第31話「だって女湯じゃないか」
温泉、女子の露天風呂回。
四時になって、やっと芝グラウンドのライン引きが終わった。素人が見よう見まねでやったにしては、なかなかの出来だと思う。
約三時間前、荒れ放題のコートを前にまず手をつけたのは、ゴミと石の除去。
二時間ドラマで見た鑑識課のように、みんなで横一列に並んでかがみ、グラウンド上のゴミや石をコツコツ拾い上げる。結構首と腰に来るつらい作業だった。紗良ちゃんはその細かい作業になぜかハマッていたようだけど。
その後伊崎君と皆藤君が交代で芝刈り機を運転した。取説が座席にヒモでぶら下がっていて、芝目の綺麗な作り方まで丁寧に書いてあったのはとても助かった。最初はあの落ち着きの無い二人に任せて大丈夫なのかと心配していたけれど、伊崎君の意外な勘の良さと皆藤君の安定した直進運転のおかげで極めてスムーズに芝が整えられていった。
そして今私たちの目の前に広がるのは、弱小サッカー部が使うにはぜいたくなくらいの、綺麗な芝目がついたサッカーコート。ゴールネットがあまり汚れておらず、白くて綺麗なのが嬉しい。
私は同じくグラウンドを眺めている未散に声をかけた。
「七時くらいまでならまだ明るいし、練習する?」
「そうだな」
言うと、未散は部員たちを見回した。私もみんなも、炎天下のゴミと石拾いで結構疲れている。首に濡れタオルを置いたりしたけれど、どこまで効果があったのか。とりあえず、日焼け止めを多めに塗っておいてよかった。
「ちょっとだけミニゲームやって、今日は引き上げよう」
あっさりと未散が言った。
「それでいいの?」
「初日だし、明日からみっちりやればいいさ。今日は俺の調査不足で全員働かせちゃったしな」
「みんな結構楽しんでたし、気にしなくていいのに」
「俺は気にする」
私はちらりと未散の横顔を盗み見る。ローカル線に乗り換えた後、ちょっと機嫌を悪くしちゃったみたいだけど、もう戻ってるみたい。
「何だよ」
未散が気づいて私を見た。
「何も。あ、今日の晩ごはんはカレーで我慢して。明日からは色々考えるから」
「おお、カレーか。好物だから我慢なんかしない。でも広瀬、料理できたのか?」
「あ、バカにしてる」
私が抗議すると、未散は慌てて手を振った。
「いや、そうじゃない。だって、合宿中の食事の話した時、お前もこばっちも歯切れ悪かったし」
「う」
それは本当だ。私は料理といえば卵焼き一品しかできないし、紗良ちゃんに至っては卵を割るのもおぼつかないらしい。江波先生は酒のつまみしか作れないと開き直る始末。困った私はすがる思いで本屋さんに行き、そこで「ガツン!部活メシ!!」というウソみたいなレシピ本を見つけた。運動部の男子が好みそうな大盛りレシピがたくさん載っていて、手順もカラー写真の解説付きでとても分かりやすい。それをこっそり購入し、お母さんに教わりながら何種類か練習してきたのだ。ちなみにそのレシピ本の存在も、練習したことも男子には秘密だ。それくらいの見栄を張らせてもらっても、バチは当たらないと思う。
「ふー、気持ちいい」
有璃栖ちゃんが濡れタオルで顔を拭いている。桜女からのゲストなのに、一緒になって草まみれになっている。日焼け止めもすぐに落ちてしまったみたいで、せっかくの白い肌が焼けてしまっている。もったいない。
「有璃栖ちゃん、お疲れ」
私は彼女のボトルを手渡した。
「あ、ありがとうございます」
彼女は少し笑って受け取った。まだちょっと照れがあるけど、電車の中でたくさんしゃべってだいぶ慣れてくれている。私も会うのは合同練習以来だし、その時だってそれほど話したわけじゃないから、どうしたものか困った。
未散は「女同士だからすぐ仲良くなれるだろう」と思っているみたいだけど、女同士だってそれなりに考えたり気をつかったりしているのだ。
今回は何とか、小学生時代の一条さんの話で盛り上がれて助かった。でも、色々暴露しすぎて後が怖い。
「だいぶ焼けちゃったけど、大丈夫?」
「平気です。運動部が日焼けを怖がってたら何もできませんから」
言って、ボトルをぐびぐびとあおった。女子高の子って、みんなこんなにさっぱりしてるのかな。
「この後、ミニゲームやって今日は終わりだって」
「ゲームですか?」
有璃栖ちゃんの顔が一瞬だけ曇ったように、私には見えた。
「疲れてるんなら見学でもいいと思うよ」
「い、いえ。体は全く問題無いです」
そう言って、慌てて目をそらした。
……何てウソのつけない子だろう。そんな言い方したら、問題は心の方だって言ってるようなものなのに。
私の脳裏に数日前のインターハイ決勝の映像が浮かぶ。
最後の場面、シュートかパスか。彼女はシュートを選んだ。そしてポストに当てて外した。それは直接チームの負けを意味するプレーであり、有璃栖ちゃんの中にはまだその試合の何かがくすぶっているように見える。
私に何ができるんだろう。
未散には言ってないけど、有璃栖ちゃんを受け入れることが発表された日の夜、一条さんから私にも個人的に連絡があった。岸野を頼む、夏希なら気持ちがわかるはずだって。私のケガはあんなシチュエーションじゃなかった。私に有璃栖ちゃんを立ち直らせるなんてことができるとは思えないけど。
「広瀬」
呼ばれてふっと顔を上げる。みんなコートの外に出て、必死に水分補給をしている。
管理人さんが言うには、ここらの水は綺麗だという話なので、コート近くの水飲み場でそのまま汲んで使っている。学校の練習場より水飲み場が近くて嬉しい。
未散が小首をかしげて「大丈夫か?」と私に言っている。色々考えていたのをバテてたと思ったのかな。心配症の未散らしい。私は笑いを噛み殺して、
「大丈夫」
と答えた。未散は「そうか」と返し、
「みんなフルコートで8対8やる気マンマンだから、チーム分けしてくれ」
と唐突に言った。
「私が決めるの?」
「こばっちと考えてくれ」
紗良ちゃんは、と見ると、おでこに熱さまシートを貼り付けて、一心不乱にノートパソコンを叩いている。電車の中でやろうとしていたデータ整理が酔ってできなかったと言っていたので、必死に取り返そうとしている。別に後でいいのに。
「紗良ちゃん、ストップ。今からチーム分けするよ」
「へっ!?……は、はい、ごめんなさい」
ようやくこちらに気づいた紗良ちゃんが、パソコンをいそいそとしまう。別にもう慣れっこなんだけど、それでもやっぱり紗良ちゃんの敬語は気になるな。
同級生なんだから、普通に話してくれればいいのに。後で一緒に温泉行ったら、ちょっと言ってみようかな。
しばらくの間、紗良ちゃんとあれこれ話し合った結果、何とかバランスを考えた二チームができあがった。
私はみんなの前に立ち、タブレットを見ながら発表した。
「えーと、なるべくタイプやポジションがかぶらないようにチーム分けしました。まずAチーム。藤谷、岸野、伊崎、軽部、皆藤、国分、茂谷、梶野。Bチームが、冬馬、芦尾、菊地、黒須、狩井、金原、照井、島。以上」
そこまで言って、私は未散を見た。
「てことで、どうかな?」
未散は指でOKマークを作ってニカッと笑った。
「ナイスだ。それで行こう」
みんなが芝コートに散っていく。
私はふう、と息をついてベンチに座り込んだ。いきなりあんな仕事振るなんて、どういうつもりなんだろう。よし、後で問い詰めよう。
「広瀬さん。どういう基準でチーム分けしたの?」
江波先生が聞いてきた。ベンチの端っこで、キャップの下にタオルを仕込んでかぶっている。Tシャツに短パンという涼しいかっこうで、いかにも大人の女性というスタイルだ。ちょっと憧れる。
「えっと、まずキャプテンと冬馬は一緒にすると強過ぎるんで、分けました。後は、未散に何かあった時、黒須君が代わりを務められるように冬馬と組ませてみようとか、銀次君と狩井君はバチバチ対戦させた方がいいかなとか」
「伊崎と岸野さんを組ませたのは?」
「あの速い二人と対戦させれば、センターバックの金原君と照井君の練習には丁度いいかなって」
「それだけ?」
江波先生は人の悪い笑みを浮かべた。
「それは、先輩として、後輩の恋を応援してあげようとは思いますけど。それだけで決めたりしません」
「そりゃそうか。もっとも、真面目に考えこむタイプの岸野さんと、何も考えない伊崎の性格じゃ、なかなかうまくいきそうもないけどね」
「うーん」
伊崎君も、もっと岸野さんの気持ちを考えてくれればいいのに。行動的なのはいいところなんだけど。
「それに」
と、江波先生が続ける。
「何ですか?」
「うまくいかない理由は、他にもありそうだけどね」
「え」
江波先生は立ち上がった。
「さて。私は先に戻って、毛利のアホとカレーの下ごしらえしとくから。一時間位したら来てちょうだい」
「そんな。食事はマネージャーの仕事ですから、私が」
「いいから。みんな、広瀬さんが見てないと気合が入らないんでしょう?だったらなるべく練習の方にいなさい」
そう言い残し、先生は颯爽と宿舎の方へ立ち去った。
ミニゲームを何本か見終わった後、私は宿舎へ戻った。
広いキッチンには、人参、じゃがいも、たまねぎなどの野菜がゴロゴロと大量に剥かれて切り刻んであった。キッチン全体に、玉ねぎに火が通った時の食欲をそそるにおいが漂っている。
「あ、広瀬さん。おかえり」
毛利先生がテーブルの前に座り、小さめの包丁を手にザクザク野菜を切っていた。意外な器用さを発揮している。
「毛利先生、料理得意なんですか?」
聞くと、先生は首をプルプルと振った。
「ううん。切るのと剥くのが好きなの。火は苦手」
「そ、そうですか」
火は苦手なのに刃物は平気なんだ。やっぱり変わった先生だ。
江波先生はコンロの前にイスを持ってきて座り、すでに缶ビールを開けていた。テーブルにはいいにおいのするツマミも置いてある。じゃがいもと人参をカレー風味にサッと炒めたようなものだ。ものすごく美味しそうに見えてしまう。
「江波先生、ありがとうございました」
「や、おかえり。ベースはもうできてるから、あとルー入れるとこからお願い」
「わ。そこまでやってくれたんですか?」
料理しないって言ってたのに。
「ケガ人や病人が出るのを待つのがドクターの仕事じゃないのだよ、広瀬さん。患者が一人も出ないように、食事から気をつかうのも私の仕事」
「料理できるなら、最初から言ってくれればいいのに」
私が抗議すると、先生は笑った。
「最初から私をアテにしてたら、がんばらなかったでしょ?やれるだけはやんなさい」
言いたいことはわかるけど、だまされた気分だ。釈然としない。
私はカレールー四箱分を、ドバドバと大鍋に入れ始めた。
大きなお玉でゆっくりかき混ぜながら、さっきまで見ていたミニゲームを思い出す。
未散が何度も有璃栖ちゃんにボールを出していた。有璃栖ちゃんはシュートかパスか、という局面ではすべてパスを選んでいたような気がする。それはそれで、伊崎君のゴールにつながって「愛のアシストもらえた!」と喜んでいたからいいんだけど。
それでも私は、パスかシュートか、決断を迫られるたびに有璃栖ちゃんが見せた苦しそうな顔が、どうしても気になった。
「ごっそさんでしたー!」
部員たちがドヤドヤと食堂を出て行く。大テーブルに、空になった皿がたくさん並んでいる。私は密かに小さくガッツポーズをした。初めてまともに作ったカレーが大人数用なので、ちょっと不安はあったけど、みんな喜んで食べてくれた。よしよし。自分でもまあまあの味にはなったと思う。
みんなの感想は「初めてにしては上出来」「まあまあ」「中の上の下」等、誉めてるのかけなしてるのかわからなかったけど。でも、残さず食べてくれたから良しとしよう。後は、残った大量のご飯を小分けして冷凍にして、明日の朝にまわして。ああ、忙しい。人の食事の世話ってこんなにめんどくさいんだ。帰ったらお母さんに優しくしてあげよう。
「夏希ちゃん」
お皿を集めてキッチンに行こうとすると、紗良ちゃんがノートパソコンを持ってやってきた。
「何?」
「夏希ちゃんが行っちゃった後で、有璃栖ちゃんがかっこいいゴール決めたんです。ちょっと見てください」
私は手を止めて、イスに腰掛ける。片付けは、そう焦らなくてもいいか。
紗良ちゃんがノートパソコンをテーブルに置いて、恐ろしい速度で画面を展開していく。カメラから取り込んだ動画をパソコン上でシーンごとに編集しているみたいだ。何をどうしているのかちょっと想像がつかない。
「えーと、これです」
画面には、ボールを持って黒須君と菊地君にはさまれている未散が映っている。菊地君のしつようなチェックと、黒須君の読みを生かしたボール奪取にもキャプテンは動じていない。
明らかに、体が強くなっている。以前はチェックされたら人のいないところに避けながらボールをさばくところがあったけど、それは裏を返せば良い位置でボールがさばけなくなるということであり、ラストパスの精度が落ちることにもつながっていた。
今の未散は譲らない。うまくかわしてキープしながらも、ここからパスを出すという位置は譲っていない。
同チームの皆藤君と銀次君が両サイドから上がっていくのが映る。ほんの少しマークがゆるんだ瞬間、左のアウトサイドで未散のスルーパスがゴール左の深いところへ走る。守る狩井君と攻める有璃栖ちゃんが左サイドでポジションを取り合う。スタートが一歩早かった分、有璃栖ちゃんのつま先が早くボールに届いて、キーパー島君の股下を抜いてゴールした。
「へー。やっぱり速いね、有璃栖ちゃん」
「でしょう?生で見たらもっとかっこよかったんですよ!」
画面の中で、有璃栖ちゃんが照れくさそうに未散とハイタッチしている。そんな彼女を見る未散の目は、何だかとても優しくて。
「ありがと。じゃあ私、洗い物してくる」
私はおもむろに立ち上がった。
「あ、ごめんなさい。邪魔しちゃって」
「ううん。というか洗い物は紗良ちゃんもやるんだよ」
「え、そうなんですか?」
「そうなんです」
皿をガチャガチャと集めて、私はキッチンに向かう。なぜだろう。今の動画を見て、胸のあたりのモヤモヤが消えてくれない。どう考えてもおかしい。ありえない。バカげてる。
映像の中で、未散からのパスを受けてシュートを決めて、ハイタッチする。
その相手が、どうして私じゃないんだろうって一瞬でも思ったなんて。
私はぶんぶんと頭を振った。
洗い物も明日の準備も済ませた後、私たちは待望の日帰り温泉にやってきた。真夏とはいえ夜も八時を過ぎると真っ暗だ。私たち女子四人だけでは夜の山道は危険だ、と未散の他数人の男子も同行することになった。芦尾が混じっているのが気になるけど、さすがに出先の日帰り温泉でのぞきなんてしないとは思う。多分。もしのぞいたら、合宿中のご飯は無しにする。
「ほほー。なかなか趣があるじゃないか」
江波先生が嬉しそうに言った。
『源泉掛け流し 竹の湯』と書かれた木の看板がかかった入り口は、作られてからそれなりに時間がたっているようだけど、古くて汚いというほどじゃない。ちょうどいい古さと言うのかな。木造の建物が渋い。
「ほんじゃ、先に上がった方が待ってるってことで」
未散が言った。私は彼を無言で引っ張る。
「うわ、何だよ」
二人の顔が近づき、未散が目をそらす。怪しい。
「芦尾がおかしなことしないか、ちゃんと監視しててよ」
「だ、大丈夫だ。あいつもそこまでバカじゃないって」
「ならいいけど」
どこか動揺している。本当に大丈夫かな。
「岸野さーん!また後でねー」
伊崎君が騒々しく男湯に消えていく。有璃栖ちゃんは「はいはい」と小さく返事をしている。ミニゲームではうまくツートップを組んでいたみたいだけど、そうそううまくいかないか。
四人で連れ立って、女湯に入る。
脱衣場はそこそこ広く、カゴやロッカーは割りと新しいもので、清潔なのが嬉しい。ささっと裸になると、何となく視線を感じた。
「……おかしいです」
同じくすでに裸になっている有璃栖ちゃんが、自分の体と私の体を見比べて、低くうなっている。
「な、何がおかしいの?」
強い視線に、私は思わずタオルで体を隠す。温泉ではあまりきっちり隠さない方だけど、じっくり見られるとさすがに恥ずかしい。
有璃栖ちゃんは自分の胸を両手でつかんで言った。
「そんなに脚が細くて、腰の位置が高くてくびれも綺麗なのに、胸だけそんなに大きいなんて、どう考えてもおかしいです!何かが間違ってます!」
言ってることは冗談みたいだけど、本人は大真面目だ。どうしよう。
「おかしいって言われても……」
「前に、着替えてる時先輩に言われたんです。岸野はサッカー向きの体型だねって。あれは誉め言葉じゃなくて、胴が太くて脚が短いってけなされてたんですね!」
「いや、そんなことはないと思うよ」
こういう場面は何度か経験したからわかる。変なフォローは状況を悪化させるだけ。黙って嵐が過ぎるのを待とう。
「有璃栖ちゃん」
すると紗良ちゃんが、仏様のような微笑みを浮かべて有璃栖ちゃんの肩に手を置いた。
「人と比べるなんて愚かなことよ。有璃栖ちゃんは誰が見ても可愛い女の子なんだから。自信持って」
「小林さん……」
泣きそうな顔の有璃栖ちゃんが紗良ちゃんと見つめ合う。何だろう。私を外して二人の間に友情が生まれつつある。むしろ踏み台にされた気分。
「それに、夏希ちゃんとスタイルを比べていちいち傷ついてたら、私なんて十五回くらい自殺してるよー」
「紗良ちゃん、いきなり闇を告白しないで」
このまま脱衣所にいると、もっとひどい目に遭いそう。私は一人で大浴場に行くことにした。
一通り体を洗って、矢印に従い引き戸から外に出る。
「おおー」
満月の明かりに照らされた露天風呂が眼前に広がっている。
竹の湯、というだけあって竹でできた柵が周りを取り囲んでいて、男湯との境も竹の壁で仕切られている。あれだけ高ければ誰も昇ってのぞこうなんて思わないな、絶対。
つま先で温度を確かめつつ、ゆっくりと露天風呂に入る。源泉掛け流しだけあって、何となく家のお風呂やスーパー銭湯とは感触が違う気がする。手でお湯をすくってみる。ちょっとだけまろやかな感じ。
有璃栖ちゃんと紗良ちゃんも遅れて露天に入ってきた。そういえば、江波先生は何をやってるんだろう。大浴場にもなかなか入ってこなかったけど。
「わー、何かこういうのいいですね」
有璃栖ちゃんがドボンと一気に露天につかる。結構大胆だ。紗良ちゃんは手で温度を確かめ、桶で足元にお湯をかけて、ちょっとずつ入ってきた。
電車とバスの移動、コートの整備、晩ごはんの準備と今日はかなり働いた。真夏の夜の露天風呂が、私の疲れた体をゆらゆらと癒していく。
と、再び強烈な視線を感じた。
有璃栖ちゃんが私の胸を凝視している。
「今度は何?」
私はさりげなく手で胸を隠す。
「……浮いてる」
「何が?」
「おっぱいが、浮いてます」
私は思わず自分の胸を見た。確かに。
「そ、そうだね」
「有璃栖ちゃん」
紗良ちゃんがざぶざぶと近くにやってきた。
「おっぱいにも浮力が働くから、浮くのは当たり前なんだよ。しかも、綺麗なまん丸になるの」
「さらに綺麗になるんですか!?」
有璃栖ちゃんがジーッと私を見つめている。何だろう、怖い。
「広瀬さん!」
「は、はいっ!」
有璃栖ちゃんがぐいっと身を乗り出してきた。あまりの迫力にちょっと後ずさる。
「少しだけでもいいんです。後学のために、おっぱい触らせてもらえませんか?!」
「ダメー!」
何を言い出すの、この子は。これが女子高のノリ?
「あ、有璃栖ちゃんだけずるい。私もお願いします、夏希ちゃん」
「紗良ちゃんは止める立場でしょ!」
「失礼しますっ!」
掛け声とともに、有璃栖ちゃんが私の胸に飛び込んできた。
「ちょ、有璃栖ちゃん、やめっ……あっ」
「うわー、すごい。ふわっふわです。でもちゃんと弾力もあって、すっごく気持ちいいです」
「そんなレポートいらないから!いい加減にしなさい!」
何とか有璃栖ちゃんの手から逃れて、露天風呂のはしっこに避難する。
「夏希ちゃーん。私まだ触ってませーん」
紗良ちゃんののんきな声に答える気力は、今の私には残っていなかった。
「こーら。何を騒いでる」
江波先生がようやく露天風呂に入ってきた。タオルを肩にかけ、脇に木の桶を抱えている。何一つ隠していない。
その裸体とポーズは「温泉のビーナス」とでも名づけてもよさそうな大人の曲線美と迫力があった。
紗良ちゃんと有璃栖ちゃんが口を開けて固まっている。
「どうした?」
江波先生が静止した私たちの顔を見回して聞いた。
「いえ、あの、先生って、か、隠さないんですね、全く」
「だって女湯じゃないか」
先生は「何が?」という顔でざぶんと露天につかり、抱えていた桶をぷかぷかと浮かべた。
「何で桶持ってきたんですか?」
私は先生のそばに移動して、桶の中をのぞきこんだ。
中には、白い徳利とおちょこがワンセット。
「お酒持ち込んだんですか?」
私がとがめるように言うと、先生は人差し指を唇に当てた。
「静かに。内緒だよ」
言って、嬉しそうにおちょこに酒を注いだ。
「私くらいになると、この程度の量は水っていうんだよ」
「それは屁理屈だと思います」
「ふふん。言うじゃないか」
先生は笑って、私の胸をつっついた。
「わっ。やめてください」
胸を押さえて先生から離れる。
「やっぱ若い子は弾力が違うね、悔しいけど」
「そんな感想はいりません!」
まったく、どいつもこいつも。もう絶対触らせない。
「夏希ちゃーん」
紗良ちゃんが捨てられた子犬のような目で見てくる。
「……何?」
「有璃栖ちゃんも先生も触ったのに、私だけ触ってないのはずるいですー」
「ずるくない!」
私が言った瞬間、竹壁の向こう側から、カコンカコンと桶が転がったような音が鳴り響いた。誰か転んだのかな。私は壁の近くまでざぶざぶと移動した。
「未散ー。そこにいるー?」
男湯に向かって声をかける。
「おー、広瀬かー。いるぞー」
未散の声が返ってきた。
「今の音何ー?誰か転んだー?」
「あー、いや、何でもない。ちょっと桶が転がっただけだ。気にするな。もうしない」
言って、ごにょごにょと誰かに何か話している。怪しい、怪しすぎる。
私はみんなが固まっているところへ戻る。
「今の何だと思う?」
紗良ちゃんと有璃栖ちゃんが顔を見合わせる。
「未散は桶が転がっただけだって言ってたけど」
「でもそれにしては、桶の数が多くなかったですか?」
有璃栖ちゃんがもっともな疑問を返す。
「しかも転がったっていうより、一気に複数の桶が散らばったような音でした」
紗良ちゃんもあごに手を当てて考えこむ。
「桶を積み上げて一気に崩れたら、あんな音がしないか?」
江波先生がおちょこをくいっと空けながら言った。
「それです!きっと。桶をこう、ピラミッド状に積み上げて、それが一気に崩れたんですよ」
私が言うと、
「でも、何のためにそんなことしてたんですか?向こうは」
再び有璃栖ちゃんのもっともな疑問が返ってきた。確かに。
すると考え込んでいた紗良ちゃんが、口を開いた。
「ピラミッド状、ということは、つまり階段状ということ。階段なら、昇れる」
私たち四人の視線が、自然と竹壁のてっぺんに集まる。
まさか、芦尾がそこまでクズだなんて。
「でもいくら芦尾がスケベでも、そこまでするかな?」
江波先生が言った。
「私も、芦尾がスケベなのは口だけで、実行する度胸は無いって信じたいですけど」
私が続く。
「芦尾君、意外と慎重派だから、一度試して今の崩壊であきらめたって考えもできますよ」
紗良ちゃんがひとひねりした意見を出してくる。
「あの、みなさん何の迷いもなく芦尾さんで確定してますけど、濡れ衣の可能性は無いんですか?」
有璃栖ちゃんがとても真っ当な意見をくれた。そうだ、芦尾も大事なチームメイトだ。信じてあげなきゃ。少しのぼせてきたのかもしれない。
「一番いい方法は、真偽はともかく、のぞかれる前に上がっちゃうことだね。お先」
先生が桶を持って露天風呂から出て行く。
「あ、私も出ます」
「待ってー」
紗良ちゃんと有璃栖ちゃんも先生の後に続く。
「夏希ちゃんは上がらないんですか?」
振り返る紗良ちゃんに、
「あ、うん。もう一度壁見てから上がる」
と答えて、私は竹壁に歩いて行った。
男湯の気配を伺う。物音一つしない。みんな上がっちゃったのかな。
「ねー、誰かいるー?」
返事は無い。ほっ、と息をついて私は壁を離れた。
「ん?」
竹壁のはしっこに、ちょっとだけ妙な隙間が見える。何だろう。私はタオルを体に巻き付けて、隙間へ歩いて行く。
「ああ」
そこは竹壁の一部をドアくらいの大きさにくり抜いてあるところで、とってのところにカギがついている。多分、職員さんが掃除の時に出入りしやすいようにというドアだろう。心配しすぎかな。私は何げなく、取っ手に付いているカギを触った。
『キィィィィ』
かすかにきしんだ音を立て、竹のドアがゆっくりと向こう側に開いていった。
「え」
一瞬何が起こったか分からなかった。
開いた。開いちゃった。
「え」
ドアの向こう側には、タオルで前を隠した裸の未散が呆然とした顔で立っていた。
「広瀬?」
「未散?」
目が合ってしまった。人は本当にパニックになった時、妙に冷静になるんだ、と私は今全身で実感している。未散の顔は引きつっているけど、それでもタオルを巻いた私をチラチラ見ていることはわかる。
「ご、ごめん。開いちゃって」
「うん。開いたな」
「閉めるね」
「うん。閉めた方がいい」
私は腕を伸ばしてドアに手をかけた。
「わっ」
巻いたタオルが、はらりとほどける。やばい!
「お、おい!」
とっさにしゃがみこみ、思いっきり竹のドアを閉める。パシンという破裂したような音が夜空にこだました。
今、見られちゃったかな。いや、絶対見られた。
髪を乾かして四人で入り口に向かうと、男子がすでに休憩スペースでわいわいとたむろしていた。みんなコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を飲んでいる。
私は何も口にする気になれない。
「おおー、風呂あがりのチーマネはまた格別ですなー」
一人だけピーチネクターを飲んでいる芦尾がニヤニヤと絡んでくる。殴りたい。裏は取れてないけど、全部こいつのせいだ。
「岸野さん、風呂あがりセクシーっす!女性的魅力MAX!」
伊崎君がほぼセクハラな誉め言葉を相変わらずの調子でぶつけている。意外にも岸野さんは、
「そ。ありがと」
と、そっけないながらも悪くない返事をしていた。伊崎君のテンションがさらに上がったのは言うまでもない。
月明かりが頼りの帰り道。未散は一度も私と目を合わせようとしなかった。こちらからも話しかけない。
そう言えば私は私で、未散の裸を見てしまった。プールトレーニングの成果か、初めてロッカーでの着替えを見た時は貧相だと思った体格は、何というか結構たくましく変わっていて、未散もやはり男の子なんだ、と今さらながら思ってしまった。
だけど問題は。
私は意を決して、しんがりを歩く未散に歩調を合わせて言った。
「未散」
「お、おう」
返事はするけど、目は合わせない。
「さっき、見た?」
下から顔をのぞきこむようにして、私は聞いた。
「見てない。何も見てない」
未散がプルプルと首を横に振る。
「本当に?」
「本当だって。すぐしゃがんだじゃないか」
確かに、タオルが落ちかけて、すぐにしゃがんでドアを閉めた。タイミングはセーフだったはず。
私は言った。
「別にいいけどね。下に水着着てたし」
「ウソつけ。裸だっ……」
「やっぱり見た!」
私はお風呂用のビニールバッグを大きく振り上げた。
「違う、そういう意味じゃ、ああーっ!」
振りかぶったバッグを、私は未散のお尻に思いっきりぶちかました。
合宿所に帰ってからひとしきり、みんなでトランプをやったりして散々遊んだ。温泉に入る前はあんなに疲れていたはずなのに、我ながら現金だと思う。
のぼせたせいか、遊んだせいか、それとも露天風呂での事件のせいか、どれが原因かはわからないけれど、消灯後、私はなかなか寝付けなかった。最新式とは言えないまでも、きちんと動くエアコンのおかげで部屋は快適なのに。
ちなみに温泉での一件は、芦尾が人間ボウリングなるものを企み、一度桶を積んで頭から突っ込んでみたところ、思いの外音が大きく一度であきらめたということだった。明日の練習中、どさくさに紛れて芦尾を一発殴ろうと私は決めた。
紗良ちゃんは疲れがドッと襲ってきたのか、夜の女の子トークもそこそこに寝入ってしまった。江波先生は一番最初に寝てしまっている。
家から持ってきた目覚まし時計のライト機能で時間を確認する。もう夜中の十二時半を過ぎている。そろそろ寝ないと、本当に明日がつらくなる。
一度トイレに行っておこう。私は何気なく有璃栖ちゃんの布団を見た。空っぽだ。
「……トイレかな」
紗良ちゃんを踏んづけないように注意しつつ、私は部屋を出た。
トイレに有璃栖ちゃんはいなかった。何となく気になり、私は女子部屋のある二階をあちこち歩いてみることにした。
来た時は気づかなかったけど、過去にこの合宿所を利用したチームの集合写真がところどころに飾ってある。私たちも、帰りに撮ってくれるのかな。
「あ」
二階廊下の一番奥。ひときわ大きな窓がある突き当りに、有璃栖ちゃんがいた。Tシャツに短パンという寝間着のまま、窓から外を見ている。
気のせいか、その背中は何だかとても頼りなく、寂しく感じられた。
私は静かに近づいて、彼女の肩にポンと手を置いた。
「ヒイイイイッ!」
文字通りビクッと飛び上がる勢いで、有璃栖ちゃんは振り向いた。私は人差し指を唇につける。有璃栖ちゃんは大きく息をついた。
「おどかさないでください。心臓止まるかと思いました」
「お風呂の仕返し。ずいぶん揉まれたから」
私が言うと、彼女は赤面した。
「すみません。あの時は、ちょっと冷静さを失ってて」
「今もね」
「今のは驚いて当然です!」
私は笑って受け流す。真面目な後輩をからかうのって、結構楽しいかも。
「眠れないの?」
聞くと、有璃栖ちゃんは「はい」と言ったきり、再び窓から外を見た。ここから海は見えない。ただ木々と山道が満月に照らされているだけ。
しばらく黙っていると、ポツリと彼女は口を開いた。
「今日ミニゲームで、藤谷さんからのパスを受けて、シュート決めたんです、私」
「あ、うん。動画見た」
チクン、と私の胸が反応する。
「あのパスが出るまで、私、何度もチャンスつぶしちゃって」
「みんなと練習するの初めてだし、仕方ないよ」
「違うんです」
有璃栖ちゃんの眉間にシワが寄る。
「何が?」
「私、シュートかパスかの選択肢がある場面で、シュートが打てなかったんです。一本も。そしたら読まれてきて、多分それで、藤谷さんはシュートしかないっていう場面を作ってくれて。でもあのパスを出すまで、すごく長くボールキープしてくれて。あんな遅い攻め、本当はしたくないはずなのに」
有璃栖ちゃんの声に、段々熱がこもってくる。
「それでも藤谷さんは、優しく『すごいシュートだ』って言ってくれて。それが、私はつらくて」
「……インハイの決勝戦、気にしてるの?」
私は、イヤな女かな。こんなにはっきり言うことなかったかな。でも、はっきり言わなきゃいけないと思った。
有璃栖ちゃんはうなずいた。
「あれからずっと、考えてるんです。一条先輩にパスを出した方が良かったんじゃないかって。私のシュートは判断ミスだったんじゃないかって」
みんなで見た決勝戦。終了間際、彼女のシュートはポストに弾かれた。
「私がこちらに参加させてもらった理由、聞いてますか?」
「……うん」
未散から聞いた。サッカーを辞める、と言い出すほど思いつめてるという話だった。実際会って、そこまででは無いと思っていたけど。
「サッカーは、ずっと好きです。多分これからも。辞めたいと思ったことは何度もあります。けど、オリンピックに出たいですし、ワールドカップにも出たいんです、私。そのためには、もっとうまくならなきゃいけないんです」
私の目に、有璃栖ちゃんの横顔がまぶしく映る。
月明かりのせいじゃない。
「でも、こんなプレーを続けてたら、無理です」
彼女の顔が、初めて見る弱々しい泣き顔になった。
私も、昔こんな顔をしたことが。
「私、好きなものが好きなまま、サッカーが好きな気持ちのまま、夢をあきらめなきゃいけないのかなって。それは私にとって、サッカーを辞めるのと同じ意味なんです。そんなの、私耐えられない!」
有璃栖ちゃんの泣き声が、一際大きくなる。
好きな気持ちのまま、あきらめる。その言葉は、私が目をそらし続けてきた気持ちをざわつかせるのに十分で。
「そんなことない」
気がつくと私は、彼女の頭を胸に抱え込んでいた。自分から誰かを抱きしめるなんて、初めてかもしれない。
「誰だって、勝敗に直結するプレーに関わって負けたら、落ち込むことだってある。後悔することだってある。でも、それで終わるわけじゃないよ。有璃栖ちゃんなら、絶対乗り越えられる。私も協力する。未散だって、有璃栖ちゃんのプレーがダメだから、無理してパス出したんじゃない。そんなヤツじゃないよ」
「そう、でしょうか?」
「うん。私が保証する。未散なりに、何か伝えたかったんだと思う」
有璃栖ちゃんを抱きながら、私は思った。私が今抱きしめているのは岸野有璃栖なのか。それとも。
「あの、広瀬さん」
「ん?」
「やっぱり、広瀬さんの胸気持ちいいです」
私は慌てて彼女を離す。
「やめてよ、もう」
「冗談です。さっきからかわれた仕返しです」
有璃栖ちゃんは笑った。けれど私は、彼女と同じようには笑えなかった。
一番好きなものを、好きな気持ちのままあきらめる。
私は、本当に正しくそこを通ってきたのかな。
つづく