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第19話「私の知っている彼女」

女子高に来ちゃった

「ただいま」


ちっちゃな声でつぶやいて、私は重い足取りで台所に直行した。母が晩ご飯を作っている。

冷蔵庫から紙パックのフルーツジュースを取り出して、食卓の自分のイスに腰掛ける。取り出した紙パックにストローも刺さずにぼんやり眺めていると、母が振り向いて言った。


「何、制服のままで。部活で何かあったの?」


学校で何か、じゃなくて部活で何か。鋭い。


「何で部活でって思うの?」


母は笑った。


「母親の勘」

「何それ」


私はようやくストローをパックに突き刺した。


「今日ね、というか実質は先週なんだけど、大失敗した」

「ほほう」


母は背中を向けたままあいづちを打つ。すごく適当なあいづちだ。


「聞く気ある?」

「話す気があるならね。で、何したの?」


私は午後の部活の時間を思い出す。ストローに口をつけて思い切り吸い込んで、口を離す。


「今日ね」






「え、何で」


未散がビニール袋に入った真っ赤なユニフォームを手にして言った。私も思わず手に取る。明るい赤というよりは真紅に近い深い赤。肩口からは黒い部分も見える。注文書に記入したのは、確かに青。そして白いラインのはず。部員のみんなも、何て言っていいのかわからない様子で次第にざわつき始めた。


「注文書の写し、入ってねえのか」


ふと思いついたように銀次君が言った。


注文書。


私は必死に一週間前の記憶をさかのぼる。レジで注文書への記入をしている私。特に何も間違えていない。用紙を落ち着いてきちんと見ていればミスなく記入できる書類。何事もなければ。


(で、どっちがどっちと付き合ってるの?おじさんに言ってごらん)


思い出した。エリックスのヒゲのおじさん。あの人が妙なことを言い出して、あの時だけ慌てて記入してしまったような。


「あった!これだ」


未散が段ボール箱の中から紙を二枚取り出した。


「あっ、違う、こっちは納品書だ。これこれ」


見つけた注文書の写しをキャプテンが読み込む。部員たちも周りを取り囲むように集まっている。私は何となく、その輪に入れなかった。もしやってしまったとしたら、あの時だ。でも何をどう間違えたんだろう。確かめるのが怖い。


「分かった。これだ」


未散が言った。私は意を決して恐る恐る写しを覗き込んだ。

二種類の色指定の項目に、それぞれチェックボックスが付いている。希望する色の隣にトンビ印を付ける、ただそれだけのことなんだけど。トンビ印は、カラー1が赤、カラー2が黒の頭にしっかりとついていた。そしてトンビ印の反対側の隣に、青と白の表記。


「……一個、ずれてる」


私は思わずつぶやく。ありえないミス。普通チェックの印をつける時は、項目の左につける。誰だって知ってる。私は右側につけていた。ちょうど、赤と黒の頭に。


しばらく続いた沈黙に耐えられず、私は立ち上がって頭を下げた。


「みんな、ごめん!やり直せるか、店に電話してみる」

「あ、おい」


未散が何か言いたそうだったけど、私は聞かずに納品書をひったくって、記載されている番号をスマホに入力した。

何度かのコールの後、聞き覚えのある野太い声が返ってきた。


「はい、サッカーショップエリックス駅前店です」

「あ、もしもし。私、本河津高校サッカー部マネージャーの広瀬と申します。先日はお世話になりました」

「あー、どうもどうも。あの可愛いマネージャーさんね。ユニフォーム届いた?」

「はい、そうなんですけど、そのことでちょっと」

「料金のことでしょ?」


え?料金。何の話。


「あの藤谷君がまだがんばってるって分かったから、おじさん嬉しくてね。だいぶ割引させてもらったよ。だから、料金はそれで合ってるよ」


私は手元の納品書を確認する。たしかに、注文しに行った時の見積りよりも三割ほどさらに安くなっている。残りの予算を考えるとすごく助かる。

助かるけど。


「……そ、そうですか。ありがとうございます」

「それで、他に何か不備はあった?」

「いえ……入金は月末で良かったですよね?」

「正確には最後の平日だから、二十八日までにお願いねー」

「はい。ありがとうございます。失礼します」


通話を切り、頭の上で大きなバツ印を作ってみんなの方に向き直る。そして黙って見守ってくれていた部員たちに、話の内容を説明した。


「それは言い出せないですね」

「うん、気まずい」

「サッドネス……」


どうしよう。学校に内緒でバイトして、弁償するしかないかな。いや、お金のことより、みんなのガッカリした顔がつらい。


「あの」


誰かが声を上げた。みんなが一斉にそちらへ注目する。国分君だった。


「これ、着てみていいですか?」


私は未散を見た。キャプテンは一人難しい顔をしていたが、ふうと息をついて言った。


「そうだな。貼っつけるタイプじゃなくて全部プリントされてるから、取り消しもきかないし。とりあえず着てみるか」


意外にも、一年生たちが我先にと段ボール箱へ群がってきた。ちょうど背番号が見えるように畳んであるので、先日のドラフトで決まった各々の番号を取り出していく。

6番のユニフォームを手にした国分君が、私のところに来て言った。


「広瀬先輩、俺、このユニフォームかっこよくて好きですよ!だから気にしないでください」

「おい、国分!露骨にポイント稼ぐな!」

「げふっ」


伊崎君が国分君の首に腕を回して引きずっていく。他のみんなもユニフォームを広げて背番号とネームを見て、わいわい盛り上がっている。


「広瀬」


未散が私のところへ来て言った。私は下を向いた。


「ごめんね、本当に」

「いいって。途中から記入を押し付けた俺の責任だ。そうしょんぼりするな」


ずっとおろおろしていた紗良ちゃんが、両の拳を握りしめて言った。


「そ、そうですよ!夏希ちゃんだけのせいじゃありません!論理的に考えて、半分は藤谷君の責任です」

「……こばっち、はっきり言うね」


すると未散は、両手に一枚ずつ赤いユニフォームを持って、私と紗良ちゃんに差し出した。


「何?」


受け取ると、未散は横を向いてポリポリと鼻の頭をかいた。


「あー、その、追加費用の徴収の時、マネージャー二人にも出してもらっちゃったから。上一枚ずつだけど、記念というか、応援用に」

「私たちのもあるんですか?!」


紗良ちゃんが袋から赤いユニフォームを取り出して目の前にかかげる。『KOBAYASHI 16』の文字を見て、目を輝かせている。


「すごい!ユニフォーム!私、スポーツ全然だめだから、背番号もユニフォームも生まれて初めてなんです!ありがとう、藤谷君」


八重歯を全開させて、紗良ちゃんが笑う。未散は「お、おう」と言って再び横を向いた。


「夏希ちゃんは?」


紗良ちゃんにせかされて、私もユニフォームを広げる。

『HIROSE 14』の白い文字。


14番。


「広瀬。悪いんだけど、俺ら着替えるから一旦出てくれ」


未散が申し訳無さそうに言った。


「う、うん」

「夏希ちゃん、私たちも更衣室行こ!」


ご機嫌な紗良ちゃんに引っ張られるように、私は部室を後にした。





「あんた馬鹿ねー。普通項目の左側に印つけるでしょ。何考えてたの」


料理の手を止めずに母が笑う。何も言い返せない。動揺した理由なんて話せるはずもない。


「わかんないけど、その時は間違えたの」

「で、みんなで着てみてどうだったの」


私はユニフォーム姿でグラウンドに出てきたみんなを思い浮かべた。






私と紗良ちゃんが更衣室から戻ると、十五人の部員たちが赤い新ユニフォームを着てすでに集まっていた。ちなみにキーパーの二人だけは事前の予定通りライムグリーンに出来上がっている。なぜこっちだけ合ってるんだろう。


「お、来たな」


ちょっと照れくさそうに、未散がユニフォーム姿でこちらを見た。濃い目の赤い下地に黒い大きなラインが脇腹からパンツのサイドにかけて走っている。青と白の爽やかなカラーリングになるはずが、私のせいで何となくいかつくなってしまった。特に細身の未散には赤も黒も似合っていない。ごめん。


「赤が似合いませんなー、藤谷さん」


芦尾君が未散をニヤニヤしながら冷やかしている。「うるさい、やせろ」と未散が言い返す。

確かに芦尾君のお腹はちょっとポッコリして見えるので、赤が意外と似合っている。


「サイズどうだ?分からんから二人ともMにしといたんだけど」


未散に言われて、体を左右にひねってみる。14番の真新しいユニフォームが体のどこにひっかかることもなく、スムーズに回る。


「いいんじゃないかな」


紗良ちゃんはスソと首周りをひっぱって、


「私は、ちょっとだけ大きいです」


と言った。でも、下がジャージのズボンで上だけちょっとぶかいユニフォームというその姿は、何となく愛らしいものがある。

「こばっち先輩、何かいいです!それいいです!」


伊崎君がよくわからない理由で紗良ちゃんを誉める。みんなも大きめのユニフォームを着る小柄な女子、という姿に盛り上がっている。紗良ちゃん本人は、自分の何がそんなにウケているのかわかっていないみたいだけど。


「余計なことしたか?」


未散が言った。


「何で?」

「広瀬はあんまり喜んでないみたいだから」


心配そうな目で問いかける。


「そんなことないよ。嬉しい」

「そうか」


私は続けた。


「背番号がね、クラブにいた頃、私が付けてた番号だったから。こんな偶然あるんだなって」


もっと言えば、あの大ケガをした試合でつけていた番号が14番。


「そ、そうだったのか。すまん、知らなくて」


未散が「やっちまった」という顔で狼狽した。私は笑った。


「気にしなくていいよ。兄さんが高校で付けてた番号を真似しただけだから」

「そうなのか」


未散はそれ以上追求しなかった。




その後、菊地君たち二年生も、「これはこれでかっこいいから気にするな」と言ってくれた。意外にも、冬馬も「色はどうでもいい。勝ちゃいいんだ」と意に介していないみたいで、ボロカスに言われる覚悟をしてた私としては拍子抜けだった。一年生たちは「強そう」「燃える」と喜んでくれている。本当にいい子たちだ。今度ダッシュの本数ごまかしてるとこ見つけても、見逃してあげよう。


「キャプテン!記念にみんなで写真取りましょうよ!」


伊崎君が言った。「いいね!」と盛り上がってみんなが集まる。


「あ、先生が来た」


素晴らしいタイミングで毛利先生がトコトコ歩いてきた。最近はカウンセリングの回数も週四から週三に減ったみたいで、マメに練習に顔を出している。本当に顔を出しているだけなのはどうかと思うけど。


「あ!新しいユニフォームだね!強そうでいいじゃないか。赤武者軍団だ」


ちょっと恥ずかしい例えをしながら、毛利先生は喜んでいるみたいだった。自分は聞いてない、とか面倒くさいこと言わないだけありがたいかもしれない。


「はーい、並んでー」


未散のスマホを横に構えて、毛利先生が呼びかける。私と紗良ちゃんは前列のはしっこに並んで、未散がイヤイヤながら前列の真ん中。

後列両端には、両GKが金剛力士像のようにそびえ立ち、背の高いDFが後列を埋めていく。


「撮るよー」






私は未散から転送されてきた集合写真を表示して、スマホを母に見せた。


「これ」

「へー、なかなかいいデザインじゃない。注文ミスにしては」


首だけこちらに向けて母が言った。一言多いというのに。


「うん。特に一年の子たちは結構喜んでくれて」

「なら何でそんなに落ち込んでるの?」

「それでもさ、やっぱり何となく気をつかわれちゃってるのがね。本当は赤いのなんてイヤなんじゃないのかなって」


私は飲み終えたジュースの紙パックを丁寧に畳んでいく。


「馬鹿ね、あんた」


母が言った。


「何がよ」


少々ムッとして言い返す。


「みんなが気をつかってるのは、あんたが落ち込んだ顔してるからでしょう。ユニフォームはそれでいいって言ってるんなら、そのまま受け取って、気づかってくれることに感謝しなさい。いい仲間じゃない」

「あ」


そっか。私を責めないように我慢してるんじゃなくて、私自身を気づかってくれてたのか。


「お母さん、ありがと。着替えてくる」


私はバッグをかついで立ち上がる。


「感謝の気持ちがあるなら、ちょっとは家事手伝いなさいよ」

「それはまた今度」


ため息をつく母を置いて、私は顔を上げて部屋へ向かった。そうだ、あれを探しておかないと。






日曜日。時間は朝八時三十分。


桜律女子との合同練習及び練習試合の日がやってきた。

私たち本河津高校サッカー部は、夏の制服で駅前の広場に集合している。すでに全員がそろい、点呼をしているのは毛利先生。そして眠そうな顔をしたタイトスカートの江波先生と、女子陸上部の盛田先生もジャージでやって来ていた。

未散から聞いた話によると、斎藤先生と佐々木さんとの例の事件のことで校内会議が行われ、うやむやになりかかっていた女子陸上部の顧問、盛田先生の責任問題が再燃したという。結局男女とも仕切り直しで新しい顧問を呼ぶことになり、盛田先生は急きょ更迭。

丁度その頃、桜女へ行くなら女の先生がいた方がいいんじゃないかと未散が言い出して、付き添いを江波先生に頼むべく保健室に行くと、背中を丸めて緑茶を飲んでいる盛田先生と遭遇した。銀次君の移籍の恩もあり、なおかつその寂しそうな背中に同情してか、県大会まで臨時フィジカルコーチとしてサッカー部に来ないかと誘ったという顛末だ。

私は別に盛田先生は苦手ではないし、さっぱりしていてむしろ好きな方だ。陸上経験から身につけた足のマッサージを教えてもらえたら、という期待もある。さっきから部員たちと仲良くしゃべっているし、歓迎しない理由なんてない。

でも、と私は未散をそっとにらんだ。最近、未散に女性との縁が増えつつあるように思う。本人はモテない、といつも言っているし、入学以来彼女がいた形跡はないのも事実だ。でも私しか女子がいなかったサッカー部に、いつのまにか女性が四人になっている。その気になれば、未散はプレイボーイになる素質があるんじゃないかとも思う。しかも今日はそんな男を女子高に放り込むのだ。


「どうした、難しい顔して」


当の未散が、のほほんとした顔で話しかけてくる。何となくイラッとしたけど、顔には出さずに「別に」と答える。


「それよりさ、何かクサくない?」


駅前に部員が揃いだした頃から、異様な臭気が鼻腔を刺激してくる。何だろう、このにおい。制汗スプレーをたくさんかけすぎたような、鼻の奥にツンとくるにおい。シトラスとか、スカッシュとか。そんな名前の香料だと思う。

未散は渋い顔で部員たちの方を見た。


「多分あいつら、ムースとかスプレーとか、めちゃくちゃつけてきてる。そんなもんでモテたら誰も苦労しないっちゅーのに」


伊崎君は初めて前髪をオールバックにしており、黒須君も髪がテカっている。芦尾君に至っては、首の当たりを押さえて「昨日二時間しか寝てねー」と謎のアピールをしている。モテたいなら、その前フリは桜女の女の子たちの前でやらなきゃ意味がないと思う。

未散にそれを伝えると、「本人がそれで満足してるなら放っておこう」と諦めの境地のような顔で首を振った。


私はチラリと未散の頭を見た。そう言いつつ当人も、明らかに前日床屋に行っている。伸びてきてむさくるしくなっていたので、丁度いいんだけど。


「何笑ってるんだよ」


未散が言った。まずい、顔に出てた。再び「別に」と返す。


「全く、何で私まで行かなきゃいけないの」


江波先生が露骨に不機嫌な顔で愚痴っている。白衣である。駅から白衣とは意表をつかれた。

うちの光冬姉さんと同じタイプなのかもしれない。


「はーい、では行きますよー。みんな、はぐれないでねー」


毛利先生が手を上げて歩き出した。ある意味一番心配なのがあなたなんですが。





電車に乗って三十分。桜律女子高校の最寄り駅「桜乃森」に到着した。初めて降りる駅だ。景色の中には常に山が視界に入る。

紗良ちゃん情報によると、桜律女子は男子校の桜律高校より二十年遅く作られた学校で、敷地の都合でこんな山の方に建てられたらしい。最寄り駅と言っても学校までは歩けばゆうに三十分はかかる距離で、毎朝毎夕の専用シャトルバスが学校と駅を往復して、生徒の足になっている。

そして私たちが改札を出た先に、その大型バスが停車していた。桜律、という名前にふさわしく、薄いピンク色の車体。プシューと音を立てて入り口のドアが開く。


「うぷっ、バ、バス……」


毛利先生が真っ青な顔をして、島君と梶野君に両脇から支えられている。三十分電車に揺られただけで酔ってしまったようだ。この先生はこの先どうやって生きていくんだろう。


「ちょっと、毛利先生。よその学校のバスで吐かないでよ」


江波先生がため息まじりにビニール袋を渡している。文句を言いながらも、結局面倒は見ているみたいだ。


「おはようございます」


バスに乗り込むと、女性の運転手さんが笑顔で迎えてくれた。年は三十半ばくらいで、とても可愛くて愛想のいい人。半袖の白いシャツに紺のベストとパンツ。頭より少し大きめの帽子が可愛らしい。

先に乗り込んだ私が前方の窓側に座り、隣に紗良ちゃんが座った。次々と部員たちが乗り込み、最後に未散が乗ってドアが閉じた。四十人乗りを二十人で貸し切りだから、かなり贅沢な使い方だ。


最後に乗り込んだ未散は、中途半端に埋まった座席のどこに座ろうか散々迷った挙句、唯一窓側が空いていた私の真後ろに座った。

私は座席越しに後ろに顔を向けた。


「いたずらしないでよ」

「するか!」


心外だ、と言わんばかりの顔で未散が抗議する。


「こばっち、機材は?」


未散が聞くと、紗良ちゃんも首を回して、


「島君に、網棚に上げてもらいました」


と言った。

「そっか。島ー、ご苦労」


声をかけられ、二つ後ろの島君が無言で立てた親指をスッと見せる。


「これが、これが、普段桜女の女子たちが座っているシート……」


通路を挟んだ反対側で、芦尾君が妙なテンションでシートをさすっている。非常に気持ち悪い。


「あんた寝てない割に元気じゃない」


私が目を細めて言うと、芦尾君はビクッと固まった。


「ね、寝てないのは事実だ!というか本当は緊張して眠れなかったんだ!」


なるほど。


すると、未散がすっと立ち上がって後ろを向いた。


「みんな、一つ大事な話がある」


ざわついていた車内が一瞬静まる。


「今から桜律女子にお邪魔するわけだが、俺はみんなが一般常識を備えていると信じている。芦尾でも」

「おい、名指しやめろ!」


芦尾君の抗議に取り合わず、未散は続けた。


「その上で、一つだけ禁止事項を申し渡す。ナンパ行為はするな。もちろん、セクハラは論外だ。以上」


未散が座り直し、車内には大ブーイングの嵐が巻き起こった。


「キャプテン!そりゃないですよ!」

「少子化の原因ですよ!」

「今俺の顔見て言ったろう!」


未散はもう一度立ち上がって後ろを向いた。


「静まれ。俺も鬼じゃない。かっこいいプレーを見せて、向こうから連絡先を聞かれる分には構わんぞ」

「むしろ鬼ですよ!」

「全部茂谷先輩が持っていくじゃないですか!」


とうとう収集がつかなくなってしまった。私は運転手さんに頭を下げて、


「すみません、騒がしくて。出発してください」


と頼む。

運転手さんは変わらぬ笑顔で言った。


「いいのいいの。やっぱり男の子は元気でいいね。普段女の子しか乗せないから新鮮で。じゃ、出発しまーす」


ガッコン、と大きなシフトレバーを操作して、バスが動き出した。


「あの、夏希ちゃん」


紗良ちゃんが下を向いて口を押さえている。


「大丈夫?酔った?」


紗良ちゃんは首を振った。


「ま、窓開けてください。みんなの、スプレーのにおいが充満して」


念のため毛利先生を見ると、ビニール袋を握りしめ、放心状態で窓の外を眺めている。揺れだけじゃなくて匂いにも酔っていたのかもしれない。先生なんだから、生徒に言えばいいのに。気が小さいというか何というか。私は窓の下に手をかけ持ち上げた。街中とは違う、さわやかな空気が車内に流れ込んで来くる。


「紗良ちゃん、席変わろうか」

「だ、大丈夫です。むしろ今動くとやばいんです」


騒がしかった部員たちもようやく静まって、私は窓から外を眺めた。田んぼ、畑、小屋の壁にかかっている薬の古い看板。田舎に住んだことはないけれど、どこか懐かしい。

そして今から五年ぶりに合う一条さんに思いを馳せる。一こ年上だったけど、全然威張らなくて、いつも可愛がってくれて。

サッカーがからむと私をはるかに超える負けず嫌いで、どっちがかっこいいシュートを決めるかでよく張り合っていた。当時からショートカットで、男の子に間違えられるくらいかっこいい子だったけど、もう高三だし、少しは女の子っぽくなってるのかな。



バスは十分ほど走り、少し建物が増えてきた。広めの交差点で信号待ちをする。すぐそばに桜律女子の敷地がある。ここからは校内のテニスコートが見える。そこだけを見ても充実した練習設備が伺え、テニス部の女の子たちがヒラヒラのスコートをはいて練習している風景が見えた。

不穏な気配を感じて振り向くと、部員たちがベッタリと窓にくっついていた。


「……あんたたち、何してんの?」

「見ろよ、マネージャー。素晴らしい設備だ」

「そうですよ、先輩。充実した練習環境」

「俺たちもあんなところで練習したいなー」


みんな揃って棒読みだ。まったく男子ってみんなこうなのだろうか。

私はちらりと後ろの未散を伺う。窓の外には興味が無いようで、腕組みをして窓によりかかって目を閉じていた。眠ってはいないけど、うとうとしている。こういう、みんなが浮ついている時に一人だけどっしりしているところを見ると、キャプテンらしい落ち着きが出てきたのかな、と思う。

芦尾君が未散の肩をゆさぶった。


「おい、見ろ、藤谷。ミニスカのOLさんが自転車乗ってるぞ。しかも黒ストだ」

「何だとっ!」


未散ががばっと起き上がって、私の席の背もたれにヒジを乗せた。私は即座にリクライニングを一気に倒す。


「だあああっ!がふっ」


体重を乗せていた支えがガクンと下がり、未散は自分の腕に顔面をぶつけた。


「広瀬っ!いきなり背もたれ倒すなよ!」

「あーごめんねー気づかなかったー」


棒読みで返してリクライニングを戻す。未散は涙目でぶつけた鼻を撫でている。まったく、誉めて損した。

信号が青になって左折して、少し走って停留所に止まる。ドアが開いて、各々が荷物を持って立ち上がる。毛利先生のビニール袋は空っぽで、何とか持ちこたえたことに安心した。






全員が降り立ったバス停の前に、レンガ作りの校門が私たちを迎えた。門は開いているけど、ひとまず未散が脇にあるインターホン越しに何か話している。「はい、分かりました」と言ってこちらに戻ってきた。


「何て?」


私が聞くと、


「サッカーグラウンドは奥の方にあるから、とりあえず来てくれって」


と答えた。

未散を先頭に、サッカー部がぞろぞろと歩き出す。みんな珍しそうに敷地や校舎をキョロキョロと見回している。私も同じだ。

校舎も校門と同じくレンガ作りのデザインで、一つ一つに『聡明館』とか『不昧館』とか名前がついている。よく手入れされた芝生や植え込みが敷地内に点在していて、中央を通る石畳が校内奥へと続いている。


「ここだけ別世界みたい」


紗良ちゃんが言った。私もそう思う。田舎の駅からバスに乗ったらヨーロッパに着いてしまったような。




しばらく歩いた後、ようやくサッカーグラウンドが見えてきた。


「おおおっ」


みんなが思わず声をあげた。

目の前に広がったのは、美しく刈られた芝グラウンド。それが二面。

伊崎君が口をパクパクさせて言った。


「キャ、キャプテン。練習場に、草が生えてます」

「伊崎。あれは芝生って言うんだ」


未散が答える。


「練習場なのに!?」

「練習場なのにだ」


比べちゃいけないとは思うけど、うちの土グラウンドとは天と地の差だ。


「あ、誰か来ましたよ」


黒須君がめざとく見つけて指をさす。グラウンドの方から、背の高い男性が走ってくる。ジャージを着ているから監督さんかな。

しかし近づくにつれてその男性の顔がはっきりと見えてきて、私の心臓の音は飛躍的に速くなった。

変わってない。それどころか、もっと。


「なっちゃん!」


私よりもさらに十センチ以上背の高い、一条涙さんが、私に向かってまっすぐ走ってきた。そして両手に荷物を持っている私を、正面からぎゅっと抱きしめる。


「わっ、ちょ、ちょっと一条さん!」

「本当になっちゃんだ!綺麗になったね!会いたかったよ」

「一条さん、苦しい」


私はバッグを地面に落として、一条さんの二の腕をタップする。


「あ、ごめんね。つい」


開放されて大きく息をつく。

みんなはあまりに突然のことで、ポカンとした顔で私たちを見ている。

未散が一つせきばらいをして、


「あの、本河津高校サッカー部、キャプテンの藤谷です」


と一条さんに言った。

一条さんは五年前の男の子っぽい雰囲気からさらに凛々しさを増して、すでにハンサムと言っていい女性に成長していた。身長は百八十近くあり、短く刈り込んだ黒髪に白いカチューシャ。髪型は昔と変わっていない。すでにジャージの下に着ているユニフォームは、光沢のある白地にピンクの花吹雪がらせん状に走り、校名をイメージしたデザインだ。いいな、これ。


「ようこそ、桜律女子高校サッカー部へ。キャプテンの一条涙だ。よろしく、藤谷君」


張りのある声で言って、さわやかに未散と握手する。相変わらずかっこいい。紗良ちゃんはすでにうっとりとした目で一条さんを見つめている。


すっ、と私の頬に手が触れた。一条さんが、潤んだ瞳で私を見つめる。


「会いたかったよ、ずっと。一日も忘れたことはない」

「そ、そうなんだ。ありがと」


目が真剣で怖い。


「昔から可愛かったけど、こんなに美人になるなんて」


頬に触れる手がさわさわと動く。


「い、一条さん。みんな見てるから」

「他人行儀だな。昔みたいにるいちゃんでいいよ」

「あ、あのー」


未散が再び咳払いをした。


「周りに百合が咲いているところ申し訳ないんですが、そろそろ更衣室に」


一条さんは名残惜しそうに私から離れると、一人の部員を手メガホンで呼んだ。


「キャプテン、呼びましたか?」


ダッシュでやってきたのは、色白で顔の小さい、ポニーテールの美少女。ちょっと気の強そうなつり目とすねたような口元が可愛らしい。一年生かな。背は百六十センチをちょっと切るくらい。一条さんには悪いけど、正真正銘の女子選手の登場に部員たちの目の色が変わる。確かにこれだけ可愛いと気持ちはわかる。


「アリス、ごあいさつして、みなさんを更衣室にご案内して。じゃあね、なっちゃん。また後で」


一条さんは手を振って練習場へ戻って行って、後にはアリス、と呼ばれた美少女が残された。


「初めまして、岸野有璃栖きしの ありすです。桜律女子サッカー部一年です。本日はよろしくお願いします」


丁寧に頭を下げられ、私たちもつられて頭を下げる。


「あちらの建物が更衣室です。ご案内します」


ポニーテールを揺らして岸野さんが歩き出す。部員たちが口々に、「可愛い」とコソコソ言っている。その中に一人だけ、他とは違う呆然とした目で岸野さんを見ている部員がいた。


伊崎君だ。


「広瀬」


珍しく未散も気付いたのか、伊崎君が岸野さんを見る目を確認し、私に小声で聞いた。


「もしかして、これが一目惚れというヤツか?」

「多分ね」


伊崎君がふらふらと岸野さんにくっついて行こうとするのを、私は制服を引っ張って止めた。一目惚れした日に痴漢呼ばわりされたら気の毒だ。


「伊崎、こっち向け」


未散がスマホを構えて伊崎君を呼んだ。呆けた表情で振り返ろうとする伊崎君を止めて、私は未散からスマホを奪い取る。


「何すんだよ」

「何撮ろうとしてるの?」

「何って、人が一目惚れした瞬間の顔を記念に」

「ダメ!」

「ダメです!」


紗良ちゃんも気づいていたのか、一緒に抗議してくれた。未散は「分かった、撮らない」と言って私からスマホを受け取る。まったく、悪趣味にもほどがある。


「そういえば、岸野さん?」


江波先生が話しかける。岸野さんはチラッとこちらを振り返って「何ですか?」と答えた。白衣を着たままの人、ということにはさして疑問は感じていないようだった。


「監督さんはいないの?一応、大人がごあいさつに行かないと」


確かに。まっさきにあいさつに来たのがキャプテンの一条さんで、監督なり顧問の先生はまだ顔を出していない。


「うちは、監督は飾りみたいなもので、ほとんど一条先輩がプレイングマネージャーみたいになってるんです」


同じだ。まさか全国二冠の強豪チームとこんな共通点が。


「そちらの監督さんは、どちらですか?」


岸野さんが聞き返す。皆が無言のうちに視線を後方に送る。

監督こと毛利先生は、私たちの一番後ろを、青ざめた顔でフラフラとついてきている。時々えづいてさえいる。いけない、うちの監督がただの飾りだってバレてしまう。第一試合くらいは濃い顔芸でごまかしたいところ。


岸野さんは特に表情も変えずに言った。


「何だ、うちと同じなんですね」


一発でバレた。





「こちらです。準備が済みましたら、グラウンドに来てください。では、失礼します」


テキパキと用件を伝えて、岸野さんは走っていった。私たちは到着した建物の、それぞれ割り当てられた部屋で着替えを済ませる。男子の部屋から「ここで、ここで普段女子たちがー!」という芦尾君の叫び声が聞こえてきた。後で頭をはたいておこう。





私と紗良ちゃんも含めて、全員が新しい真っ赤なユニフォームに着替え、練習グラウンドに揃い踏んだ。みんなで写真を撮った時も思ったけど、こうやってみんなで揃うと強そうに見える。色を間違えた私が言えることでもないけど。


「へー、ユニフォーム変えたんだ。強そうだね。特に色が」


一条さんが私たちを見て感心したように言う。部員たちは下を向いて笑いをこらえているのがわかる。帰ったら、みんなダッシュ十本ずつ増やしてやる。


未散が一条さんに、


「あの、試合前のアップって済みましたか?」


と聞いた。


「まだだけど、どうして?」

「うちは、試合前ってそれぞれ勝手に柔軟してるくらいなんで、何ていうかこう、強いチームはどんなアップしてるのかとか、教わりたくて」


一条さんは「ほう」と驚いたように目を開き、微笑んだ。


「いいよ。私たちの後についてきて」

「あ、あともう一つ」

「何?」

「外部には絶対流出させないので、試合を録画していいですか?」


未散が紗良ちゃんを見て言った。すでに機材を取り出し始めている。紗良ちゃん、ちょっと早い。


「いいよ。別に隠すことはないし。秘密にしたいことは、人がいないところでするものだよ」

「ありがとうございます。おい、みんな、アップ行くぞー」


未散の号令とともに、部員たちが桜女の選手たちの後についていく。

桜女の部員数は三十人くらい。実力でかなり人数をしぼっているのかな。でも、そもそも競技人口とユースとの兼ね合いを考えるとよく集まっている方かもしれない。

私と紗良ちゃん、江波先生と盛田先生はアウェー側に用意されたベンチに腰掛けた。ベンチ自体も綺麗だし、屋根までついている。お金があるっていいな。


「毛利先生は?」


江波先生はアゴで反対側をしゃくった。桜女の監督らしきやせたおじさんと、二人で肩をたたきあって何やら話している。


「何話してるんでしょうか?」


紗良ちゃんが聞くと、江波先生は、


「さあね。同病相憐れむっていうから、うまが合ったんじゃないの」


と言って立ち上がった。


「里沙、マネージャーズ、準備して」

「んー」


盛田先生も伸びをして立ち上がる。


「何の準備ですか?」


私は聞いた。江波先生は再びアゴをしゃくった。


「あいつら、あんなハードなアップしたことないだろうからね。多分ヘロヘロで帰ってくるよ。ドリンクと、タオル。あと、里沙はマッサージね」

「はいよー」


私は紗良ちゃんと顔を見合わせた。アップでヘロヘロって、そんなことがあるんだろうか。



数分後。



息を切らして、しゃべるのもつらいと言った様子で部員たちは帰ってきた。これから試合をするどころか、一試合終えてきたみたいだ。私はドリンクのボトルとタオルをみんなに渡す。こたえていないのは、銀次君と皆藤君くらいだ。我らがキャプテンはすでに仰向けに寝転がって胸を上下させている。大丈夫かな、うちの10番。


「ちょっと、キャプテン。試合前に燃え尽きないでよね」


私は未散の顔にボトルの水をかける。未散はわっと起き上がった。


「冷たいじゃないか!」

「はい、タオル」

「お、おう。まったく」


何か言いたそうだったけど、黙ってタオルを受け取る。


「あんなキツいアップ初めてだ。しかもあの子たち、平然として息も切らしてない」


と言いながら、一生懸命呼吸を整えている。一時より、ちょっとだけスタミナがついたのかな。

確かに、反対側のエリアに集まっている桜女の選手たちは、特にバテた様子もなく、談笑してる選手さえいる。試合前からすでに負けたような雰囲気になってしまった。

盛田先生が一人一人の足の状態を見て回っている。幸い、アップで壊れた選手はいないようだ。当たり前か。


「みんな、今日はそれほど暑くないけど、湿気は結構あるから、水分補給はこまめに。体の異常を感じたら、すぐに申し出なさい。これは公式戦じゃなくて練習試合なんだから。それを忘れないように」


みんな素直に「はーい」と返事をする。江波先生が監督みたい。


「未散」


私はバッグからある物を取り出し、差し出した。


「んー?何だ、これ」


未散が受け取る。黄色い帯。縦が七、八センチで横が三十センチくらい。黒いゴムヒモがついている。黄色い生地の上には赤い縁取りで『C』の文字が。


「おお、キャプテンマークか!全く忘れてた!」


未散は以前、先代のキャプテンから押し付けられたキャプテンマークは焼却炉に放り込んだ、と言っていた。多分今は無いはずだし、忘れている予感がしたので、家にあったのを探してきたのだ。


兄さんが、高校の時つけていたキャプテンマーク。


「……広瀬の、兄さんの?いいのか?」


未散が急に遠慮がちな顔になる。


「いいって。どうせもう使わないし。押し入れに放り込んであったんだから、構わないでしょ」


兄さんも当時、キャプテンなんていやだ、と言っていたのは黙っておいた。未散は兄さんを尊敬してくれてるみたいだし。


「そうか、ありがとう。何かつけただけでうまくなった気がする」

「そ。なら良かった」


いつになくニコニコと上機嫌になる未散。なかなかこの顔は見られない。持ってきてよかった。

スタメンの十一人がスタミナを温存するようにゆっくりと歩いて行く。これはちょっと情けないかも。


「んふふふふー」


ふと横を見ると、盛田先生と江波先生がニヤニヤと私を見ていた。


「何ですか?」

「ううーん。べっつにー。ただ、若いっていいなーって。ねー、えばっち」

「だから生徒の前でえばっちはやめろって」


紗良ちゃんは、こちらに背を向けてカメラのセッティングをしている。その背中に、私は何となく声をかけられなかった。




センターサークルに本河津高校サッカー部十一人が一列に並んでいる。その光景に、私の胸はほんのり熱くなる。私が初めて見学に行ったあの日から、やっとここまで来たんだ。


GKは梶野君。右SBは狩井君。CBは茂谷君と金原君。左SBが本日試合デビューの銀次君。ちなみにスパイクは狩井くんのお古を借りている。中盤の底が黒須君で、右に皆藤君、左に菊地君。トップ下がキャプテン藤谷未散で、ツートップは伊崎君と芦尾君。エースストライカーの冬馬は「アップで疲れた」との理由で第イチ試合のスタメンを初めて伊崎君に譲っていた。私としては、女子相手に試合をすることを本気で嫌がっているんじゃないかとにらんでいるけど。

選手交代は五人まで。と言っても、うちはあと四人しかいない。そう考えると、ケガ人や出場停止は致命的だ。今から色々考えとかないと。


主審を務める桜女のコーチが、試合開始のホイッスルを吹いた。


私は桜女のメンバーを何げなく眺めた。さっき私たちを更衣室まで案内してくれた岸野さんがFWで出ている。でも、一条さんがいない。ベンチを見ると、ジャージを着たまま長い足を組んで座っている。


確かにうちは公式戦でロクに勝ったことがないかもしれない。アップだけでヘロヘロになるチームかもしれない。でも、女子チームにキャプテンを温存されるって、ものすごく低く見られている気がする。冬馬を出さないことへの抗議?まさか。


「危ないっ!」


紗良ちゃんの声に、はっとグラウンドを見る。桜女の選手に体を入れられ、未散が芝生の上を転がった。ボールは多くても2タッチまででテンポ良く回されて、あっという間にゴール前へ。金原君と茂谷君が、練習通りに特定のコースを開ける。黒須君がそちらに誘導するように距離を詰めていく。

ここでシュートを打たせれば、梶野君が練習通りに反応できるはず。

桜女の11番が、正面やや右寄りに左足でシュートを放った。梶野君が反応するが、キャッチまでは至らない。かろうじてパンチングで弾いて、ボールがこぼれる。茂谷君が冷静につなごうと、右サイドにこぼれたボールを持った瞬間。ポニーテールの13番が、ものすごいスピードでボールを奪い、そのままゴール右スミにシュートした。立ち上がりかけた梶野君が必死に手を伸ばすけど、ボールは非情にも、ポストの内側を叩いて内側へ転がっていった。


0-1。


13の背番号の上には、KISHINOのネーム。岸野さんだ。あんなに速いなんて。

チームメイトから祝福を受けながら戻っていく。こちらは金原君と梶野君が茂谷君の背中を叩いている。茂谷君もかなりの負けず嫌いだから、引きずらなきゃいいけど。

未散が小走りに、ベンチ付近のボトルで水を飲みに来た。


「ちょっとキャプテン。何やってんの?」


盛田先生がプンプン怒っている。確かに失点のきっかけは未散があっさりボールを奪われたことにある。


「すんません。何か、あの子たちそんなに大きくないのに、全然動かないんですよ。押しても」


未散はガブガブと水を飲んで、ボトルを放った。


「体幹ってやつね、それは」


盛田先生が言った。確かに桜女の選手たちのプレーは見ていて安定している気がする。うちはそんなトレーニングはやっていない。私は未散に声をかける。


「キャプテン、切り替えてね。あと、茂谷君のケアも」

「おう、わかってる」


言って、未散はポジションに戻って行った。いきなりの失点でもっとへこんでるかと思ったけど、やっぱり少したくましくなったのかな。


本河津高校のキックオフで試合が再開。今度は未散も、簡単にはボールを失わないように少ないタッチ数でボールを回している。そして何度かの攻防があって数分後。守備のうまい皆藤君と狩井君のいる右サイドで、あえてスキを作った。そして相手がボールを奪った瞬間、皆藤君が突進してプレッシャーをかける。


「イヤッホウ!」


突然の奇声に桜女の選手がビクッとなった。あれ、ファウルになるかも。

そのスキにさらに右後方から詰めた狩井君がボールを奪って中央の黒須君に回す。黒須君はワントラップしてすぐに長いパスで左の菊地君を走らせる。

受け取った菊地君がうまいトラップから一人かわす。芦尾君がおとりの動きでペナルティエリアに入って意識がずれた時、さらに左サイドのライン沿いに菊地君がスルーパスを出す。


「ぬおおおおおおー!」


気合の入った声を上げて、銀次君が全てを追い越していく。エンドラインギリギリに間に合ったボールを、倒れ込みながらグラウンダーで折り返す。

ペナルティエリアギリギリの左サイドで芦尾君が受け、やや下げ気味に中央へ落とす。


そこに、10番が走りこむ。


「打てー!」


私は両のこぶしを握って立ち上がる。未散がダイレクトでシュートを打とうとした瞬間、桜女の選手が二人、未散をはさんでなぎ倒した。

ファウルの笛が鳴る。ペナルティエリア正面やや右側で、距離は二十メートルほどの位置。


「ふ、藤谷君、大丈夫でしょうか?」


紗良ちゃんがおろおろと取り乱す。

江波先生は長い足を組み直して、


「大丈夫でしょ。藤谷君、コケ方うまいから」


と言った。

その言葉通り、未散はスッと立ち上がって手早くボールをセットする。ゴール前に桜女の選手五人の壁ができる。やはり女子ということで、男子よりは壁が低い。


「さ、見られるかな」


江波先生が笑った。


「お、フリーキックの魔術師ね」


盛田先生も身を乗り出す。

私はそれよりも、未散が金原君と茂谷君に左サイドに上がるよう指示していたのが気になった。直接狙わず合わせる気?そんな練習してたかな。

未散はチラッと左サイドを見て、ボールから数歩離れる。そして左手をチョイチョイと小さく動かした。上がれ、のサイン?

ボールに向かって10番が一歩を踏み出す。

左サイドへ金原君が走りだす。茂谷君がそのマーカーを阻止する。壁の選手たちがヒザに力を入れて飛ぶ準備をする。


未散が右足を小さく振りかぶり、足の内側でこするように蹴られたボールは、壁の右側の足元を低く回り込み、ゴール右スミの手前でワンバウンドした。


左に動きかけたキーパーが慌てて戻って倒れこみ、手を伸ばす。ボールは指先をかすめ、バウンドしてゴールに入っていった。


1-1。


「やった!」


立ち上がって紗良ちゃんとハイタッチする。グラウンドでもみんなが未散を取り囲み、頭や背中をバシバシ叩く。「やめろ!痛いだけだ!」という声が聞こえる。


「うわー、せっこいこと考えるねー」


江波先生が笑う。


「えばっち、何言ってるの。相手の裏をかくのは勝負の鉄則でしょ」


盛田先生が抗議する。私もうなずいた。


未散がベンチにやってきて、私に笑いかける。


「さっきボール取られたのは、これで帳消しだ」

「うん。今の、前に練習してたよね」


未散は目を見開いた。


「よくそんなの覚えてるな」

「忘れないよ。マネージャー初日だったし。さ、まだ同点なんだから、行った行った」


未散を追い返し、私は立ち上がって桜女のベンチを見つめた。今の私は、本河津高校サッカー部のチーフマネージャーだ。どんな理由があろうと、彼らを軽く見られることはどうしても許せなかった。例えその相手が、私との再会を喜んでくれている幼なじみでも。

私は右手のひらを上に向け、クイクイッと指四本を招くように動かした。一条さんこと幼なじみのるいちゃんを見つめながら。彼女が私の知っている彼女のままなら、絶対に出てくるはず。目の前であんなナメたゴール決められて、黙っていられる人じゃない。


一条さんは勢い良く立ち上がり、ジャージを脱いでベンチの選手に手渡した。




つづく

たぶんしなくていい名前の由来解説


岸野有璃栖……アレックス・モーガン

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