第23話 「怒られてもいいから」
お見舞い回。
朝のホームルームで、担任が広瀬の欠席を告げた。俺は無人の席を隣に見つつ、スマホをこっそり確認する。LINEの着信は無い。
担任が広瀬は風邪だと補足して、季節の変わり目だからみんなも体調には気をつけるようにと続ける。
昨日プールで泳いだ後、髪が濡れたまま帰ったせいだ。絶対そうだ。だからロビーで、調子のいいドライヤーを男子更衣室から持ってこようかと言ったのに。変なところで意地っ張りな女だ。ブラシで何度といたって乾くわけじゃないのに。
……でも、広瀬の髪、綺麗だったな。まっすぐで、つややかで、ブラシが全く引っかからなかった。ちらっと見えたうなじを思い出し、心拍数が上がる。俺がブラシでといてやるなんておせっかい焼いて、長く引き止めちゃったせいかな。そう思うと、何となく責任を感じてしまう。広瀬はどうせ「それは関係ない」ってサラッと言うだろうけど。
大体やることが無茶なんだ、広瀬は。いくら利用料五百円がもったいないからって、下に水着着込んで帰り際に飛び込むなんて。普通はしない。もっと慎重な性格だと思っていたけど、やると決めたら絶対に引かないタイプだ、あれは。
……すごかったな、水着姿。スタイルがいいとは薄々思っていたが、想像以上の衝撃だった。手も足も長くて細くて、かと言って病的に細いわけじゃなく、くびれた腰はとても高い位置にあって。そして、そんなに細い体になぜ胸だけ結構大きいのか。あれは反則だ。ジロジロ見ないように耐えながら、よそを向いたスキに何度も脳裏に焼き付ける念写を繰り返した。バレてなきゃいいが。
俺は彼女の左足の傷を思い出す。すねの下からくるぶしまで、ザックリと切られた手術跡は、見ていてかなり痛々しかった。傷跡自体はかなり薄くはなっていて、角度によっては目立たないけれど、傷は傷だ。腕の良い外科医だ、などとごまかしたものの、顔にショックが出ていたかもしれない。
昨日は子安先輩という、可愛くてエロい水泳部の先輩に密着指導を受けてラッキーな一日ではあったが、結局俺の記憶に一番残っているのは二十五メートル勝負で俺に圧勝して、子供みたいに勝ち誇る広瀬の笑顔で。
もう一度無人の席を見る。初めてケンカした次の日も欠席したことはあったけど、その時は自覚が無かった。でも今ははっきりと分かる。
広瀬が隣にいないのは、寂しい。
そして今日の昼飯、どうしよう。
とりあえずホームルームが始まる直前に、広瀬に「大丈夫か?」とメッセージを送っておいた。返事はくるだろうか。大丈夫じゃないから欠席したのだ、と愛想の無い返信でもいいから。
一限目の最中に、マナーモードにしていおいたスマホが振動した。見たい気持ちをそわそわと我慢して、ようやく休み時間。LINEを開く。
『連絡できなくてごめんね。部員のみんなにも休むって伝えて。熱はとんぷく飲んで下がったから、明日は行けると思う。お見舞いに来ようとか考えなくていいから』
……おい、いきなりごめんねから入ってるぞ。どうした、広瀬。ケンカした時さえ一度も謝らなかった女が。これはかなり弱っているんじゃないか。
続いてもう一通。
『お昼は何か買って食べて』
知ってれば登校前にコンビニに寄ってきたんだが。毎日弁当があるのが当たり前になって、菓子パンを買う習慣がすっかり無くなってしまった。購買に行くしかないか。でも相当急いで行かないと、欲しいのはすぐ売り切れになるんだよな。たいてい残ってるのは大量のホイップクリームをはさんだデニッシュパンとか、昼飯には甘すぎるものばかりだし。
そして今日は、急いで行くには難しい事情がある。
尻が痛い。
正確には尻から太ももの裏にかけての筋肉痛だ。普段使わない筋肉を、バタ足で使った反動が来ている。今朝廊下で菊地と会った時、ヤツも俺と同じくすり足で歩いていて、お互い無言でうなずきあった。それほど仲良しではない俺たちだが、初めて心が通じあった気がした。
二限目の休み時間に、携帯番号を知ってる部員には一通り連絡して、俺は銀次とこばっちのいるD組に向かう。こばっちは相変わらず誰とも話さず席に一人で座っていた。廊下に呼び出し、広瀬の風邪を報告する。
「大丈夫なんですか?夏希ちゃん」
どうやら初耳だったようで、かなり驚いている。
「熱は下がったみたいだから大丈夫だって。こばっちは、広瀬と連絡取ってないの?」
「はい、番号もアドレスも知りません」
「そうなんだ」
女の子同士はすぐ連絡先交換するもんだと思ってたけど、そういうわけでもないらしい。仲良くやってると思ってただけに、意外だ。
「お見舞いは来なくていいって言ってるけど、どうする?」
言うと、こばっちは不思議そうな顔で俺を見た。
「来なくていいと言っているのなら、行かない方がいいと思いますけど」
「そうだよね」
もっともだ。言葉通り受け取れば、そうだ。でも、考え過ぎかな。
広瀬は本当は来てほしがってるんじゃないか、なんて思ってしまうのだ。
昼休み。俺は購買の前で腕組みをして考えていた。パンコーナーに残っているのは、『ホイップ増量中!』と書かれた生クリームをはさんだデニッシュパンのみ。何度売れ残っても仕入れを続けるこだわりは一体何なんだ。あとなぜか都こんぶが売っている。誰の要望なんだ、都こんぶ。
「買うの?買わんの?」
購買のおばさんがつまらなそうな顔で聞いてきた。
「考え中です」
「もう一種類しかないよ」
「買うかどうかを考えてるんです」
おばさんは何も言わず、椅子に座って新聞を広げ始めた。
「おばちゃん、お願い」
俺の後ろから、すっと誰かが追い越してレジに向かった。
「あ」
チームドクターの江波先生だ。都こんぶを手に持っている。買う人がここにいた。
「藤谷君。こんなところで何してる」
ようやく俺に気づいて、先生が言った。
「ホイップパンを買うかどうか、迷っているんです」
「デザートに?」
「いえ、昼食のメインに」
俺は広瀬の欠席と、それに伴う弁当の喪失について説明する。
都こんぶを買い終えた先生は、「ついてきて」と手招きした。
ついていった先は、当然といえば当然ながら保健室だった。丸イスに座っておとなしく待っていると、江波先生はキャビネットの奥からゴソゴソと何やら取り出した。
「これ食べな。あのパンよりはマシでしょう」
差し出されたのは、カップ麺。テレビで見たことがある中華の料理人の写真が載っている。
「おお、これ高い担々麺じゃないですか!本当にいいんですか?」
「サッカー部のチームドクターとしては、インスタント食品自体おすすめできないけどね。それはまだマシな方。高いんだから、よく味わってよ」
「はい、もちろん」
スーパーで見かけて、一度食べてみたかったカップ麺だ。
お湯を入れてタイマーを五分にセットする。江波先生もそれほど口数が多い方じゃないので、二人きりだとさほど話題もない。先生は顔も怖いし。
「広瀬さんは何て?」
しばらくしてから、江波先生がお茶を飲みながら言った。キャスター付きのイスにもたれかかり、長い足を組んでいる。脚はきれいなんだけど、かっこいいというか、迫力しかない。
「熱は下がったから大丈夫だと。あと、お見舞いには来なくていいって」
「で、行かないの?」
「行ったら、来るなって言ったでしょって怒られそうですから」
「だろうね」
先生は俺にもお茶を出してくれた。
「あ、どうも」
「でも行かなかったら、私のことなんてどうでもいいんだって思うだろうね」
「え」
何だと。それはまずい。
「さ、三番目の選択肢は?」
「無いよ。行って怒られるか、行かずにすねられるかの二択」
「そんな理不尽な!」
「そんなもんさ。特に広瀬さんみたいな子はね」
ぬう。どうしよう。行って怒られるか、行かずにすねられるか。
「広瀬は……何となく本当は来てほしそうな気がしたんですが。考えすぎでしょうか」
「考えすぎ。来なくいいって言ったなら、そのままの意味」
「でも」
「でも、君がただ広瀬さんに会いに行きたいのなら、それはそれでいいんじゃないか」
「えっ、あの」
タイマーが鳴りだして、俺の言葉を遮った。これはもう、つべこべ言うなってことなのかな。
数時間後。
俺は『広瀬』と達筆で書かれた表札の前に立っていた。ケンカの翌日、二人で会ったあの公園から少し住宅街に入ったところに、広瀬の家はあった。
建築にはくわしくないけど、建ってからそんなに年数は経ってないように見える。白い壁が綺麗な家だ。
インターホンの前に立ってから一分くらい経つが、まだ押せていない。緊張する。大きく深呼吸して、静かにインターホンを押した。
しばらくして、スピーカーから「はい」という声。
「あ、あの、わたくし、本河津高校サッカー部の藤谷と申します」
「あらあら、どうも。ちょっと待って下さいね」
「え、あ、はい」
わ、どうしよう。今のはきっと広瀬のお母さんだ。お見舞いに来ました、と言う間もなかった。
俺は手に下げた紙袋を確認する。今日の午後練で、直登とこばっちから千七百円円を渡された。みんなで百円ずつカンパしたという話だ。
俺が見舞いに行くだろうということは、すでに直登に読まれていたようで、ニヤニヤしながら「がんばれ」と励まされてしまった。付き合いは長いが、本当に応援してくれているのか、ただ面白がっているのかは区別が難しい。
その後は俺だけ練習を早めに追い出されて、家に帰ってから自転車で駅前のデパートに行き、慌てて買い物をして今広瀬家の前に立っているというわけだ。
玄関がガチャリと開いた。
「こんにちは、藤谷君。夏希の母の広瀬美千代です。どうぞ入って」
スラリと背の高い、上品な雰囲気の女性が柔和な笑顔を浮かべている。広瀬にとてもよく似ていて、違うところと言えばお母さんの方がちょっと目つきが柔和な気がする。多分怒るから広瀬には言わないけど。
とりあえず玄関に入る。
「あの、今日は、サッカー部のみんなを代表して、な、夏希さんのお見舞いに来ました」
「わざわざありがとう。玄関じゃなんだから、上がって」
「は、はい」
言われるままに、リビングに通される。でっかいテレビと大きなソファ。いかにも一般家庭のリビングだ。殺風景な俺のアパートとは温度も違うように感じる。
落ち着かない気持ちのまま、ソファの隅っこにちょこんと座る。玄関で手土産だけ渡して帰ろうかと思ってたのに、少々予定が狂った。来るなと言ったのに家にまで上がっていると広瀬が知ったら、きっと怒るだろうな。ああ、胃が痛い。
「はい、どうぞ」
広瀬のお母さん、美千代さんがお茶を出してくれる。
「ありがとうございます」
よし、ここは腹を決めてちゃんとしなくては。
俺は紙袋から、デパートで買ってきたお見舞いの品を差し出す。石鹸でできた花で、ソープフラワーと呼ばれるものらしい。生花は最近お見舞いの品には好まれないと雑誌で読んだのを思い出して、花から急きょ変更したのだ。色々な種類から、千八百円の白と紫のバラの組み合わせを選んだ。理由は、赤やピンクのバラだと何か恥ずかしいという消極的なものである。
「これ、な、夏希さんにお見舞いです。部のみんなで出し合って買いました」
「えー、これ石鹸?んー、いい匂い。ありがとう。夏希喜ぶわ、きっと」
まるで少女のようにウキウキとして、香りを楽しんでいる。なぜ広瀬は母親からこの愛想を受け継がなかったんだろう。
「あとこれ、いつも美味しいお弁当をいただいているので」
もう一つ、これは俺が自腹で買って来たもの。個人的に世界一うまい菓子と思っている福砂屋のカステラだ。
「福砂屋じゃない!どこで売ってたの?これ」
美千代さんのテンションが上がる。福砂屋知ってたか。
「駅前のデパートで、丁度出張販売してたんです」
「悪いわねえ。弁当なんて大した手間じゃないのに」
「いえいえ、すでにメインの栄養源になってます」
お世辞ではなく事実だ。
「一人分作るより、二人分の方が材料が余らないから、私も助かってるし、気にしないで。夏希に言ってきますね」
「い、いえ、本当にすぐ帰りますので!」
わざわざ報告に行かなくても!怒られるのを覚悟で来たけど、実際怒られるのはイヤだ。
美千代さんはソープフラワーを持ってパタパタと去っていった。俺の話は全く通じていない。優しげな人だけど、結構マイペースだ。こういうところは似てるかもしれない。
俺は再びソファに腰を下ろす。
ふと視線を感じて入り口を見る。女の子がドアの陰からこちらをのぞいている。俺はペコリと会釈した。
「お邪魔してます」
「こんにちはー」
ぴょこん、と跳ねるようにその女の子はリビングに入ってきた。
これが広瀬の妹か。
ちっちゃな画像でしか見たことがなかったが、美人タイプの広瀬とは違ってほんわかした可愛いタイプだ。まだ中三なのに、すでに女子アナを目指していると聞いたことがある。もっとガツガツした子をイメージしていたが、全然そんなことないじゃないか。白のワンピースがさわやかで可愛い。
「初めまして。夏希ちゃんが、いつもお世話になってます。妹の広瀬秋穂です」
「どうも、サッカー部キャプテンの藤谷未散です」
彼女が俺の隣にちょこんと座る。なぜ隣に?そして俺の顔をまじまじと見つめた。
「俺の顔に何か?」
「いーえ。あの頑固な夏希ちゃんを口説き落とした人物に、ちょっと興味があるだけです」
「……マネージャーとしてね」
口説き落とす。北館裏でガチガチに緊張してお願いしただけなんだが、あれでも口説いたことになるのかな。
「藤谷先輩、パッと見地味ですけど、よく見ると味のある顔してますね」
「それ、誉めてんの?」
「いえ、別に」
何だ、こいつ。顔は可愛いけど、性格に難があるタイプか。やはり姉妹だ。あと、何で先輩って呼ぶんだよ。
「そういや、秋穂さんは今年受験なんだね」
「はっ!」
妹さんが少し距離を置いて身構える。落ち着きの無い子だ。
「どうかした?」
聞くと、目を細めて俺を見つめた。
「二つも年下の中学生捕まえて、さんづけで呼ぶとは。藤谷先輩、あなた実はプレイボーイですね?」
アホか。
「そんなわけないって。今地味って言ってたじゃないか。じゃあ、何て呼べばいい?」
「何でもいいですよ。姫でもお嬢でも」
選択肢が偏ってるな。
「じゃあ秋穂ちゃんね」
「ぬ。無難な方に逃げましたね」
当たり前だ。
廊下の奥から、美千代さんがパタパタと戻ってきた。
「ごめんなさいね。夏希、薬飲んで眠っちゃったみたいで」
「いえいえ、そんな。早く治ってくれれば、それが一番いいです」
言いつつ、いざ顔が見られないと聞くと、やはりちょっとだけガッカリしてしまう。怒られてもいいから一目会いたいなんて、重症だ。
秋穂ちゃんがわざとらしくため息をついて、首を振った。
「せんぱーい。がっかりしてるのが顔に出ちゃってますよ。分かりやすいなあ」
「何がだよ。それに、俺は君の先輩じゃない。それともモト高受けるの?」
「ええ。滑り止めで」
「秋穂!」
ゴン、と大きな音を立てて、美千代さんが秋穂ちゃんの頭をお盆ではたいた。
「いったいなー。受験生の頭叩かないでよ。公式忘れたらお母さんのせいだよ」
頭を押さえて抗議する。でもこの子すごいな。客がいるのに、よそ行きの態度は最初の一分だけだ。人見知りの俺には信じられない。
「あの、俺、いや、僕、そろそろおいとまします」
俺は立ち上がって言った。広瀬が寝ているのであれば、今が退散の時だ。部のみんなを代表してお見舞いを持ってきただけなら、後で家族から知らされてもそんなには怒らないだろう。
すると美千代さんはキッチンから顔をのぞかせて言った。
「えー、もう?今、いただいたカステラ出すから、もうちょっとゆっくりしていって」
福砂屋が食える!手土産のために一本買っただけだから、自分が食べるのはあきらめていたが、思わぬ僥倖だ。その間だけなら大丈夫かな。
「ねえねえ、先輩」
秋穂ちゃんがソファで手招きしている。いつの間にか、胸に大きな本を抱えていた。本じゃないな。アルバム?
「秋穂ちゃん、それ、もしかして」
「見たくないですか?広瀬夏希ヒストリー」
見たい!でもバレたら怖い!どうしよう。
「君の姉ちゃん、怒らないかな?」
「今寝てますから、バレなきゃいいんですよ」
そして俺はカステラと広瀬のアルバムという誘惑に負けて、再びソファに座り込んだ。
「うわっ、可愛い」
そのアルバムは一番古い写真が幼稚園時代からのもので、すでにその頃から広瀬の可愛さは際立っていた。目がクリッと大きくて、すでに現在の面影がある。そして周りより頭一つ背が高い。成長が早かったんだな。
卒園式、入学式、とどんどんめくっていくと、途中からサッカーのユニフォーム姿が多くなる。というか、ほぼユニフォームだ。日に焼けて、明るい笑顔でピースしている。今の広瀬からは考えられない。いや、でも昨日のプールでのはしゃぎっぷりには共通するものがあったかもしれない。
次々めくっていくと、高校生くらいの男の子と写っている写真があった。
「お、これお兄さん?若い」
「そうですよ。もう、夏希ちゃんといつもべったりでした」
当時は高校のサッカー部か。学校がどこだったかは忘れたけど、その頃はまだ無名だったんじゃないかな。
写真の中の広瀬春海選手は、年の離れた妹が可愛くて仕方がないという感じの嬉しそうな笑顔で妹と並んでピースしていた。これだけ可愛い妹が、自分の後を追いかけてサッカーを始めたのだ。絶対可愛がるに決まっている。
ふと、秋穂ちゃんの顔を見る。
初対面の中三の女の子だ。気持ちなんて分かるわけがない。勘違いかもしれない。でも俺には、どことなく寂しそうに見えた。
「でもさ、俺は一人っ子だからうらやましいよ、兄弟がいて」
「そうですか?ケンカばっかりですよ」
広瀬も同じことを言っていたな。ケンカの原因はこの妹が作っている気がしてきた。
「それに、兄弟全員が平等に期待されてるわけじゃないですから」
さっき初めて会った時から気になっていた。四人兄弟の末っ子って、もっと自由奔放なイメージが俺の中にはあった。でもこの秋穂ちゃんという子はどことなく冷めた雰囲気があって、むしろ自由奔放なのは姉の方じゃないかとさえ思う。もしサッカーを始めて活躍しだした次女の方に、家族の関心が集まったなら、末っ子は素直に甘えられるだろうか。すねてひねくれるしか、やりようがないと思う。
「スポーツは、がんばってる姿が分かりやすいからね。やらない人が割を食うのは仕方ないよ」
俺が言うと、秋穂ちゃんは少しだけ驚いたような顔をした。
「先輩って、結構大人なこと言いますね」
「一応、君より二年ほど長く生きてるからね」
言って、さきほど出されたカステラを頬張る。濃厚な甘みとザラメのジャリジャリ感。これこそカステラ。
引き続きアルバムをめくる。写真からサッカーのユニフォーム姿が急に消えた。広瀬から聞いた試合中のケガの話が思い出される。同時に、屈託のない笑顔も写真からは失われていた。俺のよく知っている、広瀬の顔だ。不機嫌なのかどうかも分からない、愛想のない、全てに無関心な顔。
去年高校に入学して同じクラスになって、こんな美人が世の中にいるのかとびびったけど、その時はただそれだけで。
ということは、今はだんだん昔に戻ってきているのかな。
「夏希ちゃんから聞いたんですか?ケガのこと」
「ああ、うん。大体はね」
「へえ。なるほどなるほど。あの夏希ちゃんが、自分から話したんですか」
秋穂ちゃんがあごに手を当てて芝居がかった仕草でうなずいている。
「何が言いたい?」
「いーえ、別に。あ、それより、ここからが本番ですよ。夏希ちゃん、暗黒の中学時代!」
「あ、暗黒!?」
何だ、どういう意味だ!
「もしかして、長い背もたれのついたバイクで毎晩男と二人乗りしてたとか?」
「……そんなことはしてませんけど」
秋穂ちゃんがアルバムをめくる。
「あ」
そこに写っていたのは、今よりもかなり短い髪で、さらに目つきの鋭い広瀬が中学のセーラー服を着ている写真だった。相変わらず美人ではあるが、怖い。カメラを思いっきりにらんでいる。
「こ、これは一体?」
「夏希ちゃん、入学式の日に、何人もの男子からいきなり告られちゃって。うっとうしいってキレて、髪こんな短く切って超無愛想になっちゃって。家でもあんまりしゃべってくれなくなっちゃったんですよ。だから暗黒時代なんです」
こういうグレ方もあるのか。この時出会ってたら、怖くて話しかけるのも無理だったな、きっと。
と、廊下の方からダダダダッ、と大きな足音が聞こえてきた。誰かが階段を駆け下りて来る音だ。
まずい。
「あ、あの、俺」
立ち上がりかけた時、リビングのドアがバン!と力一杯開かれた。
いつものジャージ上下に身を包んだ広瀬夏希が、暗黒時代と同じ目つきでこちらをにらんでいる。
「よ、よう。お邪魔してます」
右手を上げてつとめて明るく声をかける。これでどうにかなるなんて思っていない。ムダな抵抗というヤツだ。
「……ここで何してるの?」
「え、えーと、その」
すがる思いで秋穂ちゃんの方を振り返る。
「ごめんねー、夏希ちゃん。藤谷先輩がどうしても見たいって言うから、二人でアルバム見てたのー」
売られた!何て女だ!
「アルバムッ!?」
広瀬は刹那のスピードで動き出し、妹の手からアルバムを奪って胸に抱え込んだ。
「……どこまで見たの?」
広瀬が言った。どうやってごまかそう。いや、ごまかしが通用する相手じゃない。
「えーとね、幼稚園から、あんこ……いや、中学の一ページ目まで」
「そんなに!?」
キッと秋穂ちゃんをにらむと、彼女のほっぺをギュッとひねりあげた。
「いたいいいたいいたい。なちゅきちゃん、ごめんにゃさーい」
秋穂ちゃんの悲鳴を聞きつけてか、美千代さんがリビングを覗き込んだ。
「夏希!お客様の前でみっともないことしないの!」
「だって秋穂が」
「その前に、藤谷君にお礼言ったの?わざわざお見舞いにきてくれたんだから」
来るなって言われたんだけど。やっぱ怒ってるよな。
広瀬はしぶしぶ手を離したが、俺には何も言わなかった。
しばらくして、俺は広瀬家の玄関を出た。空はかなり暗くなっている。晩飯も食べていけ、という勢いだったが、広瀬の目が怖かったのと、他人の家で飯を食べるのが苦手な性分もあって丁重にお断りした。正直言って、こんなに歓迎されるとは思わなかった。
それに、広瀬のお母さん。
優しくて、明るくて、厳しくて。何ともいえないムズムズした感情が胃の裏側をくすぐって、いたたまれない気持ちになる。
「未散」
振り返ると、広瀬がジャンパーを羽織って玄関から出てくるところだった。さきほどの怖い顔はもう消えている。
「いいのか、寝てなくて」
「うん。昼間だいぶ寝たから、目が冴えてる」
小さな鉄の門扉から少し離れたところに広瀬が立つ。ふわりと、何かいいにおいがただよってきた。何だろう。
「何かいい匂いがする」
俺が言うと、
「私の香水かな」
と広瀬が手首を鼻につける。
「お前、家で香水つけてるのか」
「違う!昨日お風呂入れなかったから!」
なるほど。ん?じゃあ。
「お見舞い来るなって行ったの、それが理由?」
広瀬が目をそらす。
「それも、あるけど。それだけじゃない」
「というと?」
「私のせいで、練習遅らせたくなかった。マネージャーなのに」
広瀬は真剣だ。この愛想の無い隣人は、いつのまに、こんなにもみんなのことを考えるようになったのだろう。いや、俺が気がついてなかっただけかもしれない。広瀬はいつだって、周りを気にかけていた。ただ伝え方が分かりにくいだけで。
「そんなこと気にするな。練習メニューはちゃんと消化してる。でもやっぱり広瀬が見てないと、一年がすぐチンタラするんだ。だから、いてくれないと困る」
「……わかった」
広瀬はそのままうつむいてしまった。どんな顔をしているのかは、ここからは見えない。
「石鹸の花、ありがと。未散が選んだの?」
「ああ、うん。見舞いの品買うのなんて初めてだったから、だいぶ悩んだ」
「その割には、まあまあ」
「点数は?」
「六十五点」
「からいですなー」
広瀬が笑う。
百点の笑顔で。
もちろんそんなことは口が裂けても言えないが。
「じゃあ、俺帰るよ。お大事に」
俺は自転車にまたがった。
「未散」
広瀬が呼び止める。
「ん?」
「来てくれて、ありがとう。嬉しかった」
「お、おう」
何だ、急に素直じゃないか。さっきはあんなに怒ってたのに。ストレートにこちらを見つめる目に心臓が高鳴る。
「そういえば、ちゃんと準備してる?来月」
七月。何かあったっけ。
「何が?」
「期末テスト。来月頭からテスト週間で、部活休み。赤点取ったら夏休みは補習と追試」
「げ」
そうだった。全く勉強してない。
「広瀬先生!」
「英語なら、今日のお礼に教えてあげる」
「おお、助かる!」
そして今度こそ、俺は自転車をこぎだして広瀬家を後にした。
アパートに着いて、電気を点ける。いつもと変わらない殺風景な部屋。いつもと変わらない、そのはずなのに。
今日はやけに寒い気がした。
つづく