第37話「ただいま、キャプテン」
広瀬夏希、モデルデビュー。
帰りの電車の中で、未散はポスターモデルの話には触れてこなかった。わざと話を避けているのか、本当に興味が無いのか。顔を見ても本心がわからない。
暑さと疲れで勘が鈍ってるのかな。それとも、私の中にもカメラマンにスカウトされて舞い上がるようなミーハーな部分があるとか。
「広瀬」
「ん?」
隣に座る未散が、スマホを持って真剣な顔で見つめてきた。
「こんな時に悪いんだけど」
「うん」
「インターハイの結果、調べてもいいか?」
今度は私が彼の顔を見つめた。
「そんなこと、いちいち許可取らなくていいよ」
「いや、一緒にいるのに、黙ってスマホいじるのは失礼だと思って」
変なところに律儀なやつ。誰かに、デート中スマホいじってると嫌われるぞ、とか言われたのかな。別にそんなことでいちいち嫌わないけど。
未散はしばらく画面をタッチして、目を大きく見開いた。
「春瀬、どうだった?」
「……勝った。4-2で」
インターハイ決勝で春瀬高校が勝った。あの倉石の死神のような陰気な顔が頭に浮かんで、ちょっと不快な気分になる。
でも、ということは。
「つまり私たちは、日本一のチームを倒さないと全国へは行けないってこと?」
「そういうことになるな」
未散はスマホをポケットにしまい、しばらく考えこんだ。私としては、スマホをいじられることよりも、こうやって黙って一人で考え込まれることの方が寂しい。紗良ちゃんと違って、私相手じゃ難しい話をしてもムダだと思われてるみたいで。
「考えようによっては、良かったかもしれん」
未散がポツリと言った。
「何で?日本一になったチームが、同じ県にいるんだよ。良いわけないじゃない」
「日本一になったことは、決勝戦一試合の結果だ。決勝戦まで勝ち残った時点で強いことに変わりはない。もし準優勝だったとしても、それで勝ちやすくなるわけじゃないし」
「それはそうだけど」
「それに」
未散は続けた。
「もし春瀬が今日負けてたら、優勝できなかったことを反省して、少しチームをいじって、秋の県大会に臨むかもしれない。それだと、どんなチームに仕上げてくるか予測がつかない。でも優勝した。つまり」
「つまり?」
未散はフフン、と笑った。サッカーの話をしている時だけ見せる不遜な笑顔。
「勝負事の鉄則だ。勝ってる時は変えるな。春瀬は今のチームをベースに、大きく変えずに熟成をはかるはずだ。つまり今のチームにしぼって、対策と準備ができる」
そんなにうまく行くかな。でもノリノリで語ってるし、水を差すこともないか。
地元の駅に着いてしまった。まだ時間は五時前だけど、お金もないし、デートはここで終了。デートというには、あまりにもムードもへったくれもない、友達と遊びに行っただけみたいな休日だったけど。
それでも退屈だったかと聞かれれば、そんなことは絶対にない一日。
一つ心残りは、カメラマンの尾藤さんが声をかけてくる直前に、未散が私に何か言いかけたこと。あれは、何だったんだろう。
二人で停留所のベンチに腰掛けて、バスを待つ。同じ停留所だけど路線が違うのだ。
「未散」
「ん?」
「モデルの話、どう思う?」
未散はしばらく黙って、やがて口を開いた。
「そもそもあの人、本物のカメラマンなのか?」
「そう言われると、何とも言えないけど。帰って姉さんに聞いてみる。こういう業界に詳しいから」
「行ってみたら、AVの撮影でしたって展開だったら最悪だぞ」
「そんなこと考えてたの?スケベ」
「実際にそういう事件もある」
口調が硬い。私が聞きたいのは、そういうことじゃなくて。
「そういう、アドバイスじゃなくてさ。未散がどう思うか聞かせて」
私は再び尋ねる。
「もし私が引き受けて、ポスターになって駅に貼り出されたりしたら、どう思う?」
「……どうって言われても」
未散は小さな声でつぶやいた。
「広瀬はまだ未成年だから、家族と相談して、最終的には本人が決めることだ」
「答えになってない」
「……すまん」
「謝らないでよ」
私はキャップを取って、もう一度かぶり直す。そして大きく息を吐いた。
楽しい休日のラストが、こんな形で終わるのはいやだな。
二人ともしばらく黙って座っているうちに、大きなエンジン音を立ててバスが到着した。私が乗る路線だ。
「じゃあ、私行くね」
私は立ち上がって未散に言った。
「おう。今日は、ありがとな。楽しかった」
未散も立ち上がり、少し早口で答える。目を合わせたり、そらしたり。そのわかりやすい照れ方は、デートの別れとしては決して悪くないと思った。
「私も。誘ってくれてありがと」
「また、誘ってもいいか?」
さっきサッカーの話をしてた時とは別人のような、自信無さげな目。それをカバーするように、口をしっかり結んでいる。
私は笑いをこらえながら、
「県大会が終わったら、また考える」
と答えた。
「……それまでは、サッカーに集中しろと?」
「そういうことです」
「わかった」
あっさりと引き下がった。何だろう、ちょっと安心したけど、そんなもの?
「あのさ」
バスのドアが開いて、私は一歩踏み出し、振り返った。
「お、おう」
「カメラマンさんが声かける前、何言おうとしてたの?」
未散が絶句する。そして、
「それは、県大会が終わったら、また言う」
と言った。何だろう、最後にやり返された気分。
バスが走りだす。私は窓から、今日デートした男の子を振り返った。彼は一度小さく手を上げて、それから見えなくなるまで、ずっとその場を動かなかった。
「ただいま」
部屋に入ると、珍しく姉さんと秋穂が机の前に並んで座っている。一体何事だ。
「おかえりー。デートどうだった……って、あんたおでこ赤いよ」
姉さんが自分の額を指して言った。秋穂も「お早いおかえりで」とニヤニヤしながらこちらを振り返る。理由はないけど、あとでつねろう。
「ちょっとね。地面で顔とお腹打っちゃって」
「どんなデートなの、それ」
「それより、姉さんこそここで何やってるの?」
聞くと、姉さんは心外といった顔で、
「可愛い妹に勉強教えてあげてるの。夏希ちゃんに服貸してあげたみたいにね」
と言った。私は「ありがと」と一言答え、ポケットから名刺を取り出した。
「姉さん、この人知ってる?」
「ん?」
姉さんが名刺を受け取る。そして名前を見た途端、顔色が変わった。
「夏希ちゃん!これどこでもらったの?この人に会ったの?」
姉の勢いに押され、私はベッドにドスンと座り込んだ。そんな血相を変えるほど、関わっちゃやばい人だったのか。
「えっと……桜ノ宮の商店街で、声かけられた」
「何て?」
「サッカーの県大会のポスターの、モデルにならないかって」
「スカウト?夏希ちゃんすごい!」
秋穂がイスから立ち上がって跳びはねる。
「で、何て返事したの?」
姉さんが聞く。あまり見ない真剣な顔だ。
「何も返事してないよ。一方的に名刺渡してきて、一週間以内に名刺の番号に返事くれって」
「待ってて!ちょっと待っててよ!」
言って、慌ただしく部屋を出て行った。残された私と秋穂が顔を見合わせる。あの反応は尋常じゃない。でも、そんなに悪い理由でもなさそうだ。
姉さんはあっという間に戻ってきた。ファッション雑誌を持っている。
「これ、これ見て。この子すごい売れてるモデルなんだけど、カメラマンのところ」
姉さんが指さすグラビアページを、秋穂とのぞきこむ。
『カメラ 尾藤清治』
「……有名な人なの?」
聞いた私の両肩を、姉さんはグワシッとつかんだ。
「尾藤さんはね、ポートレート写真の第一人者で、一流のモデルが頼んだって簡単には撮ってもらえないすごい人なの!悪いことは言わないから、引き受けなさい!」
「そんなこと言われても」
第一人者。そんなすごい人には見えなかったけど。
「ねえねえ、夏希ちゃん。そのカメラマンて、この人?」
秋穂がスマホの画面を私に向ける。確かに商店街で会った人だ。
「その人」
「おおー」
秋穂はパパッとスマホを何度かタッチした。
「あ、この尾藤さんて人、もともとY県生まれだって。地元に愛着があってちょくちょく撮影旅行に来てるみたい」
「へー」
とりあえず、名前をかたった偽物ではなさそうだ。
私は興奮する姉さんを何とかなだめ、台所に避難する。そして晩ご飯の準備をしているお母さんに、ことの次第を説明した。
お母さんは特に驚いた様子もなく、シレッと言った。
「へー、すごいじゃない。あんたは母さん似だからね、いつかそういう話が来ると思ってた」
「そこ、笑うとこ?」
私はイスに腰を下ろす。
「藤谷君は何て?」
お母さんは私の切り返しには動じず、ズバッと核心をついてきた。
「何で一番最初に聞くのが、み……藤谷君のことなの?」
「あんたが迷ってる原因だろうから。あの子の反応が気になる?」
そう、なのかな。自分でもわからない。
「別にそういうわけじゃないけど。人前に出たり、目立つのイヤだし」
お母さんは一つため息をついた。
「あんた昔からそうだもんねー。せっかく美人に産んであげたのに」
「外見は選べないし、性格だから仕方ない」
「そもそも、そのポスターってどれくらいの期間、どんな場所で貼り出されるの?」
「知らない」
「男子の大会?女子の大会?」
「聞いてない」
お母さんは火を止めて振り返った。
「まだ何も分かってないうちから、スターになった時の心配なんてするんじゃないの。悩むんなら、そういう細かいところをきちんと聞いて、どういうポスターになるのか、ちゃんと聞いてからにしなさい。あとは藤谷君と、サッカー部のみんなにも相談すること。あんたは未成年なんだから、そのカメラマンと会う時は私か光冬が付き添うし、不安ならハルを呼びつけてもいい。もしやると決めたら、学校に相談して、それから動き出せばいいの。まずは一つ一つ片付けなさい」
ビシバシと言い放ち、再びコンロの火をつける。私はガタッと音を立てて立ち上がる。
「ありがとう。だいぶスッキリした」
「そ。じゃあ、スッキリついでにお手伝いして」
「それはまた、別の話」
大げさなため息をつく母を尻目に、私はスマホを取り出し台所を後にした。
もう夕方なのに、玄関から外に出ると相変わらずモワッとした空気が顔に張り付いてくる。私はある番号にタッチした。
四回目のコールで、向こうが電話口に出る。
「もしもし、どした?」
未散の声が届く。今日会ったばかりだけど、電話で話すのは久しぶりだ。ちょっと新鮮。
「あ、うん。今日のスカウトのことで、話したいんだけど」
言って、私はお母さんに言われた内容を自分の言葉に直して伝えた。
未散は黙って聞いていたけど、
「そっか。えらいな、広瀬は。ちゃんと色々考えてて。さっきは突き放すような言い方して、悪かった」
と、しおらしく謝ってきた。
お母さんの受け売りをそのまま言っただけなのに。罪悪感でチクチク胸が痛む。
「いいって。気にしてない」
「俺もかなりびっくりしたし、何て言っていいかわからなかった」
「うん。それは私も一緒」
「俺の率直な意見を、言っていいか?」
未散は言った。
「ど、どうぞ」
どうしよう。妙に緊張する。
「まずキャプテンとしての意見だが、俺は県大会にはあくまでダークホースとして臨みたいと思ってる。そのためには、あまり大会前に注目を集めるようなことはしたくないってのが本音だ」
「うん」
「でも、部員たちはみんな喜ぶと思うし、もしかしたら部が注目されて自信やモチベーションにつながるかもしれない。それはその時になってみないとわからない部分だ」
「その辺はよくわからないけど、プラスになる可能性もあるってこと?」
「そうだ」
未散は一度電話口から離れたのか、遠くで咳払いをする音が聞こえた。
「それで、その、もう一つは、キャプテンとしてじゃなくて、俺個人の意見なんだが」
「う、うん」
さっきの倍緊張してきた。何て言う気だろう。
私は、何て言ってほしい?
「俺個人としては……えっと、これがきっかけで芸能界に入ったり、サッカー部のマネージャーやめちゃったりして、その」
未散が口ごもる。私の心臓の鼓動も段々早くなる。電話口から、言葉が続いた。
「広瀬が、違う世界の、人、みたいになっちゃったら、イ、イヤだなって思う」
ところどころ詰まりながら、それでもはっきりと彼は私に気持ちを伝えた。多分電話の向こうで、真っ赤な顔をしているんだろう。想像して笑いがこみあげてくる。笑っちゃ悪いか。
「それは大丈夫。芸能界は、日本中から綺麗な人が集まる世界なんだから、そんなに簡単に入れないって。姉さん見て厳しさ知ってるし。マネージャーもやめないよ。やめる理由にならない」
「そ、そうだな。また心配症って言われるな」
「そこまでは言わないよ」
私の胸の辺りに、ほのかに温かい感覚が広がっていく。
「広瀬は、どうなんだ?やりたいのか?」
「私は」
私は、どうなんだろう。
「ごめん。まだわからない」
「そっか。とりあえず明日の練習で、休憩時間にでも一度みんなに話してくれよ」
「わかった」
答えて、私も一度大きく深呼吸する。
「未散」
「ん?」
「ありがと。ちゃんと言ってくれて」
「お、おう。じゃあ、明日な」
「うん。明日」
電話を切って、部屋に戻る。手が汗ばんでネチャネチャしてる。
こういう電話の時は、一人部屋が欲しいと心底思う。
「おかえりー。藤谷先輩とのラ"ヴ"コール終わったの?」
わざわざ"ヴ"の発音を強調して、秋穂がニヤニヤ笑う。姉さんはもういなかった。
「ラ"ヴ"コールじゃないし、未散はあんたの先輩でもないでしょ」
私も"ヴ"を強調して、妹の脇腹を軽くつねる。
「やあーん、夏希ちゃんのえっち」
「気持ち悪い声出すな」
私は姉さんに借りた服から部屋着に着替え、ベッドに寝転んだ。未散はちゃんと気持ちを伝えてくれたのに、私は何も言えなかった。
ずるいな、私は。
翌日、休憩時間にスカウトの件を部員みんなに伝えた。
「すげーっ!広瀬先輩、モデルデビューですか?」
「知ってた!俺は先輩がそれくらいのレベルだと知ってた!」
「イイイイイイイヤッホウ!」
「夏希ちゃん、サインちょうだい!」
いつも冷静な紗良ちゃんまで舞い上がっている。彼女にこんなミーハーな一面があったなんて、意外だ。
「あの、落ち着いて。まだやると決めたわけじゃないし、他に候補がいるかもしれないから」
まだ詳細は何も分かってない、ということを一生懸命説明するけど、誰も聞いてない。話す順番を間違えたかな。
腕組みをして黙って聞いていた菊地君が、口を開いた。
「広瀬は、何で桜ノ宮なんて行ってたんだよ」
みんなの視線が私に集まる。まったく、余計なことを。
「……コロッケとピザがおいしい店があるって聞いて」
「ふーん。誰と」
「友達と」
「ほー」
菊地君がちらりと未散に視線を送る。頼れるキャプテンは、一人みんなに背中を向けてスパイクの裏の土を取っていた。話題に無関心を装っている様子が逆にわざとらしい。大丈夫かな。
「えらい静かですな、藤谷さん」
芦尾が露骨に怪しんでいる。キャプテン、どうする?
「実は」
未散はスパイクを置いて、みんなの方に向き直った。まさか、全部吐くつもり?
「昨日、広瀬から事前に相談を受けてた」
確かに嘘はついてない。
「何て答えたんだ?」
菊地君がうながす。
「大会前に、注目されるようなことは望ましくないと」
未散が言うと、部員たち、特に1年のみんなからブーイングが鳴り響いた。
「キャプテン、器ちっちぇー」
「そんな理由でダメなんて、広瀬先輩がかわいそうですよ!」
「それはイヤッホウではないですね」
散々な言われようだ。ちょっと申し訳ない気もする。でもこれで、昨日のデートの話は遠ざかった。さすがキャプテン、なかなか悪知恵が働く。
「だが俺も、鬼ではない」
未散が続ける。
「うちの生徒だって極力バレないようにして、貼り出される期間も短めにするように交渉する。これなら、初戦を静かに迎えられるはずだ」
みんな、わかったようなわからないような顔でひそひそと話している。
伊崎君が立ち上がった。
「キャプテン!つまり広瀬先輩を、正体不明の謎の美少女にするってことですね!」
「そ、そうだ。ざっくり言うとな」
「それ、かっこいいッス。何かドキドキしてきました」
私が口をはさむスキも無く、男子だけで盛り上がっている。勝手なやつらだな、もう。
「トモダチとの休日に、とんだ副産物が付いてきたね」
茂谷君が笑いながら言った。トモダチ、の言い方がいやみったらしい。
彼だけは、昨日私と未散がデートしたのを知っている。意外と口は固いみたいなので心配はしてないけど、こうやってからかうのが趣味だからタチが悪い。
「君もポスターモデルになれるくらいイケメンだけど、髪型が野球部だからね」
私が彼の坊主頭を見て言い返すと、周りの後輩たちが笑った。前は茂谷君には気をつかってか、そんな光景は無かったけど、特にムッとはしていないところを見ると、少しは丸くなったのかもしれない。
「ちょっと、みんな聞いて」
私はみんなの前に行き、ざわついている雰囲気を静めて言った。
「えっと、みんなはこの話、賛成なの?」
みんなが顔を見合わせ、口々に「賛成!」「当たり前!」と再び騒ぎ出す。そんな光景を見て、少しホッとする。未散は、また背を向けてスパイクの手入れを再開している。
「ねえ」
私は未散の横にあるパイプイスに腰掛け、言った。
「ん?」
顔も見ないで返事をする。態度が悪いけど、今日のところは見逃してあげよう。
「質問で返すのは無しね。未散は、ポスターのモデルの話、結局賛成?」
「さっき言ったぞ」
「キャプテンとしてじゃなくて」
未散はスパイクをいじる手を止めて、言った。
「八割方、反対だ」
「あとの二割は?」
聞くと、彼は私の顔をチラッと見て、慌てて目をそらした。
何を今さら照れることが。
「どんなポスターになるか、見てみたい」
「……そ、そうなんだ」
どうしてだろう。今度は私が照れている。そして私の中にあったモヤモヤとした気持ちが、いつのまにか晴れていくのを感じた。
そもそも尾藤さんが桜ノ宮商店街にいたのは、県庁に勤める幼なじみの頼みで、広報に載せる写真を撮りに来ていたという話だった。一流モデルでも簡単に撮ってもらえない人に広報の写真を撮らせるとは、一体どんな幼なじみなんだろう。
それはともかく、そこからのツテで地元愛の強い尾藤さんに県大会のポスター写真を依頼する、という話になったらしい。普通、写真を使ったポスターは全国大会からで、県大会ではあまり見たことがない。多分今年限りのイベントみたいなものなのかも。
数日後、両親を交えて尾藤さんと会い、「やります」と返事をした。そこから先は、私本人が不在と言ってもいいような状況で、話がトントン拍子に進んでいった。
公立の学校だし、あまりいい顔をしないかな、と思っていた校長先生も、「うちの生徒が大会の顔になる!」と大喜びだった。「私の名前は大会初戦まで伏せていてほしい」と頼んだ時に少しガッカリしていたほどだ。どうも他校の校長に自慢したかったみたい。
八月が終わり、九月一日。
通常は今日から二学期だけど、今日は日曜日なので、登校は明日から。
私とお母さん、そして姉さんは県庁所在地まで電車で出て、一番栄えている街の撮影スタジオにやって来ていた。
テレビで見たことがある写真スタジオはもっと大きかったけど、思ったよりこじんまりしている。
全方位を白で囲まれた撮影スペースに、脚が付いた四角い照明に、銀色や黒の傘。尾藤さんだけではなく、若い男の人や女の人も四、五人忙しく動いている。いかにも大人の職場だ。
私は今からここで撮影されるんだ。ちょっと緊張してきたかも。
「やあ、どうも。お久しぶりです、お母様」
「こんにちは。今日は娘をよろしくお願いします」
尾藤さんは腰の低い態度で、お母さんと握手をし、次に隣の姉さんを見た。
「君が、お姉さんの光冬さん?話は聞いてるよ。世界中を旅してるんだって?」
「は、はひっ!そ、その通りです。先日は、マツピツに行って参りました」
こんなに緊張している姉さんは生まれて初めて見る。私は思わずお母さんと顔を見合わせた。だめだ、笑ってしまう。
「お、今日はご機嫌みたいだね、夏希ちゃん。じゃ、早速撮ろう。あっちに衣装があるから着替えて、それからメイクしてもらってね」
「はい」
衣装。モト高の制服じゃないのは分かってたけど、じゃあどこの制服なんだろう。ちょっと楽しみ。
「初めまして。私、スタイリストの岩成文。あなたが広瀬夏希ちゃんね」
黒のパンツスーツに身を包んだ、私がイメージするいかにもな大人の女性。裏方の仕事の人なのに、すごく綺麗だ。
「はい、初めまして。広瀬夏希です。今日はよろしくお願いします」
ペコリと頭を下げて顔を上げると、岩成さんは一瞬で私の真横に移動した。素早い。
「結構身長あるんだねー。百七十ある?」
私の横に立って、少し見上げる。
「いえ、百六十五です」
「いいねいいね。それくらいあると、何着ても似合うんだよね。脚長いし」
「ど、どうも」
「本当は色々着せてあげたいんだけどね、今日はこれ一本」
そう言って岩成さんは私に衣装を手渡した。私は両手で自分の目の前に広げる。白い長袖の制服。そして紺色の大きなエリ。
「……セーラー服だ」
「そう!セーラー服こそ青春の象徴!実際はほとんどの強豪校がブレザーだとしても気にしない!大事なのはイメージなの」
妙に力説している。スタイリストとしての哲学を感じる。
とりあえず控室で私服から着替え、改めてみんなの前に登場する。長袖のセーラー服に、短めの紺のスカート。そして紺のハイソックス。
姿見で見た時は、見慣れないせいか恥ずかしかったけど、どうかな。
「おお!いいねえ、いいねえ、その感じ。ザ・青春って感じだよ」
助手らしき男の人たちが持ち上げてくれる。こうやってモデルさんを乗せていくんだろう、とは頭では分かっているけど、どうしよう。
すごく気分がいい。
「いいじゃない、夏希。母さんの若い頃思い出すわー」
お母さんが私のセーラー服姿を見て遠い目をする。
「お母さんの高校、セーラー服だったの?」
「ううん。ブレザー」
「何それ」
ムダな会話をしてしまった。姉さんも助手の人たちにチヤホヤされて、さっきから上機嫌だ。いつのまにか脱がされてなきゃいいけど。
「あ、青い」
さっきまで真っ白だった撮影場所は、青いシートで覆われていた。尾藤さんが笑う。
「僕はポスターの場合、ほとんど外で撮らないんだ。後でCGを背景にする
「CGですか」
そういえば、DVDで映画を見た時、特典映像のメイキングでこんな青い背景を見たことがある。
オネエっぽいメイクの男性に「綺麗な肌ねー。私、失業しちゃうっ」と言われながら撮影用のメイクをしてもらい、青い背景の前に立つ。
少し離れた場所で、お母さんと姉さんが拳を握って口をパクパクしている。「ファイト」って言ってるのかな。何をどう戦えばいいのかわからないけど、私はとりあえず弱々しい笑顔を返した。やばい、緊張してる。
「ほい、夏希ちゃん」
尾藤さんが掛け声とともに、ボールを私に投げた。
「わっ」
反射的に受け取って見ると、それは先日、未散が部室で雑誌を見ながら「欲しい」と言っていた最新デザインのボールだった。
「これ、新しいやつですね」
「お、さすが現役マネージャー。型落ちのボールじゃかっこつかないからね。じゃ、まずポーズ色々とってみようか」
ようやく撮影がスタートした。
撮影が終わり、家に帰った時にはすでに夜八時になっていた。お父さんは今日も帰りが遅い。というわけで、
「おっそーい!遅い遅い遅い!受験生一人で留守番させて連絡も無いってどういうこと?」
秋穂が大変ご立腹だった。
台所にはカップラーメンを食べた形跡が残っている。何てわびしい光景。
何とか三人で秋穂のご機嫌を取り、ようやくリビングで落ち着いた時、秋穂がニヤニヤして言った。
「それでー、夏希ちゃん。本格的にスカウトされちゃったりした?」
「んーまあね」
撮影が終わった後、尾藤さんは私を呼び止めて言った。
「君にやる気があれば、だけど、モデルの仕事真剣にやってみない?僕はあちこちの雑誌に顔がきくし」
……正直に白状すると、私もただの女子高生だ。モデルにスカウトされて自尊心がくすぐられないこともない。むしろ嬉しかった。でも。
「あ」
私は時計を見て、慌てて立ち上がる。
「ちょっと、出かけてくる」
「今からどこ行くの。遅いのに」
「友達のところ。すぐ帰る」
私がお母さんに答えると、
「藤谷先輩によろしくー」
と秋穂が手を振った。その頭をペシンと叩いて、私は家を出た。
夜になっても夏は夏だ。相変わらず蒸し暑い。それでも自転車で風を切って走っていると、少し空気が違うのがわかる。私は前カゴに入れた手土産をチラッと見る。
尾藤さんは、モデルの仕事は今回限り、と断った私にも特に腹を立てることはなかった。
「残念だよ。かなりの素材なのに」
「ありがとうございます。プロにそう言われると、調子に乗りそうです」
「乗っていいのに、若いんだから。撮影が苦痛だった?」
私は慌てて首を振った。
「そんなことありません!みなさんいい人でしたし。でも、待っててくれる人がいるんです。私が帰ってくるのを」
「んー」
尾藤さんは何か思い出すように上を見た。
「ああ、彼か。クライフターンの。くー、うらやましいねえ」
「別に、付き合ってるわけじゃないですけど。約束したんです」
「そうか」
尾藤さんはそれだけ言って、
「君の学校はバイト禁止みたいだから、お金は渡せないんだけど、何か欲しいものある?ここにあるものなら、メイク道具でも、何でもいいよ。記念にあげる」
と私に提案した。
「いいんですか?それじゃあ」
私は即座に報酬を決定した。
もう見慣れた未散のアパートだけど、夜は光の当たり方が変わって、顔が違う。
少し新鮮な気分で、私は電話をかけた。一コールでつながる。
「広瀬か」
「うん。私」
「撮影終わったのか?」
「うん。さっきね。今、アパートの駐車場にいる」
「何だと?」
ドタドタと音がして、玄関のドアが開く。私を発見した未散は、不思議なものでも見るような目で、階段を走って降りてきた。
「何かあったのか?わざわざ自転車で来るなんて」
「これ」
私はカゴから布の袋に入った手土産を取り出す。
撮影に使った、サッカーボール。私が尾藤さんからもらった今日の報酬。
「おお、これ、こないだ出たばっかりの新しいやつじゃないか!」
「あげる」
手渡すと、未散は素直に受け取り、胸にサッと抱えた。
「本当か?後で冗談でしたって言っても返さないぞ」
子供か。
「言わないって。撮影に使った小道具で、記念にって。欲しがってたでしょ?」
「そうだけど、いいのか?お前の記念だろ」
「いいってば」
私が強めに言うと、それ以上彼は食い下がらなかった。
「でも、何でわざわざ今晩来たんだ?どうせ明日学校で会うのに」
未散は言った。確かにそうだ。でも。
「今日のうちに、ちゃんと帰って来たかったから」
言うと、未散は少し考えて、
「……そっか」
とだけ答えた。
「ただいま、キャプテン」
「お、おう。おかえり、チーフマネージャー」
街灯の薄暗い光でも、未散が赤くなっているのがわかる。こうなるのが分かって言ってるんだから、私の業も深い。
未散はほっぺをポリポリとかきながら、
「その、さ、誘われたりしなかったのか?プロのモデルに、とか」
と言った。
「誘われたよ。でも、断った」
「……良かったのか?女子にとっては、夢みたいな話だと思うけど」
「うん。思ったより楽しかったけど、一日限りのお客さんだからチヤホヤしてくれたんだと思う」
それは後から気づいたことで、その時は多分舞い上がっていたけど。
「冷静だな。それで、どんなポスターになったんだ?」
「それは見てのお楽しみ。できるのは二週間後ぐらいだって」
「じらすなあ」
正直言って、私にもはっきりとはわからない。どの写真がどんな風に使われたのか。
帰り道、自転車をこぎながら空っぽになったカゴを見て、私は心と体が満たされていくのを感じていた。
二週間後。
午後の練習はそこそこにして、私たちは部室で落ち着かない時間を過ごしていた。
今日は県大会の組み合わせ抽選会。
初戦の相手、そして同じ山にどの強豪と当たるかが決まる運命の日。
未散はキャプテンとして、県の文化センターに行っている。顧問の毛利先生と、なぜか江波先生も一緒だ。毛利先生が、人口密度の多い街でパニックを起こす危険があるということらしい。色々大変な人だ。
「ねえ、茂谷君」
私は自然体でパイプイスに座っている、未散の幼なじみに聞いた。
「何?」
「未散って、クジ運いい方?」
「うーん」
茂谷君はあごに手を当ててうなった。
「普段は悪い方だけど、ここ一番で強運て感じかな」
「今日はここ一番の日だよね?じゃあ大丈夫かな」
近くで座っていた紗良ちゃんが、
「夏希ちゃん。クジは毎回確率がリセットされるから、普段クジ運がいいかどうかは今日の結果には関係ないんだよ」
と極めて冷静に言った。
「それはわかるけど!気になってそんな風に割り切れないの」
何でこんなに遅いんだろう。もう帰ってきていい頃なのに。
「あ、キャプテンだ!」
伊崎君が大きな声で叫んで、部室を飛び出した。他の一年たちも後に続く。
「伊崎!痛いって!引っ張るな!」
筒状に丸めた紙を小脇に抱え、未散が伊崎君たちに引きずられて到着する。
「おせーよ、今まで何してたんだよ」
菊地君がストレートに苦情をぶつける。
「しょうがないだろ。司会の段取りが最悪だったんだ。全然進まなくて」
「そんなことはいいから、早く結果教えて!初戦どこと?」
私が聞くと、未散はもったいぶった顔で丸めた紙をテーブルの上にスルスルと広げ始めた。部員たちが取り囲む。
「まず君たちには、悪い知らせと良い知らせがあることをお伝えしなくてはならない。どっちを先に聞く?」
「良い知らせー!」
伊崎君が元気よく言った。言うと思った。
「わかった。まず良い知らせは、シードの春瀬が反対側の山に入った」
未散が指さす先を見て、部員たちの「おおー」という声が部室に響く。私も少し安心する。
「そして悪い知らせは、シードの桜律が同じ山だ。しかも準々決勝で当たる位置」
今度は「ええー」とブーイングが起こる。確かに春瀬と桜律が同じ山でつぶしあってくれればそれが一番良かったけど、とりあえず最悪は免れたと思う。
茂谷君が言ってた「ここ一番で強運」てこのことかな。
「で、初戦どこなんだよ?」
冬馬が苛立たしげに言った。相変わらず短気なヤツ。
「初戦は、誠友高校だ」
未散が言うと、部室にどよめきが起こった。何だろう。
「そこ、強いの?それとも何か因縁があるとか」
私が聞くと、菊地君がニヤリと笑って言った。
「春のインハイ予選の、一回戦で負けた相手だよ。俺は出られずに見てるだけだったから、めちゃくちゃ悔しかったぜ」
「おお、リベンジぜよ!」
芦尾が気合を込めて言った。高知出身じゃなかったはずだけど。何のつもりだろう。
冬馬は初戦の相手を聞いて、「ふーん」と余裕の顔でイスの背もたれに寄りかかった。すでに勝てると踏んでいるのかな。
「キャプテン、そのもう一つの、何ですか?」
黒須君が、壁に立てかけてあるもう一本の丸めた紙を見て言った。未散はそれを手に取ると、チラッと私を見た。まさか。
「帰りにさ、県の職員の人が各校一枚ずつくれたんだ」
そう言って、スルスルと筒を広げる。
「ちょ、未散、待って!」
私の静止もむなしく、未散は紙を縱方向に広げて高く掲げた。組み合わせ抽選の結果よりもひときわ大きな歓声が部室に、いや部室を飛び出す勢いで鳴り響く。
私がモデルになった、県大会のポスター。撮影後にノートパソコンで大体のレイアウトを見せてもらってはいたけど、ちゃんとした完成品を見るのは私も初めてだ。
「広瀬先輩、めっっっっちゃくちゃ可愛いッス!」
「セーラー服だ!先輩コスプレしたんですか?」
「イヤッホウ!イヤッホウ!イイイイイイイヤッホウウウウウ!」
ポスターの中の私は、長袖のセーラー服を着て、ポニーテールで、少し修正も入ってまるで別人みたいに見える。ボールを胸に抱えていて、満面の笑みとはいかなかったけど、スタッフの人たちが一生懸命笑わそうとしてくれた結果、こらえきれずに笑い出した瞬間だ。
何かもう、ぎこちなくてわざとらしくて、穴があったら入りたいとはこのことだ。これが二ヶ月間、県内のいたるところに貼り出されるなんて考えたくない。圧倒的な後悔に、ボールでなく頭を抱える。
「なかなか自信に満ちたコピーだね」
ポスターを見た茂谷君が、モデルの私自身には触れず、添えられているキャッチコピーに言及する。気をつかっているのか、何なのか。
「すべては、この笑顔のために、とは相当な上から目線ですな、チーマネ殿」
芦尾もニヤニヤ笑っている。憎たらしい。
「私が考えたんじゃない!それに撮影の時はまだコピー決まってなかったの!」
確かにその通りだ。これじゃまるで、この私の笑顔が見たければ勝て、と言ってるみたい。自信家と言われても反論できない。
「何言ってるんですか、芦尾先輩!最高のモチベーションじゃないですか!この笑顔のためなら脚が折れても走りますよ!」
伊崎君、何ていい子。今日から優しくしてあげよう。
私は横目で、さりげなく未散の様子を伺う。無言のまま広げたポスターを見つめている。
「黙ってないで、何か言ってよ」
恥ずかしさもあって、つま先で未散のすねを軽く蹴る。
「痛いな、すねを蹴るな。えーと、その、あれだ」
顔をそらして、一つ咳払いをし、小声で言った。
「か……わいく写ってると、思う」
「……あ、ありがと」
今度は私が顔をそらした。何でこんな時だけ、そんなこと言うの。誰も聞いてないよね、今の。
……一人だけ、目が合った人物がいた。
茂谷君がさわやかに親指を立てている。この男、油断ならない。
まだまだ騒ぎが収まらない中、早速駅に貼りだされたこのポスターを見て、「俺のヨメ、はっけーん!」と叫ぶ変人がいたことなど、この時の私には知るよしもなかった。
つづく
たぶんしなくていい名前の由来解説
岩成文……ペトラ・フラナリー
誠友高校……マルセイユ