第56話「ライツィハー」
桜律、本気出す。
「よしっ!」
私は思わず両手を握りしめ、ぐいっと引き付けた。何度も決定的なシュートを打たれながらもしのいだ後に、先制点のチャンス。ピンチの後にチャンスありっていう格言は本当だった。
主審が桜律の5番にイエローカードを出している。あんな露骨に伊崎君を倒したんだから、当然。
「大丈夫かなあ……」
紗良ちゃんが立ち上がってペナルティエリアを心配そうに見ている。私は言った。
「大丈夫だって。未散がビシッと決めてくれるから」
「ううん、そうじゃなくて」
紗良ちゃんは言った。
「え?」
「伊崎君、今思いっきり体当たりされてたけど、大丈夫なのかなって」
「あ」
先制点のチャンスだって、それしか考えてなかった。私も立ち上がってペナルティエリアに伊崎君を探す。ちょうど菊地君に引っ張られて立ち上がるところだった。
良かった、何ともない。
「何ともないみたい」
私はほっと息をついて座る。
「そうだね、良かった」
紗良ちゃんも座る。
「もし伊崎君がケガでもしたら、あとFWは」
私は言って、隣に座っている芦尾を見た。
彼はさっきからヒザの上にタオルを乗せて、何やらゴソゴソしている。
「あんたさっきから何やってんの?」
「見てろ、チーマネ」
芦尾は得意げに言うと、タオルを何度か折ってひっくり返し、両方に一気に引っ張った。
「これがタオルで作るブラジャーだ!」
高らかに宣言し、自分の胸に当てている。
そう、残りのFWはこいつだけになってしまうのだ。本当に伊崎君が無事でよかった。
「もっと離れて座ってくれる?仲が良いと思われたくない」
私は目一杯細い目を向けて言った。紗良ちゃんと江波先生も同じ目をしている。
「冷てえなあ。わかった、チーマネの分も作ってやるよ」
「いらない」
未散は芦尾を甘やかしすぎだ!もっと怒れ!
「試合を見なさいよ、試合を。PKのチャンスなんだよ」
「藤谷なら決めるだろ」
そっけなく言うと、二つ目のブラジャーの制作に取り掛かった。いらないと言っているのに。
「何かもめてるね」
江波先生がポツリと言った。
ペナルティエリア内でうちの選手たちが集まり、何か言い合っている。
「夏希ちゃん、みんな何やってるんだろう?」
「わからない」
私は後ろのベンチにいる島君を振り返る。
「島君、こういう時もめる理由は何だと思う?」
姿勢よく座っていた島君は、腕組みを崩さす言った。
「藤谷はPKがあまり好きじゃないと言っていたことがある。誰が蹴るか決まらないんだろう」
「え」
そんな理由?
「ちょっとガッカリ。フリーキックはあんなにうまいのに、何で?」
「僕も聞いたことあります」
国分君が小さく手を上げた。
「PKは、どんなに戦略を練ってもマグレで止められることがあるから割に合わないって」
「割とか、そういう問題?プレッシャーがイヤなだけじゃないの」
まったく、あの偏屈者。
散々もめた後、やっとキッカ-が決まった。見るからに緊張した顔でボールの前に立ったのは、長髪の11番。菊地君だった。
「何で?何で菊地君なの?」
芦尾もブラジャー作りを中止して、ゴール前に注目する。
「わからん。何考えてんだ、あいつ。菊地のPKは危なっかしいぞ」
「えっ、そうなの?」
「まず決めたところを見たことがない」
何でそんな人に任せたの!自分が蹴りたくないだけなら、倒された伊崎君か冬馬でもいいのに。
ボールから少し離れたところに菊地君が立ち、桜律キーパーの蟹江と対峙する。インハイ予選でも見たキーパーだ。あの時は結局春瀬に五失点してしまったけど、反応自体はいい選手だった記憶がある。
ペナルティエリアを赤と白のユニフォームが取り囲む。全員、いつでもダッシュできる構えだ。真ん中に未散、右と左にそれぞれ冬馬と伊崎君がスタンバイしている。
主審のホイッスルが鳴った。
菊地君の両肩が上がり、ストンと落ちる。そしてゆっくりとボールに向かって歩き出した。キーパーが両腕を広げて体を沈ませる。
私は両手を胸の前で組んで、息をするのを忘れた。
お願い、菊地君。決めて。
ボールのそばに左足を踏み込む。菊地君の右足が一閃し、ボールはゴール正面にまっすぐ向かった。
真正面!?
「あーっ!」
左に飛んだキーパーが、とっさに足を延ばす。ボールはキーパーの上げた右足に当たり、ペナルティエリアに跳ね返された。
外した!
両チームの選手が一斉にボールに殺到する。こぼれたボールに一番最初に触った選手は、
「よしっ!」
赤いユニフォームの9番だった。
本河津高校 1-0 桜律高校 得点 冬馬
べンチにいるみんなでひとしきり先制点を喜んだ五分後、前半が終了した。帰ってくるみんなのためにタオルとコートを準備する。足のマッサージの準備もしなきゃいけない。
先制して折り返せたことで全体に明るい雰囲気でみんなベンチに戻って来たけど、一人だけ下を向いて歩いて来た選手がいる。
「菊地君、お疲れ」
私は精一杯明るい声で彼にタオルとコートを渡した。菊地君は長い前髪越しにチラッと私を見上げ、
「おお、サンキュ」
と細い声で受け取った。これはしばらくそっとしておいた方が良さそう。
さて、菊地君がこんな風に落ち込んでしまった原因。
「キャプテン!」
パッと振り返ると、未散がレモンのはちみつ漬けを口にくわえてビクッと肩を震わせた。
「何だよ。俺は今、レモンを食うのに忙しいんだ」
「ちょっとこっち来て」
私は手を上に向け、人差し指をクイクイと曲げた。
「いやだ」
「聞こえない?来いっつってんの」
「断る」
「私が笑ってるうちに来なさいよ」
「はい」
レモンを口に押し込み、片目をつむって口をすぼめながら未散はやってきた。
「すっぱ。何だよ、怖い顔して」
「何で自分でPK蹴らなかったの?菊地君、落ち込んじゃったじゃない」
未散はプイとそっぽを向いた。
「色々考えた結果の判断だ。別にプレッシャーから逃げたわけじゃない」
「本当に?」
「本当だ」
「じゃあ、どんな理由?」
未散は菊地君の丸まった背中を見て、
「菊地だけ、攻撃陣で点取って無かったからさ。ここでPKでもいいから得点できれば、肩の力が抜けるかなと思って」
と小さな声で言った。
「もしそれが本当なら、逆効果だね」
「そう言うなよ。あれはキーパーがうまかった。まさか足だけ残すとは思わんかったし。結果的にゴールできたんだからいいじゃないか」
「それは認めるけど。あ、ちょっと」
まだ言い足りないのに、未散はそそくさと紗良ちゃんの方に逃げていった。タブレットを二人で見て、二言三言ことばをかわし、笑顔で彼女の頭をくしゃくしゃっとなでる。
私はそれを見てほんの少し、胸の奥に痛みを感じた。
「広瀬せんぱーい!見て見てー」
伊崎君の不意の大声に我に返る。
「何やってんの、それ」
「芦尾先輩がネコ耳作ってくれました!」
伊崎君はタオルで作ったブラジャーを頭に乗せ、上機嫌で走り回っていた。確実にケガは無さそうだ。
もうすぐハーフタイムが終わる。後半に向けてのメンバー交代は無しと決まり、私たちはキャプテンを中心に集まって最後の打ち合わせをしていた。
「とりあえず、先制できたことはラッキーとして、問題は向こうの出方だ。俺は前半やってみて、何となく気持ち悪さを感じた」
「あ、それ僕もわかります」
未散の言葉に、黒須君も手を上げて続く。
「何て言うか、もっと人数かければ点取れたはずなのに、肝心な場面では、あの7番、9番、10番に任せっ切りっな感じで」
7番はあの久里浜。10番は不破野さんで、9番は今回初めて見る選手、一年の有留というFW。天パーで童顔で、見た目は可愛らしく、今のところ決定的なシュートは打ってないけど、神出鬼没というか、なぜか毎回ゴール前のいい場所にいる。うちで言えば、冬馬と伊崎君を足したような選手だ。
「俺らのことナメてんのか?」
金原君が不満げに言った。
「その辺はこばっちが説明してくれる」
みんなの視線が紗良ちゃんに向けられる。
いつもは緊張してビクッとなる紗良ちゃんが、今日は堂々とした態度で口を開いた。
「えっと、桜律が人数をかけて攻めてこないのは、私たちを馬鹿にしているとか、そういうことではないと思います。多分ですけど、ゴールできなかった場合私たちのカウンターが発動することを警戒しているのが理由の一つじゃないかと。現にこの四十分間、PKになった場面まで私たちのカウンター攻撃は発動していませんでした」
「それだけかな?僕はまだ何か、裏があると思う。あの監督は得体が知れない」
茂谷君が口をはさむ。
「ええ、茂谷君の言うこともわかります。あと考えられるのは、守備のための陣形をなるべく崩したくないから、という可能性があります」
「うーん」
まだ納得していない様子で、茂谷君はうなった。
「未散は、どう思ってるんだ?」
「俺も、あの監督はまだ何か考えてる気がする。ただそれが何かは、まだわからん」
「ここでウダウダ考えててもしょうがねえだろ」
黙って聞いていた銀次君が言った。
「いいか?こっちは一点リードしてるんだぞ。あの監督が本当にすごい監督だったら、勝つために何か動いてくるはずだ。こっちからオタオタ動くこたねえ。向こうがまずどう動くかで、前半の振る舞いを解釈すりゃいいんだ」
「でもそれだと、途中で気付いてもみんなで共有できないんじゃない?」
私が聞くと、
「心配ねえ。どうせ最初に気付くのは藤谷だ。俺たちはついていくだけだ」
と銀次君は自信満々に答えた。
他の人が言うと無責任に聞こえるけど、銀次君が言うと強い信頼に聞こえるから不思議。
「じゃあキャプテン!ここでいっちょ声出しやりましょうよ!」
伊崎君が唐突に言い出した。
「声出しって、円陣組んでオーとかいう?」
「そうです!それです!」
「いいじゃない、やろうよ。ね、未散」
まだしょんぼりしている菊地君も、大声を出せば吹っ切れるかも。
しかし未散は顔をしかめて、
「俺はそういう体育会系のセンスは大嫌いだ」
と言った。
私はじいっと未散の目を見つめる。精一杯、悲しそうな目で。
「な、何だよ。そんな目で見るな」
「……イルミネーション、私も見たかったな」
「よおーっし!みんな集まれ!円陣だ!いっちょ気合い入れて、桜律のヤツらびびらすぞ!」
くるりと振り返り、みんなを呼び始めた。有璃栖ちゃんとの内緒のデートはもう気にしてないけど、しばらく使わせてもらってもいいよね。
私と紗良ちゃんも交じってみんなで円陣を組む。私の両隣は偶然茂谷君と金原君になった。
「わ。やっぱり二人とも大きい」
私より頭一つ分くらい高いし、思いっきり手を伸ばしても、向こう側の肩には完全に手が回らない。茂谷君が得意げな顔になる。
「ダテにセンターバックやってるわけじゃないよ。な、金原」
「おお。だいぶ失点はしてきてるけど、空中戦では一度も負けてないはずだ」
金原君もフフンという顔をする。この負けず嫌いコンビめ。
「それじゃ行くぞー。伊崎、言い出しっぺなんだから、お前が何言うか決めろ」
「はい!えーと、それじゃあ、俺と黒須が中学時代にやってたやつを。俺が『絶対勝つぞーっ』て言うんで、その後みんなで『ライツィハー!』って叫んでください」
「何、ライツィハーって」
私が聞くと、
「広瀬先輩。ライツィハーはライツィハーですよ」
と、「何が?」という顔をされた。
「ライツィハー?」
「そう、ライツィハー」
何語かもわからない言葉だけど、私以外の人は質問すらしない。知らない私がおかしいのかな。
「じゃあ、行きます」
伊崎君が息を吸い込む。円陣を組むみんなに力が入る。
「ぜえええったい勝つぞおおおおーっ!」
『ライツィハーッ!!』
練習無しなのに、みんなの声が綺麗に揃った。私も久しぶりに大声を出して、胸の辺りがジンジンする。
みんなの顔も心なしか紅潮しているように見える。未散は大きな声を出せっていう体育会系を嫌うけど、ちょっとの間なら気持ちを高める効果はあると思う。
でも後半への準備をする菊地君の後ろ姿には、まだ哀愁が漂っていて、イマイチ効果が無かったことを物語っていた。弱ったな。未散は後輩には優しいけど、同級生にはあまり干渉しないし。
「おーい、菊りーん」
すると私たちのベンチの上の方、観客席から女の人の声がした。
菊りん?
「子安先輩!」
菊地君がパッと振り向き、声のした方へ走る。見上げると、元水泳部の子安先輩が、手すりから身を乗り出して手を振っていた。グレーのチェック柄のパンツにからし色のカーディガン。すごく似合ってて可愛い。部員たちも「せんぱーい」とだらしない顔で子安先輩に手を振っている。
何だろう、どうでもいいけど裏切られた気分。
「先輩!い、いつから来てたんですか?」
菊地君が子安先輩を見上げて言った。
「んー?今来たところだよー。すごいじゃない、みんな。桜律相手に勝ってるー」
「はい!がんばりました!」
「後半も応援してるから、菊りんしっかりね」
「あ、あの先輩。みんなの前で菊りんはやめてください……おい、お前らもクスクス笑うな!」
菊地君が真っ赤になってみんなとじゃれあう。良かった。理由はともかく元気にはなった。
みんなが菊地君に追われるようにフィールドに飛び出していく。最後に残った未散が、上を向いて子安先輩に言った。
「子安先輩」
「んー?」
「本当に今来たんですか?」
子安先輩は一瞬驚いたような顔になって、ふっと微笑んだ。
「野暮なこと聞く人はモテないよー。菊りんが元気になったんだからいいでしょ?」
「もちろんです。感謝してますよ。最後まで応援してください」
「はーい」
愛想よく未散に手を振ると、先輩はちらりと私を見た。何?
「藤谷君、がんばってね!」
言うと、おもむろに投げキッスを未散に送った。
え、何それ。
「もらったあああっ!」
未散の前に芦尾が叫びながら飛び込んで、空をつかむ。そして三回地面を転がり、綺麗に膝立ちして手のひらを口につけた。その運動能力と俊敏性は、練習中でも一度も見たことがないものだった。
「子安先輩、ごちそうさまです!」
「君にはあげてないよー!もう!」
プリプリ怒る子安先輩を尻目に、未散がライン際に立ち止まる。視線は桜律ベンチに向いている。その横顔は、普段隣の席でつまらなそうに授業を受けている藤谷未散とはまるで別人のようで。
私はつい、じっと見入ってしまっていた。
「夏希」
「は、はいっ!」
つい敬語で返事してしまった。
未散は気にした様子も無く、
「向こうが動いたら、こっちも国分入れるから、しっかりアップさせといてくれ」
と言い残し、芝生の上を走っていった。
後半開始から十分が経った。スコアは1-0でまだうちが勝っている。このまま三十分守り切ればベスト4へ行ける。
だけど。
黒須君がボールを奪い、未散につなぐ。未散が前を向こうとするところへ、マーカーの6番牧村と14番の佐美が立ちはだかる。つっかければつぶされて、パスを皆藤君に戻せば久里浜も詰めてくる。それをさっきから何度も繰り返している。
冬馬にも伊崎君にもなかなかパスが通らない。同点ゴールを許していないのは、桜律がめったにゴール前へパスを出してこないからというだけ。あれだけ試合を支配してるのに、何で決めに来ないんだろう。
それにもう一つ、気になることがあった。うちの選手たちが、両ひざに手をついて休むシーンが増えてきたこと。まだ後半開始からいくらも経っていないのに。
「ねえ島君、みんな足が止まってきてない?」
後ろの島君を振り返る。
「確かに。動きにキレもなくなっている」
島君がうなずく。
「やっぱり素人のマッサージじゃダメだったのかなあ」
私がため息をつくと、
「夏希ちゃん、そうじゃないよ」
と、紗良ちゃんが言った。
「え?」
見ると、紗良ちゃんはタブレットを見つめてこわばった顔になっている。
「どうしたの?怖い顔して」
「夏希ちゃん、どうしよう」
今度は泣き顔になった。
「何が?」
「私、さっきのミーティングで間違ったこと言っちゃった」
「え」
ハーフタイムのミーティングで、紗良ちゃんは桜律の控えめな動きを守備を崩さないため、と説明した。みんなそれで納得してたんだけど。
「桜律は、後半からプレスの始動を早めて、スピードも上げてきてるの。だからうちはショートカウンターに備えて何度も戻って、体力がどんどん奪われてる」
「でもそれって、桜律も同条件でしょ?」
私が聞くと、後ろから島君が言った。
「早いプレスからのショートカウンターは、体力をかなり消耗する。多分、そのためのトレーニングを五月から積んできて、走れる選手だけをスタメンにしたんだろう」
そうか。だから後半なのにさらにスピードアップして。
「私は、推測っていうのはあまりしないんだけど」
紗良ちゃんが続ける。
「前半、スロースタートでプレスを小出しにしてたのは、この会場のどこかで記録を取っている春瀬のスタッフに、なるべく手の内をさらさないようにしてたのかなって」
「じゃあ」
「うん」
唇をキッと結び、紗良ちゃんは桜律ベンチをにらんだ。
「あの監督、金原君の言った通り、私たちをナメて手を抜いてたの。多分、今も」
後半十五分。桜律ベンチが先に動いた。8番の肥後に代わって、私もよく知る神威君が入る。背番号は13。春は7番でレギュラーだったのに、背番号を久里浜に取られてスタメンも失った。それでも続けるって、優しい顔の割にガッツがあるんだな。
「あ」
未散から指をクルクルさせるサインが届いた。交代だ。
「国分君、準備して」
「はい!」
打ち合わせ通り、菊地君に代わってすでにアップを済ませた国分君が入っていく。
「菊地君、お疲れ」
「おお、サンキュ」
受け取って、菊地君は笑いをもらした。
「ハーフタイムの時も、全く同じやりとりしたな」
「そうだっけ」
私も笑う。PKを外したことからはもう立ち直ったみたいだ。
「菊りん、子安先輩に手振らなくていいの?」
私がニヤニヤしながら言うと、菊地君の顔がみるみる赤くなる。
「お前まで菊りんて呼ぶなよ!あれは子安先輩が面白がって呼んでるだけなんだよ」
「え、そうなんだ。もうつきあってるのかと思った」
「違うよ。いつもはぐらかされてる」
言って、タオルを頭からかぶってベンチに腰を下ろした。
「客席で子安先輩見てるよ」
「いいよ。今は試合中だ。みんなが必死にがんばってる時に、ヘラヘラしてられねえよ」
何となく芦尾を見る。一瞬目が合った後、慌てて私から目をそらした。
「そっか。そうだよね。からかってごめん」
「いいって。それより、プレスがキツくなってきて、みんなかなりバテてる」
「うん。でも何でラストパス入れてこないんだろう。バカにしてるのかな」
「多分だけど」
言って、菊地君は桜律ベンチを見つめる。視線の先の壁口監督は、表情一つ変えずに腕と足を組んで座っている。
「あの監督、かなりの完璧主義だ。100%得点できる状況じゃないとシュートを打たないって方針じゃないかと思う」
「紗良ちゃんは、私たちをナメてるって」
「それもあるだろうな。だってほぼ前の三人しか攻撃してねえし」
何かイライラしてきた。勝ってるはずなのに、何でこんなにモヤモヤしなきゃいけないの。
後半二十分。
代わって入った右MFの神威君がミドルシュートを打ち、梶野君が弾き飛ばしてボールがラインを割った。桜律が前の三人以外でシュートを打ったのは、これが初めてだ。
桜律の左コーナーキック。
左のコーナーフラッグに神威君が立つ。ゴール前には茂谷君や金原君たちが桜律の選手とポジション争いをしている。桜律は4番の村本、5番の保積、そして久里浜がゴール前にいる。
神威君が一歩の助走でボールを蹴り上げる。高くて速いボールが綺麗なカーブを描いてゴール前へ巻いていく。ボールは競り合いながらジャンプする茂谷君と保積の頭上を越える。
待っているのは金原君だ。なら大丈夫。
「えっ」
誰よりも高く飛び上がった金原君。そのさらに上。桜律の4番村本が、金原君より高い位置でコーナーキックのボールを頭でとらえた。
圧倒的な高さから放たれた強烈なヘディングシュートが、ポストの内側ギリギリをかすめてゴールに飛び込んでいく。ゴールラインの内側でバウンドしたボールが、背後のネットを揺らす。梶野君は一歩も動けなかった。
「金原が……負けた」
菊地君が呆然としてつぶやいた。私は声も出せないでいた。空中戦無敗の金原君が、初めて負けた。
桜律の選手たちが村本の周りに集まる。未散と梶野君が、ひざをついて四つん這いになっている金原君に歩み寄る。
金原君が拳を振り上げ、思いっきり芝生に叩きつけたのが見えた。
本河津高校 1-1 桜律高校 得点 村本
つづく
たぶんしなくていい名前の由来解説
有留……ラウール
佐美……シャビ・アロンソ




