第24話「怒ってる?」
藤谷家で勉強会。
六月最後の日曜日にして最後の日。
明日からテスト週間なので、今日でしばらく部活はおやすみだ。もちろん自主練はやってもいいが、校内でおおっぴらに集まって練習というわけにはいかない。夏休みになれば一日中練習ができるとはいえ、やはり二週間も午後練ができないのは厳しい。
練習を終えてみんなが部室で着替えている最中、広瀬がドアを開けた。
「もういいー?」
「開けてから言うなよ」
俺の言葉には特に反応もせず、ズンズンと部室に入ってくる。ついこないだまでは、着替え中だけは遠慮して入らなかったものだが、待つのが面倒くさいという理由でおざなりな確認だけでズカズカ入ってくるようになった。後からこばっちもついてきていて、さすがに気まずそうに顔を伏せている。
そうそう、これこれ。これが着替え中の男子の部室に入った、正しい女子の反応なのだよ、広瀬さん。
「キャー、着替え中よー」
上半身裸の芦尾が両手で左右の乳首を隠す。広瀬は冷やかににらみつけて、おもむろに芦尾のお腹の肉をつまんだ。
「やん」
「やんじゃない!何、このお腹。あんた本当に運動部?」
こばっちが「夏希ちゃん、大胆すぎるよー」と一人で慌てている。
「甘いな、チーマネ。このお腹がポストプレーの安定感につながっているんだぜ」
「しょーもない言い訳してないで、ちょっとは引きしめて。あと、チーマネはやめて」
「アウチ」
一度ひねりを加えて広瀬は芦尾のお腹を離した。芦尾は「いたー」と言いながら赤くなった部分をさすっている。今日は広瀬、機嫌悪いのかな。
しかし芦尾め、広瀬に触られてまんざらでもない顔をしている。策士だな。ちょっとうらやましい。
「何だよ、マネージャー。こえー顔して」
せっかちな銀次はすでに着替えを終えている。この男は制服を脱ぐ時、上のボタンを二つだけ外し、下に着ているTシャツと合わせて一気に脱ぐという技で着替え時間を短縮している。着替えを一、二分短縮したところで、どうなるもんでもあるまいに。
「みんな、期末テストは大丈夫なの?」
広瀬の言葉に部員たちがビクッと固まる。
「一つでも赤点取ったら、補習と追試で夏休み三日もつぶされちゃうんだよ。その間はもちろん部活も禁止だし」
そうなのだ。赤点取ったら、ただ追試を受ければいいというものじゃない。その前に補習が二日間ある。ひどい話だ。
「だからやばそうな人は早めに言って。英語と数学なら、私と紗良ちゃんで力になるから」
しばらくざわついて、最初に伊崎が手をあげた。
「俺、数学やばいッス」
おお、予想通り。
「俺は英語だ。日本人だからな」
銀次も中学生みたいな屁理屈を言いながら手をあげる。確かに銀次に英語は似合わない。
菊地が俺を見て、
「何か余裕かましてるけど、藤谷はどうなんだよ。お前がいなきゃ練習始まんないぜ」
と言った。
「心配するな」
俺はうなずいた。
「すでに広瀬先生とこばっち先生に予約済みだ」
「そっちの余裕かよ!」
菊地があきれたように頭を振る。そういや菊地は、豊富な人脈でノートを借りて毎回テストをしのいでいるヤツだった。俺は普段しゃべらない相手に、テスト前だけ友達のフリして近づく根性は嫌いだ。ノートを見せてくれと言われたこともないけどさ。
意外にも我がサッカー部は学業に関しては皆そこそこ優秀なようで、最終的に俺、伊崎、銀次の三人が特別強化メンバーに選ばれることとなった。俺はスタミナ強化プールトレに続いて二度目の選抜だ。キャプテンなのに不名誉この上ない。
「じゃあ明日から、放課後勉強会するけど……場所どこにする?」
広瀬が言った。場所か。
「図書館はだめなんですか?」
伊崎がもっともな疑問を口にする。
「図書館は黙って自習するにはいい環境なんですけど、教えるには話さないといけないので不向きです」
こばっちが答える。こちらももっともだ。
俺もぼんやりしてないでアイディアを出そう。
「視聴覚室は?」
「特別教室は、開放したらキリがないから一律禁止だって」
広瀬にバッサリ斬られた。それもそうか。
「未散の家でやればいいじゃないか」
黙って聞いていた直登がさわやかなスマイルと共に言い放った。自分は成績いいからって、全くの他人事だ。
「何でだよ。五人も入れるか」
「2DKなら入れるよ。ねえ、広瀬さん?」
言って、広瀬に笑いかける。広瀬も不敵な笑みを浮かべて俺を見た。
「私も大丈夫だと思う」
美男美女にハメられてる!世の中間違ってる!他人事だと思いやがって。
「やった!俺いっぺんキャプテンの家行ってみたかったんですよ」
なぜか伊崎がはしゃいでいる。事情の分からない銀次に俺が一人暮らしだと説明すると、
「本当かよ。おめー、意外と苦労してんだな」
しみじみと同情されてしまった。どんなアパートを想像してるんだろう。聞くのが怖い。
「銀次君、あんまり同情するとバカをみるよ」
広瀬が意地悪な顔で余計な忠告をしている。どういう意味だ。
翌日。
今日から七月。六月は下旬に結構雨が降って涼しい日が続くこともあったが、今日はかなり蒸し暑い。
これから夏がくる。
まだまだ先だと思っていた県大会も、あと三ヶ月と半分ほどで始まる。俺たちは本当に強くなっているのかな。
確かめたい。
でも、これから練習試合を組む相手は慎重に選ばないといけない。もし大会で当たる相手になったら、事前に手の内を明かすことになるからだ。オーソドックスなチームならともかく、うちは銀次、伊崎、金原の頭など飛び道具が多い。攻撃も速攻がメイン。秘密にしておくに越したことはない。でも、こばっちに一任してある戦術の完成度や、個々のトレーニングの成果なども確認したい。悩むところだ。練習試合だけを目的に県外までお金使って行くのも厳しいしな。
「未散。聞いてる?カギ開けてよ」
広瀬が俺の顔を覗き込んで言った。その整った顔が近いことに今さら気づき、血流が速くなる。そうだ。俺、広瀬、こばっち、銀次、伊崎の五人で俺のアパートまで歩いてきたんだった。昨日の会議では結局家主の俺の意見は一切採用されず、我が家が勉強会会場に決定した。俺にできる抵抗は、「お茶菓子は自分で買ってこい」と言うくらいのものだった。その意見は採用されて、それぞれ途中のコンビニでお菓子を買っていた。
「お、おお。ごめん。考え事してた」
俺は慌ててカギを取り出して玄関を開ける。今日で来るのが三度目になる広瀬が、俺より先に入っていく。
「入って。何もないけど」
「俺の家ですけど」
「お邪魔しまーす」
他のメンバーも俺を追い越してドカドカと入って行く。遠慮というものがないのか、全く。
「おお!結構広いじゃねえか」
「二部屋あるなんて!キャプテン、ブルジョワですよ!」
銀次と伊崎があちこちのドアを勝手に開けている。多分止めてもムダだ。せめて壊さないでほしい。
「そうかな。他のアパート見たことないから分からんよ……ん?」
見ると、こばっちが目をキラキラさせてリビングの天井を見上げている。
「ロフトだあ。ロフトがあるー」
「あんまり使ってないけどね。上ってみる?」
「いいんですか!?」
こばっちにしては珍しく、熱のこもった口調で食いついてきた。ロフトに憧れがあったのか。意外な一面を見た。そういや広瀬も初めてこの部屋に来た時、目をキラキラさせて上って行ったっけ。女子はロフトが好きなのか。
こばっちがはしごに手をかけ、タタタッと上って行く。小柄なだけに動きも軽やかだ。
「わー、クッションもあるー」
ふかふかのクッションをボスボス叩いて遊んでいる。あのクッションは人を暴力的にさせる魅力があるらしい。
「こばっち先輩!次俺、俺ですからね!」
予想通りというか、伊崎も上りたがっている。この人たちは何しに来たんだ。
「広瀬ー。飲み物出すから手伝ってくれ」
言って探すと、いつのまにかうちのチーフマネージャーは俺のお気に入りの座椅子に座り込んでいた。くつろぎすぎだ。
「分かった」
言って、広瀬が立ち上がる。
「あの座椅子は俺のお気に入りだ。取るなよ」
キッチンで冷蔵庫を開け、麦茶の大容量ペットボトルを引っ張りだしながら俺は抗議した。広瀬はコンビニで買って来た紙コップを並べながら答える。
「今日の目的は?」
「勉強会」
「今日の私の立場は?」
「先生」
「そう。じゃあ、あの座椅子は誰が座るべき?」
「……使ってください」
「よろしい」
あまりにも理不尽な仕打ち。こんなことなら六月中に勉強しとくんだった。最近プールトレが楽しくなってきて、スポーツセンターの閉館ギリギリまで温水プールで泳いでは帰ってすぐ寝るという生活をしていた。宿題すら当日の朝に広瀬に見せてもらっていたくらいだ。
でも、と俺は広瀬の横顔をこっそり盗み見る。二人きりにはなれなかったけど、こうして家に来てくれる理由ができた。これはこれでよしとするか。
「何?」
広瀬が紙コップに麦茶を注ぎながら言った。
「何って、何さ」
「何か言いたそうに見てたから」
ばれてたー!
どうしよう。言い訳を用意してない。
「べ、別に見てなんかいないさ」
ヘタクソー!言い訳にもなってないじゃないかー!
「はい、持って行って」
どこから見つけたのか、お盆の上に麦茶の入ったコップを五つ乗せてこちらに差し出す。とにかく話がそれたのはありがたい。俺は素直にお盆を受け取ってリビングに入っていく。
部屋の散策に飽きた銀次と伊崎の二人がテレビを勝手につけて真ん前に座っている。一言いいたいところだが、おとなしく座っててくれるならいいか。
「あれ、こばっちは?」
俺は振り返ってロフトを見上げる。こばっちはロフトのヘリに手をかけて、神妙な顔で下を見ていた。
「こばっち、ロフトを気に入ってくれたのはいいけど、そろそろ始めようぜ」
「は、はい」
こばっちは動かない。まさか。
「……降りられないの?」
「うっ」
黙ってしまった。図星か。
「何やってんの?早くテーブル出してよ」
広瀬が皿にお菓子を乗せてやってきた。
「いや、こばっちが」
「何」
俺は事情を説明する。
「どうして一人で降りられないのに上るの!子猫じゃないんだから!」
広瀬がはしごに足をかけて、こばっちに手を伸ばす。
「ごめんなさーい。怒らないで、夏希ちゃん」
こばっちは泣きそうな顔で広瀬に支えられて降りてきた。俺はお茶の乗ったお盆を伊崎に渡し、大きめの折りたたみテーブルを押入れから引っ張りだした。四人が教科書とノートを広げて勉強できる大きさがあり、普段は全く使っていない。父がアメリカに行く前、リサイクルショップに持って行ったら買取価格が百円と言われて、キレて持ち戻った一品だ。かと言ってアメリカにまで持っていくこともできずにこのアパートに押し付けられた。今日のところは捨てずに取っておいてよかった。
みんながそれぞれ準備をして、やっと勉強会が始まった。最初はこばっちの数学から。英語担当の広瀬は一人、本棚をしげしげと眺めている。
「広瀬。本棚じろじろ見られると、気になって集中できん」
俺は言った。
「アルバムは?」
広瀬は真面目な顔で問い返した。
「え?」
「アルバム。成長の記録」
「それは知ってる。しかしうちには無い」
「何で!?」
「父さんが持って行った。寂しくなったら見るって」
広瀬は低くうなって黙りこんだ。もしかして、こないだお見舞いに行った時、アルバムを秋穂ちゃんと見ていたことをまだ根に持っているのか。まさかな。
とりあえず、俺がこばっちに数学、銀次と伊崎が広瀬に英語を教わる割振りになった。
こばっちが一冊の問題集を俺に渡す。
「まず、藤谷君がどれくらいの実力か確認させてください。それから、教え方を考えます」
「おす」
一問目を見る。何となく授業で見た気がする文字だ。思い出せ。集中するんだ。授業で聞いてたら脳ミソのどっかに残っているはずだ。
三十分後。
こばっち先生が難しい顔で俺の答案を採点している。ロフトに上ってはしゃいでいたのが嘘のような真剣さだ。やはり数学に関しては並々ならぬ情熱がある。
ぱたん、とこばっちが問題集をテーブルに置く。
「ど、どう?こばっち」
我ながら、計算問題はそこそこ書けたと思う。文章題がイマイチ自信ないが、何問合ってるかな。
「全然ダメです」
「……マジで?」
こばっちの目が怖い。フー、と大きく息をついて、おもむろにノートに式を書き始めた。全部で五個。何のことだか一つも分からない。
「藤谷君!」
「は、はいっ」
こばっちはノートをこちらに向けてビシッと式を指さす。
「この五つの公式を、そらで言えるまで何度も書いて、丸暗記して下さい」
「げ」
思わず顔をしかめる。
「夏休み、補習受けたいんですか?」
「いやです」
「じゃあ覚えてください」
迫力に押され、俺は公式をカリカリと何度も書き始めた。
「よくこれで中間テスト赤点逃れましたね」
こばっちがさきほどの答案を見てため息をつく。
隣で英語を教えていた広瀬が、
「あ、中間の数学なら、私が直前にヤマ教えてあげたと思う。ね、未散」
と言った。
「おお。あれは助かった。広瀬のおかげでインハイ予選出られて、あのフリーキック決められたようなもんだ」
「ひれ伏してもいいよ」
「やだ」
手を止めてやり合っていると、こばっちの視線に気づいた。
「……」
それは怒っているのかどうか、俺には判断できなかったが、言うべきことは一つ。
「ごめん、こばっち先生。ちゃんとやりますから、見捨てないで」
「見捨てませんよ。真面目にやってくれれば」
俺はとにかく地道に公式を繰り返し書き続けた。あまりに繰り返して書いたので、この文字何だっけというゲシュタルト崩壊現象に襲われたほどだ。
再び三十分ほど経って、こばっちが新しい問題を三つほど渡してきた。どうせまた難しいんだろうな。
「ん?」
分かる。分かるぞ。覚えたての公式のxやyの位置に入る値が。
「こばっち、分かるぞ」
「はい。忘れないうちに解いてください」
やっとこばっちが八重歯を見せた。機嫌が直ったようだ。
今度の答案はほとんどがマルで、その後の大きい文章題も教えてもらいながら何とか解く手応えをつかみはじめた。
「でも分からんな。何で公式五つ覚えただけで解けるようになったんだ?」
俺は首をかしげて言った。
「それは、数学の問題というのもが公式を使って抽象的な思考ができるかどうかを試すものだからです」
「というと?」
こばっちは問題の文章を指差した。
「この文章だけでは、公式に当てはめる値が一つしかありません。だから、文章内にある値と図形を使って、公式に使える値を作り出すんです。それがわかっていれば、ケアレスミスで最後の答えが間違っていても、過程で部分点がもらえるというわけです」
「へー」
知らなかった。どうりで、部分点を狙って計算したフリを書いても一点ももらえなかったはずだ。
ちょっとゆとりが出てきた俺は、ふと銀次の様子に気づいた。くつ下の上から足の指を何度も触っている。前からオヤジくさいヤツだと思っていたが、まさかにおい嗅いだりしないだろうな。
「銀次君、足痛いの?」
広瀬が言った。銀次はビクッと足から手を離す。
「いや、別にそんなんじゃねえけどよ」
俺も言った。
「銀次。もし足に何かあるなら言ってくれ。県大会には万全で臨みたいんだ」
俺と広瀬に問いつめられて、銀次はおもむろにくつ下を脱いだ。
「うわっ」
マメ、というより血マメと言った方がいいくらいのものが、右足の親指にできていた。見るからに痛そうだ。
「昨日、気づいたらできてたんだ。いってーの何のって」
「それで昨日、狩井に何度も負けてたのか」
昨日のミニゲーム。いつもなら圧倒的なスピードで右SBの狩井を置き去りにする銀次が、何度も止められていたのだ。狩井が上達したのか、それとも銀次が油断したのかと思っていたが、何のことはない。ケガだ。
「スパイク、まだ狩井のお古使ってるのか?」
「ああ。新品は高くて買えねえからな」
「サイズが合ってないのかな」
「ちょっとな。狩井の方が大きいんだ」
「銀次君、サイズは?」
広瀬が聞いた。
「26だ」
俺が27だから、2サイズ下か。俺のも大きいな。こすれて結局マメになってしまう。
「……ん?」
広瀬が俺を見て謎めいた笑みを浮かべている。何だろう。
「未散、あれ貸してあげたら?あのサイズが合わない青いスパイク」
「なっ!」
何を言い出すんだ。
「ダ、ダメだ!あれは限定品だし、インテリアとして飾ってるんだ」
今日はホコリよけのためにしまってある、あの青いスパイク。そういやこないだ、広瀬が俺を迎えに来た時見つけて聞いてたな。まずった。見せなきゃよかった。
「何だよ、そんないいもんあるなら見してくれよ」
銀次がくつ下をはきながら言った。
「展示用のインテリアだからダメだ」
「何だ、おもちゃの話か」
俺は思わずムッとして、
「おもちゃじゃない!れっきとしたスパイクだ!」
と抗議した。
「だって、銀次君」
広瀬が笑う。しまった。墓穴掘った。
俺はしぶしぶロフトに上り、すみっこに置いてあるオレンジの箱から青いスパイクを取り出した。
サイズは26。これは何かの間違いだ。
「ん」
はしごを降りて、俺は銀次にスパイクを手渡す。
「おおっ。すっげーかっこいいじゃねーか」
銀次の目が輝く。
「キャプテンずるい!こんないいの隠してた!」
伊崎も文句を言ってきた。
「お前は26・5だろ。小さいよ」
「くうう、0・5センチの悲劇!」
おおげさに嘆く伊崎。つくづく見てて飽きないヤツだ。
「そういえば、銀次君。陸上部でも青いシューズだったよね」
広瀬が言った。そうだっけ。広瀬と一緒に銀次に会いに行ったのがはるか昔のことのようだ。全然覚えてない。
「お前よく覚えてんな。で、はいていいか?」
キラキラした目で銀次が言った。
「はくだけだぞ」
そんな目をされて断れるか!
銀次は器用にひもを解いて、テキパキとスパイクを装着していく。あっという間に両足をはきおわり、立ち上がった。
「似合いますよ、銀次君」
こばっちが小さく手を叩く。頼むからあおらないで。
「お、そうかい?」
まんざらでもない銀次。広瀬は靴屋の店員のように、はきごこちを確認している。
「ちょっと……走ってみてえな」
「ダメー!」
俺は止めた。何度も止めた。
一分後、銀次はスパイクをはいたまま外へ飛び出して行った。
「せめてアスファルトの上は避けろ!裏が痛む!」
俺の叫びは届いただろうか。
「まったく、ひどい女だ」
俺は広瀬に言った。
「いいじゃない。ただ飾っておくより、惚れ込んで引っ張ってきた選手に使ってもらえれば。あのままだとマメだけじゃ済まなかったかもよ」
「それはそうだけどさ」
確かにそうだ。銀次のスピードがマメで損なわれてしまったら大変だ。でも、でもなあ。
「アルバムのことは、これでチャラにしてあげる」
広瀬がフフンと笑う。やはり根に持っていた!執念深いにもほどがある。
そわそわしながら待っていると、十分ほどして銀次が戻ってきた。スパイクを確認する。特に汚れてはいない。助かった。
「藤谷、これ最高だぜ!フィット感が全然違う!最高だ」
銀次が興奮した様子で息を切らす。みんなの視線が俺に突き刺さる。言えっていうのか、その一言を。
「……わ、わかった。県大会まで、貸す。その後は、自分で買ってくれ」
喉から絞り出すように声を出す。断腸の思いという表現をこれほどまでに実感したことはない。
「おお、サンキュー!」
もう一度外に出ようとする銀次を何とか引き止める。
「いいなー、銀次先輩だけ。俺も何かくださいよー」
伊崎がふくれっつらになる。
「あげたわけじゃない。貸しただけだ」
言って、俺はあることを思い出す。
「伊崎。昨日、桜女の岸野さんからフリーキックの動画送られてきたんだけど、見るか?」
「岸野さん!?」
伊崎のテンションがMAXになる。
実は先週くらいから、岸野さんからちょくちょくフリーキックの動画がLINEで送られてきているのだ。何か気づいたことがあったら言って欲しいという話だが、元々上手い選手なのでケチのつけようもなく困っている。俺はこういう風に蹴っている、と伝えるのが精一杯だ。
あとこれは伊崎には秘密だが、伊崎から送られてくるメールについて岸野さんから相談も受けている。何でも、一方的に自分の一日の行動を記録して送りつけてくるらしく、どう返事をしていいか困っているという話だ。一言でも返事があれば嬉しいから、短い返事でいいよ、と言っておいたが、果たしてどうなったか。
「実は最近、岸野さんのリアクションが良くなったんですよ!」
伊崎が嬉しそうに語る。おお、アドバイスの効果があったか。
「前は五回に一回しかメールに返事が無かったのに三回に一回返事がくるようになったんです。広瀬先輩!彼女、俺のこと好きなんですかね?」
「その質問は保留します。まずメールの回数減らしなさい」
広瀬が至ってクールに返す。
「でも意外。未散が年下の女の子とこっそりメールしてたなんて」
冷やかすように広瀬が言った。こばっちもうんうんとうなずいている。
「こっそりじゃない。サッカーの話題だけだって。俺がそんなにモテるわけないだろ。伊崎、これだ」
伊崎を呼んでスマホの動画を見せる。映像の中には、こないだ試合をした桜女の芝グラウンドとそこに立つ岸野有璃栖。
「やっぱ、可愛い……」
伊崎の目はすでにハートである。
映像は岸野さんの後ろから撮られていて、ボールの行き先と曲がり具合が見える角度だ。
岸野さんは数歩ゆっくりと踏み出すと、足をしならせるように大きく振りかぶり、斜めにこすり上げるようにボールを蹴り上げた。ボールは綺麗な弧を描き、右から左へ巻くようにゴールへ向かって行く。そしてボールは少しずつ落ちて行き、左上のカドにガインと当たり、大きく外れていった。
動画の最後には、撮影者の一条さんが画面に向かって手を振っている。結構出たがりな人だ。広瀬が少し恥ずかしそうに下を向く。
『藤谷さんみたいに揺れて落ちません (>A<)・゜。 なぜですか?』
と、続くメッセージ。意外にも顔文字も使ってくる。ダメだ。今だけは絶対にニヤけちゃダメだ。
「蹴るフォーム、未散に似てる」
広瀬がもう一度動画を再生して言った。
「そうかな?自分では分からんけど。色々教えてるからかな」
「違うよ。きっと、インハイ予選の動画見てマネしてる」
「へー」
あんな可愛い子が俺のフリーキック動画を見て憧れてマネしている。決して悪い気分じゃない。
「嬉しそうな顔しちゃって。伊崎君裏切ったら私たちが許さないからね」
広瀬が冷ややかな顔で怖いことを告げる。こばっちも同様だ。
「教えをこうてくる後輩は可愛いに決まってる。でも、それだけだ。ちょっとは信用しろ」
特に広瀬には信じてもらわなければ困る。実際に他の女の子になびいてフラれるならともかく、濡れ衣でフラれるなんて最悪だ。
伊崎は拳を握りしめて言った。
「……さすがキャプテンです。俺はまだ顔文字をもらったことがない。本当、俺なんてまだまだ未熟者で」
そりゃ日記みたいなメールを何度も送りつけてたら顔文字なんて帰ってこないだろう。
「でも、俺もいつか、一回でメールの返事をもらえる男に成長してみせますよ!」
言って、拳を突き上げた。
「何だ、その小せえ目標」
銀次がスパイクをバッグにしまいながら言った。確かにその一歩は小さな一歩かもしれない。でも伊崎にとっては大きな一歩なんだ。
多分。
だいぶ脱線してしまったが、英語もそれなりにこなして勉強会が終了した。すでに空は薄暗くなっている。俺は肩に手をやって何度かもみほぐす。
長時間座って文字を書くと、サッカーの練習とは質の違う疲れを感じる。俺、将来事務職は無理だ。
アパート前までみんなを見送る。伊崎が広瀬を、銀次がこばっちを送ることになった。
「未散」
「ん?」
広瀬が一冊のノートを俺に手渡した。
「何、これ」
「英語のテスト対策。作っておいた。数学の方がちょっと心配だから、多めに時間かけたいでしょ」
「おお!」
ノートを開く。綺麗な字で英単語や英文が書かれていて、いかにも勉強できる女子のノートという感じだ。
「助かる。ありがとう」
「いーえ」
広瀬が笑う。
その笑顔は、薄暗い時間にも関わらずそこだけが明るい光を放っているようで。
「ねえ」
「ん?」
「スパイクのこと、怒ってる?」
今度は少し顔色を伺うように俺を見た。あまり見ない上目遣いだ。
やばい、可愛い。
「い、いや、それはもういいよ。銀次も喜んでたし。部活を変わるってことは、それまでに買った道具もムダになるって、全然考えてなかったしな」
「ならよかった」
二人で笑い合う。
「あのーお二人ともー、もうイイすかー?見てられないんですけどー」
伊崎が死んだような目で言った。
「じゃあね。勉強さぼったら蹴るから。行こう、伊崎君」
「おいっすー!」
二人が並んで歩いて行く。
みんなを見送った後、アパートの階段を一人でカンカンと上る。今日は色々ありすぎて眠れそうもない。広瀬ノートで勉強するか。
俺の頭には、広瀬の上目遣いの顔がいつまでも映り続けていた。
二週間とちょっと後。
無事期末テストも終わり、終業式までの一週間はテストの返却及び解説だけで授業は半日で終了。午後からはまるまる部活に使える。
こばっちの優しく厳しい数学指導と、広瀬の厳しく厳しい英語指導のおかげで俺は数学も英語も、入学以来最高の点数を獲得した。人間、やる気になれば何とかなるもんだ。
終業式前日、俺たちは蒸し暑い部室に集まり、テストの報告会を行った。
広瀬がホワイトボードに赤マジックで花マルを描く。
「全員合格!赤点無しです!」
部員たちの歓声が部室に響き渡る。赤点無しでこんなに盛り上がるのもどうかと思うが、良い雰囲気なのだから黙っておこう。
そして俺は、ひそかに温めていたプロジェクトを皆に告げることにした。
「みんな、聞いてくれ」
立ち上がる俺に、部員たちの視線が集まる。今回は菊地も芦尾も野次らない。
「実はずっと前から、夏になったらやろうと思っていたことがあるんだ」
俺は言葉を切った。
「何だよ、じらすなよ」
結局菊地が野次る。フフフ、しかし今日の主導権は俺だ。
「来月、8月中旬に、合宿を行う!」
一瞬の沈黙の後、再び部室内に歓声がこだました。
「合宿!海!海!」
「イヤッホウ、インザサン!」
「広瀬先輩!ビキニ着て下さい!」
「何でサッカー部の合宿で海行くの?着ないし」
わいわい騒ぐ部員たちを見て、俺は思った。
合宿って言っても学校の敷地内に泊まる、くらいしか考えてなかったなんて、今さら言えない。
どこか探さなきゃ。
つづく




