第57話「ジョーカー」
もう一度、飛ぶチャンスをくれたんだ。
一年生で運動部をやめた人間に、青春なんて戻ってこないと思ってた。
監督からリベロへの転向を打診された時、素直に受けていればよかったのか。アタッカーへのこだわりは、子供じみた意地だったのか。今はもうわからない。自分がどれくらい高く飛んでいたかも忘れてしまった。
二年に進級して、毎日がただ淡々と過ぎて行って、気がついたら窓から体育館を眺めている時間が増えていた。
体育館の外まで聞こえる、シューズと床がこすれ合うキュッキュッという音が妙に耳につきはじめて、いつのまにか俺はだんだん怒りっぽくなっていた。険しい顔をしていたせいか、クラスでも俺に話しかけるヤツはあまりいなかったように思う。
そんな時だ。
「ちょっと、いいかな」
五月下旬の昼休み。どこか上ずったような声で話しかけてきたヤツがいた。多分同じ学年だろうけど、見覚えはない。一度くらい廊下ですれ違ったか?やたら童顔で、これといって特徴のない見た目の男。
そいつはB組の藤谷といった。
サッカー部に来てくれ、と藤谷は言った。俺のジャンプ力がディフェンスに必要だとか、素人でも戦略があれば攻撃を止められるとか、何かゴチャゴチャ言っていた気もする。
本当は、何でも良かったんだ。面白そうだなって、そう言って誘われるままサッカー部に入ったけど、全国に行くなんていう藤谷の言葉は信じてなかったし、今のクソみたいな生活から抜け出せるなら、それでいいやって。
でもいつのまにか、後ろから藤谷のプレーを見ているうちに、本当に、全国に行けるんじゃないかって。
強い学校が立ちはだかるのはわかってる。それでも、あいつについていけば何とかなるんじゃないかって。
俺をもう一度、飛ばせてくれるんじゃないかって。
「金原、大丈夫か?」
ゴール前で座り込んだ金原に声をかける。空中戦で負けたのがよほどショックだったのだろう。ぼんやりと前を見つめて返事もしない。
「未散、すまん」
直登が渋い顔で歩み寄ってきた。
「しょうがない。あの高さは予想外だった」
そう言いつつも、俺は俺でそれなりにショックを受けていた。確かに今まで何失点もしてきたが、金原が高さでここまで負けたことは無かった。これだけは安心、というよりどころが一つ崩された気分だ。
うちの選手たちもぞろぞろと集まってくる。皆一様に顔に疲労がにじみ出ている。元気そうなのは皆藤と銀次くらいか。
「冬馬、まだ走れるか?」
「ああ。お前が全然パスよこさねえから、走る場面がねえよ」
「す、すまん」
強がりではなさそうだ。
「伊崎は?」
「はぁ……だ、大丈夫です……ベスト、コンディションです」
こっちは強がりだ。
両ひざに手をついてしっかり休んでいる。伊崎は冬馬と違って、オフサイドラインを狙って何度も上下動する、いわゆるムダ走りが多いタイプだ。少しずつ体力が削られていても不思議はない。せめて俺がパスを出せていればちょっとは徒労感を感じさせずにすんだんだが。
「伊崎、芦尾と交代だ」
「えーっ!」
ベンチを見る。芦尾がライン際で夏希に何か話しかけている。夏希はムッとした様子で芦尾のケツにパンチを繰り出した。また何かしょーもないこと言ったな。
「これも広瀬さんと打ち合わせ済みだったのか?」
直登が同じくベンチを見ながら言った。
「いや、事前の打ち合わせは国分を入れることだけだ」
夏希とこばっちが二人で判断したんだろう。いいタイミングだ。目が合った夏希にOKサインを出す。夏希も「フフン」といった顔で同じサインを返した。
「こらえろ、伊崎。お前のおかげでPKが取れて先制できたんだから。ちゃんと仕事はした」
「でも結局決めたの冬馬先輩じゃないですかー」
ぷうっとほっぺを膨らませながら、伊崎がトボトボとベンチに向かう。
いかん、早くしないと試合が再開してしまう。
スコアは1-1。時間は残り二十分。桜律はかさにかかって攻めてくるか?いや、それは無い。後半が始まってしばらくして気付いた。壁口監督は八十分をトータルで考え、この試合をどこかで記録しているであろう春瀬に手の内の全てを明かすことなく、最小リスクの消耗戦でうちに勝つ気だ。問題は、二十分の延長戦を視野に入れているかどうか。延長戦でも決着がつかなければ、不確定要素の多いPK戦になる。あの監督はそれを望むだろうか?
「藤谷」
黙っていた冬馬が言った。
「ん?」
「お前が何考えてるのか大体わかるけどな、向こうもケツに火がついてると思うぜ」
「どこがさ」
「さっきのコーナーキック、高さが必要だっつっても、あの慎重な監督がセンターバック二人とも上げたんだぞ。そろそろ同点にしたいって腰を上げたんだろ」
「だとしても、この後二十分どうするかなんてわからんぞ」
「お前はどうしたいんだよ」
「え」
みんなの視線が集まる。いつのまにか芦尾も入ってきていた。
「俺は」
どうしたい?
あの難攻不落の城のようなチーム相手に、1-1の同点から、残り二十分をどう戦う?
「俺は……残り二十分、守って延長戦に持ち込みたい。今のコンディションで点を狙いに行っても、こっちがカウンター食らってボコボコにされる。思うつぼだ。向こうも延長の二十分に入れば、さすがに自分から動かざるを得ないと思う」
「今から二十分、ずっとガチガチで守るのか?」
芦尾が不満げに言った。
「いや、勝ち越し点を狙うフリをする。俺が上がって、どんどんシュートを打つから、芦尾は中盤に入って6番の牧村と14番の佐美とのラインを分断させろ。邪魔しまくれ」
「おお、邪魔なら任せろ」
「狩井と銀次は、それぞれのマッチアップの相手、3番の丸瀬と2番の猿渡をとにかくライン際に追い込め。クロスボールはどんどん上げさせろ。大して怖くないはずだ」
「はい!」
「おう!」
狩井と銀次もまだへこたれてはいない。頼もしいヤツらだ。
「国分と皆藤は、中をきっちりおさえてくれ。中盤が三人になったら、神威君も右に張ることは減るだろう」
「はい!」
「イエッサッ!」
「あ、あのよ」
と、後ろにいた金原がポツリと言った。
「ん、どした?」
「クロスは怖くないって、わかんないだろ、そんなの。あの神威ってヤツの右クロスは精度高いし」
「そりゃそうだけど」
どうも金原がさっきの失点引きずっているようだ。こういう時、何て言えばいいんだろう。後輩には割と言えるけど、同級生は難しいんだよな。
「バカだな、お前は」
困っていると、冬馬が無愛想な顔で言い放った。
「何だよ、バカって」
金原がムッとして聞き返す。冬馬、頼むからこじらせないでくれよ。
「桜律が何でカウンター食らうリスク冒してまで、センターバック二人をコーナーキックで上げてきたと思ってるんだ?お前の高さを驚異に感じて狙い撃ちしたんだよ。つまり裏を返せば、どんな精度の高いボールが入ろうが、久里浜や不破野の高さじゃうちのセンターバックに勝てねえって認めたってことだ」
「驚異……俺が」
金原がつぶやく。
うつむき、自分に言い聞かせるように。
「だからいつまでも甘えてねえで、自分の仕事をしろ」
言い放って、冬馬はセンターサークルに歩いて行った。
「何だあの野郎。言いたいこといいやがって」
文句を言う金原の顔には、いつもの自信が戻っていた。
冬馬が待つセンターサークルに向かうと、今一番見たくない顔が迎えてくれた。
「打つ手なしか?」
久里浜が得意げな顔で立っている。
「ユースに一年いると算数を忘れるのか?まだ同点だぞ」
「言ってろ。どうせ時間の問題だ」
言うと、モト高ベンチをちらりと見た。
「広瀬ちゃんが見てるからな。俺が試合を決める」
「言ってろ。決めるのは俺だ」
「そりゃ楽しみだ」
久里浜が戻り、冬馬と二人でボールをはさんでセンターサークルに立つ。
「お前にしちゃ、強気だな。本当に決めるのか?」
冬馬が聞いた。
「いや、ハッタリだ」
答えて、俺は改まって冬馬に言った。
「ありがとな、金原のこと」
言うと、冬馬は「フン」とそっぽを向いた。
「他にセンターバックの代わりがいるのかよ。照井じゃまだ足りねえし」
正論だが、ここはあえて照れ隠しと受け取っておこう。可愛いところあるじゃないか。
「そんなことより」
冬馬があごをしゃくって桜律ベンチを指す。
「不破野が下がるぞ」
「えっ」
前キャプテンの不破野さんと、一年生FWの有留が下がる。
代わりに入ってきたのは、17番の入辺と15番の鍋島。入辺は背が高くガッチリとしたゴリラみたいな顔をしたヤツで、右サイドの高い位置に入る。鍋島は生え際がピッチリ直線になっている丸坊主で、中肉中背。センターフォワードの位置に居座った。
結果神威君を下がり目にして、ほぼ4-3-3の布陣になる。壁口監督は八十分で決める気だ、多分。
「不本意かもしれないけど、きっちり守るぞ。延長戦で本気出す」
俺が言うと、
「そいつはダメなヤツの常套句だ。今から本気出せよ」
冬馬は顔をしかめた。
「そりゃそうだな」
「俺は別に延長でも構わねえけどな。PK戦だけは勘弁してくれよ」
1-1で試合が再開する。
俺がポジションを上げて冬馬のすぐ後ろ。芦尾と黒須が中盤センターを固め、国分と皆藤が左右の攻撃を止める。見ようによっては4-4-1-1というかなり消極的な布陣だ。基本的な戦術は変わらないものの、攻撃は俺と冬馬の二人だけ。かなり薄いが、ハッタリだけなら何とかなるはずだ。
後半二十五分。
中盤が三人になっても、桜律のプレスは変わらなかった。特に牧村がしつこい。うちの皆藤よりスタミナがあるんじゃないか。
皆藤からの速いパスが中央の俺に斜めに走ってくる。後ろに牧村の気配。俺はつま先からカタパルトに乗せるようにボールを真上に浮かせる。そして前を向きながら、インサイドでボールに反対の回転をかけてバウンドさせる。俺が一歩後ろに飛びのくと、バックスピンがかかったボールも一緒についてくる。ほんの一瞬、牧村が俺との間合いを迷った。
「ほっ!」
ゴールまで大体二十メートル。俺は浮いたボールにアウトサイドで回転をかけながら蹴り上げた。ボールはシュート回転をしながら、DFの頭を越えてゴールへ向かう。
ガインッ!という音を立て、シュートはバーを直撃した。できれば入ってほしかったが、ハッタリとしては上出来だ。
素早く自陣に戻り、桜律のDFラインを観察する。よし、上がる気配は無い。ハッタリが成功したのか、元から上がる気が無いのかはわからないが、上がらない判断を続けてくれればそれでいいのだ。それだけ攻撃が薄くなる。
「藤谷」
芦尾が戻って来た俺に言った。
「何だ?」
「今のシュート、俺のアンラッキーバズーカのパクリだろ?」
「パクるか、そんなもん!ただのボレーだ」
「そんなもんとは何だ!失礼な」
理不尽な因縁をつけられつつも、俺は思った。
コイツが元気なうちは、チームはまだ大丈夫なんだと。
後半三十分。
左サイドで銀次が猿渡に抜かれた。銀次がマッチアップする右SBの猿渡は、スピードこそ銀次にかなわないものの、駆け引きや技術では圧倒的に上だ。だから守備に専念するよりは銀次のスピードを見せつけて上がってこれなくしてやろうと思い、前半はずっと走らせてきた。しかしここにきて守備重視に変えた影響で、猿渡の攻撃参加が増えてきた。その矢先だ。
猿渡がペナルティエリアに向けて深めの位置からクロスボールを上げる。代わったFW鍋島が金原と競り合う。金原が弾き返したボールがペナルティエリアの外にこぼれる。直登と黒須が追いつく前に白いユニフォームが滑り込む。
神威君だ!あんな泥臭いプレーヤーだったか?
神威君に弾かれたボールが久里浜の前に転がる。ゴールに対して左斜め四十五度の角度。狩井がニアサイドをふさぐ。
久里浜がノーステップで右足を一閃する。アウトサイドにかかったボールがゴールから逃げるように伸びていく。シュートじゃない!
逆サイドからゴリラのような男、入辺が飛び込んできた。戻って体を合わせる直登をなぎ倒し、久里浜のクロスに頭で合わせる。
強烈なヘディングシュートが叩きつけられ、ボールは梶野の正面にバウンドした。
梶野がキャッチしようとした寸前、風のように飛び込んできた白いユニフォーム。鍋島だ。
軽く触れられたボールが梶野の脇を抜け、ボールはゴールに収まった。
あれ、あの位置って。
主審がホイッスルを鳴らす。線審の旗が上がる。
「……あっぶねー」
オフサイド。俺は両ひざに手をつき、大きく息を吐いた。残り十分。1-1。早く終われ、八十分。
残り十分とアディショナルタイムを何とか乗り切り、俺たちは無事主審のホイッスルを聞いた。1-1のまま、試合は延長戦に入る。
通常、延長戦に入る前の休憩時間は五分ほど。長くて十分。それより長いと注意を受けるだろう。果たしてどれだけ休めるか。
「あーあ、つまんねえサッカーしやがって」
すれ違いざま、久里浜が聞こえよがしに言葉を投げつけてきた。俺はにらみ返しただけで、結局何も言い返せなかった。
だってその通りだから。
「ん?」
一緒にベンチに戻るみんなはかなりグッタリした様子だ。しかしベンチの夏希たちまでグッタリして座っているのはどういうわけだ。
「おいおいチーマネさんよ。傷つき疲れ切った戦士たちのご帰還だぜ。笑顔でハグとか無いのかよ」
芦尾がヘラヘラしながら言うと、夏希が厳しい目つきでにらみ上げた。
「あんたはさっき入ったばっかりでしょ」
言って、俺に向き直る。機嫌が悪そうだ。やっぱり守って延長戦に持ち込むってのは消極的だったかな。
しかし夏希の口から出たのは、意外な言葉だった。
「……よかった」
「え?」
よかった?何が?
夏希が立ち上がる。
「ほんっとに、負けなくてよかった!最後なんて、オフサイドの旗見て一気に力抜けちゃった。心臓に悪いよ!」
言いながら、思い出したように両の拳を胸元に当て、ギュッと目を閉じる。
こういうテンションの夏希は初めてで、俺は新鮮な気持ちでついまじまじと見つめてしまう。
そんな俺のよこしまな視線に気付いたのか、夏希は赤面しつつ切り替えるように声を張り上げた。
「みんな、時間ギリギリまでしっかり休んでね。汗はちゃんと拭いて、しっかり水分取って。マッサージ希望の人はこっち来て」
「はーい!」
一年たちが素早い動きで夏希の前に行列を作る。
しまった出遅れた!というかお前ら、そのスピードを試合中に出せ!
……とはいえ俺もマッサージはしてほしい。仕方ない。
「じゃ江波先生でいいや。お願いしまーす」
「ほほう。私でいいやとはいい度胸だ。来い」
江波先生の親指が背中に食い込んでくる。
「痛い痛いいたーい!すいません、失言でした!」
「別に強くしてないよ。君の体が張ってるんだ」
「え」
腕をグルグルと回してみる。確かに言われてみれば、肩も背中も張っている感覚がある。足は気にしてたけど、上半身はあまり考えてなかった。
「何か悪いんですか、これ」
「私は盛田先生と違って専門じゃないけどね。疲労の蓄積で筋肉が硬くなっているんだろう。何せ君はずっとフル出場なんだから」
蓄積か。自覚は無かったけど、確かに俺は出ずっぱりだ。何せ攻撃面の戦術は俺が冬馬にパスを出す、というのが基本線なんだから。こればっかりは仕方がない。
「で、勝てそうなの?」
俺の足をあちこち触りながら江波先生が言った。どうしよう、こしょばい。
「ど、どうですかね。相当厳しい相手ですから。でも」
「ん?」
「珍しいですね、先生が勝てそうかなんて気にするの」
「そりゃここまで関わったらね。がんばってほしいじゃない。はい、終わり」
ペチン、と太ももを叩いてマッサージの時間は終わった。ちょっと体が軽くなった気がする。
「……藤谷君」
「ひっ」
江波先生の陰から、こばっちがぬっと顔を出した。おでこに冷えピタを張っている。
「こばっち、ど、どうしたんだ?」
「後半攻め込まれることが増えて、見てるの怖くなっちゃって。熱出ちゃったの」
「おい頼むぜ。ちゃんと見ててくれよ、室長」
「見てたよー、ちゃんと」
こばっちがむくれながらタブレットを見せる。
「見て、これ。桜律が選手交代する前」
「ほう」
画面には桜律の中盤の選手が動いた範囲が、ざっくりとではあるが点と線でちりばめられている。
「交代前は、意外と動いてないんだな」
桜律は中盤で激しいプレスをかけてきたから、かなりの運動量だと勝手に思っていた。でも実際ゴール前に勝負に出るのは前線の決まったメンバーだけだったらから、無駄な上下動は少なかったというわけか。あの監督、なかなかズル賢い。
こばっちは指で画面をスライドさせた。
「こっちが交代後」
点と線がかなり入り組んでいて、交代前より中盤の選手が走っていることがわかる。
「なるほど。はっきり3トップにして中盤が一人減ったことで、一人当たりの運動量は増えたと」
「そう。にも関わらず、前の三人は下がって走る気配は無くて攻撃に専念してるの。多分、FWの個人能力だけで点が取れると思ってるんだよ、あの監督」
なぜかこばっちはプンプン怒っている。自分が何か言われても怒らないくせに、チームが馬鹿にされると怒るんだな。
俺は、こんないい子を振ってしまったんだと今さらながら思う。そんなこと考えてる場合じゃないんだけど。
「何?」
俺の視線に気付き、こばっちが首をかしげる。
「いや、何も。悪かったね、ちゃんと見てろなんて言って。完璧な仕事だ」
「そ、そんなことないよー。実際終了間際は怖くて見てなかったし」
途端に真っ赤になってあたふたする。
俺は右手を上げ、彼女の頭をくしゃっと撫でようとして。
少し迷って肩に置いた。
「じゃ、延長戦も頼むぜ、室長」
「う、うん!がんばって」
言って、こばっちは頭をポリポリとかいた。
そろそろ十分だ。すぐに出て行ってもいいけど、ここは主審に注意される寸前まで粘ろう。一秒でも長く休息するのだ。桜律の選手はすでにフィールドに出始めている。主審がこっちをチラチラ見ている気がする。俺は気付かないフリをして、ベンチでダラッと座りこむ。
「未散ー」
珍しく夏希の景気の悪い声が聞こえる。
「どした?」
夏希は両手をぶらぶらさせ、疲れ切った顔になっている。
「マッサージしすぎて手が疲れた」
「そうか。ご苦労」
俺も夏希に揉まれたかった。でも夏希にマッサージを受けていたみんなが時々悲鳴を上げていたのはなぜだろう。性格的に癒すタイプでもないし、ハードにバキバキやられていたかもしれない。
「それで、延長に持ち込んで勝算は上がった?」
夏希が隣に座る。ふわっといい匂いが鼻腔をくすぐる。シャンプーだろうか。
「そうだな」
聞かれて考える。本当に勝つ確率上がったのかな。考えだしたら不安しかない。もし先に勝ち越されたら取り返すための時間はわずかだ。
「一割の確率が二割に上がったくらいかな」
「じゅうぶんでしょ。十回に一回勝てるかどうかが、五回に一回になったんだから」
「そういう見方もあるか」
主審が小走りでこちらにやってくる。いかん、そろそろだ。
「おーい、みんな。そろそろ行くぞー」
立ち上がり、声をかける。
「うーい」
センターサークルから久里浜がこっちを見ている。
つまらないサッカーだろうが、構わない。
勝ち方にこだわって、後から負け惜しみを言うような人生の方がよっぽどつまらないじゃないか。
延長戦開始のホイッスル。桜律からのキックオフ。
さすがに延長戦は慎重な壁口監督も自分から動いてくるだろう、と予測はしていた。しかし開始からの桜律の攻撃は、俺の予測をはるかに上回るものだった。
今まであまり攻撃参加しなかった両サイドバックがガンガン上がってくる。両翼の久里浜、入辺と連携して、クロスも切れ込んでのシュートも何でもあり。中盤一人減らした分をサイドバックの攻撃参加で補ってきたというわけだ。
うちのDFもよくがんばっている。むやみにボールを取りに行かず、常に距離を保って相手の選択肢をせばめる。練習通りにできている。梶野の反応もいい。さっきの後半残り二十分、しっかり守りきれたことでバタバタしなくなっているのかもしれない。
後はこっちにボールが来れば。相手のサイドバックが上がっている分、カウンターも狙いやすいはずだ。
延長前半五分。
「キャプテン!」
ボールを奪った黒須から長いパスが出る。センターサークル付近でボールを受ける。冬馬と皆藤が走り出す。
「銀次!」
ヒールで真後ろに流してすぐにターンし、牧村をかわす。そして前に転がったボールを、左サイドの銀次目がけて。
「おらあ!」
何で、こいつがここに。
下がってきた久里浜が俺の前に強引に体を入れる。肩を入れて抵抗するが、圧迫する力に対して踏ん張り切れない。必死に足を伸ばしてボールに触れる。俺は芝の上に転がりながら、パスの行方を目で追う。弱々しいパスは銀次に届く前に、神威君によってさらわれてしまった。
神威君がゴール前の鍋島にロングボールを入れる。俺は重い体を必死に持ち上げ、ボールを追って走り出す。
受けた鍋島が器用なポストプレーで、右から切れ込んできた入辺にパス。入辺は詰めていった国分をかわすと、シュートフェイントでさらに中央に進出し、左のアウトサイドで短いパスを後ろに戻す。
そこに走りこむのは。
「ふおおおっ」
下がっていた久里浜が、ボール目がけて走っていく。そして素早い振りで右足を一閃した。
あれは打たせちゃいかんヤツだ!
次の瞬間、シュートコースを横切るように、金原がスライディングで飛び込んでいった。強烈なシュートが足に直撃する。
「あっ!」
バチンッ!と弾けるような音がして、直後に主審のホイッスルが鳴った。
金原が弾いたシュートは、足に当たった後、金原自身の手に当たっていたのだ。
「くっそ、ハンドか」
自陣ゴール前に戻りながら、俺は金原がハンドを取られた位置を確認する。ペナルティアークとセンターサ-クルのちょうど中間あたり。ゴールほぼ正面。
主審が胸ポケットに手を入れながら金原に近づく。黄色いカードが掲げられた。
「ちょっ、主審!」
俺は慌てて走り出した。今のは故意じゃない、シュートを止めた後に跳ね返っただけだ。
直登がエキサイトする金原を後ろから押さえ、銀次と狩井が主審に何か話している。
「主審、今のハンドは故意じゃありません。警告は行き過ぎだと思います」
息を切らしながら俺が言うと、
「警告はさっきのハンドに対してじゃないよ。その後の審判への暴言に対して」
主審は無感動な顔で答え、手帳に何やら書き込む。
「あまり粘ると遅延行為に取るよ」
そう言うと、サササと後ろ歩きで去って言った。
「金原」
俺が近づくと、金原はバツが悪そうに顔をそらす。
「何だよ」
「悪かったな。俺が久里浜に競り負けたせいで、ピンチ作っちまった」
「……藤谷のせいじゃ、ねえよ」
腕を抑えていた直登が静かに手を放す。
金原が言った。
「バレーやってた時、ある監督が言ってた。どの試合にも一人は、何をやっても裏目に出るジョーカーみたいな存在がいるって。今日の俺は、そのジョーカーだ」
誰も言葉をかけられない。こんな時、他のキャプテンは何て言うんだろう。
「そ、そんなことないって。それより、多分神威君がフリーキックを蹴ってくる。壁作るぞ!」
ボールの前には神威君と久里浜が立っている。ゴールほぼ正面に壁を四枚。外れた時のカウンターに備えて銀次と皆藤が両翼でスタンバイ。俺は壁の後ろやや左側の一団に混ざり、隙間からから神威君を見つめる。
……何だろう、この違和感。
モヤモヤしたものを言葉にできないでいるうちに、主審がホイッスルを吹いた。
神威君がボールに向かって走り出す。彼の眉間に、シワが寄っていた。
神威君、怒ってる?
俺は後ろから壁に叫んだ。
「蹴るのは久里浜だ!」
神威君がボールをまたいで通り過ぎる。直後に現れた久里浜が、体をくの字に曲げて素早く、そして力強くボールを蹴り上げた。一瞬飛びかけた壁は何とか踏みとどまり、久里浜のキックに合わせてもう一度ジャンプする。
しかし壁を越えたボールは正面をそれるようにゴールの左へ曲がっていく。俺の頭上を、そこだけ時間がゆるやかに流れているかのようにボールが飛んでいく。模様が見えるほどに、少ない回転で。
梶野が必死にボールに飛びつく。しかし一度右に飛んでからの軌道修正では、ボールに触ることもできなかった。
ライン寸前でバウンドしたボールは、梶野の手をまたぐように跳ねてゴールネットに収まった。
延長前半五分。俺たちは、ついに勝ち越し点を許してしまったのだ。桜律相手に。
久里浜と目が合った。
ヤツは静かに視線を外した。
本河津高校 1-2 桜律高校 得点 久里浜
残り五分を必死にしのいで、延長前半が終了した。後半までに休憩時間は無い。ただサイドを交換するだけだ。
「金原」
反対サイドに移動中、俺は赤いユニフォームの背番号5に声をかける。
「……おお」
一人で全責任を背負っているような、そんな顔。さっきまでは冬馬のハッパが効いて、自信を取り戻していたというのに。
俺は言った。
「お前さっき、自分をジョーカーって言っただろ?」
「ああ」
「だったら俺もジョーカーだ。延長戦に持ち込む判断も、桜律の延長開始からの猛攻も、誰がフリーキックを蹴ってくるのかも、全部読み違えた」
「……」
「でもな、ジョーカーって、ババ抜きじゃ悪い札だけど、他のほとんどのゲームじゃ最強の切り札なんだぞ」
金原がゆっくり顔を上げる。
「だから何だよ」
「まだ勝負は終わってないってことだ。みんな!ちょっと集まれ!」
これはやせ我慢でも負け惜しみでもない。シンプルな事実だ。勝負はまだ終わっていないんだ。
いつだって、藤谷は俺を責めなかった。練習でも、練習試合でも、大会に入っても、そして今日も。
何度失敗しても、俺を使い続けてくれた。いつ照井と代えられたって文句は言えないのに。
照井は中学時代サッカー部だったんだぞ。素人の俺を使い続ける理由は何だよ。何なんだよ。
「まだ勝負は終わってないってことだ」
延長前半で勝ち越されたのに、藤谷は。
そう言って笑ったんだ。
俺にもう一度、飛ぶチャンスをくれたんだ。
冬馬が俺にパスをして、延長後半が始まった。
みんなを呼んで、打ち合わせはした。だが問題は、そんな都合のいいシチュエーションが現れるかどうか。いや、現れるかどうかなんて言ってる場合じゃない。勝手に生まれないのなら、自分たちでシチュエーションを作るんだ。
桜律はもう、無理して攻めては来ない。ただ名門のプライドか、チンタラとボール回しをするようなせこい真似はしていない。今のところは。
延長後半六分。
牧村から佐美、佐美から右サイドへの神威君へとボールが渡る。神威君はチラッと前線を見て、右足を振りかぶる。速いクロスボールがペナルティエリアの真ん中に向かう。
来た!
今無理して攻めなくてもいい桜律で、一番得点への意欲が高い選手。それは一度オフサイドで得点を取り消された、鍋島だ。
「だああっ!」
金原が誰よりも早く鍋島の前に飛び込み、ヘッドでクロスを跳ね返す。こぼれ球を黒須が拾って、上がってきた直登へ戻す。直登がダイレクトで右サイドを上がる皆藤へ。
皆藤はワントラップして中央の俺へ強めに折り返す。俺は牧村を背中に背負ったまま、ヒールでさらに強く真後ろに蹴る。ボールが牧村の足に当たり、俺の前にこぼれ出る。
追う牧村の体を強引に押さえ込み、逆サイドの銀次へ強めのサイドチェンジを送る。走りこんだ銀次が、胸でボールを地面に叩きつける。ずっと練習していたトラップだ。
「うおおおっ」
前線からゴリラみたいな雄たけびをあげて入辺が戻ってくる。入辺が接触する直前、銀次はボールを中央に折り返していた。二人が芝に倒れ込む。
ファウルのホイッスル。
入辺と銀次が芝に転がっている位置。ゴール正面からやや左。距離は二十五メートル弱。
多分これが、最後のフリーキックのチャンスになるだろう。もう、体も足も、限界に近い。
だがシチュエーションは、整った。
ゴールの前には五枚の壁。久里浜もいる。右端には同点ゴールを決めた村本もいる。
高い壁だ。高くて白い壁。
『僕らの周りを 白き巨人が取り囲む』
不意に、試合前に聞かされた北斗先輩のポエムが脳裏をよぎる。何だ、こんな時に。
『崩れ落ちる足元は 僕らに何も与えてはくれない』
ボールをセットして、距離を取る。壁の中には直登が一人だけ入っている。壁の向こう側には冬馬。俺の隣には芦尾。そしてさらに後ろに金原。
『歩みを止めない巨人たちは 容赦なく僕らを踏みつぶす』
主審のホイッスル。俺は腰に手を当ててゴールの一点を見つめ、大きく息を吐く。そしてボールに向かって一歩、踏み出した。
『僕らはひざをつくだろう 僕らは悲嘆にくれるだろう』
ボールの横に左足を踏み込み、右足を思いっきり振りかぶる。芦尾の後ろから金原がスタートする。俺は振りかぶった右足をボールの直前で止めて、ちょこんと右側に転がした。
白い壁が、一瞬動いた。
『そしていつか気付くのだ』
そこに芦尾が走りこむ。
「アンラッキーバズウカアアア!」
芦尾の強烈なキックが、低い弾道で壁の左端に突き進む。
行き先には、壁の後ろから回り込んできた冬馬。
冬馬は芦尾の強烈なキックを涼しい顔で、インサイドキックでポンと壁の右端に浮き球で折り返す。
いち早く反応した直登が、久里浜に競り勝って頭でつなぐ。ボールはペナルティエリアに舞い上がる。
『空の果てが見えないからこそ 僕らは高く飛べるのだと』
キーパー蟹江がボール目がけて飛び出してくる。村本がボールを追いかけジャンプする。
「どけえええええっ!」
そこに走りこんできたのは、赤いユニフォーム、背番号5。十分な助走から、地面を踏み切る。
『赤き勇敢な牡牛たち』
一番最後に飛んだ金原は、今このフィールドで一番高い位置にいた。その姿は、まるで。
『汝らに 翼をさずける』
金原が頭にボールをとらえ、ゴールに向かって対角線に叩きつける。
宙に浮いた者たちが芝生に倒れこむと同時に、バウンドしたボールがゴールネットを揺らした。
俺は両腕を天に突き上げ、走った。
芝に倒れこんだ、勇敢な牡牛の元へ。
本河津高校 2-2 桜律高校 得点 金原
勝負はまだ、終わらない。
つづく
たぶんしなくていい名前の由来解説
丸瀬……マルセロ
猿渡……ミチェル・サルガド
入辺……ベイル
鍋島……ベンぜマ




