第21話 「うまくなりてえな」
一条さんの指導者論
「見せつけてくれるね、ファンタジスタ君」
一条さんが、悔しさを隠し切れない顔で俺を覗き込んでいる。
「は、はい……」
疲れきってしゃべれない。俺は突き上げた両手をヒラヒラさせた。
「何?」
「起こしてくだしゃい」
一条さんは一つため息をついて、俺の両手をつかんで一気に引き上げた。
「わっ」
「おっと」
ふらつく俺の体を片手で支える。すごいパワーだ。
「まったく。君はすごいんだか何だかわからない男だな。さ、早く戻って。絶対追いつくから」
バシンと背中を叩かれ、俺は自陣へ押し戻された。途中で岸野さんがすごい目で俺をにらんでいたような気がするが、気付かなかったフリをした。
「冬馬。よく詰めてたな」
ゴール前からさっさと自陣に戻っていた冬馬に声をかける。
「あれはお前が打てよ。ちょっと触れば入ったろ」
逆転ゴールを決めたというのに、やっぱり不機嫌だ。
「お前がいなかったら、自分で打ったよ。決めたんだからいいじゃないか」
俺が答えると、冬馬は「フン」と鼻を鳴らしてポジションへ戻っていった。難しいヤツ。
「未散」
直登が駆け寄ってきて背中をポンと叩く。
「まったく、僕の同点ゴールがかすんじゃったじゃないか」
「おお。すまん。でも、代わりに岸野さんへの借りは返しといたぞ」
ニヤリと笑う直登とハイタッチをかわす。
皆の祝福もそこそこにとどめ、残り十分の戦い方を大急ぎで俺は伝えた。
「守れ」
以上である。
試合再開後、キャプテンの指示に忠実に従ってくれた我がチームは、鬼のような猛攻を繰り出す桜女に対して涙ぐましいまでの守備を見せてくれた。毎分一本の割でシュートを食らいながら、時が過ぎるのを待つ。もう半泣きである。
そして、待望の長いホイッスル。
「勝ったぞおおおっ!」
「勝った!」
「イイイイヤッホウッ!」
練習試合だし、相手は日本一とはいえ女子だ。しかもメンバー落ち。でも確かに、この新チームで初めて勝ったのだ。
俺たちはまるで大会で優勝したかのような喜びようで、あいさつを済ませてベンチへ戻る。
「おーっ!やったね、君たち!」
盛田先生が小柄な体で飛び跳ねて、皆とハイタッチする。散々振り回されたジャージが、ねじれてヒモ状になっている。
「ちょっと本気出せばこんなもんスよ」
芦尾がここ一番のキメ顔を披露する。
「あんたシュート止められてたでしょ」
広瀬が冷めた目で言った。芦尾は遠い目で空を見ている。
確かに止められたが、あれは向こうのGKの反応も良かった。俺が決勝点を冬馬に譲ったのは、GKの反応速度を警戒したのも理由の一つだ。
「未散」
広瀬が俺を見る。最後のプレー、誉めてくれるのかな。
「あそこまで行って、何で自分で打たないの?ちょっと触れば入ったのに」
そんなに甘くはなかったようだ。しかもちょっと怒ってるし。
「いいじゃないか、決まったんだから」
「結果的にね」
全く可愛くない。勝ったんだから、ちょっとぐらい評価してくれてもいいのに。
「でも」
黙った俺を見て、広瀬は言葉を継いだ。
「何だよ」
「引き分けでいいって思わず、最後まで勝ちにこだわったところは評価してあげる」
そう言って、広瀬は笑いながら俺の左腕に巻かれたキャプテンマークをパンチした。
やばい。何の準備もなく、至近距離で笑顔を見てしまった。反則だ。
耳が熱くなり、心拍数が跳ね上がる。あとついでに、パンチが鋭くてちょっと痛い。
「こ、この後のスケジュールは?」
俺はごまかすように尋ねた。広瀬は手元のタブレットを起ち上げる。アップの間に、桜女のマネージャーに聞いていたらしい。
「十五分休憩して、一時間基礎練習。それからお昼休憩一時間だって」
「休憩十五分…」
厳しい。せめて三十分くらいはダラダラしたい。
結局休憩中は、江波先生の指示で水分を補給し、盛田先生の指示でクールダウンの運動。ダラダラしているヒマなどなかった。
あっという間に十五分は過ぎて、桜女の基礎練習にまぜてもらうことになった。白とピンクのユニフォームが集まるゴール前へ、ゾロゾロと赤いユニフォームの集団が向かう。
「基礎練習って何やんだ?」
銀次が俺に並んできて言った。
「基礎だからな。インサイドキックのパスとか、シュートだと思う」
「おお、そりゃいいや。一度みっちりやりてえと思ってたんだ」
確かに。レベルの高いチームは日頃どんな基礎練習をしているのか。それを知るのも今日の目的の一つなんだ。
一時間後。
俺たち本河津高校の選手たちは、芝生の上に戦場の死体置き場のように横たわっていた。
「み、水……」
「はぁ、はぁ、死ぬ……」
「イヤ……ホゥ……」
みんな息も絶え絶えだ。桜女の基礎練習とは、確かに基本的なキックの練習のことではあった。しかし実戦に即したスピードじゃなければ意味が無い、という一条さんの考えで、とにかく一つ一つの動作の間に息をつく隙間が無い。急にスピードを上げて、止まり、また走る。それを繰り返すうちにいつの間にか体力が空になっていたというわけだ。今まで自分がいたクラブやサッカー部でも、こんなにキツい基礎練習は無かった。胃は空っぽなのに吐きそうだ。
「じゃあ、十二時から一時までお昼休憩にしまーす。今日は営業してませんけど、学食開放してるんで、そちらでお昼食べてくださーい」
桜女のマネージャーが我々に告げて去って行く。すごいな、高校で学食があるんだ。
這うようにベンチに戻り、みんながゾンビのような足取りで更衣室に弁当を取りに行く。更衣室の建物と学食棟が近いのは救いだ。
そうだ、俺の弁当は広瀬に一任してあるんだった。なら広瀬より先に学食に行ってもすることがない。
俺は、一人でノートPCへの入力作業に没頭しているこばっちの隣に腰かけた。
「こばっち、お昼だ」
返事が無い。
キーボードを打つ手が止まらない。俺は黙ってこばっちの横顔を眺めた。一心不乱に凝視している先には、サッカーコートらしき図形と、ボールであろう丸。様々な場所に点が打たれており、数字が打ち込まれるたびに点が増えていく。シュートを放ったポイントだろうか。初めて会った時に俺が言った、どの位置からシュートを打っても必ずゴールまでに通るポイントがある、という分析をずっとしてくれているのか。
何度も、何パターンも。
メガネの間から、こばっちの目が見える。度がキツいと目が小さく見えるというから、本当はもっとパッチリとした目なのかもしれない。本人は恋愛の話に興味が無さそうだけど、ちっちゃくて可愛らしいし、モテる要素はありそうなんだけどな。
「ふー」
こばっちがようやく手を止めて、大きく息をついた。そして何気なく隣の俺と目が合う。
「ふわあああっ!」
「だああああっ!」
二人して声を上げる。
「ふ、ふ、藤谷君!いつからそこに?」
「一分くらい前」
答えると、こばっちの顔がみるみる赤くなっていく。
「ということは、その間ずっと私を見ていたということですか?」
「そういうことだね。お昼休みだって言ったんだけど、すごい集中力で」
こばっちは直登にくしゃくしゃにされた髪を再び整え、真っ赤になった頬をペチペチ叩いて、いそいそとPCを専用バッグに仕舞う。その全ての動作が、ちっちゃな体を一生懸命チョコチョコ動かしているようで何とも微笑ましい。
「ごめんなさい。私、没頭するとすぐ周りが見えなくなるタチで」
「いや、見えてたよ、周り」
こばっちがきょとんとする。俺は続けた。
「ありがとな、直登のこと」
俺は試合中から言いたかったことをやっと告げた。こばっちの体が一瞬固まり、耳が赤くなる。
「エ、何ガデスカ?」
とぼけ方もヘタクソだ。
「こばっちのおかげで直登が復活して、同点ゴールが生まれたんだ。あのゴールのアシストはこばっちに譲るよ」
ちょっとクサかった。けど、本心だ。
「私は、情報戦略室室長として、正しいデータの集め方を茂谷君に言っただけです」
頑固だな。いや、照れてるのか。
「理由は何でもいいよ。ともかく、こばっちのおかげなのは確かだ。いいマネージャーだよ、君は」
言って俺は立ち上がり、こばっちの頭にポンと手を置いた。
「わっ。な、何ですか、藤谷君まで」
「いやー、丁度いい場所にあるから、つい」
俺は右手をわしゃわしゃと動かして、こばっちの頭をなでる。おお、結構楽しい。直登の気持ちが分かった。
「やめてー。せっかく直したのにー」
「はっはっはっ。じゃあ食堂行くぞ」
手を離して、何気なく振り返る。
「……」
学食へ向かう広瀬と、目が合った。広瀬はくるりと背中を向けて、早足で行ってしまった。
こばっちと二人で学食へ入る。
桜女の学食は、茶色い大きな長テーブルに北欧風のシンプルなイスがズラリと並んでいて、それが広い間隔で八列。他にも二人掛けや四人掛けテーブルもいくつか見える。壁際には大きめの窓が設置してあり、自然光が柔らかく食堂内に入る仕組みだ。大きな柱は無く、移動もしやすいし何より開放感がある。前世でどれだけの善行を積めばこんなところで昼飯が食えるのだろうか。まず女子に生まれなければいけないが。
先に食べ始めているうちの部員たちも含め、食堂内の席にはすでに色々な島ができていた。直登は桜女の選手たち五、六人に、脱出不可能なフォーメーションで囲まれている。しかも全員結構可愛い。雰囲気は三年っぽいが、さっきの試合には出なかった選手だ。レギュラーかな。とりあえず、生還を祈る。
島と梶野は桜女のGK三人と一緒。同業者ということで話が弾んでいるようだ。共通の話題があるって強いよな。
狩井、国分、黒須、皆藤のシャイな一年生四人はすみっこの四人掛けテーブルで固まって食べている。ナンパ禁止とは言ったけど、接触禁止とは言ってないんだぞ、お前たち。
「菊地先輩!カツ丼三百五十円ですよ!天ぷらうどん二百五十円、炒飯百八十円です!ここどうやったら通えるんですか?」
伊崎が食品サンプルの前で菊地と騒いでいる。試合では絶不調だったのに、立ち直りの早いヤツ。うらやましい性格だ。
「女子に生まれなきゃ無理だろ」
疲労困憊の様子の菊地が面倒くさそうに答えた。俺ばかりスタミナが無いと言われているが、実は菊地もスプリンター寄りの人間で、スタミナに自信が無いのを俺は知っている。
銀次、金原、照井は三人で黙々と弁当を食べている。あそこだけ雰囲気がいかつい。
冬馬はすでの二人がけの席につっぷして寝ていた。ハンバーガーの包み紙がテーブルに転がっている。自分もこないだまで似たようなものだったが、こいつもなかなかひどい昼食だ。
「芦尾、それ何だ」
一番窓際の長テーブルの席で、コーヒーカップを持ったうちの13番が優雅にくつろいでいた。弁当はすでに食べ終わっている。五分で食べたのか。早い。だから太るんだ、
「見りゃわかるだろ。コーヒーだ」
「どこのサッカー部に、食後のホットコーヒーでくつろぐヤツがいるんだよ」
「先駆者は理解されないのだよ、藤谷君」
こいつもしかして、コーヒー飲みながら遠い目で外見てたらモテると思ってるんじゃないだろうな。まさかそこまでアホじゃ……いや、判断は保留しとこう。
女性教師二人は姿が見えない。外に食べに行ったのだろうか。毛利先生は、桜女の顧問の先生とコーヒーを飲んでいる。あの人はここまで何しに来たんだ。
そして、一番人が集まっていて、一番キャッキャと騒がしいテーブルがあった。広瀬を中心に、十人以上の女の子が陣を作っている島だ。
「広瀬さん、顔ちっちゃーい」
「肌きれーい」
「写真取らせてもらっていいですか?」
何が目的なのか知らないが、とにかくすごい人気だ。美人も飛び抜けると嫉妬の対象を超えて憧れになるのかな。共学の女子マネージャーというのも興味の対象になっているのかもしれない。当事者の広瀬はどこか困ったような様子で、ひきつった笑顔で写真を撮られていた。助けてやりたいけど、あの中から連れ出す口実が思いつかない。
「キャプテン」
黒須がすみっこの席から、包みを持ってきた。
「これ、広瀬先輩から預かりました。キャプテンの弁当です」
「おお。ありがとう」
受け取って、輪の中心にいる広瀬を見た。しばらくして目が合う。
「……」
俺は黙って、タイの修行僧のように胸の前に手を合わせて一礼した。いただきます。
広瀬は黙ってうなずいた。
「こばっち、あっちに混じる?」
広瀬を取り囲む集団を指して、俺は言った。
「うーん、私、人が大勢いるところは苦手です」
「そっか。じゃ、あっちで食べよう。連れになってくれよ」
「は、はいっ」
空いている長テーブルに弁当を置き、座る。こばっちも隣に座った。向かいの席に行くと思ったんだけど、隣とは。ちょっと照れるな。今から俺が向かいに移動しようか。いや、隣になるのを避けたみたいで傷つけてしまうかもしれない。
「ここ、いいかな?」
顔を上げると、向かいの席に一条さんが立っていた。手にはピンクの袋に包まれた弁当と小さい水筒。練習中のようなピリピリした雰囲気はない。こっちが本来の姿なのか。
「無論です。でも、あっちに部員が一杯いますけどいいんですか?広瀬もいますよ」
俺は桜女の選手たちが固まっている島に目をやった。
「いいんだ。夏希を紹介しろって、部員たちにうるさく言われていたしね。それに休憩時間くらい、私がいない方がリラックスできるだろう」
一条さんはサラリと言い、俺の目の前に腰掛けた。
「キャプテンは孤独なんですね」
俺が言うと、
「何を言っている。君もキャプテンじゃないか」
と言い返した。そして隣のこばっちを見て、
「それとも、そこの可愛い彼女がいるから孤独じゃないと?」
と笑った。こばっちが硬直する。こういう話題は苦手か。
「いえ、恋仲ではないです。うちの情報戦略室室長兼アシスタントマネージャーにして、俺の戦術の良き理解者です」
「ほう」
一条さんが目を大きくしてこばっちを見た。
「そうか、勘違いしてすまない。とてもお似合いに見えた」
「いえ」
そうか。もし俺と広瀬が並んでいたら、誰もお似合いとは言わないよな、きっと。
弁当を食べ始めた一条さんのハンサムな顔を眺めつつ、俺は言った。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「どうして、練習試合受けてくれたんですか?」
一条さんは口の中のものを飲み込んで、お茶を一杯飲んだ。
「何だ、突然」
「いえ、ずっと気になってて。やっぱり、広瀬がいたからですか?」
「それは、無いと言ったらウソだ」
「ですよね」
「でも、それだけじゃない」
俺の目をまっすぐに見て言った。
「嬉しかったんだよ。いくら全国優勝したとはいえ、女子の私たちに教わりたいなんて、男子がなかなか言えることじゃない。男には、つまらないプライドってものがあるからね。でも君は違った。だから、受けた。そして君にも興味が湧いたんだ」
「俺に?」
今度は笑って言った。
「そこまでして、実績の無いチームで本気で優勝を狙う男。それに、夏希をもう一度サッカーの世界に引き戻した男でもある。会ってみたかった」
わあ。すごく誉められてる。恥ずかしい。こばっちはなぜかニコニコして聞いている。それにしても一条さんは、見た目だけじゃなく中身も男前だ。女子っぽいところが全然無い。
「で、会ってガッカリしました?」
俺は恐る恐る聞いた。
「まさか。予想以上に面白い選手だ。とても頭を使ってプレーしている。チームの連携もいい。他の選手たちも君によくついて来ているしね。最後の逆転ゴールもなかなかだった。うちのスーパールーキーをあっさり止めて、しかもアシスト役に仕立てるなんて。彼女呆然としてたよ」
何気なく食堂を見回す。岸野さんは他の部員たちと離れた場所に座り、一人で弁当を食べていた。しかし美少女は飯食ってても美少女だ。
「で、それはそれとして、だ」
一条さんは箸をフタの上に置き、手のひらをバン!とテーブルの上に置いた。
「な、何すか?」
俺は思わず身を縮めてしまう。周りも何事かと注目している。
「残り十分のガッチガチの守備!あれは一体何なんだ!君たちには男のプライドってものがないのか!」
ムチャクチャだ!前言撤回。やはりこの人も女子なのだ!こばっちなんて、一条さんのあまりの迫力と非論理的な展開に、口をひし形にしてフリーズしてしまっているじゃないか。
「そ、それは、それくらい勝利に飢えていたと解釈していただければ」
「フン。午後の試合はあんなことはやめてくれ。練習にもならない」
一条さんは不機嫌な顔でお茶を飲み干す。
守備に徹する格下と対戦した時はどうせあんな感じなんだから、練習にはなると思うけど。よっぽど負けたのが悔しいんだ。
「そういえば、そちらの監督ってすごい実績の持ち主なんですか?」
俺は話題を変えて聞いた。全国二冠だ。よっぽどに違いない。
「全然。サッカー経験無いよ、うちの監督。前に電話で言っただろう?頼りないって」
「本当ですか?じゃあ、何でここみたいな名門の監督に」
「私が一年の時、部員主導で前監督の解任を求めたんだ。選手としての実績はあったけど、指導者としては全く無能でね。選手時代の一度の成功体験を押し付けるのみで、選手の特徴を把握したり、相手を研究したり、そういうことが一切できない人間だった」
俺の頭に、うちの前監督の出雲先生が思い浮かぶ。
「おまけに結果がともなわないと私たちの気持ちが足りないせいだと、感情的になって暴力を振るいだした。なぜ負けたのか、を冷静に分析する理論が無いんだ。それをごまかすための暴力だ」
「ひどいですね」
俺は思わず顔をしかめる。出雲先生も無能だったが、暴力を振るうことはなかった。単に度胸が無かっただけかもしれないが。
「一度しか無い高校時代のサッカーを、一人の無能な指導者に台無しにされるのはごめんだって、当時の先輩たちが学校に掛け合ったんだ」
「ほう、それで」
「代わりに選ばれたのが、学食でみんなの食事を作っているあのおじさん」
一条さんは、毛利先生とコーヒーを飲んでいる監督を指さした。
「食堂のおじさんなんですか?!教師ですらなく?」
「そうだ。教師ですらない。学校職員ならいいんだよ。ライセンスが無いから、指導はできないが。でも監督の仕事はできる。彼は足掛け二年間、私たちがやりやすいように常に気を配って監督として十分な仕事をしてくれた。そして最高の結果を出した。それが全てだ」
とんでもない話だ。うちは教師だからまだ分かるけど。でもそしたら、指導者って一体。
一条さんは俺のそんな気持ちを見透かすように続ける。
「勘違いしないでほしい。私はスポーツに指導者が必要無いなんて思ってないよ。むしろ若年層のスポーツには絶対に必要だ。でもそれは、優秀な指導者に限るってことなんだ。そして求めるチーム数に対して、優秀な指導者の数は圧倒的に少ない。そもそもの絶対数が足りてないんだよ」
「わかります」
俺も今まで数々の監督やコーチに会ったが、ロクな大人がいなかった。怒られても見放されても、蔑まれても、自分でやるしかなかったんだ。
「そしてどうなるかと言うと、能力も向上心も無いニセ指導者が、優秀な指導者のフリをして就任する。理論が無いから根性論くらいしか言うことがなく、子供にも簡単に論破される。そして暴力に逃げる。もし優秀な指導者が人数不足で確保できないのなら、指導者を置かずに選手たち主導でやっていく、という判断も必要だと、私は思う。そして残念ながら、今この県に優秀な指導者は我々にも、君のところにも回ってきていない。春瀬と、うちの男子が確保した二人だけ」
春瀬と桜律の監督。誰だっけ。後で確認しよ。
「で、でもですね」
俺は頭に浮かんだ疑問を思い切ってぶつけることにした。
「それは桜女が名門で、優秀な中学生をあちこちから集めているから可能だと思うんですが」
「名門、ね」
一条さんは不敵に笑う。何か変なこと言ったかな、俺。
「一つ藤谷君に質問だ。名門とは、何をもって名門という?」
ここにきてクイズか。ふふん、なめるなよ。
「えーと……まず複数の優勝回数、優勝できない年でも最低でもベスト4は行く。プロに何人も送り込んでいる。それを長い年月続けてるってところですかね」
「うん。そんなところだ」
一条さんは空になった弁当箱を仕舞い始める。
「じゃあもう一つ。名門と言われる学校の最初の勝利は、どうやってつかんだのか?まだ名門じゃないから良い選手も集まってないのに」
「それは……」
あ、そうか。何でだろう。まぐれ?
「私が思うに、答えは二通りだ。一つはただのまぐれ。もう一つは、他校が考えもしない極めて独創的なやり方で戦ったから」
「なるほど」
「まぐれは何度も続かない。でも戦術に根拠があれば、強さは続く」
「その独創的な戦い方は、監督によるものですか?」
あごに手をやり、一条さんは少し考えた。
「私としては、そこは監督に依存するのではなく、戦術そのものに求めたい。監督次第だと、その監督が退任したらチャラになって急激に弱くなる。伝統として続かないんだ」
確かに。監督がやめた途端、黄金時代が終結した元常連校はいくつか浮かぶ。
「だから、チームそのものが戦い方や哲学を持つことが理想だ。チームカラーというのかな。あくまで選手たちが主導だ。例え監督が途中で変わっても、現場で世代から世代へ受け継がれていく。私が目指す名門は、こちらだ」
こばっちもいつのまにかフリーズから解凍されて、熱心に聞き入っている。
「ちょっと理想主義すぎるかもしれないが、例え優秀な指導者に出会えなくても強豪チームになれる可能性が生まれるんだ。つまり」
ピンクの袋に弁当箱を仕舞い終えて、一条さんは立ち上がった。
「君のチームでも可能だってことだよ、藤谷未散君。では、邪魔したね」
俺とこばっちに爽やかな笑顔を向けて、颯爽と立ち去って行った。
たった一歳年上とは思えない、確固たる考えの持ち主だ。圧倒されてしまった。
「やりましょう、藤谷君」
こばっちが両拳を握りしめて興奮している。すっかり一条さんの演説にあおられたらしい。
「何を?」
「作るんですよ、私たちのチームカラーを。これがモト高のサッカーだっていうのを」
「えー」
スケールがでかすぎる。ついていけない。俺が考えているのは、県内のレベルが上がってしまう前に優勝を狙うというセコいものなのに。
「私、これまで以上に分析に励みます!だからデータをたくさん下さい」
目をキラキラさせているこばっちに、そんなことはとても言えなかった。
食べ終わってこばっちと他愛無いおしゃべりをしていると、伊崎が直登にペコペコ頭を下げているところが目に入った。何か頼み事をしているのか。直登はいかにもしぶしぶといった様子で立ち上がり、一人で食べている岸野さんのところへ向かう。
しばらく話したあと、岸野さんがおもむろに立ち上がって、ツカツカと伊崎のもとへ歩いていく。
「ちょっと、あなた」
「は、はいっ」
伊崎の背筋がピシッと伸びる。ここからは背中しか見えないが、あのいつも脳天気な後輩は、今どんな顔してるんだろう。
「どういうつもりか知らないけど、私、連絡先も自分で聞けないような情けない男は大嫌い」
クールな表情を崩さすキッパリと言い放ち、岸野さんは再びツカツカと戻っていった。
伊崎は微動だにしない。今どんな顔してるんだろう。俺はスマホを取り出して、席を立とうとした。
「わっ」
結構な力でジャージのすそを引っ張られて、俺は再びイスに座り込んでしまった。見ると、こばっちが両手でしっかりと俺のジャージをつかんでいる。
「離せ、こばっち。チャンスなんだ」
「藤谷君、何をするつもりなんですか?」
こばっちが怒っている。初めて見たかもしれない。
「いや、後学のために、人が失恋した時どんな顔するのか撮っておきたくて」
「ダメです!藤谷君は趣味が悪いです」
趣味じゃなくて研究心のつもりだ。でもこばっちが珍しく怒ってるからやめておこう。結構な迫力だ。
「わかった。撮らないから、離してくれ」
俺はスマホをジャージのポケットに仕舞い、改めて伊崎の顔を見に行った。
「大丈夫か、伊崎」
「……」
悲しみを通り越して、絶望としか言いようのない顔だ。何ともかける言葉がない。
「直登、何頼まれたんだ?」
俺は直登に小声で聞いた。
「岸野さんの連絡先を代わりに聞いてくれってさ。あのタイプの子はコソコソしない方がいいって忠告したんだけど」
直登は渋い顔で首を振った。こいつはこいつで後輩のことを思ってくれてるんだな。
今思ったけど、伊崎がさっきの試合でやたらカッコつけた大振りが多かったのは、岸野さんの前でカッコいいシュートを決めようとしてたからじゃないだろうか。伊崎よ、もしそうならお前のプランは全部失敗だ。全てが間接的なんだ。でもそんな風に伊崎がびびってしまうのは、多分誰でもいいからではなく本気で一目惚れしたからなのだろう。軽い気持ちなら自分で聞けるはずだ。しかし女子は逆に、はっきり聞いてこないのは興味が無いからだ、と解釈すると雑誌に書いてあった。難しいな。
俺はさりげなく広瀬をうかがう。桜女の選手たちに百人組手のような質問攻めにあい、すでにげっそりとしている。目が死んでいる。
「広瀬」
俺はあくまで事務的に声をかけた。
「なーにー?」
返事にも生気がない。
「こばっちがデータ入力したがってるから、あっちで手伝ってくれ」
一瞬目を見開き、広瀬はわざとらしく「えー」と言った。
「今休憩中なんだけどー」
「頼むよ。チーフマネージャー」
広瀬は「ごめんねー」と桜女の選手たちに言って、包囲網からいそいそと脱出する。そしてすれ違いざまに俺の耳元で、「ありがと」とささやいた。
よし、救出成功。俺、グッジョブ。
「ねえ」
広瀬を取り囲んでいた一人が、俺に声をかける。
「何でしょう」
「君と広瀬さん、付き合ってるの?」
十人ほどの女子がキラキラした目でこちらに注目する。試合中はよく訓練された戦士にしか見えなかったけど、やはりみんな女の子だ。恋愛話好きなんだな。
「いや……ただのキャプテンとマネージャーで、クラスメイトでもありますが、それ以上では」
改めて自分の口から言うと、何か悲しい。
「そうなんだ。広瀬さん、君の話する時何か嬉しそうだったから、てっきり」
……何だと。
「その話、もう少しくわしく」
「あ、ごめん。キャプテンが呼んでる。はーい!」
俺の心にモヤモヤを残して彼女はそそくさと去っていった。
俺の話をする時、嬉しそうだった。それって、つまり。
ほんの少し、期待してもいいってことなのかな。
休憩が終わり、午後は合同のセットプレー練習から始まった。俺はもっぱらキッカーを務めることになり、「すごく合わせやすーい」とおだてられてしまい、結局最後まで蹴るハメになってしまった。俺だってたまにはかっこいいヘディングシュートを決めてみたいんだけど。
コーナーキックとフリーキックを散々蹴り終えた後、さきほど伊崎を抜け殻にした岸野さんが俺のもとに走ってきた。
「あの、藤谷さん」
「は、はい」
ツリ気味で切れ長な目で見つめられると、さっきの試合でかなり屈辱的な目に合わせた負い目もあって、年下なのにびびってしまう。我ながら情けない。
「えーと、あの……」
しかし岸野さんは、伊崎を振った時とは別人のような優柔不断な態度を見せた。しかもちょっと顔が赤い。
これは、まさか。いや、でも俺は広瀬のことが。
「フリーキック、見せて下さい!」
岸野さんは腰を折って頭を下げた。
うん、やっぱりそうだよね。それが俺の唯一の取り柄だし。
「君もYouTube見たの?」
「はい。もう何十回も。私、いつか試合であんなフリーキック決めるのが夢なんです」
キラキラとした真っ直ぐな目だ。不純なことを考えていた己の浅ましさが恥ずかしい。
「蹴るのはかまわないけどさ、俺からも岸野さんにお願いがあるんだ」
俺が言うと、岸野さんはいぶかしげな顔になった。
「私にできることでしたら」
「さっき、学食で君が斬り捨てたヤツ、伊崎っていうんだけど、あいつを許してやってよ」
「……」
岸野さんは視線を足元に向けた。
「別に、付き合えとか連絡先教えてやれとかは言わないよ。でもあいつは、バカっぽいけど誰でもいいってノリで軽くあんなことするヤツじゃない。せめて、大嫌いからその他大勢くらいには戻してやって」
黙ったままだった岸野さんは、ようやく口を開いた。
「私も、ちょっと彼に言い過ぎました。実は、その、直接聞いてきた7番の茂谷さん、ですか?あの人に声をかけられて、ちょっと舞い上がってしまったところで他人の橋渡しって分かって、カチンときたというか」
やはり君もイケメンが好きか!何かやる気失せてきたぞ。
「完全に、私の八つ当たりです。すみませんでした」
「ああ、いや、それならいいんだ。ただ、伊崎がもう魂が抜けたように落ち込んでるから、使い物にならなくて」
振り返ると、伊崎はベンチに座ってスパイクに付いた泥をつまようじでほじくっていた。丸まった背中が寂しい。
「分かりました。彼には後でちゃんと謝罪します」
「おお、ありがとう。じゃ、フリーキックは今からでいい?」
「はいっ。ありがとうございます!」
再び頭を下げて、パタパタと桜女ベンチへ走って行った。根は素直な子なんだな。ちょっと広瀬とタイプが似てるかもしれない。可愛いし。
つまり俺もイケメン好きな女子を責める資格など無いってことだ。
桜女の中でも身長が高い選手たちが五人で壁を作る。キーパーが声を出して壁を微調整している。うちのメンバーと先生たち、桜女の選手たち全員がフリーキックのデモンストレーションに注目している。岸野さんは一番前に陣取って緊張の面持ちだ。
そして今、この場で一番緊張しているのは他でもない俺だった。見過ぎなんだよ、みんな。
ゴールから約二十五メートル。先日のインハイ予選で決めた時とほぼ同じ位置。
広瀬がお気に入りのマイホイッスルを力強く吹いた。
足を踏み出す。蹴る前の緊張は、ボールを見て踏み出した瞬間から一歩ずつ消えていく。かかとがお尻に付くくらい、足をしならせる。振り下ろしていくと、ボールの斜め下にスパイクが潜り込んでいく。ボールと接触する場所は何度も蹴ってきたせいで色が変わっている。変色の歴史がこの一撃を支えている。
足の円運動と共にボールを蹴り上げ、体が浮き上がる。壁の右上を越えていくボールが放物線を描いてゴールへ曲がっていく。キーパーがゴール右上に飛んだ。ボールはほんの少し左右に揺れて、ゴールに向かって落ちる。ボールはキーパーの手をすり抜けるように、右端から少し中に入った位置でクロスバーに当たり、真下に落ちてネットを揺らした。
「よしっ!」
後ろから広瀬の気合の入った声が聞こえる。両校のベンチから歓声があがる。俺は表情を変えずに額の汗をぬぐった。
……危なかった。今のは絶対止められたと思った。キーパーが飛んだ位置からうまいことずれた場所に落ちてくれただけだ。
キーパーは地面をドスドス殴って全身で悔しさを表現している。反応もいいし、決め打ちしてベストのタイミングで飛ぶ度胸もある。やはり日本一になるチームはキーパーも優秀だ。
「けー。見せつけやがって。結局藤谷が全部持ってくんだよな」
芦尾がブーブー言っている。
「この後もう一試合あるんだから、そこで活躍すればいいだろ」
俺が言い返すと、
「無理。だってあの子らうまいもん」
と、あっさり情けないことを言った。寝てないアピールとか渋くコーヒー飲む絵作りとか、しょーもない努力はするくせに何で本番でがんばらないんだ、こいつは。
「藤谷さん!」
岸野さんが興奮の面持ちで、本河津ベンチへ走ってきた。
「おお。あれで満足?」
「はいっ!すごかったです。何であそこからあんな風に落ちるんですか?」
「はっはっはっ。企業秘密だ」
美少女の尊敬の眼差しだ。伊崎には悪いが、ものすごく気分がいい。
岸野さんは、そのままモト高ベンチへ向かった。伊崎が背中を丸めて、まだスパイクの泥をほじくっている。
「あの、伊崎君」
岸野さんの呼びかけに、伊崎がビクンと反応する。スパイクとつまようじを放り投げて直立した。
「は、はいっ!さ、さっきは、お、俺、いや、それがし」
「さっきは、少し言い過ぎたと思う。ごめんなさい」
言って、岸野さんが頭を下げる。伊崎は口を開けてパクパクしている。
「人に頼むやり方が好きではないのは本当だけど、もし私に少しでも好意を持ってくれたのなら、それはそれで嬉しいと思うし、君が特別嫌いなわけじゃないから」
「は、はい」
「それじゃ」
岸野さんはプイッと振り返り、ベンチに戻っていった。
伊崎はしばらく立ちつくしたまま、岸野さんの後姿を見送っていたが、
「……よおおおっしゃああっ!」
唐突に雄叫びをあげた。復活だ。
俺はこっそり広瀬に耳打ちした。
「なあ、伊崎、何とかなるかな」
「んー?どうかな」
何となくそっけない。何だよ、さっき助けてやったのに。
「最後は本人次第だから、俺が心配してもしょうがないか」
広瀬はこういう話が好きではないのかもしれない。ゴシップで盛り上がっているところは見たことないし。しかし広瀬は意外なことを言った。
「未散次第じゃないの」
「え?何で俺が」
「さあね」
それ以上、広瀬は俺を見ようともしなかった。ここに来てからずっとこんな感じだ。俺が何したっていうんだよ。
二試合目の練習試合は、スタメンに島と冬馬を出したくらいで、他は一試合目と同じ。対する桜女は、半分はさっきスタメンで出なかった選手だ。一条さんも最初から。もしかして、ベストメンバーかもしれない。
試合が始まって、その予感は当たった。一試合目とは比べ物にならないパスのスピード、連携。速いだけではなく、当たりの強さも段違いだ。
そして何より違うのは、俺に密着マークが二人付いたことだ。無名の俺に試合でマークがついた経験はほぼ無いに等しい。それがいきなり二人である。
俺は決定的なパスを送ることもできず、ただ転ばされるか、周りのためにスペースを空けるかのどちらかしかできなかった。あせるほどに時間は早く過ぎていく。今の俺には、女子選手二人のマークを振り切る実力が無いんだ。
そうこうしているうちに、一条さんのパスから二点、一条さん自身が一点を決め、あっさり0-3のスコアになった。試合の残り時間はあと十分。うちの選手たちはすでに足が止まっている。何となく、疲れたから早く終わりたいとでも言いたげだ。でもさら「女子相手だから本気じゃねえし」なんて言い訳は通じないんだぞ、みんな。
このままじゃやばい。完封負けは恥ずかしい。せめて1点だけでも返したいところだが。
一分後。予定通り、冬馬に変わって伊崎がスーパーサブとして入ってくる。
さきほどまでとは打って変わって、やる気に満ちた目だ。。
広瀬は、伊崎の恋は俺次第、と言った。どんなつもりで言ったのかは分からないが、だったらキャプテンとして何とかしようじゃないか。恋愛のスペシャリストでも何でもない俺が、伊崎にできることと言ったら一つしか無い。
「伊崎」
ダッシュでフィールドに入ってきた後輩を、俺は呼び止めた。
「はいっ」
「俺が合図したら、センターサークルあたりからゴール正面に向かって走れ」
「はい!秘密の作戦ですね」
「そんなところだ」
「作戦名は?」
伊崎は目を輝かせている。こんなバカなところは復活しなくてよかったのに。俺は少し考えて、
「そうだな。作戦名、インドラの矢だ」
「インドラの矢!意味分かんないけど燃えるッス」
伊崎はノリノリでセンターへ走っていく。
左サイドのスローインを銀次が入れる。黒須が受けて、俺を探す。右サイドに位置している俺の周りにはピッタリと二人のマーカー。するとさらに外側を、右SBの狩井が上がっていく。右ハーフの皆藤も中へ切り込んで走る。ほんの一瞬、二人のマーカーの意識がそれた。
「伊崎!」
叫ぶと同時に、俺は狩井を追いかけるように走りだす。伊崎も低い姿勢でセンターサークルからスタートを切った。黒須が左足で山なりのロングパスを右サイドへ蹴る。ペナルティエリアよりかなり浅い位置に落ちそうだ。俺の左側にはマーカーが一人、ピッタリとついてきている。もう一人は狩井へと分散した。
それで十分。
「行けえっ!」
マーカーとの体の入れ合いを強引に制して、俺はロングパスの落ち際を左アウトサイドでダイレクトに合わせる。シュート回転がかかったボールは、地面から少し浮いた高さで弓のような弧を描いてペナルティアークの真ん中へ。
「ふおおおおわああッ!」
伊崎が叫びながら、スライディングでDFの間を矢のように突き抜ける。限界まで伸ばされたつま先がボールに触れる。勢いそのままで方向を変えたボールは、飛び出したキーパーの左脇をすり抜け、バウンドしながらゴールへ吸い込まれた。
1-3。
「よしっ!」
決まった。伊崎の飛び出しの鋭さと嗅覚を最大限に活かしたゴール。これは岸野さんにもアピールできたはず。
……待てよ、何か忘れてるような。
「マイゴ、マイゴ、マイゴ、マイゴオオオオオール!」
伊崎がユニフォームを脱いでぶんぶん振り回している。あろうことか、岸野さんへアピールに走って行ってしまった。まずい。注意し忘れてた。
「こっち来ないで!何で裸で追いかけてくるの!最低!」
岸野さんは必死の形相で逃げ回っている。何かごめん。
全身に疲労感と脱力感がドッと押し寄せた。
徒労、という言葉はこういう時に使うんだと俺は学んだ。
「ありがとうございましたー!」
制服に着替えた俺たちは、校門前で元気よくお礼のあいさつをした。
1-3で敗れた二つ目の練習試合が終わり、桜女のクールダウンに混ざって今日一日の日程が終了した。着替えて集まった時はすでに部員たちは疲労困憊で、あいさつもそこそこに早く帰りたいという雰囲気であったが、事情が変わった。桜女の部員たちが、制服に着替えて見送りに来てくれたのだ。上下白のセーラー服という珍しいもので、白い襟と袖口、そしてスカートの裾に紺のラインが入り、胸元のリボンの色で学年が分かるようになっている。
正直に言おう。こんなに可愛い制服は初めてだ。
ずらりと並ぶ純白のセーラー服集団を前に、俺たちは心を入れ替え、感謝の気持ちとともにしっかりと別れのあいさつをした。
「お、俺、行ってきます!」
ゴール後に半裸で岸野さんを追い掛け回してイエローカードを食らった伊崎が、意を決したように走りだした。部員の中から隠れていた岸野さんを見つけ出し、言った。
「俺、あなたに一目惚れしました!付き合ってください!」
一瞬の沈黙の後、桜女の部員たちのキャーが一斉に響く。岸野さんは真っ赤になっている。
「何考えてるの、みんなの前で!あなたバカでしょ!」
怒られて当然だ。無茶しやがって。
一条さんを見ると、伊崎の特攻作戦には見向きもせず、ただひたすら広瀬と別れを惜しんでいた。というかイチャイチャしているようにしか見えない。あの人は、つまり、本物のアレなんじゃなかろうか。イチャイチャはうらやましいけど、自分より男前な女子には嫉妬のしようがないな。
「藤谷君」
ようやく広瀬が戻ってきて、一条さんは俺に声をかけた。
「はい。今日はどうも、お世話になりました」
「いや、こちらも有意義な一日だった。二試合目は勝ったしね」
やはり一試合目の負けを根に持っていたのだ。王者のメンタリティにはしつこさも必要なのか。
一条さんは続ける。
「確かに君たちのフィジカル面は改善の余地があるけれど、目指すサッカーは間違ってないと思うよ。Y県は六回勝てば優勝だ。どこかで必ず応援に行く」
「は、どうも、ありがとうございます」
一条さんがスッと右手を差し出す。俺はその手をしっかりと握り返した。
再び桜女の部員たちのキャー音が鳴る。いや、これはキャーじゃないだろう。
「これは言おうか迷ったんだけどね。一応言っておく」
手を離して一条さんは真面目な顔で言った。
「桜律の男子は、先日監督が交代した。前監督はインハイ予選大敗の責任を取って辞任したんだ」
「本当ですか!プロみたいな理由ですね」
知らなかった。私立は私立でシビアだ。
「それともう一つ。二年で、今年沖縄のユースから編入した選手が、十月に出場禁止期間が解けて秋の予選には出てくる。気をつけた方がいい」
「……いいんですか、そんな情報もらっちゃって」
「いいんだ。系列とはいえ別の学校だからね。私たちは本河津を応援してるよ」
言って、一条さんはにっこりと笑った。今日初めてかもしれない。ちょっとだけ女の子に見えた、とは口が裂けても言えないが。
帰りのバスが校門前の停留所に到着した。
「それじゃ、みなさん、ありがとうございました」
もう一度あいさつをして、ぞろぞろとバスに乗り込んでいく。白いセーラー服の女の子たちが手を振ってくれている。何て素敵な光景だ。
「待って下さい!」
聞き覚えのある声がした。閉まりかけた入り口に、岸野さんが走って乗り込んできた。一番前に座った俺に、折りたたんだメモを渡す。
「何、これ」
受け取って、メモを開く。
「私の、メールアドレスと番号です。私、藤谷さんみたいなフリーキックをどうしても決めたいんです。だから、色々教えてください」
言って、頭を下げる。うちの部員たちは、特に冷やかすでもなく経過を観察している。確かに、内容はさっぱり色っぽくないしな。
「わかった。とりあえずこっちから一度送るよ。今日は、色々うちの後輩が迷惑かけちゃったし。ごめんね」
俺が言うと、岸野さんは一番後ろの窓際で放心状態の伊崎を見やった。
「藤谷さん。あの、よかったら、あと一人くらいになら、その番号教えてもいいです」
「え」
それだけ言うと、岸野さんは機敏にバスを降りていった。
「キャプテン!ありがとうございます!一生ついていきます!」
バスが駅に向かって走りだす。
岸野さんの番号を教えた途端、伊崎はウザいくらいに元気を取り戻した。広瀬とこばっちの許可を取って、俺はようやく伊崎の顔をスマホのカメラで収めることに成功した。一目惚れと失恋は撮れなかったが、希望に満ち溢れる若者は撮ることができた。
「良かったね、未散。モテモテで」
今度は俺の後ろの席になった広瀬が、背もたれにアゴを乗せて上から声をかける。
「モテてない。岸野さんは、サッカーに関してだけだ。一日中モテモテだったのは広瀬だろ」
「あれはモテたんじゃなくて軟禁。本当に疲れた」
広瀬がおおげさにため息をつく。
「でも良かったな。昔なじみに会えて」
「うん。キャプテンの人脈が珍しく効いた」
「他に言い方は無いのか」
他愛もないやり取りをしながら、俺は二試合目を思い出す。二人に密着マークされて、何もできなかった。あの状況が秋の予選で全く無いと言い切れるだろうか。一回戦や二回戦ならまだしも、勝ち進めば10番がマークされるのは必然だ。その時「マークされると思いませんでした」で負けるわけには行かない。
ああ、もっと。
「うまくなりてえな」
小さくつぶやく。どうすれば、なんてわからないけど。
「ねえ」
上を見る。背もたれの上の広瀬と目が合った。今の独り言、聞かれたかな。
「ずっとその姿勢でいる気か?」
広瀬は答えず、俺の目の前に自分のスマホをぶらさげた。
「何だ、いきなり」
「読んで。さっき届いてた」
件名:永遠の夢追い人より
『リハビリも順調に進んで、一人であちこち出かけられるようになった。もう大阪にいる意味も無いし、来月の夏休み前にでも一度実家に帰るよ。
その時、夏希のマネージャーぶりも見に行かせてくれ。藤谷君にも会ってみたい』
「これ……広瀬の兄さんか?」
「そう。一度練習見学したいって。いい?」
「いいも何も」
わ、どうしよう。急に緊張してきた。それより、永遠の夢追い人って何だ。
「プロの人に見てもらえるなんて、めったにないチャンスだぞ。しかも、あの広瀬春海さんだ。すげー」
「まだどうなるか分からないから、あんまり期待しないでよ」
広瀬は一言釘を刺して、座席に腰を下ろした。
数分後、スマホにLINEのメッセージが届いた。発信者は広瀬夏希。
『もっとうまくなれるよ、未散なら』
俺は後ろを振り向けなかった。こんな真っ赤な顔で、向けるわけがない。
つづく