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第5話 「良かったね」

キャプテン、がんばる。

「入るチームを間違えたね」

「センターに据えるべきだった」

「ポジション下げればまだやれる」


俺の頭の中では、今朝広瀬に対して得意げに話した内容がグルグル回っている。まさかあの広瀬春海が、広瀬夏希の兄貴だったとは。何という根性の悪い偶然。


恥ずかしい。穴があったら入りたい、とうのはことわざのための例えではない。本当に今すぐ入りたい。

あいつはどんな気持ちで俺の話を聞いてたんだろう。ニヤニヤ笑っていたんだろうか。いや、そんなヤツじゃない、と信じたい。ミカンくれたし。


確かに、芸能人、著名人、スポーツ選手の身内はあまり自分からペラペラしゃべらないものだろう。嫉妬、やっかみ、金のトラブルはもちろん、身代金目当ての誘拐事件だって起こりうる。もしくは単純に興味本位の注目を浴びたくない、という理由が一番かもしれない。だから名前を聞いてすぐに兄だと言わなかったのは良しとしよう。

しかし何でよりによって、これから大事なスカウトが

ある直前に、わざわざ時間差でバラしたんだ!せめて今日の帰りまで待ってくれ。何ならずっと言わなくたって構わない。こんな暗いテンションでスカウトして、誰が乗るものか。あの女はSだ。絶対ドSだ。


しばらく頭を抱えてもだえた後、廊下で直登と合流する。


「直登……」

「どうした。ひどい顔してる」


いつもクールな直登が心配そうに言った。よっぽど消沈した顔をしているのだろう。


「……俺を、殴ってくれ」


パンッ。


即座にビンタが飛んできた。


「何かあったのか?」

「叩く前にちょっとくらい迷え!普通先に理由聞くだろ!」


俺はヒリヒリする頬をさすりながら抗議した。こいつもドSだ。


直登には広瀬の兄がプロサッカー選手ということは伏せておいて、とりあえず調子こいて失言したことを報告した。


「広瀬さんは怒ってた?」

「いや、そんな感じでもなかったと思うけど。ただ俺がひたすら恥ずかしい」

「じゃ、大丈夫さ。気にし過ぎだよ」

「だといいけど」


そう言われれば、ありがと、とも言っていた。あれは兄を褒めた俺に対して感謝の意を伝えたのだろうか。





まず最初はA組の金原という男に会いに行くことにした。


元バレー部。よその部活に無関心だった俺は知らなかったが、一年の時からそこそこ試合に出ていた有望株だったらしい。


その後ヒザのケガで休み、復帰後リベロというポジションに転向をすすめられるも、アタッカー一筋だった金原は頑なに拒否。従わない選手を極端に嫌うバレー部監督の逆鱗に触れ、その後二度と試合に出ることが無いまま退部という顛末だ。

サッカー以外のスポーツでリベロと言われても、何をする役目なのかさっぱりわからないが、拒否したというからには第一線で攻撃する役目ではないのだろう。


……俺、センターバックとして誘おうとしてるんだけどな。セットプレーの時は点が取れるってことで何とかごまかせるかな。



A組の後ろ側の扉を開く。入って行くと、廊下側の一番後ろの席、つまりすぐそばに冬馬が座っていた。


「クラス違うぞ」


相変わらず鋭い目でにらんでくる。


「用事があってな。お前はそこにいてくれ。来るなよ」

「頼まれても行かねーよ。めんどくせえ」


言うと、あくびを一つして冬馬は机につっぷした。人のことは言えないが、こいつはちゃんと授業を聞いているんだろうか。そもそも勉強している姿すら想像できない。


目当ての人物、金原史緒は窓際の一番後ろに座っていた。弁当は食べ終わっている。読み通りだ。たとえ現役でなくても、運動部経験者はメシが早い。


金原は椅子に座っていてもそこそこ背が高いことがわかる。室内競技のバレーボールをやっていたのになぜか日焼けした肌と、二重まぶたに高い鼻の濃い顔立ち。直登がさわやか系のイケメンだとすれば、金原はこってり系だ。今は頬杖をついて校庭を、いや、その先の第一体育館を眺めているのだろうか。


俺は大きく深呼吸して、近づいた。


「ちょっと、いいかな」


金原はこちらを向いた。見慣れない顔を二つも見て、少々警戒した顔になる。


「……何か用か」


警戒を崩さず聞き返す。ひるむな、GOだ。


「俺はB組の藤谷。こっちはC組の茂谷。聞いてほしい話があるんだけど、廊下に出てほしい。すぐ済む」

「断る」


終了。いや、終わっちゃダメだ。食い下がれ。


「じゃ、じゃあ、ここでいい。話ってのは、か、金原君をスカウトに来たんだ」


いかん。動揺が出てしまっている。覚悟はしていたものの、断る、の一言は結構刺さる。俺、将来営業マンには絶対になれない。

金原は眉間にシワを寄せ、俺と直登の顔を交互に見た。


「お前ら、何部だよ」

「サッカー部」


俺は言った。直登は一言も発しない。何らかのタイミングをはかってくれているのだろう。多分。

金原はいぶかしげな顔をさらに険しくさせ、立ち上がった。やばい、何か知らんが怒らせたか。


「俺のこと、誰に聞いたんだ」


言葉に詰まる。直登が助け舟を出す。


「運動部をやめるっていうのはちょっとした事件だからね。噂好きの生徒はみんな知ってる」

「ふーん。そんなもんか」


怒った風もなく、答えた。金原は立ち上がり、


「とりあえず、廊下出ようぜ」


と言って歩いて行った。二人で金原に続く。冬馬はまだつっぷしたままだった。




「どういうことだよ」


廊下に出て窓側の壁によりかかり、金原は腕組みをした。怒ってはないけど、話が見えずにいらだち始めているといった様子だ。無理もない。誘いに来た俺にも何も見えてないのだ。


俺は三年生の突然の全員退部から、今年が県内で勝てるラストチャンスかも、という話まで時々つっかえながら何とか話した。金原は黙って聞いていた。


しばらく考えた様子の後、金原は言った。


「俺、素人だぞ。そりゃ遊びや体育の授業でやったことはあるけど、そういうレベルの話じゃないだろ」

「大丈夫だ。練習すれば必ず追いつく。それに、経験者相手にも身体能力だけでいける勝算はある」

「素人混ぜても、経験者ばっかりのチームに勝つ秘策があるってのか」


じっと俺の目を見据える。顔が濃いだけあって迫力がある。ここだ、ここが勝負だ。俺は今、試されている。


「まだ、完全にはできあがってないし、構想段階でしかないけど、それでもいいか?」

「聞かせろ」


俺は一息ついて、口を開いた。


「簡単に言うと、勝つために必要なことだけをして、必要無いことはしないってことだ。特にディフェンスは、全てのボールを必死に追い掛け回して体力減らして、結局最後に個人技一発で沈められたり、そういうバカなことはしたくない。むしろ、ディフェンスで相手を思い通りの場所に追い込んで、思い通りの行動に誘導することによって、効率よくボールを奪って常に速攻への足がかりにする。そのためには」


一気にまくしたて、言葉を切った。


「そのためには、センターバックに高さとスピードがいる。相手のFWについて行って追い込める速さと、わざと上げさせたクロスを確実に高さで弾き返せるセンターバックが。そのポジションを、金原君に頼みたい」


壁に寄りかかっていた体を立て直して、金原は腕組みを解いた。


「くわしくは、分からんけどよ、お前が何か新しいことをしようとしてるのは分かったよ。わざとクロスを上げさせるっていう、ひねくれた考え方も、嫌いじゃない」

「そ、そうか」

「でも何で、俺なんだ?他にも運動部やめたヤツらは一杯いるだろ」


もっともな質問だ。


「金原君に声をかけた理由は、そうだな、やっぱり監督に自己主張したところかな」

「そこ、マイナスだろ普通」

「俺のサッカー人生が、そもそも監督とのケンカの繰り返しだったから、分かるんだ。どう考えても俺の方が正しいし、俺の言う通りにすれば勝てるのに、大人は聞かない。負けたら俺らの気持ちが足りないせいにして、戦術や戦略の更新も無い。認めてプライドが傷つくのが怖いんだ。そして最終的に、スポーツは勝ち負けだけじゃなくて精神教育が大事とか言い出す。そんな卑怯なやつらの、どこが大人だ」


いかん、しゃべってるうちに自分の言葉に反応して熱くなってきた。冷静に、冷静に。

そして俺は、一つ大事なことに気がついた。金原がポジション転向を拒否したのは、地味なリベロのポジションがイヤで、派手な攻撃なポジションにこだわりがあるからだ、と思っていた。しかしさっき俺がセンターバックを、守備を頼みたいと言ったあと、そのことについては何も言わなかった。もしかしたら。


これは賭けだ。外れたら、それまで。


「俺は、そういうヤツらに勝って証明したい。勝つために必要なことだけやるべきだって。金原が監督に反発したのも、ひょっとして、言われたポジションがイヤだったからじゃないんじゃないか?自分がポジションを移動することで、勝つ確率が上がるとはどうしても思えなかった。この監督は、勝つ気がないと」


俺は祈った。まるっきりピント外れで「はぁ?」と言われる準備はしている。勝手に相手の気持ちをほじくり返すような無礼なマネとも言える。「何が分かるんだ」とキレられても仕方ない。


金原は下を向き、意外にも笑いだした。そして隣の直登に、


「おい、お前のツレ、いつもこんなに熱いのか?」


と言った。


「たまーにね」


直登が冷やかすように俺を見る。何だよう、いきなりこのアウェーな感じは何だよう。


「えーと、そうだ。ヒザは、もう治ってるんだろ?」


耳が熱くなっているのを感じながら、俺は話題を変えた。金原は二、三度トントンと右足で床を蹴る。


「雨の日はちょっと違和感あるけど、問題ない。治ってる」

「そっか」


直登がポケットからスマホを取り出し、俺のフリーキック動画を金原に見せた。


「ちなみに攻撃を仕切るのは、この10番だよ」


金原は動画を見て、「おお」と声を上げた。


「すげーな。ヨーロッパのゴール集みてーじゃん。うちにこんなうまいヤツいるのか?」


直登がニヤニヤしながら親指で俺を指す。失礼な指し方だ。


「これお前か!本当に?」

「本当だ。こないだのインハイ予選」

「へー」


もう一度動画を見て、金原は言った。


「いつ、どこに行けばいい?」

「え?」

「コラコラ、俺をスカウトに来たんだろ?場所を聞いてんだよ」


え、ま、や、マジか!


「え、えーと、明後日の金曜、四時半にサッカーコートで。一日体験入部って形で練習とミニゲームに参加してもらいたいから、動ける服と靴で頼む」

「ああ、分かった。それとな、藤谷。さっきお前が言った名推理、あれは半分当たりで半分外れだ」


え、何?どういうこと?


「えと、どのへんが」

「俺がポジション変えに反発したのは、元のポジションが好きだったからで、それ以上の理由は無い。ネット際ギリギリでジャンプして、スパイク決めたりブロックしたり、そういう攻防が好きなんだ、俺は。それをさせてもらえなくなったから、逆らって辞めた。でも実際、俺が前線から引いてからチームの勝率は落ちてた。これはうぬぼれじゃなくて、出た結果だ。だから、監督に勝つ気が無いというお前の考えは結果的に合ってるんだ」

「はあ」

「じゃ、戻っていいか?金曜楽しみにしてる」

「お、おお。頼む」


狐につままれたような心持ちで俺は金原の背中を見送った。もう何が何だかわからないけど、とにかくスカウトは成功したらしい。


直登が笑顔で肩に手を置いた。


「やったじゃないか、キャプテン。見事に金原の心をつかんだよ」

「そうなのかな。全く手応えがない」

「なかなか見事な演説だった。今度生徒会の選挙にでも出るかい?」

「死んでもイヤだ」


不意に、廊下側の教室の窓が開いた。


「よお、熱血キャプテン」


冬馬がニヤニヤとこちらを見ている。気のせいか、冬馬の周りの生徒もチラチラこちらを見ている気がする。


「お前……今の聞いてたのか」

「そんだけデカい声で必死に語ってたら聞こえるに決まってんだろ」

「ひょっとして、お前以外にも?」

「当たり前だ。うるさくて起きたぐらいだ」


耳が熱い。これはもう、耳ごとポロッと取れるくらいの発熱だ。発火するかもしれない。


「な、直登。とりあえず、俺は自分のクラスに帰る」

「E組は?」

「あとだ、じゃあ、帰りに」


俺は直登に言い捨て、早足でB組の後ろの扉から入る。そそくさと自分の席に座ると、疲労が一気に襲ってきた。疲れって、動かなくても溜まるんだな。筋肉が硬直してたんだろうか。後何回、こんなこと繰り返すんだろう。





「おつかれ」


隣から声がかかる。いつのまにか広瀬が自分の席に戻っていた。


「何が」

「うまくいったの?スカウト」


げ。何で知ってるんだ。まさか。


「もしかして、こっちまで」

「聞こえてた。全部じゃないけど」


広瀬は少し笑っている。笑いをこらえながら笑っている。今朝の件といい、俺をからかってそんなに楽しいのか。絶対女王様気質だ。


「全部じゃないって、どのへんが聞こえたんだ?」

「そんな卑怯なやつらの、どこが大人だって」


よりによってそこかー!一番青いところじゃないかー!いやぁーっ!


「……悪いが、後で何かおごるから忘れてくれないか」

「何おごってくれるの?」

「自販機で、何か」

「うわ。ケチ」

「おごられる方がケチって言うなよ」


プリプリと抗議する俺には答えず、広瀬は下を向いて肩を揺する。絶対笑ってる。俺はまた自分の耳が熱くなるのを感じた。これは、からかわれたせいだ。


午後の授業が終わり、皆が部活に行ったり帰ったりし始める頃、直登から連絡が入った。何とかなりそうだからE組に来い、という内容。



俺は早速E組に向かう。E組だけはちょっと離れた場所にある。D組とE組の間に掲示スペースがあるからだ。

E組の廊下には、すでに直登と菊池がいて、もう一人初めて見る男が立っていた。


ちなみに菊地は一年の頃から同じサッカー部で俺がパス中心の選手だとしたら彼は生粋のドリブラー。しかも右利きなのに左サイドから動こうとせず、挑発を風になびかせヌルヌルと中へ切れ込んでシュートを打つのが大好きという極めて使いづらい選手である。左足でクロスを上げる練習など、しているところは見たことがない。

その大好きなシュートも決まれば文句は無いが、球離れが悪くちょっと優柔不断なところがあって滅多に決まらない。人間的にはサバサバしたやつで、同じくやかましい一年の伊崎と部室でよくしゃべっている。俺は密かに彼らを『モト高のゴシップブラザーズ』と呼んでいる。


「よお、来たか新キャプテン」


菊地がニヤリと笑う。百八十二センチの直登、百七十七センチの菊地、もう一人も百八十近くはある。この中に百七十二センチの俺が入っていくのも気が引けるけれど、そうも言っていられない。


「こいつ、うちのサッカー部のキャプテンで10番の藤谷ってヤツ。藤谷、こいつがお前の目当ての梶野だ」


隣の男を菊地が指す。


色白で奥目で、唇が薄い。くせっ毛なのか、ちょっと髪がくりくりしている。体格はあまりガッチリしたタイプでもない。クラスで目立たない俺が言うのも何だが、梶野至という男もどちらかと言えば地味なタイプに見えた。この男が本当に、元バスケ部で監督とソリが合わずにサボって退部したんだろうか。


「B組の藤谷だ。君が、梶野君か」

「うん、梶野だ。よろしく。大体の話は、茂谷から聞いた」

「それで、その」


表情が読めない。さっき直登は、何とかなりそうだと連絡してきた。しかしこれが誘いに乗り気な人間の顔だろうか。


「今年の冬の選手権を目指すというのは、本当か?」


梶野が聞いた。


「ああ、それは本当だ。今サッカー部にはキーパーが一人しかいなくて、ミニゲームもままならない状況だ。でも、半年間で勝てるチームにするプランがある。そのために、君が必要だ」


昼の反省を踏まえ、興奮しないように静かにゆっくりと話す。もう後からクスクス笑われるのはごめんだ。

梶野は黙って聞いていた。見ていると、顔色に変化が生じ始めた。色白の顔が赤みがかっている。


「き、君が必要だってお前、よくそんな恥ずかしいこと平気で言えるな」

「へ?」


梶野が直登を見た。


「君のツレは、いつもこんなに熱いのか?」

「たまーにね」


何だこのデジャヴ。俺そんなに変なこと言ったか?


「俺は初めて見たぜ、こんな藤谷。いつもやる気があるんだか無いんだか分からんヤツだったのに」


黙れ菊地。今大事なとこなんだ。

梶野は一つ咳払いをした。


「その、何だ。俺もバスケやめて一ヶ月ブラブラして、いい加減退屈してた。だから、一口乗ってもいい」

「本当か!」


やった!考えとく、じゃなくて乗るって言った。前進だ。


「でも、一つ頼みがある」

「おお、何でも言ってくれ。対応する」


自分のスマホを取り出し、YouTubeで例のフリーキック動画を再生した。


「これは、お前に間違いないな」

「間違いない」

「今度の練習の時、これと同じのを蹴ってくれ。止めてみたい」


今度は俺が赤くなる番だった。よくこんな恥ずかしいこと言えるな、こいつ。青春爆発の挑戦状だ。


「えーと、全く同じかは保証しかねるけど、こんなフリーキックならいつでも蹴ってやるよ」

「意外と自信家だな」


梶野が笑う。何だ、笑うと結構普通だ。





俺は梶野に金曜の時間と場所を伝え、菊地と直登に礼を言って教室に戻った。キーパーのグローブは、三年が置いていった私物の中に合うのがあるだろう。慌てる必要はない。


教室に戻ると、残っている生徒は数人だけだった。俺の席の近くは誰もいない。広瀬の席も空っぽだ。今日は極力広瀬とムダな接触を避けて、印象を下げないようにしようと姑息なことを企んでいたが、半日ももたずに破綻した。所詮、無理があったのだ。やせ我慢だった。俺も男だから、美人と話すのは楽しい。そういうことだ。


下駄箱で靴に履き替え、玄関を出る。五月の夕方はまだまだ明るくて、風が心地よくて、数時間後に夜が来るなんて嘘のように思えた。


「藤谷」


声がした。玄関のすぐそばにある自販機の前に、広瀬夏希が立っていた。


「おお。誰か待ってんのか?」


彼氏と待ち合わせか。いるという噂は聞かないが、いてもおかしくはない。少しだけ、みぞおちの上あたりがチクンと痛んだ。


一日ぶりに見る広瀬の立ち姿はやはり抜群に綺麗で、こんなに顔の小さい人間がこの世にいるのかとしみじみ思う。


広瀬は自販機の窓をコンコンと叩いた。


「おごってくれるんでしょ。待ってた」


……俺を、待ってたのか。いや、確かにおごるって言ったけど、あれは話の流れから出た軽口みたいなもので。


「嘘なの?」

「い、いや嘘じゃない。おごるのは構わんけど」

「けど?」

「あの恥ずかしい発言は、ちゃんと忘れてくれよ」

「そんな卑怯なやつらの、どこが大人だ」


広瀬が繰り返す。何だ、そのムダな記憶力の良さは。そういえば広瀬って、成績も良かったっけ。


「もう言わなくていいから!どれ飲むんだ」


俺は財布を取り出す。広瀬は横によけて、下の段の端っこを指差した。


「……おしるこドリンクだけど、本気か?」

「うん」


学校内の自販機は路上の値段より安く、基本は百十円。不人気のせいかは知らないが、おしるこドリンクはさらに十円安い百円だ。


「別に十円くらい、気をつかわなくていいんだぞ」


俺は広瀬を見る。予想外に近くに顔があって、慌てて視線を下にそらす。全く、美人は心臓に悪い。


「いいの。飲みたいから」

「わかった」


俺が百円玉を入れると広瀬が予告通りにボタンを押して、おしるこドリンクがガタンと落ちた。広瀬は取り出し、両手で持つ。


「うん、丁度いい温度」

「そうなのか」


色んなこだわりがあるんだなあ。


「ごちそうさま。じゃあね」

「おお。じゃあな」


広瀬が背を向けて校門に向かって歩き出す。実は校門を出てからのルートは、俺と広瀬はしばらく同じ方向でかぶるのだが、今日は時間差で行こう。

自分もついでに何か飲もうと、もう一度百円玉を投入する。


「藤谷」


少し大きめの声で、広瀬が振り返って再び呼びかける。何なんだ。用事はいっぺんに言えよ。


「まだ何か?」

「良かったね」

「何が」

「メンバー。集まってるんでしょ」

「ああ、だいぶな。何とかなりそうだ」

「そう。しっかりね」

「わかってるよ」


今度こそ、広瀬は帰途についた。


「何が言いたいんだ、一体」


俺は何気なく手元から近くにあったボタンを押す。


「あ」


おしるこドリンクがゴトンと落ちた。





学校からの帰り道、俺は生まれて初めておしるこドリンクを飲んだ。意外にもあっさりとした味わいで、飲めなくはない。むしろ好きかもしんない。

いつのまにか、みぞおちの上あたりの痛みは消えて、温かな感覚が入れ替わった。これはきっとおしるこのせいだ。


つづく

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