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第22話 「吐くまで泳いでもらいますっ!」

水着回。

桜律女子との練習試合が終わった翌朝。

私は未散が住んでいるアパートの前に来ていた。時間は七時五十分。いつもなら朝練の時間だけれど、今日は中止。いや、今日から中止になったのだ。


帰りのバスと電車でずっと黙っていた未散が、唐突に「明日から、午後の練習を一時間延長する」と駅での解散前に発表した。当然部員たちからは「横暴だ!」「鬼だ!」とブーイングの嵐だったけど、「その代わり、朝練をやめる」と追加発表されて皆おとなしく帰っていった。

確かに朝練は賞味一時間くらいなので、時間が午後にスライドしただけで全体の時間は変わってない。それでも、どの運動部も朝練はやっているし、それに加えて暗くなるまで練習している部活もある。

私が焦っても仕方ないとは分かっているけど、桜女との合同練習で、あれだけ練習の量と質の差をまざまざと見せつけられたとあっては、朝練を無くす、という決断は少々無茶に思える。未散には未散の考えがあるのだろうけど、それはまだ聞けていない。


そしてなぜ私がわざわざ未散のアパートに迎えにきたかと言うと、その理由をはっきり聞きたかったということが一つ。もう一つは、目覚ましの時間を今まで通りに設定してて、二度寝で寝坊するのでは、と読みを働かせた結果だ。


玄関の前に立ってインターホンを押す。応答は無い。もう一度押しても同じ。

私はスマホを取り出し、未散の番号をコールした。十コールくらいして、やっとつながった。

「……んー」

完全に寝起きの声だ。

「おはよ。広瀬だけど。もうすぐ八時になるよ」

「……んー」

「今、家の前にいるから、開けて」

「……んー」

沈黙。


「八時だと!ちょっと待ってくれ!」

いきなりの大声に思わずスマホを耳から離す。ドタドタと足音がして、玄関が開いた。

「悪い!すぐ用意するから、入って待っててくれ」

「わかった」

Tシャツにスウェットの格好で、未散はバタバタと寝室に引っ込んだ。私はバッグを玄関先に置いて、台所に向かう。

「ねー。朝パンだったら焼いといてあげようかー」

寝室に声をかける。

「おお、頼む。パンは冷蔵庫だ」

このところ、ずいぶん素直に頼ってくれるようになった。何だろう、この感じ。家でも誰かにこんな風に頼られることってないかもしれない。秋穂は妹のクセに甘えるどころかケンカ売るようなことばっかり言ってくるし。


一人暮らしにしては大きめの冷蔵庫には、残り二枚の食パンと、他にはいちごジャム、半分に切られているレモン、牛乳、麦茶、卵。レモンは何に使ったんだろう。

とりあえずパンとジャムと牛乳を取り出す。

パンの消費期限を確認して、トースターに二枚とも入れる。目玉焼きでも作ってあげたいところだけど、時間が無いから今日はやめておこう。決して、作れないわけではなく。


ダイニングキッチンにある小さな丸テーブルに、流しから取ってきた皿とグラスを置く。しばらく後に焼き上がったパンを皿に置き、牛乳をグラスに注ぐ。ようやく未散が制服に着替えて寝室から出てきた。夏の半袖シャツから伸びる腕は、やはり運動部の同級生と比べて格段に白くて細い。胸板もないし、お世辞にもたくましいとは言えないな。


未散が丸テーブルに並べられた朝食を見て、目を大きく見開いた。

「すごい。完璧に用意してある」

「早く食べないと遅刻するよ」

私は言って、一つしかないテーブルの前のイスを譲る。そしてリビングに歩いて行く。

2DKのこの部屋は、ダイニングキッチンの奥に六畳の洋間が二つ並んでいて、片方はテレビやパソコンのあるリビングで、ロフト付き。もう片方は寝室。一人暮らしに憧れる私には、夢のような広さの部屋だ。正直言ってねたましい。

リビングにある、未散のお気に入りであろうフカフカの座椅子に座る。体が沈み込むような感覚に癒やされる。これ、いくらくらいするのかな。同級生の中で、絶対一番いい生活してると思う。

ただし食事を除く。


「座椅子借りるねー」

「座ってから言うな」

未散がパンを慌ただしくかじりながら言った。そして、

「わざわざ来てくれたのはありがたいけどさ、何かサービス良すぎないか?」

と目を細めて言った。私はさりげなく天井を見る。

「そ、そんなことないって。チーフマネージャーとして、キャプテンの体調管理は当然の仕事でしょ」

「そんならいいけど」

未散はそれ以上追求することはなく、牛乳を飲み干した。


実は、今日わざわざ足を運んだ理由は他にもある。昨日の一回目の練習試合。二度の失点に絡んで落ち込んだ茂谷君に、紗良ちゃんが気合を入れて立ち直らせたあの場面。本来マネージャーである私の仕事のはずなのに、その時は落ち込む茂谷君に何て声をかければいいのか分からなくて。

紗良ちゃんはその後もデータ収集や分析にかなり熱心に取り組んで、帰りの電車では未散と戦術についてたくさん語り合っていた。私はサッカー経験者とはいえ、一人で好き勝手にプレーしていたせいか、戦術の話にはイマイチついていけない。


別に未散に頭を撫でられたいとか、誉められたいとかいうわけじゃないけど。

本当に、そんなわけじゃないけど。

私は、みんなの役に立ってるのかな。


「あ」

天井を見ているうちに、ロフトの上に青い何かを見つけた。座椅子から立ち上がって背伸びをする。スパイクだ。前半分が青で、カカトに近づくにつれてグラデーションで黒になっていく。足の指をなぞるように白い曲線が走っている。ひと目でカッコいい、と思うスパイク。ショップのディスプレイのように綺麗に飾ってある。


「ねえ、このスパイクどうしたの?」

「ん?」

バッグを背負いながら、未散がこちらを覗き込んだ。

「ああ、それ、限定品でさ。デザインが気に入ったんだけど、合うサイズが売り切れで。買ったけど履けないから飾ってある」

「ふーん。もったいない」

ぜいたくな。履けないとわかっているスパイクを飾るために買うなんて。やっぱりいい生活してる。


久しぶりに、二人で学校までの一本道を歩く。今までは朝練に行くまでの時間が微妙にずれていて、朝はめったに会わなかったので、少し新鮮だ。

「ねえ」

と、私は気になっていたことを聞いた。

「ん?」

未散が自然に私を見る。少し前までは前を向いたまま仏頂面で返事していたけど、最近はそんなことは無くなった。

「何で朝練無くしたの?」

前に向きなおして、未散は口を開いた。

「桜女の練習見てさ、全ての練習にきちんと目的があるように見えたんだ。で、振り返って俺たちの練習を考えてみた」

「うん」

それで、帰りのバスと電車で無口だったのか。

「午後練は、改良の余地はあるけどそれほど目的のない練習はしてないと思う。問題は朝練だ。ゲーム中心だけど、そもそも何のためにやってるんだろうって思って。朝の一時間で、動きの鈍い体で何か効果あるのかなって。そう考えたら、ギリギリまでゆっくり睡眠取って、午後がんばった方が効率的かなと」

「へえ」

確かに「何のために朝練をやるのか」とまっすぐに問われたら、はっきりと答えられる自信は無いけれど。

「ただみんなやってるからとか、やらないと不安とか、努力が足りないと思われるとか、そんな考え無しの理由で漫然と続けても、効果は無いと思う」

きっぱりと言い切る横顔は、少し前までとは別人のように意思に満ちていて、それは今の私には少しまぶしくて。

「えらいね、未散は。ちゃんと考えてる」

私が言うと、

「大丈夫か?何か今日おとなしすぎるぞ」

と、心配そうな顔で私を見た。

「何でもないって。未散は心配性」

「それならいいけどさ、何かあったら言ってくれよ。解決は保証しないけど、話してくれればあいづちくらいは打てる」

「それ、あいづち打つだけで話は聞かないってこと?」


あれこれとやり合っているうちに、学校の敷地に入る。時間にあまり余裕はないけど遅刻は避けられた。

いつもよりかなり遅い時間の登校なので、出会う生徒の数も多い。そしてそのほとんどが、私と未散をジロジロと見ていく。他にも男女で登校してる人たちはいるのに。面倒くさいな。

「ちょっと急ごう。ギリギリで教室入りたくない」

未散が足を早めた。

「うん」

私も続いた。未散をちらりと盗み見る。私の気持ちに感づいたのかどうか、その横顔からはわからなかった。


午後の練習はスタートから部員たちの動きが鈍く、どことなく疲労感が漂っていた。

昨日の桜女でのキツい練習と練習試合二試合が効いている。もっと部員の多いチームなら入れ替えて負担を減らせたんだけど。一条さんも部員の少なさにちょっと驚いていたっけ。


結局今日は疲れを抜くための軽い練習にとどめ、少し早めに切り上げることになった。そして臨時フィジカルコーチの盛田先生が、練習終わりにゴール前にみんなを集めて言った。

「みんなお疲れ様。とりあえず今日の練習は終わりだけど、これから小林さんが集めた練習試合のデータをもとに、個別強化特訓を行います!」

部員たちがにわかにざわつき始める。元女子陸上部の監督が特訓と言っているのだ。イヤな予感しかしない。マラソンとか筋トレとかマラソンとか。走るのが嫌いじゃない私でもイヤだ。

盛田先生は続ける。

「まず最初に、特訓の内容を発表します」

皆がシンと静まり返る。学校の外を走るのか。重たいものを持ち上げるのか。それとも、つらいポーズで長い間じっとするのか。


「スポーツセンターの温水プールで、吐くまで泳いでもらいますっ!」


プール。サッカーの練習に水泳?部員たちが今度は違う理由でざわついている。

「とりあえず、キャプテン藤谷君は練習試合二試合合計で十八回の転倒でトップ。加えて誰よりも最初に足が止まっていたということで強制参加決定」

「ぐっ」

未散が露骨に嫌そうな顔でうなる。水泳が苦手なのか、悪いデータを公表されたのがイヤなのか。多分両方だ。

「あともう一人は、菊地君。転倒回数は藤谷君に次ぐ十二回。スタミナが切れるのも早かったね」

「あ、あれは足引っ掛けられたんだよ!本当だって!」

菊地君が実に男らしくない言い訳をして喚いている。あの長い髪も切ればいいのに。

「とりあえず、絶対参加はこの二人。言ってもスポーツセンターも八レーンしかなくて全部貸しきれるわけじゃないから、あと一人までなら行けるよ。希望者いるー?」

反応は無い。それはそうだ。盛田先生も隠し事できないタチだから、最初に「吐くまで」って言っちゃったし。

「しつもーん」

伊崎君が手を上げた。

「はい、伊崎君っ!」

盛田先生がビシッと指さす。未散も時々やるけど、手を上げた人をビシッと指さす儀式は一体何なんだろう。

「先生や女子マネージャーも一緒に泳ぐんですか?!」

部員たちの視線が一斉に私に集まる。思いっきりにらみ返したら全員慌てて目をそらした。

「残念ながら、水着にはなりませーん。私は指導と引率、広瀬さんもジャージ着て記録係」

「あ、じゃあ今回パスでーす」

伊崎君があっさりと手を下ろした。全く、未散経由で岸野さんに言いつけてやろうかな。

「小林さんは……」

先生が見ると、紗良ちゃんは青さめた顔でぶんぶんと手を振った。

「ごめんなさい!私、塩素のにおいが大の苦手で、気持ち悪くなっちゃうんです。だから、夏希ちゃんに任せていいですか?」

言うと、紗良ちゃんは私にタブレットを手渡した。何となく、いつもよりちょっと重い気がする。

「これ、防水仕様なんです。個人データは引き継いでありますから」

「あ、ありがとう」

これもお父さんの型落ちなのかな。一体どんな家庭なんだろう。

「あの、僕、やりたいです!」

皆が声の主に注目する。

黒須君が、赤い顔でおずおずと手を上げている。普段は積極的に発言するタイプじゃないのに、珍しい。

盛田先生は満足気に笑った。

「いいねー、いいねー。そのやる気。よし!じゃあ、六時半にスポーツセンターの玄関ロビーに水着とキャップ、持ってる人は水中メガネ。あと各自五百円持って集合!」

五百円。泳がずにプールサイドで記録するだけでも払うのかな。何か悔しい。


Y市スポーツセンターは十年くらい前にできた比較的新しい施設で、温水プール、トレーニングジム、室内競技用のアリーナ、サウナ等がある。利用料が安いことに加えて、平日は午後一時から九時までという利用時間が重宝されてか、仕事帰りのおじさんたちもちらほら見かける。場所は駅からも学校からも遠く、私の家からは自転車で二十分くらい。後からできた施設なので、街から離れた田んぼの真ん中にポッカリと浮かぶように建っている。周りには何もなく、向かい風の日は行くだけでも運動になってしまうほど風が強い。


早めに来てロッカーでTシャツとジャージに着替えを済ませ、ロビー兼休憩スペースに行く。まだ六時。私が一番乗りかな。

「あ」

ソファーの背もたれに乗っかっている、見覚えのある後頭部。ほとんどおかっぱに近いような髪型。多分振り向いたら、眉毛よりかなり上にある前髪が見られるだろう。


「黒須君」

声をかけると、弾かれたようにこちらを振り向いた。

「お、お疲れ様です」

わざわざ立ってあいさつしてくれる。伊崎君みたいにセクハラ上等でズカズカやってくる子も困ったものだけど、黒須君も黒須君で固すぎる。

「あー、立たなくていいから。隣座っていい?」

「はい、もちろん」

隣のソファにボスンと座る。フワフワで心地よい。フワフワと言えば、未散の家の座椅子も気持ちよかったな。

ちらりと黒須君を見る。両手を握ったり開いたりして、ずっとそわそわしている。私、そんなに緊張させてるかな。マネージャーになってもうすぐ一ヶ月になるのに。そろそろ慣れてほしいな。

「黒須君は、何で特訓に志願したの?スタミナは結構ある方なのに」

「え。あ、はい」

モゴモゴと口ごもるように何かしゃべって、ようやくはっきりと口を開いた。

「ぼ、僕がもっと走れるようになれば、藤谷先輩が楽になって、攻撃に集中できますから」

私は密かに絶句した。何ていい子。未散は知っているのかな。ここにこんなにも可愛い後輩がいることを。

「黒須君は、すごく未散を尊敬してるね」

「はい!藤谷先輩みたいに、すごいラストパス出したり、フリーキック決めたり、いつかしてみたいんです」

さっきまでのモジモジした態度がウソみたいに目を輝かせて語りだした。

ああ、私にもこんな頃があった気がする。兄さんを追いかけてサッカーを始めて、るいちゃんに憧れて必死に練習して。私にもいつか、こんな後輩ができるのかな。あまり役に立ってない名前だけのチーフマネージャーに。


「……広瀬先輩?」

黒須君が心配そうな顔で私の顔をのぞきこんだ。

「大丈夫ですか?」

「何が?大丈夫。何でもないから」

未散とウマが合うだけあって、よく見てる。

「えっと、黒須君はさ、未散と何か仲良くなるきかっけとかあったの?」

私はごまかすように聞いた。

「あー、えーと、それは……」

何気なく聞いたつもりだったけど、黒須君は異様に口ごもった。これは、何かある。

「言いなさい。先輩命令です」

「えっ!えーと、その……藤谷先輩には、絶対内緒にしてくださいね。僕がしゃべったって知れたら、怒られちゃうんで」

ちょっとふざけておどすフリをしてみたら、真に受けてしまったようだ。

「言わない」

たぶん。

「……四月にサッカー部に入った時、まだ三年の先輩たちがいて、僕、こんな性格だから真っ先に目をつけられて」

「いじめられてたの?!」

一瞬で頭に血がのぼる。許せない。こんないい子を。

「いえ、そういうのとも、ちょっと違うんですけど」

黒須君は慌てて手を振った。

「いじられ役っていうか、話のオチに使われたり、プロレス技かけられて、大して決まってないのにギブって言わされたり、そういうイヤな役回りになっちゃって。最初は一年だからって我慢してたんですけど、だんだん辛くなっちゃって。四月の終わりには、もう辞めようかなって考えてたんです」

「あー」


それはいじめよりも、つらさが伝わらないかもしれない。際立った暴力も悪意の自覚も無く、ただ格下として扱われ続ける毎日。いじめや暴力なら同情もされるけど、そこまで行かない扱いは不満を漏らしても「まあまあ」と、取りなされて終わる。それによって、好きなスポーツから離れるしかない、つらい決断をするかもしれないのに。


「それで?」

「それぐらいの時期から、藤谷先輩が練習中にちょくちょくアップやパスの相手に誘ってくれて、三年の先輩から引き離してくれるようになって」

「へー」

そんな男気があるなんて。でもそういえば、例の事件で厚尾高に転校した佐々木さんの件でもかなり怒っていたし、もとから後輩には優しい面があるのかもしれない。

「その時、一度言われたんです。言いたいことが言えなくても気にするな。お前のプレーは全部俺が見ててやるって」

「……」

息がつまる。彼はその時、どんな顔して言ったんだろう。

「でもその後、恥ずかしいから今のは誰にも言うなって、真っ赤になって釘を刺してきて。かなり台無しになりました」

黒須君がその時のことを思い出すように笑った。初めて見る黒須君の笑顔はやはり年相応に可愛らしくて、彼をこんな笑顔にさせる未散にも、こんなにも好きな先輩のことを素直に語れる黒須君にも、私は等しくうらやましいと思った。


六時半をちょっと過ぎた頃。プールサイドに三人のサッカー部員が、学校指定の水着をはき、キャップをかぶって立っていた。黒須君は細いなりにも中盤の底というポジションのせいかそこそこ鍛えられていて、貧弱には見えない。菊地君は一人だけマイ水中メガネを持っている。ガッチリしているとは言えないけど、身長がそれなりにあって全体に骨太な印象だ。あと、髪が長い。


そして未散は、一言でいえば貧相。別に芦尾君みたいにお腹が出ているわけでもなく、だらしないわけでもないけど、胸板、腹、腕、全てが細くて薄い。太ももからふくらはぎだけはサッカー部らしくそれなりに太さがあって、妙にアンバランス。

何でだろう、イライラする。


「はい、これー」

盛田先生が紙袋から水中メガネを二つ取り出し、未散と黒須君に渡す。

「これ、お金払うんですか?」

メガネを頭にはめながら、未散が聞いた。

「ううん、私のおごり。て言っても、一番安いやつだけどね」

「いいんですか?」

黒須君も驚いたように聞く。

「これを見なさい」

盛田先生が持っていた紙袋を見せる。袋の下の方に、『モリタスポーツ』とカタカナで書いてある。

モリタ。

「盛田先生の実家、スポーツショップなんですか?」

私が聞くと、なぜか盛田先生は胸を張った。

「大型店やショッピングモールに押されながらも、地元で愛され続け今年で創業四十三周年を迎える老舗スポーツショップ。それがうちの実家、モリタスポォォォーツ!」

四十三っていう中途半端な数字でも周年って言うんだ、という疑問はともかく、盛田先生が実家の売上に貢献しようとしていることは伝わった。


「先生、質問なんですけど」

菊地君が言った。みんな気にならないのかな、四十三周年。

「体のバランスとかスタミナ強化なら、それこそ先生の専門のマラソンとか体幹トレーニングの方が良さそうに思うんですけど。何で水泳なんですか?」

未散も黒須君もうなずいている。

「確かにそうなんだけど」

言って、盛田先生はちらりと未散を見た。

「サッカー選手にとってヒザとか足首って、ただ同じペースで走るだけじゃなくて、ダッシュしたり立ち止まったり、ボール蹴ったり、いろんな用途に使われてすごく負担が大きいと思ったの。そんな関節部を、陸上と同じトレーニングで酷使するのはどうかなって。あとは体幹トレ?あれはとにかく地道で、成果が出るまでに時間がかかるんだよね。秋の予選に間に合わせるには時間が足りない。それで、心肺機能を高めることができて、しかもお尻や太ももの筋肉も鍛えて、背筋や胸筋にまで負荷をかけられる。この水泳こそ超効率的なトレーニングではないかと、昨日の晩ビール飲みながら思いついたの」

説得力はある。でも最後の報告はいらないと思う。

「先生、もう一個質問」

今度は未散が手をあげた。

「はいっ!藤谷君」

「指導は、盛田先生がしてくれるんですよね?水泳のコーチもできるんですか?」

盛田先生はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「よくぞ聞いてくれました、藤谷君。それでは紹介します。今回特別にコーチをつとめてくれるのはこの人!おーい、子安さーん、子安さ-ん」

プールの入り口のドアが開いて、競泳水着の女性がそそくさと入ってきた。

「呼ぶの遅いですよー、先生。あそこでずっとウロウロしてて、みんなに変な目で見られちゃったじゃないですか」

少し高めの甘い可愛い声。その声だけでも、同じ高校生だと分かった。

「ごめんねー。つい前フリに力入っちゃって。コホン。えー、今日みなさんを指導してくれるのは、本河津高校女子水泳部三年、子安美羽こやす みうさんでーす」

「こんにちはー」

と、ペコリと頭を下げる。


紹介された子安先輩は、背は百六十センチあるかないか。水泳部らしく肩はそれなりに張っているけど、それ以外はスラリとした流線型の綺麗なスタイル。水泳部といえばガッチリした色黒の人たちというイメージがあったけど、そうじゃない人もいるんだ。

そして何より、可愛い。目の下に涙袋と呼ばれるぷっくりした部分があって、笑うと目が急に細まる。

スッと通った鼻筋の下にはやや厚めのぽってりとした唇がほのかに笑みをたたえている。可愛い上に、色っぽい、と言うのかな。照れくさそうな笑顔で立っている姿は、女の私から見ても目を離せない魅力を感じた。未散も黒須君も、口を「おお」という形に開けて、子安先輩を失礼なくらいジロジロ見ている。気持ちはわかるけど、見過ぎ。

そして菊地君は、と言うと。


「あ」


私は思わず声をあげた。菊地君の大きく見開いた目は瞳孔が開いていると錯覚するくらいの色になり、口をポカンと開けて硬直している。これと同じ現象を昨日見た。伊崎君が桜女の岸野さんを見た瞬間。人は一目惚れした瞬間、皆同じような反応をするんだ。


子安先輩は可愛い声で続けた。

「えっと、女子水泳部三年の、子安美羽です。ちょっと早めの引退をして、今は未経験の一年生をコーチとして教えてます。今回は、サッカー部のみなさんに力を貸してほしいと盛田先生に頼まれてやってきました。こう見えても教え方は厳しい方なので、へこたれずについてきて下さいねー」

『はーい』

男三人が聞いたこともない素直な返事でハモる。こんな可愛くてセクシーなコーチがいたと知ったら、伊崎君は悔しがるだろうな、と私は一人ほくそ笑んだ。


準備運動を終え、三人が水中メガネを装着して水に入る。種目はクロールのみ。記録はタイムではなく、どれだけの距離を泳いだかにしぼることにして、私は黒須君、盛田先生は菊地君、そして子安先輩が未散の記録を集計することに。菊地君は先輩に、「水泳大好きです!」と声を大にアピールした結果、一人でも大丈夫と判断され、「水泳苦手です」と正直に告げた未散が子安先輩の担当になった。

菊地君、痛恨の作戦ミス。


それでも菊地君の「水泳大好き」は口だけというわけではないようで、素人目に見てもとてもスムーズに泳げているように見える。

「菊地くーん。もっと肩を開いてゆったり腕回してー。それ以外はすごくいいよー」

子安先輩が手メガホンで声をかける。菊地君はさらにスピードアップする。

「アハハハハハ、ま、ざっとこんなもん、がぼっ、げほっ、アハハハハハ」

「菊地くーん。笑いながら泳ぐと水飲んじゃうから気をつけてー」

私の担当する黒須君を見る。菊地君ほどではないけど、無難な泳ぎというのか。あまりスピードは出ていない。子安先輩が言った。

「黒須くーん。バタ足はもっとゆったりと、しならせるように大きくねー。あと水中で水をかく時はぐっと押すようにー」

「はいっ」

言われたとおり、黒須くんは泳ぎを修正する。あ、ちょっと速くなった。さすがコーチ。


そして問題の我らがキャプテン。


それは泳いでいる、というよりは何とか溺れずにいる、としか言えない無骨な泳法だった。バタ足はムダに水しぶきを上げ続け、せわしなく回転する腕は水をさっぱりつかめていない。息継ぎも多すぎる。二十五メートルも行かないうちに、未散は足をついてしまった。すでに肩で息をしている。

「ふふふ……」

黙って未散を見ていた子安先輩が、不敵な笑みを浮かべながらセミロングの髪を器用に束ねていく。そして手際よくキャップをかぶる。

「ここまで教えがいがある子に出会えるなんて」

軽くストレッチをして、子安先輩は静かに水に入った。そして未散のもとにスーッと泳いでいく。

「藤谷くーん。ちょっとこっちに来て」

「はぁ、はぁ、はぁ、はい」

未散は息も絶え絶えで、素直に先輩の後を追う。よほどキツいのか、可愛い先輩の水着姿も今は後回しのようだ。


先輩はプールサイド側の壁によりかかるように立って、未散にうつぶせで浮いてみるように指示した。未散が両手両足を伸ばしてまっすぐに浮く。すぐに下半身が沈んでしまい、先輩が両手で下から体を支える。

「オゥフ」

水中で体を触られたからか、未散が妙な声を出した。どこ触られたんだろう。

「いい?藤谷君。まずは姿勢を水平にすること。それからバタ足は、ヒザでバチャバチャ蹴るよりも、太もも主導で蹴ること。その上でヒザから下を柔らかく使って、水を蹴るの。ちょっとやってみて」

「こ、こうですか?」

ぎこちない動きでゆっくりバタ足をする未散。その間、体は子安先輩が前に進まないように支えている。先輩も力が入ったのか、グッと自分に近づけるように密着した。先輩の胸が、未散の脇腹に当たっている。

「あ、あのあのあの、子安先輩」

「黙って続けるのー。ちゃんとしたクロールができないと、効率的な心肺トレーニングにならないんだよ」

「は、はい」

未散が動揺している。なかなかリラックスした動きにならない。二つ向こうの3レーンで、菊地君がこちらに気づいた。

「ふ、ふ、藤谷!お前、がぼっ、お前ええええっ!」

菊地君がターンのタイミングを逃し、そのまま壁に激突していった。ゆっくりと白いキャップが沈んでいく。やれやれ。

「菊地君、大丈夫?」

3レーンまで歩いて行って飛び込み台から覗き込むと、菊地君が頭をさすりながら浮かび上がってきた。

「ぷはぁっ!広瀬!お前チーフマネージャーだろ。今すぐ藤谷のセクハラ行為を止めてこい!」

私は1レーンの未散と子安先輩を見た。次は腕で水をかく指導に移っていて、水中に立って両腕を伸ばす未散の背中に、先輩がぴったりと密着していた。よく見ると未散の口元が引きつっている。あれは多分、ニヤけそうになるのを我慢してるんだ。セクハラ行為というよりはただのラッキーっていうんじゃないかな。

「菊地君も、水泳苦手なフリすれば良かったのに」

私が笑うと、菊地君はフン、と言ってわざとらしく水しぶきを上げて泳いで行った。水が私の頭にかかる。

「ちょっと、水かけないでよ!」

全く、子供みたい。菊地君はサッカー部の中でも大人っぽい方だと思ってたのに。


1レーンの脇に戻ると、子安先輩はもうプールから上がって地べたに座り込んでいた。肩にバスタオルを羽織っている。私は何となく、少し間隔を開けて座った。

「未散、よくなりました?」

聞くと、先輩はそのぽってりとした唇の両端をクイッと上げてこちらを向いた。

「まあまあね。でもとにかく動きが固くって。早く正しいフォームに慣れてくれればいいんだけど」

「先輩が綺麗だから、緊張してるんじゃないですか?」

無意識に少しトゲのある言い方になってしまった。先輩は「ん?」という顔をして、座ったままこちらににじり寄ってきた。

「なあに?広瀬さん。私が藤谷君とイチャイチャしてたのがそんなにイヤ?」

「違います!そもそもイチャイチャなんてしてなかったじゃないですか」

「んー」

子安先輩は指をあごに当てて、いまだぎこちない未散の泳ぎを眺めて言った。

「私、藤谷君みたいな子好きだけどな。ぶきっちょだけど、まっすぐで素直で。何でも言うこときいてくれる彼氏になってくれそう」

「え」

思わず先輩の顔を見ると、ウフフと楽しそうに笑った。

「冗談。私、つきあってる人いるから。そんな顔しないで」

「も、元からこんな顔です」

しまった。何かもう、ずっと先輩のペースでからかわれてる。一年上ってだけなのに、圧倒的に大人っぽい。あと菊地君、ご愁傷様。


しばらく沈黙が続いて、私は気になっていたことを聞くことにした。私をからかって楽しんだんだから、これくらい聞いてもいいと思う。

「先輩は、何で早めに引退したんですか?」

子安先輩は大きく目を見開いた。

「初対面で結構切り込んでくるのね、広瀬さんて」

「初対面でいいようにからかわれましたから」

言い返すと、先輩は声を上げて笑った。

「そうねー。別に大した理由じゃないの。肩に違和感が残ってるのにだましだましやってたら、関節唇損傷っていうちょっとやっかいなケガしちゃって。元々選手としては高校までって決めてたから、早いほうがいいかなって」

「でも、コーチとして残ったんですよね?」

「うん。私、将来子供たちに水泳教えるインストラクターになりたいの。だからその勉強も兼ねてね。今日のコーチを引き受けたのも、その一環」

先輩の柔らかな笑顔が、一瞬だけ真剣な顔に変わった。本気で目指してるんだな。

「教える仕事って、大変そうですけどやりがいありますよね。やった分が、形になって返ってくるっていうか」

私が何気なく言った言葉に、先輩は敏感に反応した。

「マネージャーの仕事は、報われなくて不満?」

「え」

そんなことは、一言も。でも。

「不満、ではないですけど。その、本当は、いてもいなくても、チームの強化や試合の勝敗にはそれほど影響無いんじゃないのかなって、ときどき」

私は、初対面の人に何を言ってるんだろう。重症だ、もう。

「あのね、広瀬さん。私、海で泳ぐのも好きなんだけど、ときどき自分がすごく速く泳いでる気分になる時があるの。体がすごく軽くて、すべてがスムーズで」

「はあ」

戸惑う私に構わず、先輩は続ける。

「そういう時ってね、たいてい潮の流れに乗って後押しされてる時なんだって後で気づくの。でもその時は分からなくて。マネージャーの仕事も、そういうものなんじゃないのかな」

「あの、それはどういう」

子安先輩がおもむろに立ち上がる。

「こらーっ、藤谷くーん。また元に戻ってるー!」

先輩は再び水に入っていった。私は一人、いろんな意味でプールサイドに取り残されていた。


時間はすでに夜八時。

疲労の後を残しつつもどこか充実した顔をした三人が、初の水泳練習を終えて上がってきた。

「みんなー、お疲れ様ー。温水プールでも上がれば体は冷えるから、風邪引かないでねー」

優しい言葉と笑顔を残し、子安先輩は帰っていった。菊地君は結局連絡先を聞く勇気が出なかったみたいで、珍しく未散に笑われている。聞けなかったのは、ある意味死刑が延期されたようなものだけど。

「はい、お疲れさん。みんな気をつけて帰ってね。広瀬さん、記録お願いね」

「はい」

盛田先生も手をひらひらさせて帰っていく。菊地君も黒須君も体を拭きながら更衣室に戻っていった。

「広瀬、俺、もうちょっと泳いでいくよ」

「え」

未散が再び水中メガネを装着してプールサイドに戻っていく。

「初日から飛ばさない方がいいんじゃないの?」

「終わり際に、何となく感覚が分かってきたんだ。忘れたくない」

言って、勢い良く水に入っていく。気がつくと、プールには未散と私の二人だけ。貸し切りだ。

「未散。ちょっとだけむこう向いてて」

「え?」

未散がけげんな顔で振り返る。

「向いててってば」

「分かったよ」

素直に背中を向けてくれた。私はTシャツとジャージの下を素早く脱いで、勢い良くプールに飛び込んだ。そのまま息を止めて潜水する。

「お、おい、広瀬!トチ狂ったか!」

水を通して、こもるように未散の声が聞こえる。私は思い切りジャンプして、ぷはっと息を吐いた。心配そうな顔をした未散が、すぐに私の姿を見て眉間にシワを寄せた。

「……おい、まさか。さっきの練習中、ずっと下に水着着てたのか?」

学校指定の紺色の水着。実は最初からひそかに泳ぐチャンスをうかがっていたのだ。特訓中はさすがに気が引けたけど、貸し切りの今なら大丈夫。

「五百円払ったんだから、ちょっとでも泳ぎたくて」

「だからって、極端なんだ、お前は。キャップも水中メガネも無しで。それに、下着で飛び込んだんじゃないかって、一瞬パニくったんだぞ」

未散が目をそらして言った。

「スケベ」

「普通の反応だ!」

「ね、勝負しよ。2二十五メートル」

私が言うと、未散はニヤリと笑った。

「別にいいぞ。しかし先月まで帰宅部だった君が、子安先輩の教えを受けた俺に勝てるかな」

「それはやってみないと」

私たちはレーンのはしっこに移動した。

「未散がコールして」

「よし。ドン」

未散が勝手に壁を蹴ってスタートした。

「ちょっと、反則!」

私は慌てて追いかけた。


三十分後。

制服に着替えて更衣室から出てくると、同じく制服姿の未散がぼんやりとした顔でソファに座っていた。手には缶コーヒーが握られている。

「お待たせ」

「おお。これ、おごりだ」

未散がピンク色の缶を私に差し出す。おしるこドリンク。

「わ、ありがと。今、シーズンじゃないからなかなか売ってないのに」

「そこの自販機だ。市の施設は入れ替えが遅いんだな」

未散が指す先を見ると、確かにおしるこドリンクがラインナップに健在だった。こんな穴場があったとは。


私は早速上下に振って缶のフタを開けて、未散の隣に腰を下ろした。

「しかし、広瀬は本当に万能だな。一回も勝てなかった」

二十五メートルの勝負。初回のズルにも動じず、私は最後まで未散に勝ち切った。ついムキになってしまったけど、マネージャーが選手の自信を喪失させてどうするんだと今更ながら反省の気持ちが湧いてくる。

「泳ぐのは、昔から好きだったから」

私は左の足首をそっとさする。今も残る手術の跡。もうだいぶ薄くなったけど、プールの授業以外では泳がなくなった。傷跡を見られるのがイヤなわけじゃない。


傷跡を見た人の、顔を見たくないから。


さっき傷を見た未散は、

「もっとグロいかと思ってたけど、全然目立たないな。腕のいい外科医だ」

と、なぜか執刀医を誉めていたけれど。


「髪、まだ濡れてるんじゃないのか?」

未散が言った。

「うん。女子ロッカーのドライヤー、風が弱くて。全然乾かなかった」

「男子の方は調子よかったぞ。持ってこようか?」

「ううん、いい。帰ってすぐお風呂入るから」

言って、私はバッグからブラシを取り出す。急いで出てきたから、後ろが少しハネている。見えないから少しときにくい。

「ブラシ貸せよ。やったろうか」

私がジロリと見ると、未散は慌てて目をそらした。

「す、すまん。言ってみただけだ。おせっかいだよな、うん」

「はい」

私はブラシの柄を未散に差し出した。

「いいのか?」

「やってくれるんでしょ?早く」

背中を向けて座り直す。

「お、おう」

いかにも恐る恐ると言った手つきで、未散が私の背中で髪をといていく。


頭をゆるやかに撫でるその優しい手つきは、今朝からモヤモヤとわだかまっていたものが一回とくごとに消えていくようで。


「ありがとな」

未散がポツリとつぶやいた。

「何でお礼言うの?私がやってもらってるのに」

「広瀬が今朝から元気なかった理由を色々考えててさ。ここ最近、急に人が増えて、ちょっとないがしろにしちゃってたかと思って。広瀬はそんなこと気にしないとは思ったんだけど」

「別に、そんな風には思ってない」

「そっか、ならいいや。でもさ、ちゃんと、その、よくやってくれてるとは常に思ってるから。それは忘れないでくれ」

「うん」

未散の発する言葉が、声が、ほぐれた心に浸透していく。

「私、ダメなマネージャーだよね。みんながプレーに集中できるようにしなきゃいけないのに、心配させてばっかりで」

「それは違う。マネージャーの仕事と、友達を心配することは別だ」

「友達?」

「そうだ。少なくとも、俺はそう思って」

私は振り向いて、未散の目をじっと見つめた。ブラシを持つ手を止めて、未散も私を見つめ返した。停止したようにも思える時間が、私たちの間をゆっくりと流れていく。

「広瀬、あの」

「帰ろ。遅くなるよ」

私はスッと立ち上がって、未散の手からブラシを取り返す。

「そ、そうだな。帰ろう」

赤面して、大きく息を吐いている。今何を言いかけたんだろう。


未散と別れた帰り道。真っ暗な田んぼ道を、私は自転車で快調に飛ばす。冷たい風が半乾きの髪とプール上がりの体を心地よく冷やしていく。


今なら分かる。子安先輩が言ったこと。行きの向かい風の中で、帰りは追い風だから楽ができると思っていた。でもいざ追い風に乗ると、風の存在は感じない。私が速くなったとしか感じない。私は部員たちの、未散にとっての、この追い風になれるのかな。

違う、なりたい。ならなきゃいけない。

下り坂。

私はハンドルから両手を離して体一杯に風を受け止めた。


翌朝。

ベッドの中で目を開けると、視界がぼんやりとかすんでいる。目の奥が熱い。頭がガンガンする。やばい、これは。

「夏希ー。起きなさーい。ご飯食べる時間無くなっちゃうよー」

母が部屋に入ってくる。返事をする気力もない。

「まだ寝てるの?まったく」

「お母さん、頭痛い」

「え?」

母が私のおでこと首筋に手を当てる。ひんやりして気持ちいい。

「あんたすごい熱じゃない!今体温計持ってくるから!」

ぼんやりとした意識の中で、今日の未散のお弁当はどうしよう、と私は考えていた。

こうなったのも、全部未散のせいだ。


つづく

たぶんしなくていい名前の由来解説


子安美羽……劉湘リウ・シアン

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