベシたたく。その暴力行為の方がファウルだと思うが、叩かれた照井が嬉しそうに笑っているので別にいいのか。俺も夏希に叩かれたい。
いや、変な意味じゃなくて。
「こーらっ!」
ペシンと誰かに背中をはたかれた。この声は盛田先生だ。
「痛いなあ、先生。何するんですか」
振り返って抗議すると、赤いジャージ上下を着た盛田先生がしゃがみこみ、ニヤニヤしながら俺を見つめている。
「広瀬さんばっかり見てないで、ちゃんとストレッチのメニューこなしなさいよ」
近くで聞いていた金原と直登がクスクス笑っている。
「別にそんなんじゃないですよ。ただ、やっぱり上手い選手だったんだなって」
「そうねえ」
盛田先生は俺の言い訳を疑うでも無く聞き流し、夏希に視線を向けた。
「私はサッカーに関わってからまだ日が浅いからわからないことも多いけど、彼女がうまいっていうのはわかるよ。何ていうか、身のこなしとか、ボールの扱いとか、相手との間合いとか」
そうなのだ。俺がストレッチを中断して見入ってしまった理由。もちろん、ポニーテールを揺らしながら走り回る姿に見とれていたのも事実だけど、それ以上にプレーの優雅さだ。
直線的だが滑らかなドリブルも、ちょうどいい強さのパスも、ワンツーから走りこむタイミングも。若干自己中心的な傾向はあるものの、彼女と一度でもプレーした選手は、サッカーとはこんなにも簡単で楽しいスポーツなのかと思ってしまうだろう。
「いわゆるセンスの部分ですね」
俺の合いの手に、先生は深くうなずいた。
「そうそう、それ。藤谷君知ってる?長くスポーツやってると、選手はイヤでも二つの事実を受け入れなくちゃいけないんだよ」
「聞かせてください」
周りの部員たちも耳をそばだてる。
「上達に努力は必要っていうつまらない事実と、生まれ持ったセンスの前には努力が敗北することもあるっていう最悪な事実」
「何ですか、それ。聞かなきゃよかった」
そんなの言われなくてもわかってる。努力しなきゃうまくならない。でも努力しても勝てない相手はいる。センスの持ち主が厄介なのは、本人にその自覚が薄いところと、こちらが限界まで努力する前にあっさりと違いを見せつけ、見た人のやる気を萎えさせるところだ。
「つまり、広瀬さんはサッカーやってた時期、周りにそう思わせる存在だったんじゃないかと思ってね」
「……」
スラッと背の高い美少女で抜群に上手ければ、それは憧れや嫉妬の対象になるだろう。
「先生」
俺はふと頭に浮かんだ疑問を盛田先生にぶつける。
「何?」
「女子同士って、嫉妬とかやっかみでよく陰口言ったり集団で意地悪したりって聞くんですけど」
「うん。よくある」
「夏希は今まであまりそういう目に合わなかったみたいで、この学校でもいやがらせ受けたりしたことがないって言ってたんですが。それは何でですか?」
盛田先生はうなずきながら、ポムポムと俺の肩を叩いた。
「藤谷君。君はまだ女心というものを理解してないようね」
「はあ」
「女っていうのはね、相手のルックスが自分と同じくらいか明らかに下なのに、現状が自分と差がついた時は嫉妬するの。何であの子だけがいい目に遭って私がってね」
「なるほど」
「でも広瀬さんほどルックスがいいと、最初から勝負を挑むのをやめて仲良くなろうとする。それはプライドを守るためでもあるし、綺麗な子と友達になればそれだけ自分の格も引き上げてもらえるって寸法よ」
「先生、発想がクズ過ぎるぜ」
金原の笑いながらの抗議に先生が口をとがらせる。
「だって事実なんだからしょうがないじゃない。女の闘いは、ずるくて卑怯で醜いものなの」
すると黙ってストレッチをしていた銀次が、
「俺は女がみんな、そんなイヤなやつばかりじゃないと思うけどな」
と珍しく歯切れの悪い調子で言った。
「銀次君はピュアなんだねえ。あ、からかってるわけじゃないよ」
先生はなぜか嬉しそうに銀次を見つめた。
「女にはそういう一面もあるって理解した上で、それでも良い部分を見てアタックしてくれる男に、女心は揺さぶられるんだから」
「ゆ、揺さぶられる……」
おお、銀次が動揺している。珍しい。こういう話題は苦手なんだな。
「茂谷君ならわかるでしょ?今の話」
盛田先生が直登に話を振る。我が幼馴染は「うーん」とうなって首をひねった。
「僕が今まで付き合った相手は、全部向こうからお願いされてなんで、よくわかりませんね」
「はい、ストレッチ終了ー!」
努力しても勝てないイケメンがここにいた!
先生の号令で立ち上がり、手足をグルグル回して調子を確かめる。試合翌日には重かった体がかなり軽くなっている。ボールを使わないというメニューは、サッカーの練習は常にボールには触れるべきだという俺の考えに反するもので大いに不満だったが、結果的に良かったかもしれない。
「盛田先生、疲れが順調に取れてますよ」
「ほっほっほっ。そうでしょうとも。未来のアスレチック・トレーナーが言うんだから間違いないのよ」
「先生をトレーナーに誘ってよかったですよ、本当に」
俺の言葉に、盛田先生は急に目をうるませて俺のジャージをつかんだ。
「わっ、な、何ですか?」
「藤谷君!君のそういう素直で可愛いところ、無くさないまま大人になってね?ね?」
「言ってる意味がわかりません。ただの感想ですよ」
「だってだって、大人になると仕事がんばっても誰も誉めてくんないんだもん」
言うと、頭をグリグリと俺の胸に押し付けてきた。
「先生、痛いです。そこ何かのツボですか?」
「ちがう」
「じゃ、やめてください。今すぐ」
「やだ」
小柄な盛田先生に正面から胸に頭をグリグリされている。これって、彼女が彼氏に甘えているバカップル状態に見えてしまうんじゃないだろうか。
まずい。こんなところを夏希に見られたりしたら、告白前に好感度が下がってしまう。
俺は恐る恐るミニゲーム中のコートを振り返る。
「あ」
ちょうどこちらを見ていた夏希と、ばったり目が合った。俺は慌てて目をそらす。
まずい。ミスった。見られたことじゃない。目が合ったことでもない。
目をそらしてしまったのがまずい。
「せ、先生。俺、軽く外周走ってきます」
両肩をつかんで盛田先生を引き離し、俺はその場を走り去った。
「藤谷」
着替えを終えて部室を出ようかといういう時、銀次が俺を呼び止めた。
「ん?」
「ちっとよ、その、相談っちゅうか、話してえことがあるんだけどよ」
言って、後ろ頭をポリポリかきながら目をそらす。何だろう、いつにない妙な態度だ。
「いいけど、今からか?」
「できりゃあ」
「そうか。俺にはお前をスカウトした責任があるからな、何でも聞くぞ」
「いや」
銀次は周りをキョロキョロ見回し、
「ここじゃ、まずい。二人で話したい」
と声をひそめた。真剣だ。
「じゃあ……うちに来るか?」
「おお。そうしてくれると助かる」
そうして俺たちは、家まで連れだって帰ることになった。
考えてみれば、陸上部へ何度もスカウトしに行ったとはいえ、銀次と二人っきりで話したことはほとんど無かったように思う。基礎練習は狩井に一任していたし、守備や連携の練習も直登と菊地の担当だ。スカウトした張本人のくせに、ちょっと放っときすぎたかもしれない。
家までの道中、銀次は相談の内容を全く話さなかったので、話題は自然とお互いのことになった。その中で、銀次の父は建具職人であること。中三の妹と小六の弟がいること。父親の仕事が減り、家があまり裕福ではないことなどを初めて知った。
以前スパイクを買いに行った時、銀次が値段を見てやめたことがあったが、こいつはその時どんな気持ちであきらめたんだろう。
途中夏希から『先生にまで手を出してるの?スケベ』という、ほぼ言いがかりに近いメッセージが届いた。俺は『何のことだかサッパリだ』と返して、その後スマホの電源を切った。明日何か言われたら「充電が無くなった」で乗り切ろう。
二人であれこれ話しているうちにアパートへ着く。
「おっ、こたつじゃねえか」
部屋に入るなり予想通りの反応を見せ、銀次がそそくさとこたつに入る。そしてテーブルの上のみかんを勝手にむきはじめた。遠慮のないヤツだ。
二人分のお茶を入れて、俺は正面に座る。銀次は「わりいな」とお茶を受け取り、モソモソとみかんを食べ続けた。
俺はそんな銀次をしばらく眺めた後、言った。
「で、相談て何だよ」
「お、おう。待ってくれ」
手に付いた白皮をパンパンと払いながら、銀次は言った。ゴミを下に落とすなよ、まったく。
「相談っちゅーか、何ていうか」
「何でもいいから言えって。ここまでみかん食いに来たわけじゃないだろ」
「わかった」
言って、銀次は大きく息を吐いた。見てるだけでこっちまで緊張してきてしまう。何だ、サッカーの話か?急に自信を無くしたとか?確かに桜律戦は目立った活躍はなかったけど、銀次のスピードに驚異を感じたからこそ、桜律の右SBを守備に専念させることができたんだ。ちゃんと戦力になっている。
「お、俺」
「うん」
再び、しばしの沈黙。もうさっさと言えよ。
「俺は」
「うん」
「小林が好きだ」
「……」
俺は思わず言葉を失った。サッカーの話だろうという準備はしていたが、どうも違うようだ。まさか恋の相談とは。
「小林さんって何組の?」
「何言ってんだお前。小林は小林だよ。お前がスカウトしたんだろ」
「……」
数秒間のシンキングタイムの後、ようやく俺の頭の中で顔と名前が一致した。
「こばっちか!」
「だからそう言ってんだろうが」
銀次が口をとがらせ抗議している。顔が赤いので怖くはないが、ご立腹のようだ。
「す、すまん。ちょっと、いや、かなりびっくりして。そうかー、こばっちかー」
「そんなに驚くことかよ」
「いや、だって」
俺はもう一度、まじまじと銀次を見つめた。そして走馬灯のように、銀次がこばっちに関わった場面が再生される。
合宿に向かう電車で、こばっちのデカいスーツケースを押してダッシュする銀次。
こばっちがホワイトボードの前で戦術の話をしてる時、うるさいみんなを一喝して黙らせた銀次。
重たい撮影用機材をこばっちの代わりに持ってあげてた銀次。
その時は仲間想いのナイスガイくらいにしか思っていなかったが、今となってはすべてが腑に落ちる。何のことはない。好きだったからだ。
「その……いつからなんだ?」
「いつからって言われてもなあ」
銀次が後頭部をかいて顔をそむける。
「二年で同じクラスになってから、何となく気になってたのは確かだな。いつも一人で、話す女子もいなくて」
確かに、俺が初めて会いに行った時も一人だった。
「かと言って仲間外れにされてるわけでも無いみてえだし。それでなぜか数学だけ抜群にできて、何か不思議なヤツだなって」
「それは何となくわかる」
「それからお前が小林もサッカー部に連れて来て、関わる時間も増えて、その、何だ、そういうことだ」
「なるほど」
何がそういうことなんだ。わからん。いや、そんなことはいいんだ。一つもっと大きな問題がある。
これは銀次に言っておくべきことか。それとも黙っておくべきか。
「銀次。相談してくれたのは嬉しいし、応援したいとも思う。でも俺には、お前の恋に何か言う資格は無いんだ」
「あいつを振って泣かしたことか?」
「え」
何で知って。
「な」
「何でかってお前、合宿で海に行った時、お前と小林が二人で砂遊びしてただろ?」
「う、うん」
「あん時、他の奴らはみんなビーチバレーして広瀬の水着姿見てたけど、俺はお前らの方が気になって、チラチラ見てたんだ」
「そ、そうなんだ」
気まずい。背中に変な汗が出る。
「盗み聞きの趣味はねえから、何言ってたかまではわからねえけどよ。あの雰囲気と、小林がしばらく戻って来なかったことと、その晩あいつのぼんぼんに腫れた目え見たらピンと来るだろ、普通」
「ふ、普通なんだ」
俺は気付かない自信がある!
「そこまで知ってて、何で相談相手が俺なんだよ。普通避けるだろ」
「今までつるんでた連中はほとんど陸上部だったからよ。サッカー部来てから連絡取らなくなっちまったんだ。つまり俺は今、サッカー部以外にツレがいねえ」
「……それは、ちょっと責任感じる話だな」
「別にお前のせいじゃねえよ。自分で決めたことだ。でも責任を感じるってんなら、相談相手としちゃ適格だろ。それに合宿が終わってからも、お前と小林は今まで通りしゃべってるし。問題ねえよ」
そういうものなのかな。
「でも、直登や夏希の方がいいアドバイスしてくれそうだけど」
言うと、銀次は首を振った。
「茂谷は女の方から寄ってくるヤツだから、参考にならねえ。広瀬はマネージャーとして話は聞いてくれるだろうが、小林と近すぎるし、女にこんな相談はできねえ」
「何でさ」
「恥ずかしいだろうが」
言い切ったな。わかるけど。
ダメだ。このままダラダラ不毛な会話を続けていても、ラチがあかない。具体的な話をしよう。
「それで、こばっちに告白するつもりなのか?」
「ああ。このままじゃ、もやもやして準決勝に集中できねえ」
「決行日は?」
「明日だ」
早い。
夏希への気持ちをいまだ伝えられぬままの俺にとって、銀次の行動力はまぶしい限りだ。
「でもなあ、この際だから白状するけど、俺彼女できたことないんだよ。だからこういう告白なら成功するとか、そんなのわかんないぞ」
言うと、銀次は信じられないものでも見るような目で俺を凝視した。
「何だよ、その目は」
「……お前、恋愛経験ゼロで広瀬みたいな上玉狙ってんのか。無謀なヤツだな」
「ほっとけ」
「いや、感心してるんだ。そうか、そういうヤツがキャプテンだから、今俺たちは準決勝まで来られたのか。なるほどな」
一人で納得してうなずいている。
俺は今誉められているのか、バカにされているのか、どっちだろう。
俺はコタツのテーブルをバンバンと叩いた。
「俺のことはいいんだよ。本題に戻るぞ。こばっちは理系の人だから、用件は具体的に、はっきり言った方がいいと思う」
「おお、なるほど」
「でも、ただ好きだって言っただけじゃ、こばっちは困って固まる可能性大だ」
「じゃ、どうすりゃいいんだよ」
「気持ちを無理に聞こうとするんじゃなくて、考えて何らかの答えを出せるような聞き方をすれば、可能性は上がるんじゃないか」
「聞き方か」
銀次があごに手を置いて考える。
「言っとくけど、俺は直接関われないぞ。そんなことしたら、こばっちに失礼だからな。こうやって俺に相談したことも内緒だ。墓場まで持ってけ」
「わかってるよ。そこまで面倒見てもらうような甘ったれた男じゃ、最初から結果は見えてる。自分でやるよ」
はっきり決意した顔の銀次を見て、俺は思った。
こいつなら、こばっちを幸せにしてくれるんじゃないかと。
そして同時に、俺だけが良さを知ってるはずのこばっちを、他の男に取られるのか、という気持ちもわいてきた。
最低だな、俺。振ったくせに。
ミニゲームとストレッチだけの静かな練習が、今日も終わる。空はすっかり暗くなっている。十一月は本当に日が短い。23.44度の地軸の傾きが生む現象。だから日本には四季がある。
そんなことを考えながら、私はノートパソコンのディスプレイを閉じて、ベンチを立とうとした。
「こばっちー」
と、藤谷君は私を変わらずニックネームで呼んでくれる。合宿の後も。
あの、ずるくて卑怯な、ただ藤谷君の優しさに甘えただけの、不完全な告白の後も。
藤谷君は私に聞いた。
「川添西のセンターバック、評価終わった?」
「うん。まだ全部じゃないけど。でも何度やり直しても、うちの2トップの方が上だよ」
「そうか!よしよし。それなら前半に勝負かけて、後半早めにフル出場組を交代できるかも」
満足げにうなずいて、藤谷君は一人でぶつぶつ言い始めた。
「でも油断しないでね。現実にベスト4まで勝ち上がってるチームだし。失点も多いけど、ここまでの四試合中三試合が二点差以上をひっくり返してるんだよ」
「うっ……そこは確かに不気味だ。正直、その程度のディフェンスラインで何で準決勝まで上がって来られたのかわからん」
藤谷君が、今度は違う理由で考え込んだ。
そう、今度の対戦相手である川添西高は、失点が多い。うちも多い方だけど、それでも二失点までに抑えている。川添西は三失点も四失点もある。守備の弱さを見るか、それを上回る攻撃力に注目するか。
藤谷君は、
「攻撃は不発の日もあるけど、守備は偶然強くはならない」
と言って、徹底的に相手の守備陣を私に調べさせた。私が一番驚いたのは、川添西と当たった四チームのFW全員と、うちの冬馬君と伊崎君を比較してくれという注文。
今まで川添西から得点を奪ってきた選手と比べて、うちの2トップが互角かそれ以上なら、今度も同じくらいの得点を奪えるだろうという発想だ。少し楽観的だけど、角度は新鮮だった。
いつも彼は私を驚かせる。初めて話したあの日からずっと。
いつからか、私は恋をしていた。
自覚した瞬間から、すでに敗北が決まっていた不毛な勝負。
彼は一人の女の子しか見ていなかった。最初から。
「紗良ちゃん、今日一緒に帰ろ」
更衣室で着替えていると、先に着替え終わった夏希ちゃんが私に言った。彼女はいつも着替えるのが早い。毎回モタモタしてしまう私とは大違いだ。
それに、と私は夏希ちゃんのスタイルを横目で見る。スラッと背が高くて細いのに、胸はしっかり出っぱっていて、お尻もキュッと上がっている。DNAの配列をどういじったら、こんなスタイルの人間が作れるんだろう。
「ごめん、今日これから、また部室行かなきゃいけないの。終わりがわからないから、先に帰ってて」
終わり際、銀次君から「聞きたいことがあるから、着替えた後部室に来てくれ」と言われた。多分データを見て自分の成長を確認したいんだろう、と私は思った。明日でもいいのに、せっかちな人だ。
「えー、そうなの」
残念そうな夏希ちゃん。口をとがらせたその横顔も、ため息が出るほど可愛くて嫉妬する気にもならない。するけど。
「しょうがないから、あいつと帰ってやるかな」
全然しょうがないようには聞こえないけど、余計なことは言わない。何か言えば、夏希ちゃんはきっと私に気をつかうから。
「藤谷君と一緒なら、夜道も安心だね」
「どうかな。サッカー以外は結構頼りないから」
私は文系じゃないけど、その言葉が嘘なのはわかる。藤谷君はいつまでモタモタしてるんだろう。県大会が終わるまで夏希ちゃんに告白しない、とか決めちゃってるのかな。
私としては、いつでもいいから早くはっきりさせてほしいんだけどな。
「じゃあね、また明日」
「うん。ばいばい」
手を振りながら、ごめんね、と私は先に更衣室を出る美少女の背中に、心の中でつぶやく。
あなたが嬉しそうに彼の話をするたびに、彼が最近私の頭を撫でてくれなくなったことを思い出すたびに。
私はあなたを、ちょっと恨んでるよ。
無人の部室でパイプ椅子に座り、待つこと数分。ひざにはノートパソコンが開いてある。銀次君が聞きたいデータで考えられることと言えば、何だろう。ドリブルのスピードかな。クロスの精度かな。何にせよ、別に明日でもいいのにな。夏希ちゃんと帰りたかったな。
銀次君とは二年で同じクラスになった。見た目がキリッとしてて、昔の表現なら硬派っていうのかな。藤谷君は「昔のロボットアニメの主人公顔」って言ってたけど、ロボットアニメを知らない私にはピンと来なかった。
クラスでいつも一人の私は、もちろん銀次君と話したことなんてなくて、サッカー部に入ってから初めて話したほどだ。
でも話すようになって気付いた。
いかついイメージとは違い、彼には仲間想いで優しいところがある。私も何度か助けられた。重たい機材は必ず持ってくれるし、思い起こせばピンチの時にはなぜか側にいてくれた記憶がある。そういうところはアニメの主人公ぽいのかな。
彼女の一人もいておかしくないのに、そんな話は聞かない。だから硬派なのかな。
「あ」
部室のドアが開く。練習着のままの銀次君が、「よお、わりいな」と言いながら入って来た。
「ううん、全然。まだ着替えてないの?」
「ちっとな。外周走って来た」
「ダメだよー。盛田先生に、しっかり疲れ取れって言われたでしょう?」
私が注意すると、銀次君はバツが悪そうに頭をかいた。
「いや、わかってんだけどよ。陸上部の時から毎日走るのが習慣になってるっつーか、何もしねえのが落ち着かなくてな」
こういう仕草は、何となく藤谷君に似てる……いや、やめよう、不毛だし。
「それで、聞きたいことって何?」
キーボードに両手を乗せて、どのデータでも出せるように準備する。
「うん。それがだ」
少し離れたところに立ったまま、銀次君が答える。
「うん。どうぞ」
「俺がお前と付き合える確率は、どれくらいだ?」
「へ?」
思わず顔を上げる。その振動で、ヒザの上のノートパソコンがずり落ちそうになる。
「わっ」
「あぶねえっ」
床に落ちかけたパソコンを、間一髪で銀次君がキャッチする。
「良かったー。ありが」
言いかけて、私は自分のすぐ近くに銀次君の顔があることに気付く。
「あ……ありが、とう」
「小林」
「はいっ!」
銀次君にパソコンを渡され、私はそれをギュッと握りしめる。私の聞き間違いじゃなければ、彼はさっき。
「あ、あの、あの、私」
「小林。お前が好きだ」
「……」
大嫌いなマラソンの後みたいに心臓が忙しく動く。呼吸が苦しい。何も答えられない。
「だから、確率がゼロじゃないか、考えてみてくれ」
「……今日は、無理」
必死に声を絞り出す。
「待つよ」
銀次君が静かに言った。
「悪かったな、だまし討ちみてえに呼び出して」
「う、ううん。そんなことない」
「もう暗いから、途中まで送ってくよ」
「だだ、大丈夫、迎えに来てくれように、家に連絡してるから」
「そっか。あ、俺、藤谷から借りたここのカギ、職員室に返しに行くから。すぐ出られるか?」
「う、うん。大丈夫」
いつも準備にモタモタしてしまう私も、今はテキパキとパソコンを片付ける。
今すぐここを離れなきゃ。私が壊れてしまう。
非論理的なことはわかってる。でもこの呼吸困難も、血圧の上昇も、内臓以外の胸の痛みも。
全部全部、藤谷君のせいだ。
つづく




