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第59話「女の子なら、わかるでしょう?」

広瀬夏希、過去と対決する。

「よしっ」


バスルームの灯りにサッカーボールをかざし、私はうなずいた。まったく、スパイクはマメに手入れしてるくせに、ボールは泥が付きっぱなしで放置とは。没収してきてよかった。


私は汚れた濡れぞうきんを水で洗い、固く絞って洗濯機の隣のスペースに干した。そして今度は乾いたぞうきんを手にして、濡れたボールを磨くようにから拭きする。青い雪の結晶のような、綺麗な模様が入ったサッカーボール。


今日の帰り、未散の家に行って没収してきたボール。とてもおしゃれで、私の好きなデザイン。新モデルかな。盛田先生にブーブー文句言ってたくらいだから、ボールを渡すのをもっと渋るかと思ってた。でも意外とすんなり渡してくれて、そして。


「大丈夫か?」


初めて見る、本当に心配そうな顔で問いかけてきた。そんな顔をさせたのは、私のせい。


足元を見る。ジャージのズボンをヒザまでまくり上げて見える左足首。今も残る手術跡。傷は目立たなくなったけど、無くなったわけじゃない。それは足だけの話じゃなくて。


野呂真純のろますみ


今日の帰り、私に会いに来た川添西高のマネージャー。

私からサッカーを奪った人。

ずっと思い出さないようにがんばってきたのに。せっかく忘れかけてたのに。何で今になって。


「夏希ー。秋穂まだ入ってないんだから、早く上がってー」


お母さんの声で我に返る。そうだ、お風呂入るって言って、ボールを先に洗ってたんだ。

「はーい、今から入るー」

「あんた今まで何やってたの!?」

一旦ボールを洗濯カゴに放り込んで、私は服を脱ぎだした。


髪を乾かした後、私はコートを羽織って外に出た。手には未散のボールとスマホ。日中はまだ暖かい時間帯があるけど、朝晩はかなり冷え込む。誰か風邪引いてなきゃいいけど、と部員たちの顔を思い浮かべる。


部屋を受験生と共有してると、おちおち電話もできない。もっとも、受験勉強が無くても秋穂の前では電話なんてできないけど。


ボールを抱えて玄関先に座り込み、じっとスマホの画面をにらみつける。表示されているのは、『藤谷未散』の四文字。

話すことは、あると言えばある。ボールを取りに未散の家まで行く道中、私は一言も話さなかった。未散も何も聞いてこなかった。何を話せばいいか分からなかったのか、それとも私を気づかってそっとしておいてくれたのか、それはわからない。でもわざわざ学校まで会いに来た女の子が、昔私に大ケガをさせた選手だということを聞いたのなら、何か言ってくれてもバチは当たらないんじゃないかと思う。


最後に交わした言葉が、ボールを渡しながらの「大事に保管してくれ」じゃあんまりだ。自分をことさら女の子だ、と主張するのは好きじゃないけど、話しかけづらい雰囲気の時ほど声をかけてもらいたがってると、なぜわかってくれないのか、あの鈍感男は。

私は一度深呼吸をして、発信パネルに指をかざした。


「ふわあっ!」


ちょうどその瞬間、着信音が鳴り、画面が動き出す。『藤谷未散』の四文字は表示されたままで。

「もしもしっ」

「わっ、早いな」

すぐに通話状態にして出ると、今度は向こうがあわてた声を出した。

「かけたのはそっちでしょ」

「そうだけどさ、そんなすぐ出ると思わなかった」

未散が不満げに抗議する。かかってきた名前を見て飛びついたみたいに思われたかな。

「たまたま手に持ってたから!用事は何?」

自分からかけようか迷ってたら、向こうからかけてくれた。何というタイミング。だから余計にそっけない言い方になってしまう。

「何ってわけでもないけど……今日来た川添西のマネージャーのこと、気にしてるかと思って」

言いにくそうにモゴモゴとしゃべっている。私は笑いをこらえながら答える。

「ちょっとびっくりしたけど、気にしてないよ」

言って、少し考える。

「ごめん、ウソついた。ちょっと気にしてる」

「うん、それが普通だ。でもあの子、よくわざわざお前に会いに来る気になったな。気まずさの極致じゃないか」

「うん。ポスターとか、テレビ見て気付いたのかも」

「だろうな。あ、今日の夜の番組予告見たか?ユーワクと同じ局の」

「見てない。何かあった?」


そういえば、継続して取材する、と言っていたユーワクのモリエリちゃんは結局桜律戦に姿を見せなかった。別の仕事が入ったのかと思ってたけど。


「今度は古豪、川添西高の快進撃を特集だってさ。あの人たち、どうせ俺らは桜律に負けるだろうと思って、今度当たる川添西の方に乗り換えて取材してたんだぜ。わざわざ別の番組で」

「何それ、ひどい」

モリエリちゃん、いい人だと思ったのに。

でも、彼女もアナウンサーとはいえ社員だろうし、やれと言われたことをやるしかないのかもしれない。

「こうなったら何が何でも優勝して、そん時モリエリちゃんだけ取材拒否してやる」

発想が暗い。でも未散はやけに楽しそうにしゃべっている。どういう性根をしてるんだろう、この男。

「やめなよ、そういう後ろ向きな目標」

「それは冗談にしても、イヤミの一つくらいは許されるだろう。その場にいるの知ってて素通りするとか」

「陰湿。そういうことすると、それを見てる女子にも嫌われるよ」

「そ、それは困る」

本当に困ったような言い方に、私は声を上げて笑った。


「お、やっと笑ったな」

「え」


絶句する私に、未散は続ける。

「お前が高校に入る前のことは、知り合ってないから、ち、力になれないけどさ。今のお前に対してなら、話聞くくらいはできるから」

少し照れくさそうに、時折詰まりながら、未散は言った。ちょっとキザだけど、必死にしゃべっている様を想像すると、からかう気にはなれなかった。

「うん。わかってる。ありがと」

「お前がみんなのことをちゃんと見てくれてるように、みんなもちゃんとお前を見てて、何かあったら心配するんだから。その、あんまり一人で抱え込まないでくれ」

「わかったってば。本当に大丈夫だから。それに、やっぱり最後は自分でどうにかしなきゃいけない問題だから」

「そうか。また余計なこと言ったかな」

「今さら?」

それから私たちは、他愛もない会話をして通話を終えた。何だか体がぽかぽか温かい気がする。

私の頭に、さっきまでは思いもしなかった考えがふと浮かんだ。ボールを抱えて立ち上がる。


「あ」


スマホに着信履歴がある。未散としゃべってる間にかかってたんだ。気付かなかった。

「兄さんだ」

発信者に広瀬春海の四文字。私はもう一度座ってすぐにかけ直す。五コールの後、通話状態になった。兄さんなら、何て言ってくれるだろう。未散の言う、私が高校に入る前を知る人は。


「あーっ、なちゅきちゃーん?もしもしー、お兄ちゃんですよー」

「……」


やけに明るいガラガラ声に、背後から聞こえる騒がしい音。そこがお酒を飲む場所だということは未成年の私にもわかった。

「兄さん、お酒飲んでるの?」

「何を言っとるのかね、君!お兄さんは飲んでいるよ」

ダメだ。完全にできあがっている。

大して強くないクセに、外面の良さで誘いにはホイホイ乗るんだ、昔から。今日は何の集まりだろう。

「会話を成立させる気がないなら切るよ」

「いやー、待て。待て待て待て。お前としゃべりたいって人がいるんだ」

「誰」

通話口から兄さんの声が離れ、騒がしい中誰かと話している。「いいっすよ」とか「悪いっすよ」とか何とか。いいのか悪いのか、どっちかにして。

「もしもしー。春海さんの妹さんですかー?」

若い男の人が電話に出る。

「そうですけど、どなたですか?」

向こう側で「うおー!」という歓声が沸く。何なんだろう、一体。

「えっとー、今俺ら大学のサッカー部OBで飲んでるんですけどー、春海さんがテレビに出てた美人マネージャーは俺の妹だって言い出してえ」

うわ、最悪。

「はあ」

「本当ですかって聞いたら、電話してやるって言ってー。俺ら、悪いからって止めたんすけどねー」

だったら電話に出なきゃいいのに。

「兄がご迷惑かけてすみません。確かに本河津高校のマネージャーは私ですが」

再び歓声が沸き起こる。スピーカーにしてる?ああ、うっとうしい。

その後、「彼氏いるの?」とか「キャプテンと付き合ってるの?」とか酔っぱらいのノリで何度も同じ質問をされた。これは何の罰ゲームなんだろう。

「もしもーし、なちゅきちゃーん」

電話が兄さんに戻って来た。

「兄さん、スピーカーになってるんなら戻して」

「んん?ああ、これか。ほいっ。で、どうした?」

「もう実家帰ってこなくていいから、好きなだけ飲んでて」

ブツリと通話を切り、今度こそ私は家の中に戻った。


深夜になった。

私は一人、暗いリビングのソファに座っている。メモリーカードと古いビデオカメラを手に持って。

カメラにはところどころぶつけたような傷がついている。結構荒い使い方をしてたんだな。


サッカーをやっていた頃は、毎試合お父さんかお母さんがビデオで私を撮っていた。最初は恥ずかしいからやめてって言ってたけど、他の子の親もみんな撮っていたから、そのうち気にしなくなって。

さっきお母さんにあの試合の映像は残ってるかと聞いたら、少しびっくりした顔をして「残してあるよ」と言った。ダメ元だったけど、聞いてみてよかった。


お母さんと二人で、押入れの奥からホームセンターで買った収納ボックスを引っ張り出した。

中にあったのは、子供用のサッカーボール、私がはいていた小さなスパイク、そして小さな箱に別で収納されていた、ビデオカメラとメモリーカードケース。カードの一枚一枚にマメに日付が記入されていている。

でも最後の一枚だけは、日付が空欄のままだった。


「一人で見るの?」

心配そうにお母さんが聞いた。でも理由は聞いてこない。

「うん。一緒に見る?」

お母さんは寂しげに笑う。

「いい。私、ホラー苦手だから」

「何、ホラーって」

「あんな怖い思いは一度で十分てこと」

そう言い残して、お母さんは寝室に引っ込んでしまった。


テレビをつけて音量を下げる。外部入力に切り替えて、カードを差し込んだカメラとテレビをケーブルでつなぐ。

画面にNON TITLEと表示され、「2013年11月17日」の文字。ああ、あの日は誕生日の次の日だったんだ。


「夏希ちゃん?」


黄色いパジャマの上に花柄のはんてんを羽織った秋穂が、リビングをのぞき込んできた。

「あ、ごめん。うるさかった?」

「ううん。寝付けないだけ。何か見るの?エッチなやつ?」

言いながら、そそくさと私の隣に座る。

「エッチなのだったらDVDでしょうに。前にカメラで撮ったの見るの」

「私も見る!」

「受験生は早く寝なさい」

「またそれ言う」

秋穂がふくれっ面になる。

「みんな気にしすぎだよ、入試はまだ先なのに。そうやって周りがピリピリすると本人には逆効果って知ってた?」

「そうなの?」

「少なくとも私には。で、何見るの?」

「私がケガした試合」

秋穂が沈黙する。

「どうする?私はおすすめしないけど」

「……見る」

「そう。後悔しないでね」

秋穂が真面目な顔になって座りなおす。

私はカメラの再生ボタンを押した。


画面の中でドリブルをしている長いポニーテールの女の子。

11歳の私だ。

他の選手より頭一つ分背が高い。当時は自分では何とも思ってなかったけど、やっぱり大きいな。


背番号14の背の高い少女は、ボールをなかなか離さない。パスすればいいのに、と思う時でも自分で行く。自分ではもっと上手いつもりでいたけど、体の大きさと力で結構強引に突破してる。

「夏希ちゃん、すごいエゴイスト」

秋穂がポツリとつぶやく。

「うるさいなあ。実際あの頃は大抵の相手に勝てたんだから、仕方ないでしょ」

にらんでも知らん顔だ。


「あ」


心臓がギュッとつかまれたような感覚。相手チームの6番。伸びかけの髪を無理やりポニーテールにした髪型の、背の低い女の子。

野呂真純だ。

「あの子だ」

秋穂が眉間にシワを寄せて言った。

私がサッカーに熱中していた時、二つ下の秋穂は多分甘えたい盛りだったと思う。でも家族みんなが私に期待し、もてはやした。あまり運動が得意じゃなかった秋穂はいつも遅れて私の後を追いかけてきて、置いてかれて泣いてたことを何度か覚えている。


「秋穂」

「何?」

「私のこと、恨んでる?」

「……」


秋穂はしばらく黙った後、口を開いた。

「私ね、ずっと夏希ちゃんみたいになりたかったの。泣き虫で鈍くさくて、何もできない私と違って、明るくていつもみんなの注目浴びて、愛されて」

妹の言葉がチクチクと胸に刺さる。

「でも、恨んだり嫌ったりはしてなかったよ。ただ、いいなあって見てただけで。でも」

「でも?」

映像は私がゴールを決めた場面。嬉しそうに笑っている。撮影しているお母さんの喜ぶ声も入っている。この後起こることも知らずに。

「夏希ちゃんが足のケガで入院してる時、光冬お姉ちゃんとお見舞いに行った時があって」

「それ知らない」

「夏希ちゃん、寝てたから。その時ね、足を吊って寝てる夏希ちゃん見て思ったの。もしかして私がうらやましいと思ってた夏希ちゃんが、今はケガしてない私の足をうらやましがってるんじゃないかって」

「……」

「それで、何か分かっちゃったのね。どんなに人をうらやんだりしても、そんなのいつどう変わるか分からないって。それからあんまりこだわらなくなったかな」

「……そんなこと、考えてたんだ」

「ほら、私早熟だったから」

言って、秋穂は明るく笑う。

私は何も言えずに、視線をテレビに移す。


見ていて気付いたことがある。相手の6番、野呂さんは、執拗に私をマークしていた。それにボールを持った時の動きが、気のせいか私に似ている気がする。

「あの6番の子、夏希ちゃんの真似っこしてる」

秋穂が険しい顔で言った。やっぱりそうだ。私はこの時、何を考えていたんだろう。頭の中にもやがかかったようで、思い出せない。


私は、私は……。


「あ」

私と野呂さんが対峙している。私は何だかすごく意地悪な顔をして、足の裏を使っておちょくるようにボールを転がしている。「何やってんの、もう」と、お母さんの声が入る。

続いて小さな女の子の、「なつきちゃん、がんばれー!」という声も聞こえる。もしかして、と隣を見ると、秋穂が赤面して目をそらした。

「ありがと、応援してくれて」

笑いながら言うと、

「記憶にございません。別の子じゃないかな?」

と、秋穂はとぼけた。


しばらく無言で映像を見つめる。刻一刻とその瞬間は近づいてくる。

秋穂が私の手を握った。私もギュッと握り返す。


思い出した。私は、野呂さんにイライラしていたんだ。それが髪型やスタイルを真似されてのものなのか、しつこくマークされていたせいかは覚えていない。でも彼女に腹を立て、わざと挑発的なプレーをしてへこませてやろうと思っていたのは確かだ。だって、画面の中の私はすごく彼女に意地悪をしている。野呂さんは必死に食らいついてくる。何度でも、何度でも。


数分後、コーナーキックからのクリアボールが、ペナルティアーク付近の私に戻ってきた。私はゴールに背を向けて胸トラップでボールを浮かせ、くるりと振り向いて左足を振りかぶる。

落ちてきたボールを左足でもう一度浮かせて、詰めてきた相手DFを二人まとめてかわす。

私の手を握る秋穂に力が入る。

私は左足一本で立ち、落ちてくるボールに合わせようと右足を振りかぶる。


そして。


まっすぐに飛び込んでくる、6番。低いスライディングだったとずっと思いこんでいたけど、実際は体全体で私を止めにきていた。ボールに向かっているのか、私に向かってきたのか。

ごちゃつくゴール前で私がシュートを打てずに倒れこんだ瞬間、お母さんの悲鳴とともに画面が大きく揺れて、どこかにぶつかる音がした。そこから先、カメラは観客席の足元を静止画のように映し続ける。

お母さん、カメラ落として走ってくれたんだ。だから、こんなに傷がついて。


「夏希ちゃん、もう終わった?」

秋穂が目をギュッと閉じたまま、私の腕にすがりついている。

「終わったよ」

停止ボタンを押して、画面を暗転させる。部屋も同時に暗くなる。私は秋穂の頭をそっと撫でた。

「ありがとね。一緒に見てくれて」

「後悔してる」

仏頂面でつぶやく秋穂を抱きしめながら、私は思った。


やっぱり、はっきりさせなきゃいけない。


翌日。

朝教室に行ってから、私は極力いつも通りに過ごそうと努めた。一年の女子たちに写真をお願いされた時は、快く引き受け、放送部の古市君からお昼の放送への二度目のゲスト出演オファーも、断らなかった。本当は両方とも苦手なんだけど。


未散は未散で、普段しゃべらないクラスメートの男子としゃべったり、他のクラスに呼ばれてちょっとしたスター扱いを受けたりして目の下がピクピク引きつっている。

そういえば、冬馬はクラスでどんな感じなんだろう。愛想よく受け答えするタイプには見えないし。ケンカしてなきゃいいけど。


授業が終わって、午後の練習時間になる。練習と言っても、メンバーの半分が盛田先生考案の「疲れを取るメニュー」でボールは使わない。みんなの顔は、楽ができて嬉しい気持ちと、こんなことしてて大丈夫かなという気持ちがまざって複雑だ。


「あれ、広瀬先輩、着替えないんですか?」


制服のまま練習場に現れた私に、伊崎君が不思議そうな顔をした。

「うん。今日は練習休ませてもらおうかなって」

「体調悪いんですか?」

途端に情けない顔になった伊崎君に、芦尾が訳知り顔で、

「伊崎、お前もガキじゃないんだから察してやれ。女子が体育や部活を見学する理由なんて一つだろ?」

と、一人でうんうんうなずいた。

「芦尾、今日は違うから。あと私の半径五十メートル以内に近づかないでくれる?」

「それじゃ学校の敷地出ちゃうじゃないか!」

芦尾のバカは放っといて、私は未散に頼み、みんなを集めてもらった。


不思議そうな顔の部員たちを前に、私は事情を話す。

今度準決勝で当たる川添西高のマネージャーが昨日会いに来たこと。そのマネージャーは六年前、私に大ケガをさせた本人であること。


そして、今度は私が向こうに直接乗り込もうとしていることを。


みんな口々に、

「別に、わざわざ行かなくてもいいんじゃねえの?どうせ土曜日に会場でまた会うんだし」

「そんな相手に会う必要ないですよ」

「広瀬先輩がいなかったら、誰が盛田先生を止めるんですか!あの人のストレッチ痛いんですよ!」

と私を止めてくれた。理由はともかく。


でも最後にはみんな納得してくれて、「よくわからんけどがんばれ」というぼんやりしたエールをくれた。


「夏希ちゃん」

校門に向かいかけた私を、紗良ちゃんが呼び止める。

「ん?」

「本当に大丈夫?」

メガネの奥の愛らしい瞳が、心なしかうるうるしているように見える。私は思わず、彼女をギュッと抱きしめてしまった。

「うああああっ!な、何なにっ!どうしたの夏希ちゃん」

「ううん。心配してくれてありがと」

「そうじゃなくて、何で私抱かれてるの?」

「こないだの試合で抱き合った時、紗良ちゃんて気持ちいいなって」

「理由になってないよー」

満足して解放すると、紗良ちゃんは胸を押さえて大きく息をついた。

「びっくりさせないでよー、もう」

「ごめんごめん。じゃあ、行ってくるね」

紗良ちゃんに手を振り、私は校門に向かって走り出した。


駅のホームに立ち、時計を見る。あと五分で電車が来てしまう。

川添西高までは、電車に四駅乗って、そこから路線バスに接続。大体一時間くらいで着く計算だ。向こうで長居する気はないから、練習が終わるくらいになら帰って来られるかな。


私は大きく息をはいた。さっきから体の震えが止まらない。朝から普段と変わりないようにしようと心がけ、練習前にみんなに大見得切って行ってくると宣言してきた。ああいうのを、虚勢を張るって言うんだろうか。無理をした反動が来てるのかな。


本当は今朝から、行こうかどうしようかずっと迷ってた。部のみんなの前で話したのは、こそこそ隠し事したくないって理由だったけど、自分が逃げないようにするためだったかもしれない。

私はみんなを利用したずるい人間だ。あんなに心配してくれる優しいみんなを。

ああ、電車が来なければいいのに。踏切の点検とか、理由は何でもいい。そしたら今日は中止できる。

でも、このまま先送りして土曜日に試合会場でまた会って、私は冷静でいられるだろうか。自信ない。


私は。


いつから私は、こんなに弱くなったんだろう。

ううん、そうじゃない。きっと私は、もともと強くなんかなかった。

心臓が締め付けられる。左足首がざわついてくる。やっぱり、こっちから会いに行くなんてバカなこと考えるんじゃなかった。どうしよう、泣きそう。


「夏希!」

その声が、私の名を呼んだ。隣の席で、練習場で、電話の向こうでいつも聞く声。


振り返ると、藤谷未散が階段を一気に降りたところだった。練習着にスパイクのまま、両ひざに手をついて肩で息をしている。

「ちょっ……何やってんの!何で来たの?」

思わず駆け寄る。盛田先生から、全力疾走は禁止って言われてるのに。

「はぁ、はぁ、ちょ、ちょっと、待ってくれ」

必死に息を整えながら、ぐいと上半身を起こす。

「あー、しんど」

「ここまで、どうやって来たの?」

「菊地に自転車借りた」

「その恰好で?」

「着替える時間が無くて」

「スパイクで階段一気に降りるなんて、信じられない。こけて大ケガしたらどうするの?」

鼓動が早まる。でもそれは、さっきの締め付けられる感覚とはちがって。どうして私は、こんなに彼を責めてしまうんだろう。

「そうヤイヤイ言うなよ。これでもがんばって来たんだから」

「だから何で」

「こばっちが」

「え?」

「こばっちが、あんなに自分からスキンシップしてくる夏希ちゃんは珍しいって言ってな。そういえば朝から妙に愛想よかったし、それで、無理してるんじゃないかってピンときた」

「それはちょっと失礼だと思う」

「でも当たってたろ。今、泣きそうな顔してたくせに」

「してない」

私はプイと横を向く。見られた!

「行きたくなきゃ、無理すんなよ。痛いことから逃げるのは恥ずかしいことじゃない。動物の本能だ。やっぱりやめたって言っても、みんな何も言わない。というか、俺がキャプテン権限で何も言わせん」

いつも通りのぶっきらぼうな、まっすぐな物言い。いつのまにか、さっきまでの不安はどこかに消えていた。


「そういうわけには、行かないよ。これは私の問題で、解決しないと土曜の準決勝にも影響が出る問題なの」

「……」

未散は心配そうな顔で黙って聞いていた。

「さっきまでは、正直びびってた。でも、もう大丈夫」

「本当か?」

「うん」

「じゃあ」

言って、未散はゴソゴソとお尻のポケットから紙を取り出した。四つ折りのメモ用紙。それを私にスッと差し出す。

「何それ」

「秘密のメモだ。あの子と会ってる時、困ってどうしようもなくなったら開いて読め。何ごとも無かったら、駅のごみ箱にでも捨ててくれ」

「よくわからないけど、一応もらっとく」

私はメモを受け取り、スカートのポケットに入れた。


構内アナウンスが入る。

「もう戻って。電車が来る」

「ああ。あともう一つ」

「まだ何か?」

未散が真面目な顔になる。

「人を許すことは、義務じゃなくて権利だと、俺は思う。自分を傷つけた相手を許せなくても、それは権利を使わないと決めただけだ。心がせまいわけでも、イヤなヤツでもない」

「……何、急にそんなこと」

逃げ回っていた心を鷲掴みにされたような、そんな感覚。何も言い返せない。

「つまり、俺が言いたいのは」

電車がホ-ムに入ってくる。私は乱れる髪をおさえた。

「あの子を許そうが許さまいが、お前はうちの大事なマネージャーに変わりないってことだ」

ドアが開く。降りる乗客を待って、私は車両に乗り込んだ。

「未散」

ドアのすぐそばに立ち、私は言った。

「ん?」

「来てくれて、ありがとう」

今日初めて、自然に笑えた気がした。

閉まったドア越しに、真っ赤になった彼が見えたのは、多分見間違いじゃないよね。


バスとの接続が思ったよりうまく行って、一時間の予定が四十分で川添西高に着くことができた。

バスは通学する生徒のために作られたような路線で、車内で他の乗客にだいぶジロジロ見られた気がする。下校時間なのに、見慣れない制服の高校生が学校に向かうバスに乗っていたのだ。変に目立ったのも無理はない。


川添西高は商業と工業を統合してできた新しい高校ということで、門も校舎も綺麗だ。グラウンドも広い。様々な部活が声を出して練習している。


校門の外からサッカー部を探す。見える範囲にはいない。

下校する生徒たちが私をチラチラ見ている。ずっとさらし者になるのはイヤだな。

「あの、すみませんけど」

通りかかった一人の男子生徒に声をかける。モト高とは違ったデザインのブレザー。短い髪にガッチリした体格。それにスポーツバッグをかついでいるので、多分運動部だ。サッカー部の場所を知ってるかも。

「は?何すか?」

「サッカー部に用があるんですけど、どこで練習してるんですか?」

「あ、俺手芸部なんで、運動部のこと全然わかんないんスよ。すんません」

「い、いえ。こちらこそ、呼び止めてごめんなさい」

手芸部の男子生徒はバス停に歩いて行った。何なの、あのガタイで手芸部って。どういうこと?


「あ!」


背後から唐突に声がかかる。振り返ると、何となくサッカー部っぽい練習着を着た男の子が、私を指さしていた。

「えーと、あの、私」

「ポスターの美少女だ!絶対そうだ!やっぱりそうだった!」

茶色がかった短髪に、クリクリの目をした童顔。背は私と同じくらい。雰囲気からして一年生かな。そしてやたらと声が大きい。よく似てる後輩を知ってる気がする。


男の子は人懐っこい笑顔を浮かべて言った。

「俺、サッカー部の大江雅紀おおえ まさきって言います。さっき他の部のヤツが、見かけない制服着たすごい美少女が校門にいるって言ってたもんだから、サッカー部を代表して偵察にきました!」

美少女、と言われて悪い気はしないけど、今はそれどころじゃない。

「よろしく、大江君。私、本河津高校サッカー部の広瀬夏希っていいます。そちらのマネージャーの野呂さんに用があるんですけど、どこに行けば会えますか?」

大江君の顔が一瞬固まる。

「本河津……って準決で当たるとこじゃないですか!スパイに来たのか!?」

言って、謎のファイティングポーズを取る。本当に似てるなあ。誰とは言いたくないけど。

「あのね、スパイだったらわざわざ目立つ正門から来ないし、正直に名乗らないと思うよ?」

「む。確かに」

あっさり納得してくれた。根はいい子みたいだ。

「真純先輩なら練習コートにいますけど、来ます?」

真純先輩?あ、そうか。名前は真純っていうんだった。

「うん。お願いします」

大江君の案内で、ようやく私は校内に入ることができた。


川添西高サッカー部の練習コートは、校内の一番奥、敷地のすみっこにポツンと区切られていた。校門から見えないのも納得だ。準決勝に進んだ古豪とはとても思えない扱いで、何だか親しみを感じる。


私はコートから離れたところに立って待つ。案内してくれた大江君が、背の高いガッチリした選手に私を指しながら話をしている。

その選手は今時珍しいスポーツ刈りで、意思の強そうな眉と大きな目が印象的だった。立ち姿も他の選手とは雰囲気が違う。あの人がキャプテンかな、と私は直感した。


今は休憩時間のようで、コートに出ている数人の選手がトリッキーなリフティングをして遊んでいる。これもうちでよく見る光景。古豪というくらいだからもっと厳しいイメージを持ってきたけど、こういうゆるい雰囲気で強いところもいるんだ。


話を終えた背の高い選手が、こちらに走ってきた。

「初めまして。川添西高サッカー部、キャプテンの瀬良藤司せら とうじだ」

自己紹介しながら右手を差し出してきた。意外とさわやかだ!

「本河津高校サッカー部マネージャー、広瀬夏希です。すみません、いきなり押しかけて」

握手しながら、私は頭を下げる。大きくてゴツゴツした手。三年生かな。


遠目にはゴツく見えた眉は、間近で見上げると端っこが下がり気味で、割と人が良さそうに見える。大きな目にも、奥に優しい光が見える。

ルックスは全然違うけど、未散とどこか共通したものを感じた。


「いや、いいんだ。昨日、うちのマネージャーが先にそちらに押し掛けたみたいだしね。申し訳ない」

瀬良さんは顔を大げさにしかめて謝った。

「いえ、私もびっくりして、ちゃんとお相手できなかったので。あの、瀬良さん?」

「瀬良さんはくすぐったいな。俺まだ二年だよ」

「私も」

「知ってる。先週のユーワクで見たよ」

「でも、今度はそちらに乗り換えたって」

瀬良さん……瀬良君はまた大げさに手を振った。

「そんなことないって。だってうちにはモリエリちゃん来なかったし」

「そうなんですか」

どうしてだろう。うちへの義理を通したのかな。まさか。


私は伺うように、聞いた。

「野呂さんは昨日うちに来た理由、何か言ってました?」

「んー、何も。今朝いきなり報告してきてね。こっそり偵察に行ったけど、丁度練習が終わっててあっさり見つかったとか何とか。珍しく歯切れが悪かったな」

瀬良君が首をかしげる。そんなこと言ってたんだ。

「今、彼女に会えますか?」

「うん。今ちょっと用があって外してるけど、もうすぐ戻ってくると思うよ」

言って、コートの方を親指でさした。

「あっちで座って待つ?」

今度は私が手をぶんぶん振った。

「ここで待ちます。準決勝の相手の練習を見るなんて、フェアじゃないから」

瀬良君は笑って言った。

「俺も敵に手の内を見せるほどバカじゃないよ。ただの基礎練。それに」

言いかけて、コートの方を振り返る。いつのまにか西高の選手たちが集まり、私たちの方をじっと見ていた。

「あいつらも、テレビ見て君に会いたがってたからさ。頼むよ」

「はあ」

よし。こうなったらチームのために、少しでも情報を持って帰ろう。本当にスパイになったつもりで。


西高の選手たちは、敵チームが送り込んだスパイである私をなぜかVIPのように扱ってくれた。それでなくても、まるで普段の部活にいるような居心地の良さ。


やっぱり、このチームはうちに似ている。


見たところ、私を案内してくれた大江君はスピードがあって縦に一気に抜けるタイプ。足元は普通かな。瀬良君はちょうど未散と黒須君の中間のようなタイプで、パス、シュート、守備がそれぞれ高レベルで揃っている。でもそれだけじゃない。キャプテンとして、しきりに声を出したり手を叩いたりしてみんなを鼓舞している。彼に比べると、やっぱりうちのキャプテンは少しおとなしい。


「広瀬さん」


そう私に声をかけたのは、枕山まくらやまという三年生の人。さっきからずっとクネクネしたドリブルを披露している。でもシュートはあんまりうまくないみたい。うちにもいるなあ、そんな人。


「はい」

「野呂さんが来たよ」

未散から勇気をもらったはずなのに、やっぱり心臓が一瞬つかまれたようなイヤな感覚。でも、今彼女は私に何もしていない。私が私にしていることなんだ。

「広瀬……さん」

昨日とは違ってジャージ姿の野呂真純が、私を見て目を大きく見開いていた。


練習コートから少し離れた場所に丸い大きな花壇がある。その脇にあるベンチに、私と野呂真純は並んで座った。

二人分ほど間を空けて。

しばらく沈黙が続く。何となく、私からしゃべったら負けみたいに思えてきて、口が開けない。


「あ、ちょっと待っててください」

あっさりと口を開いた野呂真純は、タタタと校舎の角まで走った。

「こらーっ!何のぞいてるの!?練習に戻りなさーい!」

校舎の陰からわらわらと人影が散る。さっき練習コートで見た一年の子たちだ。

野呂真純はため息をつきながら、ベンチに座り直した。

「ごめんなさい。うちの一年の子たち、すごく子供っぽくて」

「ううん。うちも一緒。年一つしか違わないのに」

マネージャー同士だからか、初めての会話は驚くほどスムーズに行われた。

「昨日は、ごめんなさい。いきなり押しかけて」

小さな声で野呂さんが話す。さっきは「こらーっ」って張ってたくせに。これじゃまるで、私が一方的に怖がらせてるみたいじゃない。

「いきなり押しかけたのは、今日の私も同じだから、おあいこ」

「うん」

「でも」

私は言葉を切った。彼女から見えない方の拳をグッと握る。

「六年前のあれは、おあいこじゃない」

「……」

野呂真純は答えない。私は続ける。

「昨日の夜、あの試合の映像を見たの。確かに私は、エゴイストで、傲慢で、調子に乗ってた選手だったと思う。同じ髪型でしつこくマークしてきたあなたにイラついてたのも認める」

「……」

「長居する気は無いから、一つだけ、どうしても聞きたかったことを聞くよ」

「……うん」

「どうして、私にあんなことしたの?」

野呂真純は黙りこくったまま、下を向いている。

このまま黙ってる気?


「私、あなたに憧れてたの」

ポツリと彼女は口を開いた。

「あなたはいつも、輝いてた。可愛くて、うまくて、明るくて、周りに人が集まって。私は、それがうらやましくて。あなたみたいになりたいって、髪型もマネした」

今は短く切りそろえている髪を、彼女が手持無沙汰に触れる。

「でも私、人見知りだったから、話しかけて友達になるなんてとてもできなかった」

「……それで?」

「あの試合、私は監督から、あなたを間近でしっかり見て来いって言われてマーカーを任されたの。それまで自分でもしっかり練習してきたつもりだったし、何とか追いつきたいって。成長した私をあなたに見てもらいたいって思ってた」

私は黙って続きを待った。

「でもあなたは、私の想像を超えてうまくなって、綺麗になって、とても追いつけない存在になってた。そんな時、あなたのゴール前のリフティングが見えた」

あの時、私は何であのプレーを選んだんだろう。もっと他の選択肢も、あったはずだ。

「あんな素敵なゴール決められたら、私はもう二度とあなたに追いつけなくなる。努力が無意味になるって思ったら、絶対に止めなきゃって思って」

「……それで、体を支えている足をわざと後ろから狙った?」

「違う!」

彼女が声を上げる。

「そんなつもりなかった!そんなことしたら大ケガするし、私だって退場になっちゃう。私は前に体を入れるつもりだったの」

「じゃあ何で」

「最初のリフティングで、広瀬さんに交わされたチームメイトも、一緒にボール押さえようとして、その動きと重なって。私、それで」

野呂真純が涙声になる。

「ちょうど、あなたの左足に倒れこんじゃったの」

「それを、信じろって言うの?」

何それ。わざとじゃないって、事故だったって言いたいの?確かに映像ではたくさんの選手がごちゃついてたけど、だからって。

「信じてもらえなくても、いい。私が取り返しのつかないことをしたのは事実だし、あなたに許されようなんて思ってないから」

野呂真純はそう言って、グスッとしゃくりあげた。これじゃまるで、意地悪な私が純粋な子をいじめにきたみたい。これで決着?これがつらい過去に勇気を出して向き合った報酬なの?

そんなの、あんまりだ。


立ち上がりかけて、私はスカートのポケットに違和感を覚えた。

未散の、秘密メモ。

私はポケットからそっと四つ折りのメモ用紙を取り出し、音を立てないように開いた。

「……」

読み終えて、そっとブレザーのポケットにメモをしまい直し、私は野呂真純に言った。

「何で、昨日なの?」

「え?」

彼女が顔を上げる。

「ポスターが張り出されたのはだいぶ前だし、テレビに出たのも先週。私に会いに来るなら、対戦が決まる前にいくらでも日があったでしょ?何なら試合が終わった後でもよかった。何で、準決勝で対戦が決まった途端、会いに来たの?」

野呂真純は黙って足元を見つめてる。

「六年前は、わざとじゃない。でも昨日は、狙って来た。違う?」

黙ったままの彼女に、私は続ける。

「きっかけは知らないけど、あなたはモト高に私がいることを知った。でも、本当は会う気なんてなかった。わざわざ会いに来たのは、私を動揺させて、うちのチームを揺さぶるため」

未散のメモに書いてあったこと。


『その女に気を許すな。そいつはお前を揺さぶるために送り込まれたスパイだ。お前は何も悪くない』


私は何も悪くない。これがひどい言いがかりだったとしても、未散は、みんなは、私を軽蔑せずにいてくれる。

野呂真純が口を開く。

「あなたも女の子なら、わかるでしょう?好きな人のためなら、どんなことでもしてあげたいって気持ち」

そう言って彼女は、泣き顔のまま笑顔を浮かべた。

人ってこんなにも寂しく笑えるんだ、と私は思った。


サッカー部の人たちみんなで記念写真を撮って、私は川添西高を後にした。今は自宅へ向かう真っ暗な道を歩いている。もう七時半だ。


あの後私たちは、ちょっとだけ予定を延長して話をした。


六年前のあの試合の後、彼女はサッカーを辞めたこと。

彼女の両親と一緒に何度も私のお見舞いに来たけど、一度も会えなかったこと。

そして西高に入学してすぐ、何となくサッカー部の練習を眺めていたところを、瀬良君に誘われてマネージャーになったこと。

昨日モト高に来たのはあくまで独断で、瀬良君は彼女が一時期サッカーをやっていたくらいのことしか知らないこと。


別れ際、私は彼女に告げた。

「多分私は、一生あなたを許せないと思う。でもだからと言って、うまくいかないことをあなたのせいにしたり、わざわざ思い出して憎んだりは絶対にしない。聖女じゃない私ができるのは、それで精一杯」

野呂真純は答えた。

「ありがとう。私は、それで十分。六年前のことは、今さら謝って済むことじゃないけど、昨日のことはごめんなさい」


私は自問する。本当に、西高に行って良かったのかな。行った意味はあったのかな。すっきりしたような気もするし、何も解決しなかったような気もする。

スマホを取り出し、『藤谷未散』を呼び出す。私はためらいなく発信ボタンをタップした。


『もしもし、どうだった?』


ワンコ-ルで出た。すごい早口だ。ずっとスマホ持って待ってたりして。

「うん。何とか話せた。全部スッキリしたかって言われるとわからないけど」

『そうか。でも良かった』

「何が?」

『声聞く限り、大丈夫そうだ』

急に優しい口調になる。ズルいやつ。

『そういや、あのメモは見たのか?』

私は一瞬間を置いた。

「ううん、見ずに捨てたよ」

『それは何よりだ。あのメモには、俺の人間性の闇の部分が書かれていたんだ』

「そうなんだ。見ればよかった」

ダメ、笑いそう。

『じゃ、今日サボった分、明日はキリキリ働いてもらうからな。しっかり休んでくれ』

「一応西高の情報も持って帰ってきたんだから、そこは評価してよ」

『明日内容を聞いてから判断する。じゃあな』

「ケチ。おやすみ」

通話を切って、私は家に向かって走り出した。


「ただい」

玄関を開けると、正面に兄さんが正座していた。

白いシャツに白いズボン。白装束?

それはともかく、昨晩の酒の席からの電話を思い出して眉間にシワが寄ってしまう。

「夏希、昨日は本当に悪かった。お兄ちゃんはマリアナ海溝より深く反省している。だから機嫌を直してほしい。この通りだ」

「ただいまー、お母さん。お腹すいたー」

土下座する兄さんの横を素通りして、私は台所に向かう。

「夏希いいいいっ!シカトはやめてくれっ!お兄ちゃんそういうのマジで傷つく!」

騒がしく謝罪を続ける兄さんを、私はことごとく無視し続けた。

そして寝る直前、ようやく兄さんに「許す権利」を使用したのだった。


つづく

多分しなくていい名前の由来解説


大江雅紀……マイケル・オーウェン

瀬良藤司……スティーブン・ジェラード

枕山……マクマナマン

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