第4話「早く言え」
新メンバーを探します。
広瀬夏希をマネージャーに誘った次の日の朝、俺は珍しく机に教科書を出して予習なんてものをしている。一限目は数学だ。かなりの苦手科目で一年時は赤点を取ったこともある。だから予習するのは良いことだ。うん、良いことだ。
「おはよ」
登校した広瀬がさらりとあいさつしてきた。愛想は控えめなクセに妙なところで律儀である。俺は「おす」と小さく答える。
昨夜、直登に再び電話して、今日から返事をもらう金曜夕方までに広瀬とどう接したらいいのか聞いてみた。
どんな顔をして会えばいいのか。
急に親しくなったわけでもないから馴れ馴れしくはできないし、かと言って無視は変だ。せめてクラスが違えば楽だったけど、クラスが違ったらそもそも誘えていないというパラドックス。
直登はしばらくクスクス笑った後、三つのアドバイスをくれた。
一、期日まで、他の女子は誘わないこと
二、返事を急かさないこと
三、妙に機嫌を取ったりしないこと
多分、言われなければ全部やっていたような気がする。背筋を冷たいものが通り過ぎた。俺はこの教えを”直登の三戒”と名付け、胸に刻み込んだ。
具体的な対処方法としては、とりあえず不用意な言動で印象を下げないために教室では予習していればいい、という結論に至った。勉強に集中していれば気をつかわれて話しかけられることも無いからだ。おまけに成績も上がる。一石二鳥。完璧なプランだ。
だが俺は一つ大事なことを忘れていた。
「珍しいね、あんたが予習するなんて」
普段予習なんてしたことが無い俺が、朝の授業前から教科書を広げている。隣人の広瀬にかっこうの話題を提供してしまっていたのだ。勉強が普段からの積み重ねが大事っていうのはこのことか。いや、きっと違う。軌道修正をはかれ。対応せよ。
「数学苦手なんだよ。二年の一発目のテストから赤点は避けたい」
「そうなんだ」
広瀬は席に座ると、前の席の女子と喋り始めた。グッジョブ、名も知らぬ女子。そうやって一日中広瀬としゃべっててくれ。俺をプレッシャーから解放してくれ。
俺はひとまず安心して、教科書に書いてある練習問題に取り掛かった。色んな図形が書いてある。そういえばこの枠と線の組み合わせは、俺が戦術を考える時の図に似ている。ノートを取り出し、フィールドをおおまかに書き始める。小学生の頃からいつも思っていたことがある。
なぜDFは動かなければいいところから移動して、わざわざ敵にスペースを与えるのか。ヨーロッパリーグでも、移籍金が数十億の選手のドリブルを自分の給料で止められると本気で思っているのか知らないが、無謀にも突撃していって、あっさり抜かれてピンチを招くDFが多すぎる。どう考えても、ボールを取りに行くフリをしてサイドに追い込んで上げられても怖くないところに上げさせた方が合理的だ。どんなスーパースターも輝けるのはボールを持っている時だけだ。いかに無意味にボールを離させるか。彼らはプロなのにそんなことも考えないのだろうか。
書き終えたフィールドにゴールを書き足し、下敷きでゴールに向かって何本も斜めの線を引く。この線の中に、一見危なそうだが放っといても平気な角度があるはずだ。今はどれだか分からないし、計算方法も分からない。そもそもランダム要素が多く、同じ場面が二度と来ないサッカーにおいてこんな机上の論理がどこまで通用するのか。
「それ、予習なの?」
広瀬がいつの間にか前の女子との会話を終えていた。こちらをいぶかしげに見ている。前の席の女子とはあいさつ程度だったようだ。どう見ても、今書いていた妄想戦術図を見られている。日記やポエム帳を見られるような恥辱だ。
俺は耳が熱くなるのを感じながら、
「ちょっと、脱線しちゃって」
蚊の鳴くような声で答えた。恥ずかしい。早くごまかさなくては。広瀬と共通の話題、話題、話題。
「あ、そ、そういえばさ、J2に広瀬って選手いるの、知ってる?」
同じ名字のプロ選手の話題。唐突過ぎてさらに恥ずかしい。でも突き進むしかない。言った言葉は取り消せないのだ。
「……その選手がどうかした?」
「いや、その、すごくいい選手だって話なんだけど……いいや、忘れてくれ」
「どういうところが?」
あきらめて教科書に目を移そうとしたところ、広瀬が身を乗り出してきた。ふわりと髪が波うち、シャンプーのにおいがこちらまで届く。
俺はシャンプーの魔力に必死で抵抗しながら話し始めた。
「あの人がルーキーの年に、一回だけサンティ戦でこっちに来たことがあって、見に行ったんだ。最初は別の選手目当てだったんだけど、一発でファンになってさ」
広瀬はこちらをじっと見て黙って聞いている。俺は続けた。
「動きにムダが無いんだ。どこからボールが来て、どこに向かうか、全部分かってるみたいなプレーで、タッチも柔らかくて、速くて。すごく、何ていうか優雅というか。その試合も一点決めてたんだけど、そのゴールも右サイドから際どい角度で左隅にストンと収まるようなゴールでさ、でも全然バタバタしてなくて、スマートなんだ。かっこよかった。中学の時はよく真似してた。全然できなかったけど」
俺も目の前の格下選手を抜く細かいテクニックはそこそこ身につけたが、フィールド全体を見たり、ゲームの展開を読んで組み立てるなんて芸当はどれだけ練習しても身につかなかった。だからこそ、真似したかった。でもあれは簡単にできるものじゃない。しばらくして真似するのをやめた。
「だから、東京がJ2に落ちて移籍した時は信じられなかったね。あんないい選手手放すなんて。いくら予算があるにしても。どうせ地元の英雄残すために出したんだろうけど」
東京というチームには、生まれも育ちも東京で東京ユース出身の絶対的エースが中盤に君臨していた。もっとも、俺が見た限りでは広瀬選手が入団したくらいからピークは過ぎていたように思える。しかしスターという存在には、多少力が落ちても大目に見てもらえる猶予期間があるのだ。
「大阪はJ2でもあんまり強くなかったし、何で入ったのか分からないけど、間違いなく広瀬が入ってから強くなった。で、今年やっとJ1に上がれるとこだったのに」
スポーツ紙サイトで、広瀬春海選手が右膝十字靭帯を断裂したニュースを見たのが去年の秋。そして暮れの契約更改で戦力外通告。その後どうなったのかはただのファンである俺には分からない。
「J2で予算が削られてるのはしょうがないけど、リスクを負ってでも残すべき選手だった。ケガのせいで前線が厳しいなら、ポジション下げたって、あの視野の広さならまだやれる。もったいないよ」
大人の世界は俺には分からない。でも、何で子供でも分かる簡単なことが、大人に、プロに分からないのか。納得行かない。
ふと我に返った。
いかん、一人で熱くなってペラペラしゃべってしまった。こないだテレビで言ってたモテない男のパターン、「普段しゃべらないくせに、好きな分野だけいきなりハイテンションでしゃべる男」そのものじゃないか。
俺は恐る恐る広瀬の顔を見た。
広瀬は俺と目があった瞬間、下を向いて、最終的にそっぽを向いてしまった。
うん、引かれた。痛恨のミス。ごめん、直登。俺はお前の想定するダメな行動の、さらに上をいってしまったよ。
「その、に、広瀬選手は、どうすれば成功してたと思う?」
広瀬が言った。向こうを向いたまま。俺にはその広瀬の声が、いつもより弱々しく感じられた。自分の感受性に自信は無いけれど。
「そうだな。たらればは言い出したらキリがないけど、最初に入るチームを間違えたかな。センターで中心に据えてくれるチームなら、あんなに色んなポジションでいいように使われることもなかったし。大卒だから年齢的に早く試合に出た方がいいのは確かだから、結果論にしかならんけどさ。でも、J1にいれば代表に選ばれててもおかしくなかっったと思う」
運悪く、広瀬選手がJ2でバリバリやっていた頃、代表監督は2部リーグからは選ばないというポリシーの持ち主だった。巡り合わせが悪すぎた。
自分で話を振ったクセに、広瀬は何も答えなかった。俺は返事をあきらめて教科書をめくる。
「……ありがと」
確かに、広瀬がポツリとつぶやいた。顔は見えない。お礼?何で?
「え、何が」
「何でもない」
「何でもないってことは」
言いかけてやめた。小学生時代から女子と散々ケンカしてきた経験上、聞いても口を割らない状態に突入したと思われる。撤退だ。逃げるんじゃない。戦略的撤退だ。
「予習に戻りまーす」
「そうしてください」
バレないように広瀬の横顔を盗み見る。くどいようだが感受性に自信など無い。だがその整った横顔は、いつもより機嫌が良いように見えた。
一限目の数学が無事に終わった。予習の甲斐あって、当てられた問題にはしどろもどろにならずに答えることができた。答えが間違っていたことはこの際良しとする。
次の現国の用意をしつつ少々ぼんやりしようと思っていると、広瀬と反対側の隣、つまり廊下側の男子が俺をつついた。
「ん?」
「イケメンが呼んでるぞ」
入り口で直登が手を振っている。女子たちの間の空気が一瞬ピリつくのがわかる。男前の直登はファンが多く、一部のコアなファンからはいつもつるんでる俺が目の敵にされている。関西出身じゃなくても「知らんがな」としか言いようがない。
「おはよう、未散」
「おう。どした?」
「昨日言ってたスカウトの件、二人ほど候補が見つかったよ」
「本当か!」
すごい。さすが副キャプテンだ。
「そんなのどうやって見つけるんだ」
「女友達に何人か聞いてね。ほら、女子の方が噂は早いだろ」
「そ、そうか」
女友達。自分には縁の無い言葉。未知のソーシャルネットワーク。
「で、何部の誰?」
「今は時間が無いから、後でLINEでまとめて送るよ。ところで」
直登は教室の方をチラリと見て言った。
「広瀬さんとは、どうなんだい?」
まずい。本当のこと話したら怒られそうだ。でも直登相手に嘘を突き通せた試しがない。
「ちょっとだけしゃべり過ぎちゃったけど、何とかなった…と思う」
「ちょっとだけ、ねえ」
直登は小さくため息をついたが、それ以上何も言わなかった。
「未散、これは見た?」
直登が唐突に話題を変えて、スマホの画面を見せる。YouTubeだ。
「ユーチューブがどうした」
「こないだの、君のフリーキックがアップされてる」
「マジでか!」
俺は直登のスマホを奪い取り、再生ボタンを押す。確かにこないだの試合。俺と直登が映っている。我ながら、まあまあのキックだった。
「すげーな。俺、世界デビューしちゃった」
「まだアクセスは十五回だけどね」
「世界十五ヶ国の方々が一回ずつアクセスしたかもしれないじゃないか」
「この動画、もしかしたら使えるかもしれない」
俺の抗議を華麗にスルーして、直登は言った。
「どうやってだよ。それ見せて、こいつと一緒にサッカーしてみないか、とか?」
「その気持ち悪い誘い方はともかく、アピールにはなると思うよ」
ピンと来ない。自分が誰かの目標や憧れの対象になるなんて、想像もつかない。
「とりあえず、次の休み時間にLINEで情報送るから」
直登が自分のクラスに戻っていった。候補ってどんなやつだろう。楽しみなような、怖いような。そもそも人見知りだしな、俺。話せるかな。
二限目の休み時間、直登からLINEが入った。
金原史緒2-A。元バレー部。ヒザをケガしてレギュラーを失い、リベロ転向を支持されるも拒否。その後退部し、現在は無所属。
梶野至2-E。元バスケ部。監督とソリが合わず、サボりがちになり進級と同時に退部。同じく無所属。
おお、バレー部とバスケ部。これは高さと俊敏性が期待できる。あとは、あんまり怖いやつじゃない、話せば分かるやつだといいけど。A組は冬馬がいたし、E組は菊池がいたな。間入ってもらおうかな。冬馬は無理か。あいつを一枚かませると怒らせて全部台無しにしそうだ。
昼休みまでの三、四限をソワソワしながら過ごし、待望のチャイム。よし、昼飯は後回しで早速。
「あのさ」
俺が席を立ったと同時に、広瀬が話しかけてきた。よりによって今日はよく話す日だ。
「ん?」
俺は少しかがんで聞く体勢になる。広瀬は俺の耳元に小さくささやいて、さっと立ち上がり風のように教室を出て行った。その言葉を聞いて俺は一瞬固まり、頭が理解するまで数秒かかった。
「今朝言ってた広瀬って選手、私の兄さん」
「……そういうことはもっと早く言えーっ!」
俺の叫びは彼女に届いただろうか。いや、そんなことより誰か時間を巻き戻してくれ。頼むから。
つづく
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