第36話「今日って、デートなんだよね?」
初デート!
駅前の大時計前。
待ち合わせ時間は十時半。しかし俺の腕時計も背後の大時計も、十時ジャストを指している。
遅刻が怖くて三十分前に着いてしまったなんて、広瀬にバレたらカッコ悪い。すでに真夏日の日差しがジリジリと降り注いできており、こんな屋根のないエリアを待ち合わせ場所に選んだ自分を責めたくなる。
俺はもう一度自分の服装を見直す。
昨日、夜になってから「そういえば何着て行こう」とやっと気づいた俺は、慌てて直登に電話してアドバイスを求めた。
「あのさ、明日ちょっと出かけたいと思うんだけど、服について相談したくて」
直登に電話するのは久しぶりだ。それでも距離感はいつも変わらない。
直登は「ほほう」と一言返し、
「やっと広瀬さんを誘ったのか。遅いくらいだ」
と、全てを察してしまった。コーチに鍛えられてから、さらに読みが鋭くなっている。そんなところまで読まなくていい。
「そういうことはいいから、頼むよ。今さらお前ほどイケメンにはなれないけど、一緒に歩いて恥ずかしくない程度には仕上げたいんだ」
「未散も素材は悪くないよ」
「気休めはいらない」
あれこれ直登と話してから、一旦電話を切る。とりあえず、家にある服を色々着てみて、姿見の前で写メを撮り、直登にLINEで送る。そしてアリかナシかの判定をもらうというシステムだ。まず無難に白いTシャツとジーンズの組み合わせ。
『ナシ Tシャツがヨレヨレ。ジーンズもハゲハゲ。ファッション以前の問題』
厳しい。もっと優しい言い方ができないのか。その後も、
『ナシ 上下同じ色で合わせるのはパジャマで外に出るのと同じ』
『ナシ 夏にそんなカッチリした服着てたら暑苦しい』
『ナシ 待ち合わせ場所にこんなヤツがいたら帰るレベル』
と、本当に親友なのかと疑いたくなるほど辛辣な寸評が次々に届く。俺はもう一度電話をかける。
「おい、もうちょっと優しい表現は無いのか!どんどん自信喪失するじゃないか!」
「その服のどこに自信を持っていたのか不思議だよ。待ってろ、今からいくつか見つくろって持っていく」
そう言って、三十分後に直登は本当に自分の服をいくつか持ってきてくれた。普段結構めんどくさがりなくせに、変なところでマメなヤツだ。
そして選んだのが、袖が短くて細い白Tシャツに水色のボタン付きシャツ。水色シャツをTシャツの上から羽織って涼しげにという話だが、このクソ暑いのに重ね着して涼しいわけがないと思う。
紺の七分丈ズボン (直登はパンツと言っていたが、ズボンはズボンだ) も持って来ており、「脚の長さが違うよ、コノヤロウ」と抗議してみたが、はいてみたら奇跡的にくるぶし丈のおしゃれなズボンになってしまった。屈辱的な結果だが、怒ったところで脚が伸びるわけでもないのでありがたく借りることにした。
最後に、靴を裸足ではいているように見える靴下、という謎の商品も一足もらった。足の下半分だけにはく、足袋のような物体である。ファッション界の人たちは外からダサく見えないようにするためなら、どんな珍妙なものでも発明するガッツがあるようだ。そのスピリットだけは見習いたい。
そして今朝、目クソ、寝ぐせ、鼻毛の厳重なチェックを駅のトイレで終えた後、待ち合わせ場所に立っている。
日曜の駅前なのでそれなりに人はいる。自分が珍しく服装に気をつかって出てくると、通りすがりの男たちの服装も気になってしまう。この世にはまだまだ俺の知らない世界があるのだ。
時計を見ると、十時十分。約束の時間までまだ二十分もある。ムダが嫌いな広瀬は、多分ジャストに来そうだ。俺はぼんやりと物思いに沈んだ。
「藤谷さんが好きです」
有璃栖の言葉が頭の中をグルグル回っている。何でだろう。今まで、人生でモテたことなど一度も無かったのに。過去に彼女が欲しいと人並みに思って努力した時は、全くうまくいかなかった。それなのに、広瀬を好きだと自覚している今に限って、別の二人に好意を持たれてしまった。しかも二人とも結構可愛い。一体どういうことだ。神様はやはりゲス野郎だ。俺を追い込んで上からニヤニヤ見てるんだ。
有璃栖からはメールによる続報も特に無く、俺からも何て言っていいかわからず連絡していない。そもそもあれは交際の申し込みなのかどうかもわからない。真っ直ぐな子だから、何も考えずにただ言っただけ、ということも考えられる。
それに、伊崎だ。あいつが有璃栖を好きなのはよくわかっているので、何とかしてやりたいとは思っていたが、本人の雑な性格もあってうまくいっていない。それでも、ただ迷惑がったり警戒していた時期に比べればかなりほぐれてきた方なのに。その矢先にこれだ。もし伊崎にバレたら、あいつはショックで部をやめてしまうかもしれない。それだけは避けたい。何としても、秘密にしなくては。
車のクラクションが鳴り、ハッと顔を上げる。ロータリーに、軽自動車がトロトロと停車した。
「降りなくていいって!」
聞き覚えのある声がした。まだ時間は早い。でも、間違いなくあの声は広瀬だ。俺は車の側に歩いて行った。
「どうもー、あなたが藤谷君?」
運転席から降りてきたのは、日に焼けた顔にくっきりとした顔立ちの、背の高い美人。ウェーブのかかった茶色い髪が何となくエロい。すねのあたりまである長さのざっくりしたワンピースを着ているが、どうも日本の商品とは思えない。世界のあちこちを旅している人という話だから、どこかの民族衣装だろうか。
「は、はい。藤谷ですが」
チラッと助手席を見ると、広瀬夏希と見られる人物が頭を抱えて座っている。
「初めまして、夏希の姉の広瀬光冬です。会いたかったよー、藤谷君」
言って、俺の手を握ってぶんぶんと上下に振る。結構力が強い。
「は、初めまして。藤谷未散です。えっと、妹さんにはいつもお世話に」
「何言ってるのー。ずっと家でゴロゴロしてたこの子を、外に引っ張りだしてくれた恩人なんだよ、君は」
「いや、それは大げさかと」
何か知らんがいい匂いがする。首からジャラジャラ下げてるのも、どこかの民族のものだろうか。そういえばこの姉さんは、合宿で広瀬に白ビキニを着せてくれた人だ。むしろこの人こそ恩人じゃないか。
「姉さん、いい加減にして」
助手席からうんざりしたような声とともに、広瀬がドアを開けて降りてきた。
俺はその姿に釘付けになった。
黒地に白抜きの英語が書かれたTシャツはかなり丈が長く、袖が太い。子供が大人の服を着ているようにさえ見える。腰にはピンクの長袖シャツが袖でしばって巻いてある。あれは着るのか、着ないのか。どっちなんだ。
ジーンズ地の短パンからは長くて綺麗な素足が伸びていて、改めて彼女のスタイルの良さを強調していた。そして今日は、野球帽のようなキャップをかぶっている。以前から密かに思っていたが、女の子がかぶるキャップというのは、なぜだかすごく良い。それが好きな子ならなおさらだ。
「いいじゃない、ちょっとぐらいあいさつしたって。送ってあげたんだから」
「それは感謝してるけど。余計なこと言わないで」
仲が良いのか悪いのかわからないが、女同士であけすけに何でも言い合っている光景は、男同士よりも遠慮がなくてキツい。ちょっと面白いけど。
光冬さんは颯爽と運転席に乗り込み、パワーウインドウを開けた。
「じゃーねー、藤谷君。あ、夏希。今晩帰らない展開になっても、私がお父さんにうまく言っとくから、安心して」
「ちゃんと帰るし、そんな展開は無い!」
広瀬が真っ赤になって姉さんにかみつき、それをかわすように車が走り去った。笑い声も同時に遠ざかっていく。何とも騒がしい人だ。
「まったく、あの人は」
不機嫌にため息をついて、広瀬がくるりとこちらを向く。
「よ、よう。おはよう」
とても間抜けなあいさつだ。気の利いた言葉の一つも出てこない。
「気にしなくていいからね。姉さんが言ったこと」
「え?あ、ああ」
広瀬は俺の服装をちらりと見て、
「何か、こじゃれてて未散っぽくない」
とクールに言い放った。鋭い。
「俺だって、やる時はやるんだぜ」
「本当に自分の服?」
追求が厳しい。なぜさらっと流せないのか、この女は。
俺は観念した。
「靴以外は、直登に借りた。自分のは全部ダメだって言われて」
言うと、
「やっぱり。絶対買わなそうだもんね、そういう服。でも、結構似合ってると思うよ。ちょっとびっくりした」
そう言って広瀬は笑った。この笑顔が見られただけでも、直登にボロカス言われた甲斐があったというものだ。
「そうか。ありがとう。正直ホッとした」
次に広瀬は俺の足元を見る。
「その靴、あんまり見たことないスニーカー」
唯一直登から合格点をもらえたのがこの靴で、アメリカにいる父さんから気まぐれに送られてきた青いスニーカーだ。直登も欲しがっていた。
「父さんが、アメリカからたまに送ってくるんだ。お前は放っといたらずっと同じ靴はいてるだろうって」
「へー、いいな。絶対恵まれてるよ」
俺の部屋に来た時も、いい暮らしし過ぎ、と同じような文句を言っていた。俺から見れば、広瀬家の温かい情のある雰囲気の方がよっぽどうらやましいのだけど。
広瀬はトン、と一歩後ろに下がった。
「それで、何かご感想は?」
俺はまじまじと上から下まで広瀬のスタイルを見る。全体にスレンダーなのに、部分部分は女性らしいカーブを描いていて、しかも今日はショートパンツで素足が全開だ。これは勇気を出してデートに誘った俺に、神様がくれたプレゼントだ。ゲス野郎なんて言ってごめんなさい。
「正直な感想、言っていいか?」
「いいよ」
「ファッション雑誌から出てきたかと思った」
広瀬はしばらく沈黙した後、肩を揺らして笑い出した。
「よくそんなキザなこと言えるね」
「だから言っていいかって聞いたじゃないか」
俺の抗議も虚しく、電車に乗るまで広瀬はずっとクスクス笑い続けていた。本当は、雑誌のモデルさんなんかよりずっと綺麗で可愛い、なんて思ったことは内緒だ。さすがに引いてしまうだろうから。
電車に三十分ほど揺られ、俺たちは桜ノ宮という駅で降りた。普通でも急行でも必ず止まる大きい駅。でも用事がないので降りたことはない。色々調べた結果、この駅前商店街に行くことに決めたのだ。
日曜の割には降りる乗客は少ない。みな暑さを避けて家でおとなしくしているのだろうか。それとも俺たちが出遅れたか。
改札を出て目当ての商店街へ向かう。ホームで電車を待っている時からそうだけど、やはりすれ違う男は一度は広瀬を見ていく。今日は脚もジロジロと見られている。俺はその度にイライラしてしまうのだが、当の本人は知らん顔だ。美人には美人の慣れというものがあるのか。
「最初どこ行くの?」
広瀬が駅で仕入れた「桜ノ宮センター街マップ」を広げる。
「精肉店でコロッケが食べたい」
「いきなり?お昼入らなくなるよ」
「そう思って朝は抜いてきた」
「準備のいいことで」
広瀬はあきれたように笑ってマップを折りたたんだ。
桜ノ宮センター街は、高いアーケード付きの商店街で、道幅もかなり広かった。店舗にはのぼりが山ほど立っていて、やたら活気がある。地元のシャッター街とはえらい違いだ。マップによると、全長八百メートルの通りがメインで、途中三本の小さな通りが交差している。奥の方にはイベント広場もあって、毎週何かしらの催しが行われているようだ。
「ねえ、君、すっげーかわいいんだけど、今いいかな?」
商店街に踏み込んですぐ、茶色い前髪が顔全体にかかっている男が広瀬に声をかけてきた。隣の俺が視界に入らないのは前髪のせいじゃなさそうだ。
広瀬は全くの無表情で、「連れがいるんで」と俺の腕をつかんで歩き出した。
「それでもいいからさあ、ねえ」
男は食い下がる。俺がいてもいいとはどういうことだ。
「あの」
俺は歩みを止めて振り返り、男を見据えた。
「今日デートなんで、邪魔しないでください」
ひざの震えを何とか押さえて言いきる。男は白けたような顔で俺を上から下まで眺め回し、「背伸びしてもいいことねえぞ」と言い捨てて去っていった。
「何、あの捨てゼリフ!あったま来た!」
広瀬が男を追い変えようとするのを、俺は腕をつかんで何とか引き止める。
「やめろ!せっかく立ち去ってくれたのに、わざわざ追いかけてどうする」
「未散は悔しくないの?!バカにされたのに」
広瀬がキッとした目で俺を見る。
「俺が悔しいと思うとしたら、あんなヤツに休日を台無しにされた時だけだ」
「……わかった」
口をとがらせたまま、広瀬はおとなしくなった。あれくらいの捨てゼリフでキレるとは、広瀬の沸点も相当低いな。
「腕、もう行かないから」
「え」
広瀬の腕をつかんだままだったことに気づき、俺は慌てて手を離す。Tシャツから伸びる白くて細い腕を直接つかんでしまっていた。何で女の子は、細いのに柔らかいんだろう。手も子供みたいに小さいじゃないか。
何となく二人で黙ってしまい、広瀬が沈黙を破るように口を開く。
「あの、さ。今日」
「お、おう」
「今日って、デートなんだよね?」
「え」
広瀬の顔は、いつものからかうような顔でも、自信に満ちた顔でもなく、ただまっすぐに俺を見つめていた。これはつまり、普段あまり見せない広瀬の女の子としての顔、というものなのか。急に心臓が忙しく動き出す。
「その、つもりだったけど」
頼むから、デートだなんて思わなかったって、帰るとか言わないでくれ。多分二度と立ち直れないから。
しかし広瀬は、
「良かった」
と言った。
「良かった、とは?」
「私も、そのつもりだったから」
え?え?何て?混乱する俺を尻目に、広瀬は一人でスッキリしたような表情になっている。
「それは、つまり、その」
「肉屋さん、あれじゃない?」
広瀬が指した先に、牛のシルエットが描かれた看板が見える。まず間違いなく肉屋だ。今の話はおしまいのようだ。残念なような、ホッとしたような。俺は気づかれないように息をついた。
「きっとそうだ。行ってみよう」
歩き出す俺に並んで、広瀬は俺にだけ聞こえる声でボソッと言った。
「一つ、言ってないことがあるんだけど」
「うん。何?」
「今日の私の服、全部姉さんからの借り物」
「え」
思わず広瀬を見ると、気まずそうに目をそらした。
「別に黙っててもよかったのに」
俺が言うと、
「だんだん、だましてるみたいに思えてきたから」
と歯切れ悪く答えた。女子はそんなことを気にするのか、いや、女子というか、広瀬は。
「広瀬なら、何でも着こなすから気にしなくていいって。俺のズボ……パンツなんて、本当は直登の七分丈だし」
ああ、言わなくてもいいのに。バカな俺。それでも広瀬にはウケた。大いにウケた。
「何で七分丈がくるぶしに来てるの?奇跡!奇跡が起きてる!」
「笑い過ぎだ」
肉屋に着いてコロッケを注文している間も、ずっとクスクス笑っていた。今日の広瀬のツボは俺の服装をからかうことみたいだ。根性の悪いツボだ、まったく。
揚げたての神戸牛入りコロッケに満足した後は、タピオカという謎のドリンクを飲んだり、俺たちの小遣いでも買えそうな服屋をのぞいたり、経験の乏しい俺が空想していた「ザ・デート」っぽいことを次々とこなしていった。
お昼はピザの職人大会三年連続世界第二位という、すごいけど惜しい人の店でピザを食べ、すでにお腹はパンパン。今ズボンを買ったら間違いなくワンサイズ大きいのを買ってしまいそうだ。
お腹一杯になったのは広瀬も同じようで、あちこちに用意されているベンチでひとまず休憩することにした。
「うー、食べ過ぎた。太ったら未散のせいだからね」
広瀬がお腹をさすりながら愚痴る。
「元が細いんだから、ちょっとくらい太っても大丈夫だ」
俺が軽い調子で言うと、広瀬は若干怖い目になった。
「そういうこと、女子に絶対言っちゃダメだからね。今は大目に見てあげるけど」
「肝に銘じます」
デートで体重の話は危険だ。でも「太る」と女の子の方から話を振ってきた時はどうすればいいのだ。そんな危険な話は最初から振らないで欲しい。話題を変えよう。
「しかし食べ歩きって言っても、胃袋の限界を考えるとそう何件も回れないな」
ついでにお金の限界もある。
「そうだね」
「あ、でもかき氷は行ける。あっちの通りにふわふわのかき氷の店がある」
「それ、私も食べたい」
「……もうちょっと休憩したらな」
数分二人でボーッとした後、早速かき氷のある喫茶店に向かう。アーケードがあると言っても暑さは変わらないし、きっと俺も広瀬もせっかちな性分なのだ。
『氷』と書かれたあの小さいのぼり旗を見つつ喫茶店に入る。
店内は昭和のレトロな雰囲気を残した作りで、渋くて結構好きなタイプだ。俺はお腹がまだこなれていないのでレモンシロップのみのシンプルなもの。広瀬は白玉とあんこ山盛りの宇治金時をシレッと注文していた。
「お腹一杯なのに、よく入るな」
「人の注文にごちゃごちゃ言わないの。あんこは別腹」
「さすがはおしるこ姫だ」
「うるさい」
あれこれとやりあっているうちに、かき氷が到着した。俺のレモンシロップは予想通りの味ではあったが、氷のふわふわ感は生まれて初めての感覚で、ちょっと感動を覚えた。特殊な機械で削ってるのかな。見てみたい。
「……広瀬?」
俺が頭痛と戦いながらシャクシャクと食べ進めているというのに、広瀬の方はあまり進んでいない。それでもあんこだけはしっかり食べ終えている。
「あんこしか食べないつもりか?」
「そんなことはしない。ちゃんと食べる」
「そうか、がんばれ」
俺は溶けかけた残りの氷を一気にかきこむ。酸っぱくて頭がキーンとする。でも気持ちいい。お腹の満腹感もなぜかスッキリしてしまった。
「普通、ちょっと手伝おうか、くらい言わない?」
広瀬がスプーンを持って恨みがましい目で俺を見ている。
「普通って言われても、何が普通かわからん」
俺が言い返すと、広瀬は声をひそめて言った。
「これ、予想より多かったの。ちょっと食べてよ」
金払ってるんだから、食べれなきゃ残せばいいのにと思ったが、それはイヤなんだろう。めんどくさい性格だ。抹茶味はあまり好きじゃないんだけどな。
俺はスプーンを広瀬のかき氷に差し出しかけて、ふと気づいた。これはつまり、間接キスではないか?どうしよう、緊張してきた。しかしここで拒否するのも、口をつけたのを嫌がる、という解釈をされかねない。ここは一つ、何も気づいてない風を装って、ささっと食べてしまおう。
「あ、未散。この辺、口つけてないから大丈夫だよ」
広瀬が親切に場所を指してくれる。
「……」
「何?お腹一杯?」
「いや、大丈夫。行ける行ける」
ホッとしたような残念なような気持ちで、俺は抹茶味のかき氷をシャクシャク口に運んだ。
甘いような、苦いような。
やっぱり抹茶味は苦手だ。
会計を済ませて店を出ると、モワッとした熱気が顔を襲う。店内との温度差がすごい。俺は財布の中身とも相談し、無料で涼める場所を求めてマップを開いた。
「あ」
ふと、イベントのお知らせに目を止めた。
「何か面白そうなのあった?」
広瀬が反対側からマップを覗き込む。俺はお知らせを指差した。
「これこれ。今日、奥のイベント広場にプロのフットサルチームが来るんだって。すげー、世界大会で優勝したポルトガル人も来るぞ」
自慢じゃないが、プロの外国人のプレーを間近で見たことなんて一度も無い。これは滅多にないチャンスだ。
広瀬はやれやれ、と言った感じでため息をついた。
「今日くらい、サッカー忘れようとか思わないの?」
「う」
背中を冷や汗が走る。朝の緊張感がすっかり無くなり、ついいつものノリでしゃべってしまった。これはデートなのに。
「いや、別にどうしてもってわけじゃ。外は暑いし、涼しいとこ行こう」
「いいよ、行っても」
広瀬は特に不機嫌になるでもなく、サラリと言った。
「……いいのか?」
「だって見たいんでしょ?私も、食べたり飲んだりはしばらくいいし」
「そうか、ありがとう!」
広瀬が子供を見るような目で俺を見ていたことなど知るよしもなく、俺は一人はしゃいでいた。
イベント広場は、フットサルコート一つなら楽々設置できるくらいのスペースで、すでに人だかりができていた。もう始まっているらしい。人混みをかき分けて何とか前方にまぎれこむ。
「広瀬、こっち空いてる」
「待って、早いよ」
広瀬が文句を言いながら追いついてくる。最前列ではないけど、これくらいなら全体が見える。
「さあ、みなさんお待ちかね!フットサル界のスーパースター、リッカルドォォォォォッ!」
この暑い中、さらに暑苦しさを増す司会者がマイクに向かって絶叫する。テレビで見たことある、確かローカルの若手芸人さんだ。
リカルドという選手は、いかにもラテン系といった眉毛の濃いクドい顔立ちの選手で、背はさほど高くないが体に厚みがある。あれくらい体格がないと世界では戦えないのだろうか。
登場と同時に、足の裏やヒールを器用に使ったパフォーマンスで観客を沸かせている。さすがは世界の人、大したもんだ。
その超絶技巧に感心しているうちに、司会者が再びマイクに向かって声を張り上げた。
「それでは本日のメェエエインイヴェントゥゥゥ!プロと対決しようのコーナーでーす!プロの五人と対決したい方、手を挙げてくだっすぁーい!」
最前列の小学生たちが元気よく手を挙げる。司会者は高学年の女の子と低学年の男の子を一人ずつ選び、周りをキョロキョロ見渡す。
しばらくウロウロと観客の前を歩きまわり、ふと俺たちの方に目を止めた。
「そこの可愛いお嬢さん!いかがですか?」
司会者が広瀬にマイクを向ける。またしても、俺は視界に入ってないようだ。
周りの観客が「おおー」と拍手する。イベントを盛り上げる側としては、ルックスのいい女の子を出したいという気持ちはわかる。でも、広瀬は出るかな。
「えっと……」
広瀬は口ごもって、次に俺の腕をグイッと引っ張った。
「彼と一緒なら、出ます」
「……え?」
拍手が一際大きくなる。無責任な野次も次々と聞こえてくる。
「彼氏がんばれー」
「よっ、色男」
「死ねばいいのに」
かなりひどいことも言われているが、俺はそれどころじゃない。こんな人前でさらし者になるなんて御免だ。
「このラッキーボーイ!さあ、彼女にこうまで言われて逃げるのかな?」
司会者が挑発するように俺にマイクを向ける。俺は広瀬に小声で、
「本気か?」
と聞いた。広瀬は黙ってうなずく。
「……分かりました。出ます」
「はあい、メンバー決定いたしましたっ!どうぞこちらへ」
拍手に送られて俺たちは小学生二人と合流する。二人は年相応に人見知りで、特に男の子は広瀬をじっと見て、笑顔で手を振られたら恥ずかしそうに女の子の後ろに隠れた。ませたガキだ。
司会者が俺たち一人ひとりに名前と年を聞いていく。小学生の二人は二年生の男の子と、六年生の女の子だった。
「二人は、どういう関係?」
司会者にマイクを向けられ、俺たちは顔を見合わせる。
「サッカー部の、キャプテンとマネージャーです」
広瀬が答えると、観客が再びどよめいた。
「おおう、王道ですね!青春ド真ん中!くーっ!いいですなあ」
やけに感情を込めて司会者がうなる。自分の青春時代を思い出しているのか。
キーパーはプロの人がやってくれることになり、俺たちは適当に散らばることにした。
「広瀬」
「ん?」
俺が声をかけると、広瀬は何食わぬ顔でこちらを向いた。
「何で出る気になったんだ?」
広瀬はニヤッと笑って、
「デートなんでしょ、今日は」
と、ポンと拳で俺の肩を叩いた。
「たまには、かっこいいとこ見せて」
ゲームは十分間。
予想通りというか、考えてみれば当たり前だが、プロのみなさんは華麗なテクニックを見せつつも、女の子二人と男の子にそれなりに華を持たせるという演出をほどこし、観客は大いに湧いた。
俺はというと、普段より一回り小さくて弾まない重いボールになかなか慣れることができずにいた。その上リカルドにわざと転ばされたりと、お笑い要員として選ばれた感もあり、特にこれといって活躍はできていない。広瀬は負けず嫌いな性格が顔を出し、ガンガンシュートを狙ってかなり目立っている。華があるとはああいうのを言うんだ。
「ねえ、あなた」
小六の方の女の子が俺をじっと見ている。
「何?」
「わざわざ出てきてその程度のプレーしかできないの?彼女の前でしょ」
小六なのにすでにカンに触る言い方をする。将来ロクな女にならないな。
「彼女じゃないよ、残念ながら」
俺が答えると、
「だったらなおさらがんばらなきゃ!何やってるの?」
怒られてしまった。しかしその通りだ。デートをOKしてもらえて何となくいい感じに過ごしていると言っても、つきあっているわけではない。そもそも告白すらしていないのだ。
残り時間は三分ほど。何とかしたい。
ボールが俺の足元に回ってくる。ようやく小さくて重いボールになじんできた。
「オイ、メニーノ(やあ、坊主)!」
リカルドがポルトガル語で何か言いながらにやにやして寄ってくる。また反則して転ばせる気か。俺は足元のボールを右に少しだけ大きく蹴りだし、取りに行こうと足を伸ばした。
「ジャポネス(へたくそ)!」
笑いながらリカルドが俺に体を寄せて通せんぼしてくる。俺は背中をドスンとあずけ、そのままクルリと反転した。
「メルダ(クソ)!」
ボールを持ち直し、背後にリカルドの怒声と圧力を感じながらゴールへ向かう。アウトサイドのパスで一旦男の子にあずけ、ゴール前に走る。
「出せ!」
男の子は足の裏で転がすようにパスを出した。俺はゴールに背中を向けてボールを受け取る。背後にはプロの日本人選手。
俺は振り向きざまに右足を大きく振りかぶり、自分の股下を転がして左から抜いた。
「おおっと、出ましたクライフターン!見事に抜きました!」
司会者が叫ぶ。意外とくわしい。
「ファーラ、セリオ(マジかよ)!」
リカルドの声がする。俺はボールを持ったままセンター方向へ切り込む。そしてシュートモーションに入る。
「調子乗んなよ、坊や」
別の日本人選手が立ちはだかった。俺はシュートをストップし、ボールを足の裏で止める。そして左へボールを転がして、軸足に当ててわざと前方にこぼした。その一瞬の空白に俺は小さい振りで右四十五度からシュートを放つ。
「ふっ!」
シュートを打った直後に、リカルドが俺に体当りする。
「ぐえっ」
俺は勢いに押されてひっくり返り、ボールがキーパーに弾かれた光景を見上げた。
ダメか。
そう思った時、弾かれてバウンドしたボールに誰かが飛び込んできた。
広瀬だ。
「決まったあああーっ!ダーイビングヘッドオオオ!」
叩き付けられたボールはキーパーの股を抜き、見事ゴールネットを揺らした。
大歓声と拍手がコートを包み、直後に試合終了のホイッスルが吹かれた。
「オイ、ラパス(やあ、少年)」
上半身を起こすと、毛深い大きな手が差し出された。リカルドだ。さっきは迫力があって怖かったが、今は気のいい兄ちゃんという感じだ。
俺は「オブリガード(ありがとう)」と、唯一知っているポルトガル語を駆使して、彼の手を握り立ち上がった。
「デナーダ(どういたしまして)」
リカルドは俺の背中をポンポンと叩き、
「フォイ、マウ。ヴォセ、エ、ジェーニオ(悪かったな。君は天才だ)」
と行って立ち去った。
何を言ったんだろう。
俺はゴール前に座り込んでいる広瀬のもとへ向かった。
「大丈夫か?」
わんぱく坊主のように帽子を反対にかぶった広瀬が、お腹とおでこを押さえてうなっている。
「お腹打ったあ。頭も痛い」
「フットサルでダイビングヘッドするやつが少ない理由を、身をもって知ったな」
「うん。固くて痛いから」
「立てるか?」
差し出した俺の手を取り、広瀬がふらふらと立ち上がる。
「何であんな無茶したんだよ」
「だって」
広瀬はしばらく口ごもり、
「未散が、ずっとプロにバカにされてたの見て悔しかったから、決めたくて」
とつぶやいた。俺は一瞬言葉を失う。同時に、胸の奥に温かい波がザワザワと押し寄せてくる。
「……そんなこと、気にしなくていいよ。遊びなんだから」
「うん。ごめん」
「でも良いゴールだった。よくコース狙えたな」
「うん。ありがと」
広瀬は歯を見せて笑った。
司会者から「君たちのおかげで盛り上がったよー、ありがとう」とお礼のクオカードを渡され、俺たちは近くのベンチで休むことにした。広瀬はまだあちこち痛そうだ。
午後になって日差しが落ち着いてきた。助かる。喫茶店に入ろうにも電車賃まで使ってしまう恐れがあるので、もらったクオカードでさっそくコンビニのアイスコーヒーを買った。
まだおでこをスリスリしている広瀬を横目に見る。コートに転倒している時に、広瀬がダイビングヘッドでこぼれ球に飛び込んできた。
その時俺は思ったのだ。ああ、やっぱり俺はこの子が大好きだと。
「広瀬」
「ん?」
広瀬がストローをくわえながらこちらを向いた。
「ちょっと、真面目な話があるんだけど」
「うん。何?」
俺の目はギラついていないかな。
のどが乾いてはりつきそうになる。
心臓がせわしなく動く。
「俺、俺は」
「うん」
「お、お前が」
広瀬がストローから口を離す。
「えっ、あ、ちょっと、未散?」
広瀬が戸惑ったように身を固くする。失敗か?いや、ここまで来たら行くしかない!
「あの、君たち、ちょっといいかな?」
真後ろから、男の人の声がした。全身から力が抜けていくのを感じる。不発だ。誰だ、一体。
振り返って見ると、Tシャツの上に黒いベストを着た男が立っていた。背が高く、年は三十代か。首からデカいレンズのついたカメラを下げている。
「ごめんね、いきなり。俺、こういう者なんだけど」
ベストの胸ポケットから名刺を取り出し、広瀬に渡す。
「……カメラマン?」
「そう。尾藤清治。フリーのカメラマンやってる」
広瀬は名刺と尾藤さんを、思いっきりうさんくさそうな目で見比べた。
「カメラマンの人が、何の用ですか?」
広瀬が聞くと、尾藤さんは熱を帯びた声で言った。
「今の試合見てたよ。君の最後のダイビングヘッド、感動したよ。あんなガッツのある女の子、今時なかなかいない!」
「はあ、それはどうも」
少し照れながら広瀬は言った。尾藤さんは俺にも顔を向け、
「その前の、君のクライフターンもなかなか良かったよ」
「ど、どうも」
見てたのか。今日俺たちに声をかけた大人で、初めて俺を視界に入れてくれた。
「それで、何の用ですか?」
広瀬が繰り返す。尾藤さんは広瀬に向き直り、驚くべきオファーを告げた。
「広瀬さん、だったね?君に、高校サッカーY県大会の、ポスターモデルを頼みたいんだ」
つづく
たぶんしなくていい名前の由来解説
尾藤清治……セシル・ビートン
リカルド……特になし




