第40話「約束」
有璃栖とデート。そして、県大会開幕。
大会初戦まであと一週間。
練習をボイコットしていた国分も、広瀬の大活躍で無事戻ってきた。みんなも口には出さないが、それぞれが責任を感じていた部分もあるようで、白々しいくらいに国分に気をつかって話しかけている。
俺としては、見てて恥ずかしいからそういうわざとらしいことはやめてほしいと思う。でも広瀬は「みんな意外と可愛いとこあるよね」と嬉しそうだ。部員たちへの視線が、マネージャーを超えて母ちゃんみたいになっているんじゃないかと思うのだが、怒らせそうだから言わない。
懸念していた今週の中間テストも、広瀬、こばっち、直登の三人の先生たちの指導のおかげで、全員無事赤点ゼロで乗り切ることができた。追試で試合に出られないなんて目も当てられない。
そして練習後の部室で俺は、試合前の最後の日曜日である明日は、練習を休みにしようと思う、と発表した。部員たちはもっと喜ぶかと思ったが、意外にもテンションは上がらなかった。
「キャプテン」
黒須が手をあげた。
「おう、どした」
「僕、明日も練習したいです」
黒須が言う。俺は部員たちの顔を見回し、
「みんなも?」
と聞いた。それぞれが小さくうなずく。なぜだ。
釈然としない俺に、菊地が言った。
「お前はお前なりの考えで息抜きさせようってことかもしれないけど、明日急に休んだって返って落ち着かないと思うぞ」
「……マジで?」
「マジで」
みんなも大きくうなずいている。
話し合いの結果、間を取って午後三時には練習を終わる、ということに落ち着いた。
俺としてはスッキリ休みたかったんだけど、休みの押し付けというのも変な話だ。ここは部員の意見を尊重することにした。
……別に、休みにして広瀬をまたデートに誘おうと思ってたわけじゃない。いや、ちょっと思ったけど、すぐやめた。何かこう、誘った時点で「やる気あるの?」と怒られそうな予感がしたからだ。
「藤谷君」
帰り際、久々に顔を出してくれた江波先生が、俺に声をかけた。
「はい」
「君の考えは、決して間違ってないよ」
「何がですか?」
「大会前に休日を作るってこと」
「そうですか?でも不評でした」
「みんながプロなら、それでいいだろう。家族との時間を過ごすとかね。でもみんな、普通の高校生だ。不安も多い。いつもと違ったことをするより、いつも通りのパターンを続けた方が、緊張しなくて済むかもしれない」
なるほど。おせっかいの悪い癖が出てしまったか。
「……すみません。ちょっと、キャプテン気取りしすぎました」
「いいじゃないか。気取り結構。実際キャプテンなんだから」
先生は俺の肩をポンポンと叩いた。
「でもこれだけは忘れないように。キャプテンの君も、普通の高校生なんだよ」
「わかってますよ」
「そ。ならいいけど」
言い残し、先生は白衣のポケットに手を突っ込んで帰って行った。
普通の高校生、ね。
その日の晩、LINEのメッセージが入った。最近はメッセージが入るたびに「広瀬か!?」と浮足立つキモい男子になりつつあるが、今度の送り主は違った。
送信者は岸野有璃栖。
一ヶ月ぶり?いや、もっとか。
スマホをタップし間違えないように、慎重にメッセージを開く。
『お久しぶりです。明日、会ってお話したいことがあるんですが、お時間ありますか?』
特に変わりない、簡潔にしてムダのない丁寧な文章。人柄がよく出ている。
(私、藤谷さんが好きです)
合宿の帰り、駅のバス停にわざわざ走って戻ってきて有璃栖は俺に告白した。
俺は俺で、広瀬をデートに誘っていたこともあり、何て答えていいか分からず、ずっと連絡しないままになっていた。ひどい話、いや、ひどい男だ。
でも、有璃栖からもその後特に連絡は無かったのだ。彼女を責めるわけではないが、恋愛超初心者の俺に、付き合うとか具体的な話無しで告白だけされても、どう立ちまわるのが正解か、さっぱりわからなかったのだが本音だ。直登に相談するのもためらわれたし、話せそうな女友達は広瀬とこばっちだけという絶対無理な状況。それにこれは偏見かもしれないが、女子が他人の恋愛話を聞いて、内緒にしておけるとはどうしても思えなかった。
俺は一旦トイレに行き、麦茶を一杯飲み、もう一度トイレに行って深呼吸した。そして返信を打ち込む。
『久しぶり。元気か?明日は練習が三時までだから、その後なら大丈夫だ』
今更元気か?とは我ながら白々しい。でも用件だけでは突き放しているようで何だかな、と。
ああ、難しい。
しばらくして返信。
『じゃあ、五時に駅前のロータリーに来てください。そこからは内緒です』
内緒、とはまた可愛いことを言う。
……いや、そんなこと言ってる場合じゃない。そういえば伊崎と有璃栖はどうなってるんだろう。それで出方も変わってくる。うまいこと後輩の恋を応援する形に収まればいいけど。でもこのタイミングで本人に聞くのも何だし。
明日の練習で、伊崎にそれとなく聞いてみよう。
翌日の昼休憩。俺はさりげなく伊崎を離れたところに呼び出した。
「何ですか?いきなり。もしかして、スタメンにしてくれるとか?」
伊崎の目が輝く。
「いや、それはない。初戦のスタメンは、冬馬と芦尾だ」
「なーんだ」
急につまらなそうな顔になる。実にわかりやすいヤツだ。
「話というのは、有璃栖のことなんだが」
「岸野さん!?岸野さんがどうかしたんですか!?」
ずいっと身を乗り出してくる。俺は両手で押し戻す。
「落ち着け。聞いてるのは俺だ」
「だから、何なんですか?」
「お前、有璃栖とは今どうなんだ?」
伊崎はなぜか得意げな顔になって胸を張った。
「僕を甘く見ないでくださいよ、キャプテン。ちゃんと進展してます」
「おお!そうなのか」
良かった。それなら今日会う時は応援モードで行ける。
「メールの返信が、一回ずつちゃんと返ってくるようになりましたよ!」
……沈黙。
遠くで部員たちの談笑する声が聞こえる。
どうしよう。何て言おう。
「その、デートに誘ったりとか、は無いのか?」
「あるわけないじゃないですか」
当たり前、といった顔で返された。あれ、俺がおかしなこと言ってるのかな。いやいや、そんなはずない。
「じゃあ、合宿以来会ってないのか?」
「そうですよ。メールだけです。俺、そういう内面的なものって大事だと思うんスよ」
うん。それは否定しない。でも、もうちょっと向こう見ずに突撃するタイプだと思ってた。
……困った。これはもう、ただのメール友達レベルで足踏みしている。応援どころじゃない。今日、俺が有璃栖と二人で会うこと自体、申し訳なく思えてくる。
「キャプテンは、いい人ですね」
「へ?」
突然何を言い出すんだ、こいつは。
「何が?」
きょとんとした俺に、伊崎は続けた。
「俺、合宿の時に気づいたんです。岸野さんの気持ち」
ドクン、と心臓が止まるような衝撃。
冷や汗が背中をつたう。
「ど、ど、どういうことだ?」
「岸野さん、合宿中ずっと、キャプテンに構ってもらいたそうだったじゃないですか。わざと腹にボールぶつけたり」
「……あ、あったな。そんなこと」
あれは痛かった。
「それ以外でも、キャプテンの前で広瀬先輩と張り合うようなこと結構してて。それ見て俺、気づいたんです」
一陣の風が、俺と伊崎の間を吹き抜けた。
語る伊崎の横顔は、数カ月前とは別人のようにたくましく見えて。
ああ、俺は何を見ていたんだ。バカで頼りないと思っていた後輩が、いつのまにかこんなに大人になっていたなんて。
「伊崎、あの」
「岸野さん、俺のことが好きなんだなって」
……ん?何て?
「すまん、伊崎。話が見えない」
伊崎はプイとそっぽを向いた。
「何度も言わせないでくださいよ。恥ずかしいなあ。だから、岸野さんは俺の気を引くために、わざとキャプテンにちょっかいかけてたんですよ!俺の反応を見るために。やっぱそういうとこ、女の子なんスよねえ」
そう言って遠い目をする伊崎は、数ヶ月前と同じバカでおっちょこちょいな頼りない後輩で。
ああ、俺は一体何を見ていたんだろう。人がそう簡単に成長するはずないじゃないか。
「だから、そういう女の子っぽいところも広い心で受け止められる、キャプテンみたいな優しくてでっかい男になりたいんス、俺は。いや、なって見せますよ!」
「伊崎いっ!」
俺はたまらず伊崎の肩を抱き寄せ、頭を何度もなでた。
「わっ!何ですか、いきなり。暑いですよ!」
「お前は本当に可愛いヤツだ。ラクで」
「ラクって何ですか!?意味わかりません」
「ずっと変わらずにいてくれよな。な!?」
「よくわかりませんけど、俺は俺ですから変わりようがないですよ!」
良かった。当初の予定とはだいぶ変わったけど、何とかなりそうだ。
俺は嫌がる伊崎の頭をただひたすら撫で続けていた。
三時に練習を終えて、俺はいつも通りのスピードを心がけて、部室で帰る準備をする。変に急いだりすると、勘がいい広瀬に怪しまれる恐れがある。
当の広瀬は、そんな俺とは対照的にいつもより早く着替えを済ませていた。今日はこばっちも一緒だ。
「珍しいですな。二人そろってお出かけですか?」
芦尾が上半身裸で体をパタパタあおいでいる。最初は恥ずかしがっていたこばっちも、見慣れたのか特に照れてはいない。芦尾が少し寂しそうに見えるのは気のせいか。
「今日はこれから、紗良ちゃんと駅前のケーキバイキング行くの。ねー?」
「ねー」
上機嫌で二人が顔を見合わせる。前から仲がいいと思っていたけど、またちょっと距離が縮んだように見える。何かあったのかな。
「そのケーキバイキングの入り口は、このお腹への第一歩だということをお忘れなく」
お腹を撫でながら、指を二本立ててキメ顔をする。
「せっかく楽しみにしてるのに、余計なこと言わないで」
広瀬とこばっちは芦尾をひとにらみすると、「行こ」と言って、二人でさっさと行ってしまった。そして俺はふと大事なことに思い至る。
駅前、だと?
「芦尾」
「あ?」
芦尾がTシャツを着ながら振り向く。
女子が行ってから服を着てるのだから、絶対わざと見せてた。この変態め。
「ケーキバイキングやってる店って、駅前のどのへんだ?」
「んー、そうだな。駅前つっても、ちょっと離れたところだぞ。何だ、追っかけるのか?」
そうか、離れてるのか。ちょっとホッとした。
「そんな野暮なことはしない。その、俺も実は甘い物が好きで。今度こっそり行こうかと」
「マジでか!」
芦尾が目を輝かせる。
「じゃ、そん時は誘ってくれ。俺もケーキ大好きだ」
「ダメだ、お前はそれ以上太るな」
ブーブー文句を言う芦尾を置いて、俺も一旦家に帰ることにした。
それからしばらく後、俺は駅前のロータリーで一人太い柱の陰にひそんでいた。家で調べたところ、広瀬とこばっちが行ってるケーキ屋は確かに駅からは離れているようだ。しかし油断は禁物。帰り際に出くわす可能性がある。
有璃栖はまだか。もうすぐ待ち合わせ時間だというのに。
「藤谷さん!」
「なあああっ!」
突然耳元で大きな声がした。俺は悲鳴を上げて飛び上がる。
「お待たせしました」
「お待たせって」
振り返って、俺は絶句した。
待ち合わせ場所に来た有璃栖は、ユニフォームとも桜女の制服ともまったく違う服装で立っていた。
白いセーターを思いっきり太ももまで伸ばしたような服に、黒いタイツ。靴も黒いショートブーツ。
そして何より、長い髪を下ろしているのを初めて見た。そういえば、今までポニーテールしか見たことなかったんだっけ。
正直に言おう。めっちゃくちゃ可愛い!
今なら伊崎の気持ちが100%わかる。ちなみに俺の服装は、広瀬とのデートの時に着たのと同じような服の色違い。直登に返した後、わざわざ似たものを買いに行ったのだ。バカの一つ覚えだとは思うが、服で悩む時間は俺にとっては拷問に等しいムダな時間なのだ。
「どうかしましたか?」
小首をかしげて有璃栖が聞く。これはデートじゃない。話があるからと言われて来ただけだ。しかし、やはりここは言うべきことを言わなくては。
「あ、有璃栖。その」
「はい」
「その服、でかいセーター?」
有璃栖は大きくため息をついて、ただでさえ鋭い吊り目でキッと俺をにらんだ。
「これはニットワンピっていうんです!こういう服なんです」
怒らせてしまった。
「そ、そうか、すまん。女子の服はよくわからないんだ」
有璃栖は両手を広げて自分の服を見下ろした。
「まったく。そもそもこれが大きいセーターだったら、裾の長さと袖の長さが合わないじゃないですか」
「あ」
それもそうだ。
「あーでも、ユニフォームと制服しか見たことなかったから、新鮮だ。似合う」
「ありがとうございます」
有璃栖が笑う。良かった、機嫌が直ったようだ。
「で、ここからどっか行くのか?」
俺が聞くと、有璃栖はくるりと振り返って改札方面へスタスタと歩き出した。
「おーい」
「行先は内緒って言ったじゃないですか。黙ってついてきてください。電車賃は持ってますか?」
「それくらいはあるけど」
結局有璃栖は何も言ってくれず、俺たちは電車に乗り込んだ。途中、広瀬をモデルにした例のポスターが何枚か貼ってあるのを見つける。通りすがりの男子高校生たちがポスターを見て「この子、可愛いよなー」とか「モデルかな?」などと言い合っている。その正体が、まさか弱小校のマネージャーだとは思うまい。
十月の五時過ぎだから、すでに空は薄暗くなっている。今からどこに行く気だろうか。これ、誰かに見つかったらデートだと言われても言い訳できないな。誰にも会いませんように。
電車の中で、有璃栖と俺はサッカーの話を中心にあれこれとしゃべった。合宿の時と何も変わらない。今目の前にいる少女は、本当に二ヶ月前、俺に告白した子と同一人物なのだろうか。それとも彼女の中で、無かったことになっているのだろうか。
「あ、降りますよ」
ぼんやりしていると、電車が止まった途端に有璃栖が立ち上がった。慌てて後に続く。
ホームに降りて、俺は自分の目を疑った。
そして、一瞬血の気が引くのを感じた。
降りた駅は『桜ノ宮駅』だったのだ。
「おおおーっ!」
二ヶ月前に広瀬とデートした桜ノ宮商店街は、ガラリと様相を変えていた。
アーケードに取り付けられた色とりどりのイルミネーションが、教会のステンドグラスのように輝いている。商店街の店舗にも電気がつく小さな看板が同じ大きさで並んでおり、その全てが点灯して奥へと続いている。
「すごいな、ここ。こんなイベントあったんだ」
何げなくつぶやくと、有璃栖が耳ざとく聞きつけた。
「来たことあるんですか?」
そして、じっと俺の目を見る。広瀬とのデートは、うちの部員も知らないはずだ。なのになぜだろう。見透かされているかのような緊張。
「ああ、前に一度。コロッケ食べた」
「そうですか」
言うと、それ以上は追求してこなかった。
二人で黙ってイルミネーションの下を歩く。すれ違う人たちはほとんどがカップルだ。クリスマスシーズンにニュースでこんな映像が流れるたびに、「ケッ」と言いつつチャンネルを変えていたものだが、まさか自分が当事者になるとは。
「藤谷さんの家には、市の広報って届きますか?」
歩いていると、突然有璃栖が言い出した。
「広報って、あの市の催しとか色々書いてある冊子?」
「はい、それです」
「ロクに読まないけど、届いてはいるよ」
「その広報には、市だけじゃなくて県の広報もあるんです」
「ほう」
話が見えない。有璃栖は何が言いたいんだ。
「わざわざ取ってる家は少ないんですけど、うちは父が読むので毎月届くんです」
「へー」
「九月号に、載ってましたよ。八月にここでやった、フットサルのイベントの写真。出てたんですね、ゲームに」
ビクッ!と硬直して立ち止まる。有璃栖も前を向いたまま立ち止まった。
俺と広瀬がデートで来た日、プロチームのイベントで出たフットサル。ここ桜ノ宮は地元のY市じゃないから、Y市居住者が多い部の連中にはバレないだろうと踏んでいたが、まさか県の広報に写真が載ってしまうとは。そういえば、広瀬をポスターモデルにスカウトしたカメラマンさんは、県庁の職員の友人だと言っていた。あの時撮っていた写真が県の広報に使われたんだ、きっと。
「何か申し開きはありますか?」
有璃栖がどうにも読み取れない表情で、俺の顔を覗き込む。俺は一つため息をついた。観念しよう。
「……合宿中に広瀬を誘って、直後の休日にここに来たんだ。フットサルの写真は、その時だ」
有璃栖は黙って聞いていた。
「別に、君を騙してたわけじゃなくてだな、その、あまり自分からベラベラしゃべることでもないっていうか」
沈黙がどうにも落ち着かなく、俺はとりとめもなく言い訳を並べ立てた。有璃栖は今日一番大きなため息をついた。
「まったく。藤谷さんは、試合中はフェイントで人をだますのがうまいのに、ボールが無いとサッパリですね」
「え、何が?」
「確かに広報の写真には、広瀬さんが写ってました。Y市の女子高生も参加して、見事ゴールを決めたって。でも、藤谷さんは写ってませんでしたよ」
……何、だと?
「やっぱり、デートしてたんですね。広瀬さんと」
「ひ、引っ掛けたな!そういうのは、すごく良くないと思うぞ!」
俺の抗議に、有璃栖はシレッと答える。
「引っ掛けてなんかいません。ちょっとカマをかけただけです」
「ほぼ同じ意味だ!」
情けない。年下の女子に転がされた。でも、それってつまり。
「今日、俺を呼んだのは、その」
「あ、そろそろ始まりますよ。急ぎましょう」
有璃栖は何も答えず、俺の手首をつかんで走りだした。
「わっ!ちょっと、どこ行くんだ」
「いいから、早く」
二ヶ月前、フットサルが行われたイベント広場。
そこには多くの人がすでに集まっていて、当然のことながらカップルも多い。俺たちはその中に混ざり、どさくさにまぎれて前方に移動した。
「ここで何かやるのか?」
「はい。あのホテルです」
有璃栖が指をさす。ちょうどイベント広場から見える、大きなビル。桜ノ宮クイーンズホテル。多分一生泊まることはないであろう、高そうなところ。
しばらく待っていると、ホテルの壁面に一条の光が差した。光はレーザーで壁を切り取るように走り、お城のような輪郭を描く。
その後はもう、口をポカンと開けて見ているだけだった。後から聞いたところによると、3Dのプロジェクションマッピングというもので、音楽とともに飛び出す映像がホテルの壁面に変幻自在に映しだされていく。
すごい。こんなのはテーマパークでしか見られないと思っていた。
「有璃栖。すごいな、これ。俺は今、猛烈に感動している」
「そうですか。良かったです」
微笑む有璃栖の顔が、淡い光に浮かび上がる。
その顔は、ボールを追いかけている時とは全く違う、一人の女の子としか言いようのない顔で。
うぬぼれを許してもらえるのなら、恋をしている女の子の顔、だと思った。
袖のあたりに、クイッと引っ張られる手応えを感じる。見ると、有璃栖が俺の袖を遠慮がちにつかんでいた。
「有璃栖」
「夢だったんです。イルミネーションも、このショーも、好きな人と一緒に見るの」
うつむく彼女の声は小さく、しかしはっきりと俺の心臓に届く。
「……俺は」
「わかってます。相手が広瀬さんじゃ、勝負にならないって。藤谷さんが見てるのは、いつも広瀬さんだけだって、合宿でわかりました」
「……すまん」
「謝らないでください」
「告白してくれたのに、二ヶ月も連絡しないで、悪かった」
「……」
有璃栖がキッと顔を上げた。目の端に、うっすらと涙が浮かんでいる。俺は手を伸ばしかけて、下ろした。この涙をぬぐう資格は、俺には無いのだ。
「本当ですよ。人がどれだけ勇気出して、告白したと思ってるんですか」
「うん」
「ずっと、待ってたんですよ。もしかしたら、応えてくれるかもしれないって」
「うん」
「伊崎君に、気をつかったんですか?」
「違う。それは絶対無い。ただ、色んなことを言い訳にして」
そうだ。俺が有璃栖に連絡できなかった理由。
「……君を傷つけるのを、先延ばしにした。最低だ」
有璃栖はしばらく黙っていたが、やがてポツリと口を開いた。
「私も、すぐに返事聞くのは怖くて、逃げちゃったようなものなんで、おあいこです」
マッピングのショーが佳境に差し掛かる。
俺が今、この子に言える言葉って、一体何があるんだろう。
「私、悔しいです。先に出会ってる人に負けたら、後から出会った方はどうしようもないじゃないですか」
有璃栖が少し元気を取り戻した口調で言った。
「広瀬さんには、伝えたんですか?」
「いや、まだ」
俺は視線をさりげなくそらして答える。
「何やってるんですか!広瀬さん、ポスターのモデルになるくらい美人なんですから、モタモタしてると誰かに取られちゃいますよ」
「そ、それは困る!」
想像もしたくない。
「広瀬さんに振られてから私のところにノコノコ顔出したって、塩まいて追い返しますからね」
「行かないよ。そんな失礼なことしない」
「……来ないんですか」
「え?」
「何でもありません」
ショーが一番の盛り上がりを終えて、静かなエンディングに入る。隣に立つ美少女の横顔は、さぞ光に映えていることだろう。
でも臆病な俺は、どうしても隣を見ることができなかった。
家に着いて、部屋の明かりを点ける。変わらない、静かで冷たい部屋。
別れ際、有璃栖は今日のお礼を言って、走って去っていった。お礼を言われることなんて、何もないのに。
そういえば、ずっとスマホを見ていなかった。ポケットから取り出すと、有璃栖からのLINEが入っていた。
『私はまだ、弟子ですか?』
俺はすぐに返信した。彼女はどんな気持ちでこれを打ったんだろう。
『当たり前だ。君はずっと、俺の一番弟子だ』
再び着信。今度は、広瀬だった。
『ケーキバイキング最高だったよ。おみやげ買ってあげようかと思ったけど、日持ちしないからやめといた。大会前に食中毒は困るし』
チクチクと胸が痛む。
こばっちを傷つけ、有璃栖を突き放し、俺は何の保証も勝算もない広瀬への片思いに賭けている。もし広瀬に振られたら、俺は一人ぼっちになるんだな。
何やってるんだろう、俺。可愛い子とつきあえる大チャンスが二回もあったのに。これでさらに大会初戦で負けでもしたら、目も当てられない。部員たちも俺を見放して、誰も練習に来なくなってしまうんじゃないか。
いつか見た悪夢のように。
『男子には行きづらいところだけど、楽しそうだな。摂取したカロリー分、バリバリ働いてくれ』
広瀬に返信し、俺はベッドに倒れこんだ。広瀬からの最後の返信は、『了解、キャプテン』の一言だった。
それからの一週間、俺たちの練習は臨時フィジカル・トレーナーの盛田先生を中心に進められた。
大会初戦がベストコンデションになるように練習量を調節し、筋肉の張りから体調までこと細かくチェックしていく。プロになった気分だ。
盛田先生自身もアスレチックトレーナーの資格取得に向けて勉強中であり、そのためには現場での実績が必要らしい。見習いトレーナーに全てを任せていいのかという疑問もあるが、かと言って他に専門家もいない。そもそも何が正解かなんて、誰もわかっていないのだ。
「あ、ちょっと、藤谷君」
とうとう明日が初戦という金曜日。休憩中に盛田先生が俺を呼んだ。
今日の練習場所は陸上競技場ではなく、学校のせまい練習場。試合前日は慣れ親しんだ場所の方が落ち着くだろうという判断だ。みんなは「ここ、こんなに狭かったっけ」と口々に驚いていた。かく言う俺もそうだ。
こんなせまいところで、俺たちはずっとやってきたんだ。
「何ですか」
「調子はどう?」
「いいですよ。動き、悪かったですか?」
「ううん。ならいいの。ほら、えばっち……江波先生が、君がプレッシャーでナイーブになってないか気にしてたから」
「そうなんですか」
大丈夫なのに。でも、江波先生気にしてくれてたのか。ちょっと嬉しい。
空がオレンジ色になって、大会前の最後の練習が終わる。俺は改まってみんなの前に立つ。キャプテンになったばかりの頃は恥ずかしくてイヤだったが、慣れれば何とかなるもんだ。今は自然と前に立てている。
「えー、とうとう明日、誠友高校との初戦を迎えることになりました」
もう菊地は野次らない。みんなも黙って俺の言葉を聞いてくれている。広瀬と一瞬目が合って、俺は一つせきばらいをした。
「まだ何も成し遂げてないのに、言うことじゃないかもしれないけど、試合当日はもっとふさわしくないから、今言います」
俺は言葉を切って、おでこをポリポリかいた。
「今まで、こんな頼りないキャプテンについてきてくれて、ありがとう」
一瞬の沈黙の後、どこからともなく笑いが起こる。俺はそそくさとみんなの前から逃げ出した。
「おいおい藤谷さん。これで終わりみたいじゃないですか」
芦尾が笑う。
「明日は気合い入れて行かなきゃならないんだから、今日しか言えないだろ」
真っ赤になった俺の抗議に、冬馬が口をはさむ。
「バカか、お前は。そういうスピーチは決勝前日まで取っとけ」
「確かに」
直登もうなずく。いいじゃないか、言いたくなったんだから。
すると、毛利先生がおずおずと手をあげた。
「先生、どうかしました?」
毛利先生はみんなの視線に「ひっ」と身をすくめた。大勢の視線が怖くて、よく教師が務まるな。
先生がのっそりとみんなの前に立つ。
「えっと、顧問の僕から、一つだけ、言いたいことがあります」
言葉を切り、みんなを見回す。
「ぼ、僕は、知っている人もいると思いますが、ずっと休職していました。理由は、初出勤の日にいたずらで教室から締め出されたこと。それ以来、学校に来るのが怖くなりました。教室も先生も、生徒たちも、みんな」
みな黙って聞いている。普段いてもいなくても誰も気にせず、忙しい時だけ倒れたりして邪魔になる大人。それでも、この人がいなければ顧問不在でサッカー部自体が成立しなかったかもしれないのだ。
「でも、みんなは僕を受け入れてくれました。役に立ってたなんて言いません。特にバスや電車では、酔って迷惑ばかりかけて心苦しかったです。普段も、カウンセリングで休んでばかりで申し訳なかったです」
毛利先生が、こんなに長くしゃべるのは初めて聞いた。やればできるじゃないか。
「僕は、自信というものが何一つありません。それでも、こんな僕でも、自信を持って言えることがあります。それは、この学校の教師で、僕一人が本気で君たちの優勝を信じているということです。明日は、僕もベンチでずっといい監督顔を作ります。以上です」
俺と同じく、そそくさと逃げ出した先生は、反動でも出たのかベンチで横になってしまった。
言葉がない。
毛利先生が、そんな風に思ってくれてたなんて。
そうなのだ。もし新しい顧問が、サッカーに詳しくないのに口だけ出すタイプだったら、俺の好きなようにはさせてもらえなかったかもしれない。毛利先生が来た時、変なのを嫌がらせで押し付けられたと思ってた。でもやってきた毛利先生は俺に何も言わない人だった。すべて思い通りにさせてくれた。
俺は幸運だったんだ。
明日の会場は隣のN市にある陸上競技場。電車で二駅の場所。部員たちに待ち合わせ時間と場所を伝えて、解散した。
最近はこばっちと帰ることが増えた広瀬だが、今日は俺と並んで歩いている。沈みかけの太陽が長い影を二つ作る。二つの影は、多分五ヶ月前から距離が変わらないままだ。いや、ちょっとは縮まったかな。
とりとめもない話をしながら、いつもの分かれ道に差し掛かる。
「ねえ」
広瀬が立ち止まり、言った。
「ん?」
「前にさ、私に夢の話したの、覚えてる?」
「何の」
「いやな夢の話。試合に負けた次の日、練習場に誰も来ないっていう夢」
「ああ」
そういえば、広瀬に話したっけか。今思えば、片思いの相手に話す内容じゃないな。重すぎて引く。
「よく覚えてるな、そんな話」
「忘れないよ。インパクトあったし」
広瀬が笑う。
「忘れてくれ」
俺が言うと、広瀬はおもむろに俺の右手を取った。
「わっ!な、何だ」
手を握られてしまった!何だ、これは一体。
「……あ」
俺の右手は、小刻みにカタカタと震えていた。気づかなかった。気づいたら、急に怖くなってきた。明日は本番なんだ。今までやってきたことが、実を結ぶか、徒労に終わるか。歯がカチカチと鳴り、心臓が早鐘を打つ。どうしよう。負けちゃったら、どうしよう。
「大丈夫だよ」
「え?」
多分俺は今、ものすごく情けない顔をしていたと思う。
広瀬は続けた。
「明日もし負けても、練習場に誰も来なくても、私だけは、そばにいてあげる」
「……広瀬」
「約束する。だから、そんな情けない顔しないでよ、キャプテン」
彼女の真っ直ぐな目が、俺の胸の中に突き刺さる。心配や不安や妄想がズバズバと駆逐されていく。
気が付くと、手の震えは止まっていた。
翌日、午後一時。
N市の陸上競技場で、俺たちは真っ赤なユニフォームに身を包んでベンチの前に集まっていた。
サッカー専用ではないので、フィールドとベンチの間にはトラック分の距離がある。結構遠い。声が届かない時のために、広瀬やこばっちとブロックサインの打合せをしておいて良かった。
俺はみんなを集めて、指を一本立てた。
「いいか、みんな。この一回戦は、ただの一試合じゃない。俺たちが何者で、これからどういう戦い方をするか、それをぶちかますための試合だ」
「ダークホースの立場でいくんじゃなかったのかよ」
菊地が言った。
「俺たちはそもそもダークホースだ。望んでも、望まなくても。だからこそ、勝つために必要なことをする」
俺は指を一本立てたまま、続けた。
「キックオフと同時に速攻をしかけ、開始一分で点を取る」
つづく
県大会一回戦まで40話はかかりすぎだと反省。




