第42話「このバカーッ!!」
一回戦、決着。
後半十五分。
一点を返されてから、未散は頻繁に芦尾を使うようになった。芦尾もそれに応えるように積極的にミドルシュートを狙っていく。「エレクチオン・キャノーン!」とか何とか叫びながら。意味はよくわからないけど、芦尾の言うことだからきっと下品な用語だろう。しかも全然入らないし。一度クロスバーに当たって場内が沸いたくらい。
こんなことしてて、追加点が本当に取れるのかな。またロングパス一本で、今度は同点ゴールを決められるかもしれないのに。
私は隣の紗良ちゃんに声をかける。
「ねえ。未散は何で芦尾ばっかり使うのかな?素直に冬馬に回せばいいのに」
紗良ちゃんもタブレットの画面を見てうなっている。
「私もわからない。でも、藤谷君は意味のないことはやらないから、きっと何か狙いがあると思う」
それは同感だけどさ。
私はちらりと客席を振り返る。兄さんと秋穂が焼き鳥を食べながら何か話している。兄さんが解説してるのかな。私も今の状況を解説してもらいたい。
そもそも何で秋穂は来てるんだろう。入試まであと三ヶ月なのに、大丈夫かな。
ベンチから少し離れたところで、伊崎君がアップしている。事前の打ち合わせで、残り五分か、または残り七分までに冬馬がハットトリックしたら伊崎君と交代、と細かく決めてある。
ものすごく自信過剰な条件だけど、冬馬の決めたゴールを見ると納得するしかない。
すごくイヤなヤツだけど、実力は本物だ。本当にハットトリックを決めてしまうかも。
「わかった!」
突然紗良ちゃんが声を上げて、私は現実に引き戻される。
「な、何、どうしたの?」
「わかったの。藤谷君の狙い。夏希ちゃん、誠友のDFライン見て」
言われて私はフィールドを見る。
誠友のDFがさっき一点を返したFWの豊久保君にロングフィードを送る。しかし金原君が先手を打ってヘディングで阻止し、それを黒須君が拾ってつないでいる。黒須君がこぼれ球をしっかり拾えるように、皆藤君や未散も競り合ってポジションを主張する。一点を返された時と違って、少しだけ守備に余裕が生まれているように見える。
「あ」
私は声をあげた。さっきより、誠友のDFラインと前線までの距離が開いている。
「DFが下がってる……」
「そう!藤谷君が芦尾君にガンガンミドルシュート打たせてたのは、誠友のDFラインを下げて前との間隔を開けて、ロングパスの精度を下げるためなの」
芦尾のシュートは精度はイマイチでも、威力は断然だ。太ってるから。
それはともかく、あれだけ強烈なミドルシュートを立て続けに打たれたら、ゴール前をわざわざ見やすくするのは自殺行為だ。だからDFは警戒して上がりにくくなる。結果、FWの豊久保君との距離が開いて、ロングフィードの精度が落ちて対処しやすくなる。
「未散は……攻撃してるフリして守備をしてたんだ」
「そう!すごいよ、藤谷君は。やっぱり頭がいい」
紗良ちゃんが心底嬉しそうに言う。その横顔を見て、ちょっとだけ胸がざわつく。
やっぱり、まだ未散のこと。
私は頭をぶんぶん振ってフィールドに視線を戻す。今は試合に集中しなきゃ。
後半二十分を過ぎた。
芦尾のミドルシュート攻撃もさすがに読まれてきたのか、とうとうエレクチオン・キャノンを打つ前に誠友につぶされてしまった。
「芦尾!」
思わず立ち上がる。芝生に尻もちをついた芦尾は、元気一杯に両手を広げて「ヘイ、レフェリー!ファール!」と叫んでいる。心配の必要は皆無だった。
私はふう、と息をついて再びベンチに腰を下ろす。
誠友のDFが前線にロングフィードを送る。さっきよりは距離が近い。少し緩めの、精度を上げたロングボールがゴール前に送られる。
ジャンプする豊久保君に、金原君が体を合わせていく。しかしその二人よりも先にボールに触れた選手がいた。背後から、茂谷君がスッと顔を出したのだ。
「直登!」
未散が声を上げて、前線に走りだす。茂谷君はボールを頭で下に落とし、前に走る。黒須君がそれを拾ってもう一度茂谷君に渡す。茂谷君はボールを受け取り、スピードを落とさずにそのままドリブルで上がっていく。
そういえば、未散の話では茂谷君は元々リベロだった。
客席から女の子たちの「キャーッ!」という歓声が上がる。
練習中、茂谷君が攻撃に参加する場面は少ないけど、センターバックとしてはかなりドリブルがうまい。マーカーがいないこともあってスイスイ上がっていく。
未散がポジションを交代するように、マーカーを連れて下がっていく。前方にさらなるスペースが生まれる。
誠友の選手がたまりかねたように茂谷君をチェックに行く。それはつまり、うちの選手が一人マークを外れたということで。
「イイイイイヤッホオオオウッ!」
奇声を上げながら右サイドの皆藤君が走りだす。茂谷君がすかさずスルーパスを送る。誠友の左サイドバックが慌てて皆藤君を追うけど、彼の直線のスピードには追いつけない。
皆藤君はボールを受け取り、右サイドを疾走する。ゴール前中央で冬馬と芦尾が張っている。皆藤君がゴール前にクロスを上げようと振りかぶる。その瞬間、誠友のDFが追いついた。
「狩井君!」
皆藤君が振りかぶった足で出したボールは、さらに右サイドのライン際を走るタテのパス。
右サイドバックの狩井君がサイドラインギリギリで猛スピードで走ってきた。部活対抗リレーの時に見せた速さは本物だ。
「ふんっ!」
フリーの狩井君がボールに追いつき、ダイレクトでゴール前にクロスを上げた。芦尾と冬馬がジャンプしたはるか上を、ボールがカーブして通り過ぎていく。ああ、ダメだ。
しかしボールが行き着いた左サイドには、フリーの菊地君が待ち構えていた。
「うおおっ!」
気合とともに、菊地くんの右足がダイレクトでボールを捉える。ボールは一直線にキーパーに襲いかかる。
私は再び立ち上がった。
バシンッ!と音がしてボールがキーパーの手に弾かれる。ボールは地面に叩き付けられ、冬馬の目の前に。
「行けえっ!」
私の叫びが届いたかどうかはわからない。でもうちのエースは確実にこぼれ球を右足でゴールに押し込んだ。
三点目!
「やった!やったよ、夏希ちゃん!」
「うん、やった!」
主審のホイッスルを聞きながら、紗良ちゃんと両手を合わせて跳びはねる。ちらりと客席を見ると、兄さんが笑顔でOKマークを送ってくれた。
みんなが冬馬の周りに集まっている。冬馬が無反応なのはわかっていたけど、なぜか菊地君が必死に自分を指さしている。口の動きで「オレ、オレ」と言っているみたい。意外と手柄を主張するタイプなんだ。覚えとこう。
ジャージを着た伊崎君がダッシュでこちらに走ってくる。
「広瀬先輩!もう冬馬先輩いいんじゃないですか?俺出してください!」
「だーめ。五分前って言ったでしょ」
「ぬうう、早く俺も出たい!」
言って、その場でぴょんぴょん飛び跳ねる。フィールドを見ると、未散と茂谷君が笑顔で何か話している。あの二人と私の間には、陸上のトラックがある。でもどうしてか、それ以上の距離があるように今の私には思えた。
私も前は、あそこにいたはずなのに。
「あ」
未散が私に気づき、∨サインを送ってきた。一瞬間を置いて、私も親指を立てて応える。ヤツはわかってやってるのかな。このタイミング。
本河津高校 3-1 誠友高校 得点 本河津高校 冬馬。
3-1のまま、試合時間は残り十分。
誠友高校がかさにかかって攻めてくる。それでもうちは一歩も引かない。相手が焦れば焦るほど、向こうのシュートはこちらの打たせたい方向にはまる。
豊久保君へのロングパスは金原君が再三のジャンプで防ぎ続ける。
公式戦初勝利まであと少し。私は自分が両拳を強く握っていることに気づき、何度か開いたり握ったりを繰り返した。こんなに手に汗をかいたのは生まれて初めてかもしれない。
そうこうしているうちに、残り時間七分。左サイドで銀次君がユニフォームを引っ張られ、フリーキックのチャンスが巡ってきた。未散なら直接狙えないこともなさそうだけど、ちょっと角度がきつい。ゴール前に合わせていくのかも。
金原君と茂谷君の長身二人がゴール前に上がる。未散が短い助走を取って、ゴール前にフリーキックを放り込む。速いボールが大きな弧を描いて右サイドまで到達する。
頭一つ抜けた金原君がヘッドでゴール前に折り返す。
GK、DF、そして冬馬が一度にボールの落下地点に殺到する。
一番最初に触ったのは、冬馬だった。つま先でチョコンとつつかれたボールがキーパーの脇の下にぶつかって抜けていく。勢いのないボールがポテポテと転がって、ボールはゴールラインを越えた。
ホイッスル。
「やった!」
四点目。
私は思わず両手でガッツポーズをしながら立ち上がった。そして同じくガッツポーズしている伊崎君に声をかける。
「伊崎君!準備して!冬馬がハットトリックした!」
「よっしゃああっ!」
伊崎君がジャージを脱いでその場でもも上げを繰り返す。4-1。もう大丈夫だ。冬馬は何事もなかったようにキーパーとDFを押しのけて立ち上がる。
そして、
「いってーじゃねーか、コラァ!」
「ああ?!普通のプレーだぞ、コラァ!」
と、突然怒声がこちらまで聞こえてきた。
え、何。
交錯した誠友DFと冬馬がお互いに胸ぐらをつかんでにらみあっている。周りの選手たちが二人を引き離そうとする。主審が短くホイッスルを吹きながら、ゴール前に走ってきた。そして静かに胸ポケットへ手を入れる。
え。まさか。
黄色いカードが冬馬と誠友DFに一枚ずつ掲げられる。
ちょっと待って、冬馬は確か。
審判の持つカードが黄色から赤に変わり、今度は冬馬一人につきつけられた。
冬馬は今日二枚目のイエローカード。つまり。
「夏希ちゃん!冬馬君退場だよ!どうしよう?!」
紗良ちゃんがおろおろしている。私は何も答えられなかった。
……どうしよう。私はドスンとベンチに座り込み、フィールドに未散を探した。こんなの、打ち合わせにない。
未散はブロックサインを送るまでもなく、私の顔を見るとダッシュで陸上トラックを越えてベンチまで走ってきた。
「広瀬!皆藤と国分を交代。菊地も照井と変える。芦尾をトップに残して、あと七分しのぐぞ。三点差あれば、一人少なくても大丈夫だ!」
はっきりと、力強い声でプランを告げる。
「わ、わかった」
私は何とか平静を装って答える。
「キャプテーン、俺は?」
伊崎君が泣きそうな顔で泣きそうな声を出す。未散は伊崎君に向き直り、言った。
「すまん。今日は出番無しだ」
「そんなあ」
伊崎君には気の毒だけど、時間稼ぎが目的なら芦尾のキープ力は外せない。伊崎君はベンチのはしっこに座り、頭からスッポリとジャージをかぶってしまった。紗良ちゃんが隣に座って、「絶対チャンスは来るから」と言って、伊崎君の頭をなでている。
やがて冬馬がふてぶてしい顔でゆっくりとベンチに戻ってきた。怒っちゃダメ、怒っちゃダメ。ちゃんと理由を聞かなきゃ。
「ちょっと冬馬」
「うっせー。話しかけんな」
言って、顔も見ないでまっすぐ控室通路に歩いて行く。
私の中で、プチッと何かが弾ける音がした。
「何がうっせーだ、このバカーッ!!」
自分でも信じられないほどの大声が出て、私は冬馬を追いかけて肩をつかんだ。そして無理やりこちらを向かせる。
「あんたバカなの!?退場したら次の試合出られないんだよ!?わかってあんなことしたの?」
せっかく、みんなで今までがんばってきたのに。あんなバカみたいなケンカで退場なんて。信じられない。
冬馬は無言のまま、私の手を振り払って通路の奥へ消えていった。私は必死に唇をかみしめる。もうすぐ公式戦初勝利が飾れるっていうのに、マネージャーの私が泣いてたまるか。
「広瀬ー!」
未散がベンチから声をかけてきた。私は目をグイッとぬぐい、振り返る。
「何ー?」
「戻ってこい。冬馬のことは、江波先生とこばっちに任せるから」
紗良ちゃんと江波先生がこちらに走ってくる。
「夏希ちゃん、あとお願い!」
「広瀬さん、頼んだよ」
私にめいめい言い残し、冬馬の後を追うように通路へ消えていく。
私は釈然としない気持ちのままベンチに戻った。
主審が毛利先生と何か話している。交代に時間を使いすぎたみたいだ。早くしないと。
「未散、どういうこと?」
フィールドに戻りかけたキャプテンを、私は強引に呼び止める。
「細かい説明は後だ。でも、冬馬をあまり責めるな。あいつもバカじゃない」
「え?」
「じゃ、勝ってくるぞ」
エースが退場になったというのに、未散はニカッと笑ってフィールドへ走っていった。
国分君と照井君はすでに入って守備位置についている。国分君は皆藤君のポジションからさらに下がって黒須君と二人で中盤の底。菊地君と代わった照井君は金原君とセンターバックを組む。そして茂谷君はさらに下がってスイーパー専任。
残り七分で三点差にしては少々大げさなディフェンスだと思う。でもやるとなったら徹底するのがうちのキャプテンだ。
戻ってきた菊地君がタオルを頭からかぶり、ドリンクをあおっている。
「菊地君、お疲れ」
私が隣に腰を下ろすと、菊地君は冷やかすように笑った。
「おお、すごかったな、さっきの声。競技場全部に響いたぜ、このバカーッ!って」
「言わないでよ、恥ずかしい」
今気づいたけど、心なしか自分の声が枯れている。応援じゃなくて罵詈雑言でノドをつぶすなんて、ひどいマネージャーだ。
菊地君がドリンクを地面に置いて、小声でつぶやく。
「冬馬、多分足ひねったぞ」
「え」
足?
「いつ?」
「ほら、四点目決めた時、ゴール前ちょっとゴチャッとしたろ。あん時だな、きっと」
四点目。冬馬、GK、DFの3人が交錯したゴール前。
「でも、普通に歩いて帰ってきた」
「やせ我慢だろ」
「じゃあ、痛かったからあんなに相手にキレたの?」
「いや、逆だ。キレるほど痛かったら、その後歩けない」
「ごめん、意味わかんない」
「めちゃくちゃ痛くはないけど、二回戦に万全の状態でスタメンで出るには回復する時間が足りない。もし、敵にエースが故障持ちだと悟られたらその後勝ち進んでも足を集中して狙われる。だから二回戦は、故障以外の理由で欠場する必要があった」
私は暗い通路を振り返る。
「……だから、わざとケンカして二枚目のイエローもらって、退場になったの?」
「そういうことだ」
言うと、菊地君はニッと笑った。
「ま、これは全部さっき藤谷が言ってたことの受け売りだ。俺も広瀬と同じで、正直ブチ切れてたし。そこまで考えられなかった」
「……未散が」
私は立ち上がって、フィールド上の未散を見る。残り五分。みんなが必死にボールを追っている。三点差の余裕なんてない。私は手でメガホンを作り、枯れかけた声を振り絞った。
「みんなー!あと五分!あと五分がんばってーっ!」」
私の人生で、最も長く長く感じた五分間。誠友の豊久保君に右足の強烈なシュートを浴びてスコアが4-2になった瞬間、ずっと聞きたかった主審のホイッスルをようやく聞くことができた。
「よっしゃ!」
「イヤッホウッ!ホホイッ!」
菊地君と皆藤君がガッツポーズで立ち上がる。私は逆に力が抜けて、ベンチに座り込んでしまった。
ぼんやりとフィールドを見ると、みんながハイタッチして喜んでいるのが見える。
勝った。勝ったんだ。私たちは、勝った。
「夏希!」
頭上から、耳慣れた声がした。真上を見ると、兄さんと秋穂がベンチ上の一番前の手すりから身を乗り出していた。
「お前はマネージャーだ。今は笑顔でみんなを迎えてやれ。それ以外のことは後でいい」
「そ、後でいい」
秋穂がマネしてニヤニヤ笑っている。帰ったら蹴ろう。
中央であいさつを済ませたみんなが上機嫌で帰ってくる。
そうだ、私はマネージャーなのだ。
「やったね、みんな。かっこよかったよ!」
私はみんなに笑いかけた。今まで、誰かのために笑顔になるなんて、したことあったかな。
みんなは、一瞬「えっ」という顔になって、一気にこちらに迫ってきた。
「かっこいい!?マジっすか?」
「広瀬先輩!今の録音するんでもう一回下さい!」
「チーマネ、そのみんなには、俺も含まれているんだよな?な?」
ちょっと誉めすぎた。さじ加減が難しい。あと、芦尾は含まれてない。
誠友のキャプテンと話していた我らがキャプテンが、最後にゆっくりと帰ってきた。
「お帰り」
私はいつもの顔に戻って言った。
「おう、勝ったぞ」
未散が小さくガッツポーズを見せる。
「結構危なかったけどね」
「4-2だ。出来過ぎなくらいだぞ」
ちょっと不満気だ。せっかく勝って帰ってきたんだから、褒めてあげたいけど、なぜかできない。
「えーと……三点目の、茂谷君が上がっていったところで、スペース空ける動きは良かった」
意外にも、それを聞いて未散は目を輝かせた。
「おっ、さすが経験者。渋いとこ見てるな。走ったかいがあった」
簡単に上機嫌になっちゃった。男子って単純だ。
「伊崎」
未散が真面目な声に戻り、一人だけ喜びの輪に入っていない伊崎君に言った。
「何すか?」
露骨にしょんぼりした顔でこちらを向く。こんな顔は、桜女との合同練習で有璃栖ちゃんに嫌われた時以来かも。
「今日は出せなくて悪かった。でも喜べ。二回戦はお前が芦尾とスタメンだ」
「あ」
冬馬が一試合出場停止となると、代わりは伊崎君しかいない。国分君もFWはできるけど、一番得意なのは中盤だ。
「……気付かなかった。俺、次はスタメンなんですね?」
「そうだ」
「直前に、やっぱ無しってなりませんか?」
「ならない。というか、他にいない」
「いよっしゃあああっ!」
みんなからかなりタイミングが遅れて、伊崎君が雄叫びを上げた。でも他のみんなは複雑な顔だ。
今日ハットトリックを決めたエースが出られない。伊崎君もいい選手だけど、やはり冬馬は別格なのだ。
通路の方から、紗良ちゃんと江波先生がやっと戻ってきた。
「先生!冬馬は?」
私が聞くと、みんなも一瞬静かになって江波先生の言葉を待つ。先生はいつも通りの涼しい顔で、
「大丈夫。ちょっと足首ひねっただけだから、二週間安静にしてれば治るよ」
と言った。部員たちの間にも安堵の声がもれる。二回戦は一週間後。三回戦はそのまた一週間後。次勝てば、冬馬が復帰できる。
江波先生が私に笑いかけた。
「それより広瀬さん。冬馬君は先にタクシーで帰すつもりだけど、会っとく?」
「え」
そうだ。私は冬馬を怒鳴りつけたんだった。事情を知らずに。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。きっともうタクシー乗り場だよ」
私は通路に向かって走りだした。
競技場の外に出ると、『タクシー乗り場』と看板に書かれている場所に、制服の冬馬がいた。ちょうど黒い車が着いたところだ。
「冬馬!」
私は叫んでタクシー乗り場まで全力で走った。冬馬は開いたドアに手をかけて、振り向いた。
「何だ、わざわざ。もう藤谷から聞いたんだろ?」
と、自分の左足に視線を落とす。靴をはいていても、ちょっとだけふくらんでいるように見える。
「聞いた。足、どう?」
「江波先生のテーピングで固定中だ。もういいか?」
言って、タクシーに乗り込む。
「怒鳴って、ごめん」
ドアが閉まる寸前に、私は言った。冬馬はドアに手をかけながら、
「あんなもん、いつも通りじゃねえか。いちいち謝るな」
と愛想のない声で言った。
「でも、あんな乱暴なやり方はもうしないで。主審次第で、二試合出場停止の可能性もあったんだから」
私が言い返すと、
「それは考えなかったな」
と珍しく認めて、ドアを閉めた。タクシーが発進する。
しばらく見送っていると、タクシーはロータリーをグルリと回ってもう一度私の前で止まった。
ゆっくりと、後部座席の窓が下りる。
「おい、マネージャー」
冬馬の険悪な顔が窓からのぞく。
「何」
私は少々警戒しつつ、聞いた。
「伊崎に言っとけ。お前に俺の代わりは無理だってな」
「何それ。自分で言えばいいじゃない」
「あいつはお前の言うことなら聞くだろ。あと藤谷にも」
「今度は何」
「余計なことはするなって言え」
それだけ言うと、今度こそタクシーは走り去った。
着替えて競技場の外に出ると、ちょうど誠友高校の人たちも出るところだった。
見ると、体の大きな豊久保君がグスグスいいながら泣いていて、それをキャプテンの出山さんが慰めている。試合中は脅威の大型FWとしてしか見なかったけど、彼も高一の男子なんだな、と改めて思った。
ふと見ると、兄さんと未散が何か熱心に話し込んでいる。主に兄さんが話して、未散が聞いているけど、今日の試合の感想を聞いてるのかな。気になる。私も聞きたい。
「夏希ちゃーん」
秋穂がひょこっと私の顔をのぞきこむ。
「何」
「良かったね。藤谷先輩のかっこいいとこたくさん見れて」
「うるさい」
ペチンとデコピンをお見舞いする。
「あうち」
「あんた、試験勉強はいいの?」
「息抜き、息抜き」
人の心配なんて知らん顔だ。
「あの、広瀬先輩」
黒須君が秋穂を見ながら小声で言った。
「ん?」
「あの子、先輩の妹ですか?」
「そうだけど」
答えると、一年たちの間で小さなどよめきが起きた。
口々に「可愛い」とか「似てない」とか。可愛くて似てないとしたら、私に対してすごく失礼だ。
「秋穂」
私は妹を手招きしてみんなの前に立たせる。ちゃんと紹介しておこう。
「えー、これ、私の妹」
「こんにちは、広瀬夏希の妹、秋穂です。いつも姉がお世話になってます。今日はみなさん、すっごくかっこよかったです。感動しました!」
歯の浮くようなセリフを平気で連発している。しかし部員たちは「いい子だ」「愛想が良い」と口々に秋穂への好印象を話している。何か遠回しに、私が愛想悪いと言われているみたい。
ほどなくして、電車組とお迎え組に分かれて私たちは解散した。私は兄さんの車に乗せてもらい、気づいたら家の前にいた。秋穂が言うには、「乗って一分で口開けて寝てた」らしい。
お風呂から上がり、タオルをかぶってベッドに座る。そして私は、スマホの画面をじっとにらんでいた。
「藤谷未散」の名が表示されている。
兄さんは今、市内にアパートを借りて一人暮らしを初めたところだ。監督になるためのライセンスは順調に取得できているらしい。
去り際、
「藤谷君をちゃんと褒めてやれよ。それだけで、男は何倍もパワーが出るんだ」
と本気とも冗談ともつかない顔で言い残していった。
私は大きく深呼吸して、番号をタップしようと指を画面に近づける。
と、唐突にスマホが震えて着信音が鳴る。発信者は、藤谷未散。
「も、もしもし」
即座に通話状態にすると、向こうは「わっ」と声を上げた。
「びっくりした。早いな」
「あ、うん。ちょうどスマホ持ってたから」
「そうか」
「うん」
しばらく沈黙が続く。電話の向こうで小さな咳払いが聞こえた。自然と頬がゆるみ、気持ちに余裕ができる。
「で、わざわざ電話してきて、何かなキャプテン」
「あー、そうだな。えっと、ちゃんと礼を言いたくて」
「何の?」
「終盤、冬馬が退場したりして、バタバタしちゃったけど、うちのサッカー部が公式戦に勝ったのって、本当に記録に無いくらいなんだ。これって、すごいことなんだ、本当に」
「そういえば、そうだったね」
「だから、まだ一つ勝っただけとはいえ、これはこれですごいことでさ。これも全部、広瀬がマネージャー引き受けてくれたおかげだ」
「そんなの、大げさだよ」
「俺が勝手に思ってるだけだから、異論は認めない」
「何それ」
二人で笑い合う。そしてまた沈黙。
何でだろう。切りたくないのに、言葉が出てこない。
「そんだけだ。じゃあな」
「あっ、待って」
「ん?」
待ってって言っちゃったけど、何を話そう。
「えっと、その、冬馬が退場になった時、私パニックになっちゃって、何もできなかった」
「誰だってそうなるって。俺も一瞬頭真っ白になったし」
「でも、未散は落ち着いて交代の指示出してた。冬馬が絡んだ理由も見抜いたし」
ああ、ダメだ。また責めるような言い方になる。何で私はこうなんだろう。
「そりゃ、お前とこばっちがあんな呆然とした顔してたら、何ときゃしなきゃって思うって。ああいう時は、キャプテンの肩書がむしろ支えになるんだなってわかったよ。あと冬馬の件は、あいつは勝つために不必要なことはしないから、何か意図あるんじゃないかって直感的に思っただけだ」
特に気分を害した風もなく、未散は淡々と答えた。
「だから、そんなことで自分を責めるようなことは言うなよ。お前はいつも強気でいてくれ」
「私、そんなに強くない」
「だったらなおさらだ」
未散が笑う。私は言った。
「あのさ」
「うん」
「未散のプレーは、やっぱりすごいよ」
「何だよ、いきなり。何も出ないぞ」
「かっこ……よかったよ、今日」
「え」
「おやすみっ」
一方的に通話を終了して、ボスンと枕に顔を埋める。これくらい、言ってあげても変じゃないはずだ。私はマネージャーなんだから。
枕に顔を埋めたまま、私は無意味なバタ足を一人続けていた。
つづく