第30話 「わかった気がします」
合宿へ出発。
腕時計を見る。朝7時。
俺は大きなあくびをしながらバスを降りた。いつもの二倍はある、大きなスポーツバッグが肩にズッシリとのしかかる。それにしてもいつも思うんだけど、駅前は終点なのに必ず停まりますボタンを押すヤツがいる。あれは一体何なんだろう。
周りを見ると、学校の制服を着ているのは俺くらいで、あとはスーツの大人たちと旅支度の人。
バスは降りる客と乗る客を綺麗に入れ替え、しばしの停車時間に入った。
今日は合宿初日。目的地までは電車とバスで合計三時間ほど。道中の服装は、野球部や陸上部のように校名入りのお揃いジャージがあればそれが一番いいのだが、あいにく弱小サッカー部にそんないいものは無い。結局「本校の生徒として恥ずかしくない服装で」という学校側の指令で、制服で移動ということになった。
五日間制服を合宿先に置いておくのもシワになりそうでうっとうしく、また行き帰りに制服を着る時だけ合宿先で着るジャージをバッグにしまわなければならない。結局、現在ジャージ一着分バッグが膨れ上がってしまっている。全く迷惑な話だ。
俺は集合場所に決めた、ロータリー付近の大時計に向かう。バッグが重い。着替えとタオルとボールくらいなら大して重くはならないが、クソ真面目に宿題まで持ってきたのは失敗だったかもしれない。
集合時間は七時半。
三十分前なら一番乗りかと思ったが、先客がいた。
上下白のセーラー服。桜律女子の制服だ。
ポニーテールの美少女がスポーツバッグを足元に置いて、時計台の前に立っている。
時計台へ歩いて行くと、途中で少女がこちらに気がついた。
「おす」
俺は手を上げて、少女に声をかける。
「おはようございます」
岸野有璃栖はペコリと頭を下げた。
三日前。
電話越しに一条さんから伝えられた頼みは、なかなか大胆なものだった。
「来週、うちの部は三日間お盆休みを取るんだ。その間、モト高の練習に岸野を参加させてもらえないか?」
「うちにですか?」
思わず聞き返してしまった。
確かに俺たちは練習試合で女子高に入れてもらえるという栄誉にあずかったが、あれはあくまでチームとして合同練習に招かれたものだ。女子高の生徒が一人でよその男子部に来るなんて、聞いたことがない。そして何より県大会初戦まであと二ヶ月。よその子に構っている余裕は無いのが本音だ。
しかしインターハイ前に、女子高なのによその男子部である俺たちに構ってくれたのが一条さんである。
その恩人の頼みを断るのは、いかにも仁義に欠ける行為だ。
何より、広瀬が怒る。たぶん。
「そうだ。ダメか?」
「いえ、ダメってわけじゃないんですけど、どうしてうちなんですか?男子ですよ」
女の子を預けるなら、同じ女子部の方が安全だろうに。
「君が言ったんじゃないか。男子も女子も関係無いって」
一条さんは言った。からかっている風でもないけど、面白がってはいる。絶対。
「確かに言いましたけど、ちょっと意味合いが違うというか」
「それに、私はぜひ君にお願いしたいんだよ」
ちょっとだけ声の調子が優しくなった。
「俺にですか?」
「そう。あの夏希をサッカーの世界に呼び戻した君なら、今の岸野を何とかしてくれるんじゃないかと思って」
「それはちょっと買いかぶりだと思いますが」
広瀬をマネージャーに誘った時は、サッカー経験者だと知らなかったんだし。理由はほぼルックスだけだ。
「とにかく、頼むよ」
重ねて一条さんが言う。別に断る口実を探してたわけじゃないけど、ここまで言われたらもう断るのは無理だ。
「わかりました。何の保証もできませんけど、お預かりします」
「そうか!ありがとう。本当は、断られるんじゃないかとドキドキしてたんだ」
一条さんの声がパッと明るくなる。ドキドキしてた、なんて言われたらこっちがドキドキする。
「それで、いつくらいからお預かりすれば」
「盆休みは三日後からなんだ。それでどうかな?」
三日後。
まずいな。俺は恐る恐る言った。
「あの、すいません。俺たち三日後から、四泊五日の合宿に出ちゃうんです。なので、その後じゃだめですか?」
合宿、と聞いて一条さんはなぜか前のめりになった。いや、電話だから分からないけど、多分そうだったはずだ。
「合宿か!いいねえ。どこに行くの?」
声がウキウキしている。すでに本来の用件を忘れている気もする。俺は隣県の海沿いの場所だと伝えた。
「あそこに目をつけたとは、さすがは藤谷君だ」
「知ってるんですか?」
「ああ。本来ならすぐ予約で一杯になるところだが、そうか、火山の影響か。あそこは危険区域から外れてるんじゃなかったかな」
おお、くわしい。さすがは桜女のキャプテンだ。
「そうなんですよ。練習環境は行ってみないとわからないんですけど」
一条さんはふむふむとあいづちを打ち、後でかけなおすと電話を切った。
そして数分後、岸野さんを合宿にねじ込んでくれという、さらに無茶な要望が届いたのだった。
「すみません。無理を言って」
岸野さんが礼儀正しく謝る。
「ああ、いや、丁度一人キャンセル出たし、タイミングが良かったよ」
引率の先生は、顧問の毛利先生、チームドクター江波先生、そしてフィジカルコーチの盛田先生の三人の予定だったが、直前で盛田先生がアスレチックトレーナーの説明会を忘れていたと言い出し、一人分キャンセルが出てしまった。
アスレチックトレーナーとは、ざっくり言うとケガをしたスポーツ選手のリハビリや選手たちの健康管理を行う仕事らしい。派閥の影響が大きい陸上の指導者界に嫌気が差し、まだ日本ではあまり普及していない資格に目をつけた、と悪い顔で言っていた。
そんな大事な予定を直前まで忘れていたのはどうなんだと思うが、本人は温泉地をいたく楽しみにしていたみたいで、部室に断りに来た時は半泣きであった。そして浮いた一人分に運良く岸野さんを入れることができたのである。
ちょっとだけ沈黙が続く。
確か岸野さんは、もうサッカーをやめる、とまで言って落ち込んでいたという話だった。でも今の彼女にはそこまでの悲壮感は伺えない。でもだからと言って、何を話そうか。フリーキックについてメールでやりとりはしていたが、面と向かって二人で会うのは初めてだ。それに改めて近くで見ると、岸野さんはかなり可愛い。今さら実感して緊張してしまう。
「あ、えーと、そうだ、こないだのフリーキック。あれすごかったね。よく決めたよ」
インターハイ決勝でのフリーキック。あの大舞台でよく決めたものだ。俺は心から感心している。
岸野さんは、
「ありがとうございます。蹴り方は、教わったのとは違っちゃいましたけど」
と言って笑った。
「いや、いいって。決まったってことは、その蹴り方が合ってるわけだし」
「でも基本的な部分は、教えてもらったところがほとんどですよ。一人でやってた頃なら、あんな風に決められなかったと思います」
「そうかな」
「そうですよ」
何だ、もっと目に見えて落ち込んでると思ってたけど、全然そんなことない。大丈夫そうだ。これなら変に気をつかわずに一緒に行けるな。
「合宿での練習は、守備戦術の強化がメインなんだ。色んな攻撃パターンを試してデータを集めて、こばっちが計算して絶対的に危険なエリアを割り出していく。だから、岸野さんには全開バリバリでうちのDFを攻撃しまくってほしい」
「あの、それですけど」
岸野さんがさえぎる。
「何?岸野さんも守備やりたい?」
「いえ、そうじゃなくて。こちらからお邪魔しているのに、岸野さん、て呼び方はすごく気をつかわれている感じがするので、有璃栖で結構です」
「よ、呼び捨てでいいの?」
自慢じゃないが、女の子を下の名で呼び捨てにしたことなど俺の人生で一度もない。
「そういうのは、恋人同士でするもんじゃないの?」
「そうとも限らないと思いますけど」
当人はまるで気にした様子もない。俺が意識しすぎてるのかな。
一つ咳払いをして、俺は言った。
「じゃ、じゃあ。試しに呼んでみるぞ」
「はい」
何だろう、このドキドキは。すごくムダな気もする。
「えーと、その、有璃栖」
「はいっ」
「未散」
聞き慣れた女の子の声が背後から聞こえ、俺の体が一瞬で硬直する。ゆっくりと振り向くと、広瀬が全くの無表情で立っていた。やはり夏の制服で、白の半袖シャツに赤いリボン。チェックのスカートと紺のハイソックスにはさまれた太ももがまぶしい。
彼女もいつもの倍はあるスポーツバッグをかついでいる。
「お、おはよう、広瀬」
「おはよ。岸野さんも、おはよう」
俺にはジロリとした視線をよこしたのに、岸野さん改め有璃栖には、にこやかにあいさつしている。この差は何だ。
もしかして今、有璃栖と呼んだ瞬間を聞いていたのではないか。いや待て、聞いていたとして、それが何だと言うのだ。本人が呼べと言ったのだから、別にいいじゃないか。恐れる必要などないのだ。
「おい、広瀬」
「何?」
冷たい視線が俺に突き刺さる。
「いや、その、ごめんなさい」
「何で謝るの?何かやましいことした?」
「してない。何もしてない。あ、ほら、みんな来たぞ」
俺は慌てて停留所を指さす。今到着したバスから、見慣れた顔がぞろぞろと降りてきた。一人、空港でCAが引いてそうなスーツケースをコロコロして来るヤツがいる。芦尾だ。顔もセレブを気取っているようで、何か腹立つ。他のみんなはさすが男子と言うべきか、それほど大荷物を持っているヤツはいない。
「岸野さーん!」
遠くから伊崎がダッシュしてくる。遠目にも満面の笑顔がわかる。片想いの相手と合宿に行けるのだ。そんな顔にもなろう。
そして露骨に警戒した顔になった有璃栖が俺の後ろに隠れる。
「そんなに嫌わないでやってよ。あいつ裏表のない、いいヤツだって」
俺が後ろを向いて言うと、
「別に嫌ってません。ただ、あのノリが苦手なだけです」
と答えた。
俺は伊崎に初めて会った時、「遠慮のない明るいバカ」という印象でむしろ好感を持ったのだが、万人がそう思うわけではないようだ。片想いされてる女の子なら警戒して当たり前か。
結局有璃栖は俺の後ろから出てこず、伊崎は伊崎で壁になっている俺の存在を無視して彼女に話しかけ続けていた。めげないヤツだ。
「広瀬、こばっちは?」
俺は集まった顔ぶれを見回して聞いた。
「タクシーで来るって言ってた」
広瀬が答える。
タクシーだと?なぜバスじゃないのだ。もしくは家の人に送ってもらってもよかろうに。
しばらくしてロータリーに、小さめのワンボックスカーが入ってきて俺たちの近くに止まった。スライドドアが開いて、ロングヘアに編みこみでメガネをかけた女の子が降りてきた。
「すみません!遅れましたか?」
かなり焦っている。
「まだ集合時間前だよ。今ちょうどバスが着いて、一気にそろったんだ」
俺が言うと、こばっちはホッとしたように後部ハッチへと回った。こういうタイプのタクシーもあるのか。聞いたことはあるけど、見るのは初めてだ。
「よい、しょ」
こばっちが力を込めて荷台から下ろしたのは、海外旅行に行く人しか使わないような大きなスーツケースだった。
駅から最初の電車にドヤドヤと乗り込む。二時間後に一度乗り換えなければいけない。その切符やお金の管理は全て広瀬がやってくれている。性格的に細かいことが得意ではなさそうだが、勉強のできる人は段取りもいいらしい。
お盆ということで電車は混んでいて、しばらくはみんな立っているしかなさそうだ。一つだけ空いていた座席は、すでに青い顔をしている毛利先生に譲ることにした。部員たちの総意である。内訳は、優しさが一割、合宿初日から吐く人を見たくないという気持ちが九割だ。
「あんた、もう酔ったの?まだ十分しかたってないよ」
座席のすぐそばに立っている江波先生が、あきれたように毛利先生に言った。
江波先生は本来保健室の先生なのだから、特定の部活の合宿に同行することは通常ない。だが俺がさりげなく「温泉がある」とアピールしてみたところ、毛利先生のケアと特別参加の岸野有璃栖の保護者代わりに私が必要です!と学校側にすごい迫力でかけあい同行の運びとなった。盛田先生が欠席で、大人が毛利先生だけだと不安だっただけに江波先生の存在は心強い。
「だ、大丈夫です。今日はみんなに迷惑かけないように、薬を持ってきました」
毛利先生はウエストポーチから小さな錠剤を取り出した。
「それ酔い止め?見たことないヤツだね」
江波先生が錠剤を見てけげんな顔をした。
「いえ、睡眠薬です。これで到着駅まで眠れば、酔ってみなさんに迷惑をかけずに済みます」
言って、おもむろにミネラルウォーターと一緒に錠剤を飲んでしまった。
「バカ、やめろ!」
「ちょっ……毛利先生!途中で一回乗り換えて、そこからまたバスに乗るんですよ!眠っちゃだめじゃないですか!」
俺と江波先生は必死に肩をゆすった。
「んー?」
ダメだ。すでに目が半開きになっている。乗り換えの時は島にかついでもらうしかないな。
まったく、世話のやける大人だ。
一時間ほどたって、乗客がどんどん少なくなっていった。四人がけのボックス席がちょうど空いて、江波先生、女子マネ二人、そして有璃栖の女四人に譲ることにした。四泊五日の間、食事と洗濯の面倒をみてもらうのだ。今からご機嫌を取っておくに越したことはない。
しかし、と俺は考えてしまう。合宿の間、みんなの食事を作って、洗濯もしてほしいと広瀬とこばっちに頼んだ時、洗濯については「説明書があるだろうから任せて」と答えてくれたが、食事についてははっきりした返事をもらえてない気がする。女が四人いて、一人も料理できないなんてことはありえないと思うのだが。
「未散」
直登がそばに来て言った。
「ん?」
「岸野さんは、どうだった?」
聞かれて俺はボックス席の方に目をやる。有璃栖はごく普通に女同士で談笑している。
「どうだも何も、もっと落ち込んでると思ってたけど、そうでもなくて安心したよ」
「そうかな」
「何だよ、それ」
「人には空元気ってものもあるからね。特に女の子は社会性があるから、なおさら分かりにくい」
「えー、そうかな」
言われて俺はもう一度ボックス席の方を見た。あんまり見すぎて、有璃栖と目が合ってしまった。わ、気まずい。
有璃栖は「何か?」とでも言うように小首をかしげて、また談笑に戻っていった。
「全然そんな風に見えない。お前の考えすぎだって」
俺が言うと、直登は笑って何も言わなかった。
また一時間後、今度は超ローカル線への乗り換えだ。事前にきちんと確認し、無事ホーム反対側の電車へぞろぞろと乗り込む。
よし、何の問題もない。
島が毛利先生を、狩りで仕留めた獲物のように肩にかついでいる。島、たまには断っていいんだぞ。
「やけに空いてるな」
銀次が席に座りながら言った。そう言われればそうだ。
「電車は間違ってないと思うぞ」
俺は一応広瀬を呼んだ。
「何?」
「電車ってこれで合ってるよな?」
広瀬はガラガラの車内を見て、
「合ってると思うけど。でも、やけに空いてる」
「そうなんだよな」
俺は体半分を開いているドアから乗り出し、電光掲示板を見た。
『……後ろ寄り四両は切り離しとなります』
切り離し?確かこの車両は一番後ろだったような。
「おい、みんな!この車両、切り離して置いてかれる方だ!前に移動するぞ!」
俺はみんなに叫んだ。
「えーっ!」
「もっと早く言えよ!」
時計を見る。後二分で出発だ。みんなが慌てて車内を前方へ走りだす。ホームに出て走りだすヤツらもいる。
俺はこばっちを見た。案の定、大きなスーツケースを座席の手すりにガンガンぶつけながらモタモタ進んでいる。
「こばっち、スーツケースごと一旦ホームに出るぞ。その方が早い」
「えっ!お、降りるのは怖いです」
こばっちは急に不安げな顔になった。
「この車両にいたって、間に合わなかったら置いてかれるんだから」
「そ、そうですね。分かりました」
すると、銀次が通路を行きかけて戻ってきた。
「小林、俺のバッグ持っててくれ。俺がホームで走る」
「え、いいんですか?」
こばっちが銀次のバッグを受け取る。
「おお、頼んだ銀次。あと二分切ってる」
「任せろ」
銀次はこばっちのスーツケースをホームに引っ張りだすと、両手を添えて一気に走りだした。
「精密機械が入ってるから、優しくー!」
こばっちの声は届いたかな。俺は車両内の忘れ物を確認して、ホームを出て走りだした。
みんなからブーイングを浴びながら、何とか無事乗り換えが完了した。電車がキイキイ言いながらゆっくりと走り出す。俺はほうっと息をついて長椅子に座り込む。乗客の数は切り離された車両と変わらなかった。つまり誰もいない。今から合宿所のある場所に向かう連中は俺たちくらいなのだ、きっと。
ローカル線らしいゆるやかな横揺れが、心地よいような気がするし、酔いそうな気もする。毛利先生は寝かしておいて正解だったかもしれない。
電車がトンネルに入る。ほんの数秒だけ暗くなって、すぐに視界が開けていく。
「海だ!」
伊崎が叫ぶ。俺も思わず反対側の窓に駆け寄った。
キラキラと反射する夏の海が目の前に広がっている。いつ以来だろう、海を見るなんて。いつ以来どころか、来た記憶が無い。
ふと伊崎を見ると、海に負けないほどのキラキラした目で窓の外を眺めていて、いつのまにか頭に水中メガネをかけていた。
「伊崎、何だその水中メガネは。今日は海行かないぞ」
「分かってますって。気分です、気分」
何となく気になって有璃栖を見ると、あきれたような冷たい目で伊崎を見て、ため息をついている。いかん、バカな行動が好感度マイナス一直線だ。
俺は席に座り直し、海の反対側の景色を見ることにした。どんどん緑が多くなって、畑と民家がポツポツと見えるくらい。遠くにうっすらと山が見える。あれが例の火山か。見たところ、煙は吹いていない。
「火山、大丈夫みたい」
いつのまにか俺の隣に座った広瀬が、俺の心を読むように言った。同じ景色を見ている。読まなくても、見てる方向でわかるか。
「そうだな」
言って、ちらりと広瀬の横顔を盗み見る。今朝はなぜか不機嫌だったが、すでに忘れているようだ。
「広瀬は、海久しぶりか?」
「うん。小学生の時、家族で海水浴行ったきり」
「ふーん。そっからは行かなかったのか」
聞くと、広瀬は自分の左足を指さした。
「傷跡、目立つから」
「あー、そうか。ごめん」
無神経だったかな。せっかく機嫌直ってたのに。
しかし広瀬は気にした風もなく、
「いいよ、別に。今回は、海久しぶりだから楽しみだったし」
と明るく言った。
「おお、そうか」
水着になってくれるのか!と言いたい気持ちをグッと我慢して無難にあいづちを返す。俺も成長したもんだ。
広瀬はジーッと俺の目を見て、
「何か不自然」
と鋭く切り込む。顔に出てたか。
「何も言ってないって。そ、それより」
俺は少し声を落として言った。
「有璃栖の方は、どうだった?落ち込んでないか?」
広瀬も同じく声を落として、
「別にそこまで元気がないとは思わないけど。でも、何か考えこんで話聞いてないようなところはあった」
「なるほど」
初日から焦っても仕方ないか。それに、合宿本来の目的は守備戦術の強化だ。有璃栖にばっかり気を取られているわけにはいかない。
「でもさ、ずいぶん仲良くなったね。有璃栖ちゃんと」
広瀬がニヤッと笑う。
「何もやましいことは無い。会ったのだって、合同練習以来だし。それに、伊崎が惚れてるの知っててこっそり出し抜くような真似はしないって」
「そんなに一生懸命言い訳しなくてもいいけどね」
ここでやっと、俺は広瀬にからかわれていることに気がついた。自分でもイヤになるほど鈍い。
「でも可愛いじゃない、有璃栖ちゃん」
「そうだな、でも」
「でも?」
でも、俺が好きなのは。
「何でもない。もうすぐ着くぞ。三つ先だ」
俺はプイッとそっぽを向いて窓の外を見た。
「何?怒ったの?」
広瀬が何か言っているが、俺は答えなかった。他の女の子が可愛いなんて話題、片想いの子から聞きたくないじゃないか。
電車が無事最寄り駅に到着し、十五分ほど待ってバスに乗り込む。合宿所の送迎バスではなく、普通の路線バスだ。
白髪頭の運転手が大きなハンドルをゆっくりと回し、出発する。乗客は俺たちだけ。
バスはどんどん山道を進み、道中はクネクネとカーブしていく。あまり酔わない俺でも少し気分が悪くなった。こばっちはすでに顔が青い。隣で有璃栖がこばっちの背中をさすってあげている。いい子だ。
毛利先生は一番後ろの座席で眠っているが、なぜか顔が青い。眠りながら酔っているのだろうか。
バスは三十分きっかりで、目的のバス停に到着した。みんなグッタリした顔で荷物を持ってバスを降りる。地元の駅を出てから三時間。もうすぐ十一時だ。朝飯が早かったのですでにお腹が空いている。
「おおーっ!」
皆口々に声を上げる。山の中にポツンと現れた白い建物。ネットで見たのと同じだ。思ったより綺麗でよかった。
「こんちはー」
玄関を開けて声をかけると、「はーい」という声とともに一人の女性がパタパタと歩いてきた。ほっそりとした、優しそうなおばさんだ。
「いらっしゃい。遠くまでまあ、よく来てくれたねえ」
目を細めてニコニコしている。この人が管理人かな。何となくいい人そうでよかった。
「どうも、しばらくお世話になります。本河津高校サッカー部、キャプテンの藤谷です」
「はじめまして。この合宿所の管理人やってます、丸田です」
深々と頭を下げられ、こっちも恐縮して合わせてしまう。
「食材は、先にクール便で届いてますよ」
「はい、ありがとうございます」
俺はちょいちょいと広瀬を呼んだ。
「広瀬、食材届いてるらしいから、あと頼んだ」
「ん、分かった。あ、ど、どうも、こんにちは」
おお、広瀬が緊張してあいさつしている。新鮮だ。
そっちはとりあえず広瀬たちに任せて、俺たちは割り当てられた部屋へ向かう。他に客はいないので使い放題といきたいところだが、団体でも使う部屋数によって総額が変わってくるため、一階に男子が学年で分けて二部屋、二階が女子四人で一部屋というケチくさい割り振りになった。
「おっ、結構広いじゃないですか、藤谷さん」
芦尾が珍しく俺の仕事を評価してくれた。
部屋は一般的な温泉旅館の部屋二つ分ほどの広さで、二十畳はあるだろうか。十人分の布団を敷いても楽勝だ。
とりあえず朝コンビニで買って来た昼飯のサンドイッチを食べつつ、午後のプランを副キャプテンの直登と相談する。
「練習場って、ある程度整備されてるかな?」
「ここの持ち物?」
「いや、わからん。自治体かも」
「それによって変わるけど、ずっと利用者がいなかったんなら、ちょっと荒れてるかもね」
「別にちょっとくらい荒れてても、石が転がったりしてなきゃ構わないんだけどな」
話していると、視界の端で芦尾が何やらゴソゴソとした動きを見せていた。
「芦尾、どっか行くのか?」
「いやあ、ここ大浴場あるんだろ?ちょっとひとっ風呂浴びて来ようと思って」
「夕方日帰り温泉行かないのか?」
「それも行くよ。俺、温泉マニアなんだ」
言って、ヘラヘラ笑っている。怪しい。
「まさかお前、のぞきの下見に行こうなんて思ってないだろうな」
芦尾の体がビクッと反応し、固まった。
「ナハーハハハー。そーんなわけないじゃないッスかー藤谷さーん。俺、本当に広い風呂大好きなんだって」
これはクロだ。俺は一つため息をついた。
「あのな、芦尾。確かに女風呂をのぞくというのは男子にとっては見果てぬ夢だ。それはわかる」
「何だよ、いきなり」
芦尾が毒気を抜かれたような、けげんな顔になる。
「だが考えてもみろ。どんな温泉も大浴場も、のぞけるポイントなんてそうそうあるわけじゃない。仮にもしのぞける隙間があったとしても、その隙間から見える範囲でちょうど全裸の可愛い子が見える確率なんてどれくらいだ?」
「う」
「それに、もし初日から広瀬たちにバレてみろ。合宿中の食事や洗濯、一人だけ無しになるぞ」
「げ」
「それでもまだ裸が見えればいい。最悪なのは、見えずに未遂に終わったのに、覗こうとした企みだけ気づかれて同罪になることだ」
「そんな理不尽な!」
「そしてみんなが楽しみにしている海も、一人だけここで留守番。水着姿のマネージャーたちをひと目も見られずに帰るんだぞ」
「何だと!?」
芦尾はガックリとひざをついた。
「す、すまん、藤谷。俺が間違ってた」
「いや、わかってくれればいいんだ。さあ、立ってくれ」
「俺、本当は風呂なんて十分で洗ってちゃっちゃと出たいくらいめんどうなタチで」
「温泉はもうちょっと楽しめよ」
「じゃあ、代わりに人間ボウリングやる」
きょとんとして聞いていた二年部員が視線を芦尾に集める。
「おい芦尾、何だよそれ」
銀次が興味をそそられたように聞いた。芦尾は身振りをまじえながら言った。
「こう、オケをピラミッド状に積んでいくだろ?それで、体中を石鹸の泡まみれにして、オケのピラミッドに頭から滑り込んでいくんだ」
「勝負の基準は何だよ」
「崩れ方の美しさを競う」
「くだらねえ」
黙って聞いていた冬馬がつぶやいて畳に横になった。
「練習行くとき起こしてくれ」
そう言って昼寝を始めた。電車にもバスにも酔わないし、小さいのにタフなヤツだ。
軽い昼飯と休憩を終えて、俺たちはサッカーコートのある練習場に向かうことにした。合宿所を出る時、「ごめんねえ」と管理人さんになぜかカギを渡された。フェンス入り口のカギではなく、芝刈り機のカギだという。お好みの長さに刈れってことなのかな。
その謎は、練習場に到着した途端に解明された。
「……何じゃこりゃ」
ちょっと荒れているだろう、と想定していた芝コートは、長短織り交ぜた草がボウボウの状態で、石やら空き缶やらのゴミも散乱している状態であった。まさかここまでひどいとは。
「おいおい、藤谷さーん。ここから整備するんすかー?」
芦尾が俺に愚痴ってくる。冗談交じりだが何となく本気で言ってることはわかる。みんなの冷たい視線が痛い。
「わ、わかった。俺が責任持って」
「キャプテン!」
言いかけた時、伊崎が目を輝かせて目の前に現れた。
「わあっ!な、何だよ」
「あれ、芝刈り機ですよね?」
伊崎が指さす先には、赤い車体のトラクターのような車が停まっていた。前方にローラーが二つついていて、高いところに運転席とハンドル。確かに芝刈り機だ。
「ああ、多分な」
「俺、刈りたいっす」
「え」
「一度やってみたかったんです!カギを渡されたってことは、俺たちが運転してもいいんですよね!」
「あ、ああ。そうだ」
「それで綺麗にできたら、この広い芝コート使い放題なんですよね?」
「その通りだ」
「イヤッッホウ!」
俺の手からカギを奪い取り、伊崎が芝刈り機に走っていく。皆藤が「それは俺のだ!」と言って追いかける。何が俺のなんだろう。
ふと有璃栖を見ると、ちょっとだけ楽しそうな表情に見えた。
「どうした?」
聞くと、伊崎が芝刈り機へ走っていった方向を見て、
「藤谷さん。伊崎君がいいヤツだって言ってましたよね?」
と聞いた。
「うん、言ったと思う」
「ちょっとだけ、わかった気がします」
そう言って、有璃栖は笑った。
つづく