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第32話「私、負けませんから」

広瀬夏希、ミニゲームに参加する。

合宿二日目。


食堂で朝食のおにぎりをもそもそと食べながら、俺は朝から元気な女子三名をぼんやりと眺めていた。

あの三人、いつの間にあんなに仲良くなったんだろう。有璃栖ありすはキッチンで広瀬とキャッキャ言いながら手伝いをしているし、こばっちも広瀬と話す時、いつもの敬語が外れることが増えている。昨日温泉で何かあったのかな。女子はよくわからない。


……温泉といえば。


露天風呂から上がりかけたものの、芦尾の人間ボウリングのせいで桶が壊れていないか気になって、一度見に戻った。その時突然竹壁の一部が開き、タオルを巻いた広瀬が目の前に立っていたのだ。


広瀬の濡れた髪も、タオルの上からでもわかった曲線も、頭にこびりついて離れない。


タオルが落ちた瞬間は、とてもとても残念ながら、何も覚えていない。見えないタイミングだった気もするし、俺の脳が過度の幸運を受け止めきれず一時停止していた可能性もある。


実に、実にもったいない。


当の広瀬はと言えば、俺のケツをバッグでしばいたことでスッキリしたのか、特に根に持っている気配もない。もっとも、竹の戸を勝手に開けたのは広瀬であって、俺はとばっちりを受けた側なのだから、許してもらうことなど何も無いのだ。


朝食を食べ終え、俺はこばっちと二人でみんなの前に立った。

「えーと、みんな聞いてくれ。戦術担当のこばっちから話がある」

わいわいダベっていた部員たちがちょっとずつ静まって、こばっちに注目する。こばっちは指し棒を持ったまま急に青くなり、俺の後ろに隠れた。

「こばっち。隠れちゃダメだ」

「ご、ごめんなさい。急にみんな見るから」

「そりゃ見るさ。ほら、行け」

「押さないでー」

俺はこばっちの背中を押して、二、三歩後ろに下がる。ほとんど泣き声だ。何かかわいそうになってきた。

「紗良ちゃん、がんばれ」

「小林さんならできます!」

広瀬と有璃栖も声援を送っている。


「え、えっと、あの、みなさん。おはようございます」

今さら?

こばっちが深々と頭を下げると、みんなもつられてあいさつした。

「今から、今日の戦術練習について説明します」

広瀬がキャスター付きのホワイトボードをコロコロと押してきた。

この合宿所の食堂はミーティングルームも兼ねていて、部屋のすみっこにこのホワイトボードがひっそりとたたずんでいた。団体競技のチームが多く利用するせいか、色とりどりの丸いマグネットが大量に常備してあるのがありがたい。


こばっちは黒マジックでおおまかにサッカーコートを書き、マグネットを十一個配置した。割りとオーソドックスな4-4-2だ。中盤は黒須を一人底に置いたダイヤモンド型。


「うちのフォーメーションは、基本的にはこの形です。でも何度シミュレーションしても、中盤の底で黒須君一人の負担が大きすぎるんです。序盤はいいですけど、どうしても終盤運動量が落ちる傾向があります」

「僕なら大丈夫です。最後まで走れます!」

黒須が立ち上がる。こばっちが一瞬びくっと固まる。

「黒須。気持ちは嬉しいけど、まだ続きがある」

俺が言うと、黒須は「すみません」と座り直した。


こばっちは一つ咳払いをして続ける。

「そこで、考えました。何もコートが長方形だからって、きっちりダイヤモンド型にしなくてもいいのではないかと」

言い、右MFのマグネットを後方に下げ、左MFのマグネットを高い位置に上げた。皆藤と菊地がピクリと反応する。こばっちは指し棒で左サイドを指す。

「こうやって、左肩上がりの平行四辺形のような、ちょっとゆがんだ中盤にします。これによって、右サイドの皆藤君が少し下がり、黒須君のフォローに回りやすくなります」

「あのうっ!」

皆藤が立ち上がった。再びこばっちがびくっと反応し、一歩後ずさる。

「は、はい、皆藤君」

「俺は、もう攻撃に参加できないのですか?」

いつもびっくりしたような目がさらに大きく開いている。ちょっと不安げだ。こばっちはホッと息をはいて、優しく笑った。

「大丈夫ですよ。トップ下から右サイドは基本的に藤谷君のエリアになりますけど、藤谷君が前線まで上がったり、逆に黒須君のところまで下がった時は皆藤君が上がって攻撃に参加して下さい。もちろん、右サイドバックの狩井君との連携ありきですけど」

「イヤッ……ホッ」

皆藤が安心したように座った。単なるポジション調整のつもりだったけど、みんな結構デリケートだ。伝え方に気をつけなければ。

でもそういうの、俺苦手なんだよな。現国のテストと実践は違う。とりあえず今はこばっちに任せといてよかった。彼女ははっきり物を言う方だけど、俺より人当たりがソフトだ。


「あのさ」

今度は菊地が声を上げた。戦術の話に口を出してくるとは珍しい。

「はい、菊地君。何でしょう」

「俺がさらにポジション上げるとなると、左サイドバックの銀次との距離が間延びしないか?」

「はい。ですので、銀次君も自然と高めの位置を取り続けることになります」

「そしたら今度、左サイドの深いところがガラ空きになるぜ?やべえだろ。ロングパス一本でピンチだ」

こばっちは困ったように後ろの俺を見た。菊地め、後で言おうとしてたところに一気に切り込んできやがった。

「菊地、それはそれでいいんだ」

俺は一歩前に出て言った。

「何がいいんだよ」

「だって、それだけ誰が見ても空いてたら、まずそこにボールが入るだろう?」

「入れられちゃダメじゃねーか」

「どこにボールが来るかが事前に分かってたら、準備ができる」

「そりゃ守りの準備はできるだろうけどよ、限度があるぜ」

「そうじゃない。攻撃の準備だ」

菊地が一瞬きょとんとした顔になる。

「どういうことだ?」

銀次が後を受けて聞いた。

「つまり、左サイドの深いところがガラ空きなら、まずそこにボールが入るだろうことは想定できる。そこをピンポイントに狙って、ボールを奪って一気にカウンターを仕掛ける」

しばらくの沈黙。菊地はじっとホワイトボードを見て、

「そう簡単に、うまく行くのか?」

「簡単には無理だ。ボールの質、角度、タイミング、入ってくる選手のタイプにも左右される」

「じゃ、どうすんだよ」

「ガラ空きの左サイドに受けるであろう攻撃パターンをすでにこばっちに割り出してもらってる。それを実行し、体が勝手に反応するまで繰り返す」

「何パターンだよ?」

菊地がいぶかしげな顔で聞いた。

「ざっと六十パターンです」

こばっちがさらりと答える。一気に食堂内がざわつきはじめた。

「無理」「多過ぎ」「ありえん」と否定的な言葉がとびかう。


「こばっち。その表現だと、六十パターンを一つずつ、全通り丸暗記するって感じになるぞ」

俺が耳打ちすると、彼女は慌てて手を振った。

「ち、違います!いえ、違いませんけど、そうじゃなくて!」

みんな、なかなか静まらない。こういう時、キャプテンは大きな声を出すのかな。苦手だなあ。でも、こばっちがパニック起こしかけてるし、いっちょがんばってみるか。俺は大きく息を吸い込んだ。

「おい、お前ら!まだ小林が話してんだから、静かにしろ!」

「ヒュイッ」

そしてむせ返った。俺より先に、銀次が大声を出していた。

おかげで食堂内のざわつきが一瞬で静まる。俺は声を発しないままノドが変になってしまった。

こばっちがなぜか一緒になってびっくりしていたが、やがて復活し、

「えっと、銀次君、ありがとう」

と頭を下げた。

「おお、続き頼むぜ」

銀次は鼻の頭をかいて、そっぽを向いた。


改めて、こばっちが続ける。

「言い方を変えますと、この合宿中、みっちりこの戦術練習をがんばれば、どんな攻撃パターンにも対応できる動きが身につく、ということです」

再び食堂内がどよめく。みんな乗ってくれるだろうか。今まではゴール前での動きを中心に、コースを開けてシュートを打たせるとか守備中心に色々やってきた。

やってみてシュートがなかなか入らなければ成果があるということになり、みんなも納得しやすかったように思う。しかし今回はボールを奪うだけでなく、最終的にカウンターが決まらなければ成果がわからない。そんな不確定な戦術練習にみんなついてきてくれるだろうか。ちょっと厳しいかな。


「しつもーん」

どよめきを霧散するように、伊崎が手をあげた。

「はい、伊崎君」

「ミニゲームの時間は、取ってくれるんですか?」

こばっちが俺を見る。

「もちろんやる。そこで練習の成果を確認したい」

俺は答えた。

「じゃ、俺は何でもいいです」

伊崎はケロリとして言った。

「何だよ、何でもいいって」

「だって、キャプテンは勝つために必要ないことはしないんでしょ?じゃあ、その練習やるしかないじゃないですか」

数秒の沈黙の後、小さなどよめきが起きた。何となくだが、さっきよりは前向きなどよめきに聞こえる。

「そうだな。とりあえず、やってみるか」

菊地がポツリとつぶやく。他のみんなも口々に「それもそうだ」「やるかー」などと言いながら立ち上がった。ナイスだ、伊崎。今日のミニゲームでいいパス出してやろう。


みんながぞろぞろと食堂を出て行く中。こばっちがパイプ椅子を引きずってきて、どすんと座り込む。今のミーティングでちょっと老けこんだかもしれない。

「こばっち、お疲れ」

俺のねぎらいの言葉に、彼女は恨みがましい視線で応えた。

「今度から藤谷君がやってくださいよー。私、人前で話すの苦手なんです」

「すぐ慣れるって」

「慣れません!すでに一日分働いた気分です」

広瀬と有璃栖も両サイドでこばっちをねぎらったり、からかったりしている。本当に仲良くなったな、たった一日で。


「それはそうと、未散」

広瀬が思い出したように俺を見た。

「ん?」

「昨日のミニゲームのチーム分けもそうだったけど、何で私たちに急に仕事振りだしたの?」

こばっちもうんうんとうなずく。やはり気になってたか。広瀬は勘がいいから、正直に言うしかない。

「お前の兄さんに、何でも一人でやろうとするなって言われたのが、理由の一つだな」

「他の理由は?」

間髪入れずに追求してくる。

コーチ、あなたの妹はとても面倒くさいです。

「もっと後に言おうと思ってたんだけど、試合中は俺もカーッとなったり、周りが見えなくなったりするから、選手みんなに目を配るのは正直厳しいかなと思って。もともとそれほど視野が広いタイプじゃないし。かと言って、毛利先生は、なあ」

四人の視線が食堂の奥のキッチンへ集まる。洗い場で、やたらと充実した顔をした毛利先生が食器をすすいでいる。サッカー部の顧問になってから、初めて役に立っているような気がする。


「というわけで、ベンチ入りが認められているマネージャー二名に、選手交代とかポジションの微調整とか、監督の仕事をしてもらおうかなと思ったんだ」

「私たちが監督?!」

二人が顔を見合わせ、同じことを言った。残念ながらハモりはしなかったが。

「有璃栖のとこは、一条さんが出てる時は交代とかどうしてるんだ?」

何か言いたげな二人を無視して聞くと、有璃栖はあごに手を置いて考えこんだ。

「どうでしょう。試合にもよりますが、基本的にはサブも含めてメンバーを固定していることが多いので、事前の打ち合わせ通りに監督が動くって感じです」

「ヘー」

「不測の事態が起きた時は、どうするの?」

こばっちが心配げに眉を下げて聞いた。

「その時は、一条先輩が直接指示を飛ばします。女子の試合は見に来る人が少ないので、声がよく通るんです」

有璃栖が珍しく冗談ぽく言った。

「それはうちも似たようなもんじゃない?多分学校の誰も期待してないし、誰も見に来ない」

広瀬が容赦なく口をはさむ。

「そんなことはない。少なくとも、知り合い十人くらいは期待してくれてる」

「声が通る人数で良かったね」

広瀬がニヤッと笑う。

キイイ、何か言い負かされたみたいで悔しい。


みんなで練習コートへ歩いている途中、広瀬が俺の練習着のすそを引っ張った。

「ん?」

振り返ると、何というか、何か言いたそうな、気まずそうな。何だろう。

「今日さ、午後からミニゲームやるんだよね?」

「午後っていうか、四時頃からを考えてる」

「時間は別にいいんだけど」

言って、広瀬はほっぺたをポリポリとかいた。これは何のしぐさだ。

「やっぱりメンバーってさ、いつも同じより、変わった方がいいわけだよね」

「それはそうだ。個人のクセを覚えちゃったら、そこにばっかり対応して初対面相手の実戦で役立たなくなる」

「なるほどなるほど」

何が言いたいんだろう。でも、確かにシャッフルしたとはいえ何度も同じメンバーでやっていると、クセを覚えてしまう。誰か、他に。

「広瀬、気が向いたらでいいけど、ちょっと出てみるか?」

「えっ」

一瞬、広瀬の顔がパッと明るくなったような気がした。でも一瞬だから見間違いかもしれない。日差しも強いし。

「別に無理にとは言わないけど。暑いし、マネージャーの仕事もあるだろうから」

俺が言うと、

「しょうがないなー。そこまで言うなら出てあげようかなー。特別だよー」

と、かみ合わない返事をよこした。どことなく棒読みっぽいが気のせいだろう。

「スパイクどうする?」

「有璃栖ちゃんの予備借りる。サイズ同じだし」

「そっか。芝が滑るかもしれないから、足気をつけてな」

「心配性」

「はいはい。悪かった。もう余計な心配しない」

「それはそれでちょっと」

「何だそりゃ」


視線を感じる。


顔を上げると、少し前を行く有璃栖と目があった。吊り目なだけに、真顔だと怒っているように見えてしまう。何もしてないのに、びびる。

「どした?」

「いえ、別に。お二人は、仲がいいんですね」

広瀬と顔を見合わせ、俺は慌てて目をそらした。思ってたより近い。

「お、同じクラスで、席も隣だからじゃないかな。なあ?」

この話題は素早く無難に終わらせたい。恥ずかしいし、気持ちがバレたら困る。気まずくなる。

腰抜けと笑いたければ笑えばいい。


しかし広瀬は特に表情を変えずに、

「でも私、反対側の隣の男子としゃべったことない」

とシレッとのたまった。この女はどうしてこう、思い通りに動いてくれないのだ。

「ふーん。そうですか」

何か言うかと思ったけど、それ以上何も言わず有璃栖はスタスタと前へ歩いて行った。

よくわからんが、助かった。


左サイドに誘い込んでカウンター、という極めて限定的な戦術練習は、昼食をはさんでほぼ丸一日やり続けることになった。ちなみに昼食は、管理人さんがお中元で大量にもらって余っていたそうめんを振る舞ってくれて、暑さで食欲が減退しつつある我々にはとてもありがたいツルツル感だった。やっぱり夏はそうめんだよな、うん。


時間も三時を過ぎると、みんな戦術練習に飽きてくる頃合いだ。ちょっと動きがダレている。そろそろ休憩挟んでミニゲームに移るか。


マイボトルで麦茶をあおっていると、近くに有璃栖がいることに気がついた。さっき何か言いかけたようだけど。

「悪いね、うちの戦術練習に付きあわせちゃって」

俺が言うと、有璃栖はボトルから口を離し、

「いえ、そんな。こちらが無理を言って参加させてもらってるんですから。それに、とても勉強になります」

と言って笑った。うーん、いい子だ。伊崎にはもったいないかもしれない。

「昨日のミニゲームで思ったんですけど、藤谷さんはあまりゴール前に出ないんですね」

「え。うーん、そうだな。俺結構、熱くなると周りが見えなくなっちゃうタイプだから、そうならないように意識して引いてるところはあるかな」

「そんなことないと思いますけど。うちでの練習試合で、私を使ったプレーした時なんて、後ろに目がついてたじゃないですか」

私を使ったプレー。ああ、追いかけてきた有璃栖の足に当ててスルーパス代わりに使ったやつか。

「あれは、多分後ろに来るだろうなっていうバクチが当たっただけだから」

「そうなんですか?」

有璃栖が目を見開く。

「そうだよ。でもさ、その、ちょっとは根に持ってたりする?」

「何がですか?」

「いやほら、わざと敵の足に当てて使うなんてプレー、結構屈辱的だったんじゃないかって」

「まさか」

有璃栖は笑った。

「試合中のことは、コートの外まで引きずらないことにしてるんです。それでいちいち恨んでいたら、キリがないですから」

「なるほど」

大人だなあ、1個年下なのに。


「未散」

広瀬がやってきた。すでにビブスを着て、有璃栖から借りたスパイクも装着済みだ。

「おう。結構やる気じゃないか」

「普通に準備してるだけです。チーム分けは、どうするの?」

「適当に決めといて」

「うわ。丸投げ」

「信頼の証と言ってほしいな」

「そういうセリフはもっと心を込めて言ってね」

さらりと受け流し、広瀬はタブレットをいじり始めた。ちらりと有璃栖を見る。何だろう。ちょっとだけ、不機嫌になったような。暑さのせいかな。

「あの!」

有璃栖が思いがけないボリュームの声を出した。

「わ、何?」

広瀬がタブレットを落っことしそうになる。

「昨日は、藤谷さんと同じチームでしたけど、今日は敵にしてください」

え。俺のパス、そんなに合わなかった?

「どうして?」

広瀬が聞いた。

「久しぶりに、戦ってみたいんです。藤谷さんと」

言って、有璃栖は不敵に笑った。


チーム分けは、ベースは昨日とほぼ同じで、有璃栖が冬馬チームに移って、広瀬が俺の側で伊崎とツートップ。伊崎は有璃栖がチームを移ったことにショックを受けていたようだが、広瀬と組むと知ってすぐご機嫌に戻った。現金なヤツだ。


広瀬が入ったことで一人はみ出た形の芦尾は、上半身裸になって頭にタオルをかぶり、『ぽっちゃりだっていいじゃない みつを』と書かれた扇子をパタパタ仰いでいる。女子がいるのにセクハラもいいところだが、文句も言わずにサブに引いてくれるのはありがたい。今日は大目に見よう。


ビブスを着た広瀬は練習で二、三度見たことがあるが、やはりスタイルがいいだけに絵になる。単なるミニゲームなのにしっかり14番を選ぶこだわりもあいつらしい。トントン、と何度か芝グラウンドを踏んでいる。確認しているのは、芝の状態か、足の具合か。


「広瀬」

俺は数歩近づいて小声で言った。

「ん?」

広瀬が振り向く。

「どんなパスほしい?」

「何でもいいよ。対応する」

ぬ。この自信家さんめ。何食わぬ顔で言いやがる。

「わかった。すっげー難しいの出してやる」

「うん。楽しみにしてる」

揺るぎないな、この娘。

俺はゴール前へのパスのイメージをあれこれ巡らせた。


ふと気づく。俺は、プレーヤーとしての広瀬をほとんど知らない。どんな選手だったんだろう。そう思うと、これが単なる練習のミニゲームとは思えなくなってしまった。


ゲーム中、意外にも広瀬は無難なプレーに終始していた。どちらかと言えば、トップのパートナーである伊崎を立てるような。実際そんな選手だったのかな。それとも、マネージャーやってるうちに変わったとか。


俺の足元にボールがおさまる。前線の広瀬も伊崎もしっかりマークされていて、俺の周りは手薄だ。俺は一旦、後ろの国分に下げて、前に走る。


国分はダイレクトで左の銀次に長めのパスを出す。狩井と競り合いながら、銀次が中央に折り返す。下がってきた広瀬が走りこむ俺にダイレクトに下げ、自分はゴール前に走りだす。センターバックの金原が広瀬を追う。コンビを組む照井が、同じく走りだした伊崎の動きにつられて、ポジションが中途半端になった。


今だ。


俺は広瀬から戻されたボールをキックフェイントで右に流して黒須をかわし、金原と照井のちょうど中間にやや浮き気味のパスを出した。キーパーの島も飛び出すのを迷う位置。


一瞬だった。


金原と照井の間をぬうように、広瀬が横に走ってボールに反応する。ゴールに背中を向けたまま、浮いたボールを振り向きざまに倒れ込みながら、右足で叩きつけるように蹴りつけた。

「おおっ」

バウンドしたボールは、丁度飛び出しかけた島の脇をすりぬけるように、ゴールへ転がっていった。芝に倒れこんだ広瀬が小さくガッツポーズを作る。

「広瀬先輩、かっちょいいー!」

「ありがと」

伊崎が広瀬を両手で立ち上がらせ、ハイタッチする。確かにかっちょよかった。シュートもうまいけど、その前の動きが速い。本当にブランクあるのかな。


スピードに置いていかれた金原と照井が呆然とつっ立っている。自信喪失してなきゃいいが。

「おい、広瀬、調子乗んなよ!次は絶対止めるからな!」

金原がギョロ目をさらに開いて言った。良かった、元気だ。

広瀬はフフン、と笑った。

「がんばってね。優勝目指すんなら、私くらい止められなきゃ」

「くっ」

ぐうの音も出ないとはこのことだ。金原はおとなしくゴール前に戻っていった。


「ナイスゴール」

俺はセンターサークルに戻る広瀬に右手を上げた。

「ナイスパス」

広瀬が右手を出してタッチした。たったそれだけのことなのに、俺の心臓は高鳴る。

「うまく合わせたな。簡単なボールじゃなかったのに」

「あそこはタテじゃなくて横に行くしかなかったから、未散なら浮かすかなと思って」

「何で浮かすと思ったんだ?」

聞くと、広瀬は笑った。

「だって、その方がFWが合わせやすいから。そういうパスを出してくれる10番でしょ」

絶句した俺を放って、広瀬はベンチに走ってこばっちとハイタッチしている。広瀬は、俺をそんな風に見ててくれたのか。


いかん、顔がゆるむ。


「はっ」

顔を上げると、有璃栖が無表情で俺を見ていた。今日も彼女は、なかなか思い切ったシュートを打てていない。

「一条先輩からも聞いてましたけど、広瀬さん、うまいですね」

有璃栖の視線が広瀬を追う。

「そ、そうだな。俺もあいつのプレーをしっかり見るのは初めてだ」

何だろう。また有璃栖のご機嫌が悪い気がする。やっぱり優秀な選手ほど負けず嫌いなんだな。

「私、負けませんから」

言って、有璃栖はくるりと振り向いて走っていった。


ゲームが再開する。

身長百五十九センチの冬馬は、自分より背の低い女子には比較的優しいという、くだらない基準を持っている。

そのせいなのか、今回チームメイトになった百五十七センチの有璃栖によく声をかけ、動きの指示やパスのリクエストをしているようだ。あいつにあんな面倒見のいい一面があったとは。いや、自分が点を取るのに役立ちそうだから使おうとか、そんなところかな。


やや下がり目の位置から有璃栖がドリブルで持ち上がる。同じチームには菊地、黒須という足元の技術のしっかりしたヤツらがいるので、一度ボールが渡ると奪うのはなかなか難しい。その二人に有璃栖を加えた三人で、ボールをまわしながら段々ゴールに近づいてくる。俺もかなり下がって守備に走る。


黒須に一旦ボールを預けて、有璃栖がゴール前に走る。俺はボールの動きを国分に任せて有璃栖をマークして並走した。冬馬は直登が見ているはずだ。


黒須は左サイドの菊地に長めのパスで展開する。菊地はドリブルで皆藤をかわし、左足でやや速めのクロスを中央に入れた。腰くらいの高さのボールが俺の後ろを通る。中央で立ち止まっていた有璃栖が右足を振りぬいた。


「ゲフッ」


ダイレクトで合わされたボールは、チェックに向かった俺の腹にぶち当たり、跳ね返ったボールがゴール前に転がっていく。冬馬が直登と競り合いながらボールを拾い、有璃栖にパス。有璃栖は難なくインサイドキックでゴールを沈めた。

俺は腹を押さえて芝に座り込んだ。痛い。気持ち悪い。あれ、狙ったのか?


「大丈夫ですか?」

ゴールを決めて上機嫌の有璃栖が、座り込む俺をのぞきこんだ。

「大丈夫じゃないよ。わざとやったな、あれ」

「練習試合で、私を使ったお返しです」

有璃栖が得意気に笑う。

「試合が終わったら、コートの外まで引きずらないって言ったじゃないか!」

俺が抗議すると、彼女はシレッと言った。

「コートの外では、です。今は中ですから」

「それは屁理屈って言うんだ!」

まったく、ひどい目にあった。しばらく芦尾と代わろう。

ベンチの芦尾を見る。

「もう!私のPCで勝手に変なサイト見ないでって言ったでしょ!」

こばっちに怒られていた。どんなサイト見てたんだろう。


今日の練習が終わった。ミニゲーム自体は楽しくやっているが、それと疲労は別物で、みんな部屋に戻ってドリンクを飲んだりゴロゴロしたりで夕飯までの時間をつぶしている。俺は先に汗を流したくて、今日は合宿所にある大浴場に行くことにした。


脱衣所に入ると、すでに先客が一人いた。部屋にいないのは誰だったかな。

洗い場では、一人の男が大量の泡を頭に乗せてワシャワシャと洗髪していた。そばには『TSUBAKI』と書かれたシャンプー。

家からボトル一本持ってきたのか。そんなヤツはうちのサッカー部には一人しかいない。

「菊地か?」

「おお、藤谷か」

長髪のドリブラーは髪の手入れにも余念が無いらしい。


頭と体を洗ってさっぱりしたところで、大きな湯船にどぼんとつかる。極楽だ。家のユニットバスではこの感覚は味わえない。

少し離れたところに菊地もつかっている。

菊地とはサッカー部に入った時からの付き合いだが、二人で遊びに行ったり、飯を食ったりといったことは一度もない。最近なぜかやわらいだとはいえ、理由なく俺につっかかることが多かったのも理由だ。それは俺がキャプテンになる前からそうだった。


「菊地ー」

「あー?」

気の抜けた返事だ。俺と二人きりは菊地にとっても珍しい状況のはずなのに、あまり緊張していないのかな。

「子安先輩と、その後どうなったんだ?」

「……何でそんなこと聞くんだよ」

菊地の声のトーンが変わる。聞いちゃいけなかったか。

「いやさ、プールトレの時、何度かアタックしてたなと思って」

「彼氏いるってさ」

「そ、そうなのか。残念だ」

知ってしまったか!

「そうだな。でも、あきらめたわけじゃないけどな」

「ほう」

好きな人に彼氏がいるって、あきらめるのに十分な理由だと思うけど。

「その彼氏ってのが男子水泳部の三年らしくてさ。色々聞きこんだら子安先輩が引退してから、ちょっとギクシャクしてるらしい。もうちょっと粘れるかもしれん」

彼氏がいるのをわかりつつ、ほどほどの距離感を保って粘るということか。すごいな。俺ならきっと、嫉妬で頭がどうにかなってしまうだろう。


「そっか。お前、大人だな」

「お前がガキすぎるんだよ。そういうお前は、広瀬とどうなんだよ」

心臓がドクン、と反応する。

「な、何で広瀬が出てくるんだよ」

「もうバレバレだって。お前が広瀬を好きなこと」

全身から汗が吹き出す。湯船の温度が高すぎないか。

「て、てことはさ、広瀬も気づいてるのかな?」

「お、認めたか」

菊地が俺を見てニヤリと笑う。しまった!はめられた。

「そういうズルいやり方は、よくないと思うな」

「ドリブラーにフェイントはつきものだ」

「何だよ、それ」

「広瀬が、気づいてるかどうかはわからん」

菊地が真面目な口調で話を戻す。

「でも、あいつはルックスがいいし、人生でずっとモテてきた女だ。お前の気持ちに気づいてて、知らないフリくらいは楽勝でできるだろうな」

「あいつは、そんなズルい女じゃないと思う」

「だからお前はガキなんだよ」

言って、菊地はザブンと立ち上がった。


「いいか、これだけは言っとく。お前は今、広瀬と仲がいい。でもな、このまま友達みたいな関係を続けていけば、いつか自然と恋人になれるなんて思ってたら大間違いだぞ。どっかで必ず、友達にも戻れないくらいのリスクを侵さないと、何も変わらない」


菊地の言葉が、大浴場の壁に跳ね返って一言一句俺にぶつかってくる。

頭のどこかでわかっていたけど、聞きたくなかったこと。


「ぐ、具体的には、どうすればいいんだ?」

出口に向かう菊地に、俺はすがるように聞いた。

「一度くらいデートに誘えよ。それが意思表示になるだろ」

「デ、デート!」

広瀬とデート。想像したことはあるけど、現実味が無い。そんなこと、ありえるのか。

「藤谷」

引き戸に手をかけて、菊地が振り返った。

「おう」

「お前、本気で県大会優勝できると思ってるか?」


菊地が俺の目を見つめる。

俺もそらさずに答える。

そらしちゃいけない。


「本気で思ってる。だから今、ここで合宿をやってる」

「そうか。じゃあ言っとくけど、銀次が壁に当たってる感じがするぜ。素人が一通り上達して、次の段階に行く前って感じだ」

「マジでか」

ここに来てか。いや、喜ぶべきことなのかな。

「のぼせんなよ」

菊地が大浴場を後にして、俺は湯船に一人きりになった。

「デートか……」

もし誘ったら、広瀬は何て言うだろう。笑うかな。引くかな。怒るかな。こんな心配ばかりしてるから、菊地にガキだって言われるんだろうな。


俺は湯船から立ち上がった。腹には有璃栖に当てられたサッカーボールの跡が赤く残っていた。


つづく

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