第16話 「なっちゃん」
広瀬夏希の過去
夢を見た。
ボールをもらった私はすぐに左サイドのるいちゃんにパスを出す。
ゴールライン寸前まで上がっていったるいちゃんが、中央に折り返す。
ボールはDFに当たって大きく跳ね返されたけれど、味方がヘディングで前に張っていた私に戻す。
落下地点に入った私は胸トラップから振り向きながら左足のリフティングで、チェックにきたDF2人をかわす。浮き上がったボールが落ちる間際に右足を合わせれば確実に一点入る。
でも私は、もっとかっこいいシュートを決めたかった。
落ちてくるボールを待ちきれずに、体をななめに倒して右足を振りかぶる。
刹那、左の足首に衝撃が走る。極限まで引っ張られて裂けてしまったような、絶望的な熱さ。バチンという一度も聞いたことのない音。足元がぬかるみにはまってしまったように体を支えられずに沈んでいく。私のすぐ近くで相手チームの選手が呆然とした顔で座り込んでいる。
この子が引っ掛けたんだ、と分かった。私はこらえきれずに悲鳴をあげた。
髪を後ろで束ね終え、私はロッカーの扉を閉めた。昨日は、藤谷…じゃなかった、未散と色々話したせいか、久しぶりにあの夢を見てしまった。足首が裂けるような痛みと、足元が沈んでいく感覚。一度も忘れたことはない。私は左足を浮かせて足首だけを動かしてみる。
更衣室を出ると、遠くにサッカー部の練習場が見える。
さっきの夢には続きがある。病室でギプスに固められた左足を吊って、ベッドに一人きりの私。るいちゃんは毎週お見舞いに来てくれたけど、他のチームメートは誰も来なかった。それが私という人間への、周りの評価だったのだ。
じゃあ、今は。
私はゆっくりと歩き、練習場へ向かう。気まずい。みんなは特に怒ったりしてなかったけど、サッカーやってたこと黙ってたことは事実だし、昨日は実質サボったようなものだ。
どれだけ時間稼ぎをしても、歩みを進めていればいつかは目的地に着いてしまう。私が姿を見せると、皆の視線がこちらに集まる。
ああ、いやだこの瞬間。
こういう時顧問の先生がいればワンクッションおけるのに。午前中はカウンセリングの予約で、来るのは午後からという話。まったく、使えない顧問。
「広瀬先輩!」
伊崎君を先頭に、一年生たち六人がダッシュで駆け寄ってきた。何だろう。
六人はお互いにもじもじと顔を見合わせている。何か言いたそうだけど。
「あー、ごめんね、昨日は。迷惑かけて。もう大丈夫だから」
とにかく謝るしかない。連絡もせず休んで、いらぬ心配をかけてしまったのは私だ。理由は、みんなには絶対に言えないけれど。
「先輩、ごめんなさい」
伊崎君がいつになく神妙な顔で言った。他の五人も口々にごめんなさいとか、すいませんした、とか言っている。
「何でみんなが謝るの?」
「昨日、雑誌で広瀬先輩の昔の写真見た時、僕たちちょっとはしゃぎすぎたって言うか」
黒須君も続く。
「それは、確かに恥ずかしかったけど、みんなが気にすることじゃ」
「で、でも、言われたんです!あの年齢であれだけ実績残してたら、普通はやめないって。ケガか病気で仕方なくやめたんだろうから、自分からペラペラしゃべらなくて当然だって」
皆藤君が興奮気味に話す。近い。そして熱い。
「言われたって、誰に?茂谷君?」
「いえ、冬馬先輩です」
国分君が答えた。冬馬が?
「ウソでしょ」
「本当です。僕も聞きました」
狩井君の顔もウソを言っているようには見えない。
あいつ、私のこと嫌いだと思ってたのに。
「俺も、ちょっとびっくりしました。冬馬先輩、しょっちゅう広瀬先輩とケンカしてたのに」
照井くんが言った。あいつの頭にも、他人の気持ちを考える機能がついてたんだ。
情けない顔の一年たちを見ているうちに、何となく鼻の付け根あたりがツーンときてしまい、私は一つ咳払いをした。
「いいよ、そんなこと。だいぶ前の話だし。私も、もっと早く言えば良かった。ごめんね」
と、黒須君の頭をなでる。黒須君は一瞬驚いたような顔になり、みるみる赤くなってしまった。純情な子だな。
「あー!黒須だけずるい!先輩、俺も俺も!」
伊崎君がゴネだして、結局みんなの頭をなでてあげることになってしまった。一人にするとあと五人にもしなきゃいけないのか。
うーん、めんどくさい。
「おっ」
柔軟体操をしていた芦尾君と菊地君が、着替えてきた私に目をとめた。
「マネージャー夏バージョンですか。髪型も変わってますな」
芦尾君の目は何となく、私の体操服の胸に集中していやらしい。夏の白い服に変わったから、少し体のラインが出るようになっている。
でも髪型に気づいてくれたから、今日は許そう。
「髪が首筋にペタペタくっつくから」
何げなく、耳の前に出ているおくれ毛を触る。
「そう、それ!おくれ毛最高!」
芦尾君のテンションが上がる。髪をまとめた後に出るおくれ毛は、私は何となくだらしない気がするんだけど。
「みっともなくない?」
「そこがいいんじゃないかっ!」
言ってることが良くわからない。
隣を見ると、菊地君が気まずそうに目をそらした。
「菊地君、おはよ」
「お、おう」
長い髪で顔を隠そうとさえしている。私よりは短いけど、うっとうしくないのかな。
「こないだは、その、悪かったな。俺が持ってきた雑誌のせいで」
「気にしてたの?」
「そりゃ気にするさ。だいぶはしゃぎすぎたしな」
「だいぶからかってくれたしね」
意地悪く言うと、菊地君は黙ってしまった。
「冗談。気にしてないよ。黙ってた私も悪いし」
「そう言ってくれると、助かる」
以前未散が、「菊地はさっぱりとしたいいヤツだ」と言っていたのが、何となく分かる気がした。普段野次られたり反論されたりしているのに、そんな相手をいいヤツと言い張るあいつもかなりのお人好しだけど。
「やっと来たか。なかなか来ないから準備済んじゃったぞ」
一人で練習の準備をしていた未散が、ストップウォッチを手に歩いてきた。
『そんなこと、もう不可能だ』
昨日の言葉がふっとよぎる。これはつまり、私のことを一秒も考えないなんて不可能、という意味で。
「ごめん、ちょっとね。別にサボってたわけじゃないよ」
「いいさ。まだ時間前だ」
「だからサボってないって」
未散は普段通り、何も気にしてないように見える。絶対やせ我慢してるはず。してなきゃおかしい。
「未散。それ、パス」
未散は私が指差した先のストップウォッチを見ると、私の方へ放り投げた。予告通り、名前で呼んでみた。動揺するかな。
キャッチした瞬間、ガコンと音がして、誰かの水筒が地面を転がった。
「み…ちる?今、確かにみちるって」
伊崎君の水筒だった。しまった、こっちが動揺したか。
「広瀬先輩、今、藤谷先輩のこと、名前で呼びませんでした?まさか、二人はもう……」
恐ろしいものでも見たかのような顔で、唇がワナワナ震えている。他の部員たちの間にも緊張が走った、ように見えた。
「あのなー、伊崎」
未散がため息をついて言った。
「別に何でもないって。広瀬が、藤谷って苗字は呼ぶのに長いって文句言って、名前で呼びだしただけだ」
「本当ですか?」
伊崎君は疑惑の眼差しを露骨に私と未散に向ける。
「本当だって。現に俺は広瀬って呼んでるだろ」
「ぬ。確かに」
まだ納得いってないような顔だけど、とりあえず信じたみたいだ。
「あれ、誰ですか?こっち向かってますけど」
黒須君が指さす先に、小柄な生徒が映る。髪が長いから女の子だ。夏の体操服にリュックをしょって、両手にも大きなバッグを下げている。遠目にもフラフラして危なっかしい。もしかして、一昨日未散が言ってた新しい女子マネージャーかもしれない。あの時は窓からチラッと中庭を見ただけで、はっきりと顔は分からなかったけど、きっとそうだ。間違いない。
「お、小林さんだ」
未散が歩いて行こうとするのを、私は止めた。
「私が行くから、キャプテンは練習の準備してて」
「お、おう、分かった」
私は少女に駆け寄った。
少女こと小林さんは、女の私から見ても可愛らしい、と思わずにはいられないほど小柄な女の子だった。メガネをかけているせいか、余計におとなしそうな子に見える。
彼女は駆け寄った私の顔を見て、驚いたように口をパクパクさせた。
「持つよ。両手のバッグ、貸して」
目の前に立ち、私が手を伸ばすと小林さんはびくっと体をすくめた。
あれ、いきなりすぎたかな。
「あ、あの」
「ごめんね、驚かせて。私、B組の広瀬夏希。サッカー部のマネージャー」
「は、はじめまして。D組の小林紗良です」
ぺこり、とおじぎをする。背中のリュックの重みで小林さんは二、三歩ふらついた。
「ちょ、大丈夫?」
「す、すみません。平気です」
どう見ても平気じゃない。結構負けず嫌いかもしれない。
「荷物、持つよ。どれか貸して」
「はい、すみません」
小林さんは右手に持っていたバッグを私に差し出す。そんなに重くはない。
「そっち貸して」
もしかしてと思い、私は反対側のバッグを取り上げる。
「あっ」
「いいから」
やっぱり、ズシリと重い。私は軽い方のバッグを手に下げ、重い方を肩に担ぎ上げた。
「両方持ってく。扱いが難しい貴重品なら返すけど」
私が聞くと、小林さんは首をふるふると振った。そして何となく、二人並んで歩き出す。
小林さんがチラチラとこちらを見上げるのが分かる。何か言いたいのかな。
「可愛いね、リボン」
小林さんに話しかけてみる。長い髪を一部編み込みにして後ろでしばり、赤いリボンが結んである。とても女の子らしいな、と思った。
「ありがとうございます」
恥ずかしそうに笑って下をむいてしまった。
会話が終わる。いきなりグイグイ行き過ぎたかな。自分から話しかけるのって、難しいな。
「あ、あの」
「ん?」
「広瀬さんは、ずっとマネージャーやってるんですか?」
向こうから話しかけてきた。私は心のなかで小さくガッツポーズをする。
「まだ一週間だよ。小林さんと一緒で、未散……藤谷に頼まれて」
「そうなんですか」
再び沈黙。しかしすぐに小林さんは口を開いた。なぜか意を決したように気合を入れて。
「あの、こんなこといきなり聞くのは失礼かとも思うんですけど」
「え、何」
勢いに気圧されて、ちょっとのけぞる。
「広瀬さんは、藤谷君とお付き合いしてるんですか?」
何てストレートな質問。
「……してないけど、どうしてそう思うの?」
「下の名前で呼んだので、そういう関係かと」
やっぱりそうか。人に何言われようが気にしない、とは言ったけど、一周説明しないといけないんだ。結構大変かもしれない。
でも私を『高嶺の花』と言ったあいつに、もうそんな風に思ってほしくなくて決めたことだ。
「そんな関係じゃないよ。それに、部活内でキャプテンとマネージャーが付き合ってたら、部員たちがシラけちゃうと思わない?」
「それは確かに。特に男子部員には、著しいモチベーションの低下が見られると思います」
いちじるしい。普段の会話でそんな言葉を使う女子がいるんだ。
小林さんの顔が、どこかホッとしたように見えたのは気のせいだろうか。
「これ、重いけど何が入ってるの?」
かついでいるバッグを小林さんに見せて、私は聞いた。
「ビデオカメラと、予備のバッテリーと、小型モニターとその予備のバッテリーです」
犯人はモニターとバッテリーか。ズシンとくる。
「藤谷君に、家に映像機材があるか聞かれて、あるだけ持ってきたんです。うちの父が新しもの好きで、型落ちが家にゴロゴロしてるので」
「へえ」
うちはどうかな。広瀬家は機械オンチばっかりだから、あまり買い換えてはいないかもしれない。
「あ、あの」
「ん?」
「広瀬さんは、覚えてないと思うんですけど、私、一年の時、何度か廊下ですれ違って」
「うん」
「それで、同じ年なのに、こんなに綺麗で大人っぽい人いるんだって、憧れてたんです」
「……ど、どうも」
どうしよう。この展開は予想していなかった。
「あまりグループで行動してなくて、でも一人でさっそうと歩いてて、かっこいいなって」
もうやめて。耳が熱い。友達が少ないだけなのに。
「だから私、同じ部活で、広瀬さんとマネージャーになれて、嬉しいんです」
小林さんが照れくさそうに笑う。チラリと八重歯が見えた。
きゅん。
こういうのを、庇護欲っていうんだろうか。私が男なら、好きになっちゃってたかもしれない。
「私こそ。女子一人だけだったから、入ってくれて嬉しいよ」
私が返すと、小林さんは「いえいえ、そんな」と照れまくった。本当に可愛いな。
練習場でみんなと合流すると、未散が小林さんをみんなに紹介した。
「小林紗良です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、部員たちからどよめきと拍手が起きる。特に二年がコソコソと「結構かわいい」と言い合っている。男子はやっぱり、小柄で女の子らしい子が好きなのかな。
「えー、小林さんには、情報戦略室室長として、主にデータ収集及び分析、加えて戦術アドバイザーとマネージャー補佐をやってもらいます」
言って、未散が私を見た。
「何」
「それにともない、広瀬マネージャーはチーフマネージャーに昇格となり、小林室長のフォローと総括的業務をお願いする。以上」
出世した!一週間で。
みんなが最初のミニゲームのために散っていく。私は未散を捕まえた。
「ちょっと」
「何だよ」
「チーフになるならなるで、言っといてよ」
「言ったらサプライズ人事にならないじゃないか」
未散が当たり前のような顔をした。
「サプライズ嫌いなの」
「マジでか。女なのに」
「性別関係ない」
納得いかないような顔で、未散もグラウンドに走っていった。
ベンチの側で小林さんが三脚を組み立て、ビデオカメラをセットしている。
「広瀬さん。そこの小さい画面見て、角度確認してもらえますか?」
「はーい」
液晶画面を覗き込む。ゴールに向かって最大限両サイドが入るようになっていて、絶妙な角度と言える。
「いいんじゃないかな、これで」
「そうですか。良かった」
小林さんはベンチに座って、リュックからタブレットを二つ取り出した。
「はい、広瀬さんの分です」
「私のも?」
受け取って画面にタッチする。
「部員がみんな見られるように、パスワードは無しにしてあります。今のところ中身は、藤谷君にもらった体力テストのデータくらいですけど」
教わるままにアイコンをタッチすると、先週私が初めてマネージャーとしてここに来た日のテストの結果が一覧になっていた。部門ごとのランキングや、個人ごとの星形のグラフまで。
ものすごくマメな仕事だ。
「これ、何日でやったの?」
「一日です。エクセルですから、誰でもできますよ」
エクセル。私の頭には「あの緑のヤツ」くらいしかイメージが無い。これを機に勉強してみようか。
「あ」
そういえば顔を見ない、と思っていた冬馬が、大あくびをしながら部室から歩いてきた。あいつには少し早めに来るっていう発想が無いのか。
ちょっと怒ってやろうかと思って立ち上がったけど、さっき一年のみんなが言ってたことを思い出す。にわかには信じがたいけど、冬馬は私をかばってくれたらしい。今日は見逃してあげよう。
「遅いぞ、冬馬」
未散がキャプテンとして冬馬を注意している。あいつは冬馬には何だかんだで甘いけど、冬馬も冬馬で未散の言うことは割と素直に聞くから不思議だ。友達という感じでもないし、どういう二人なんだろう。
「遅れてはないぜ、キャプテン」
相変わらず小さいのにふてぶてしいやつ。見逃してやろうとは思ったけど、顔を見ると腹が立つ。
すると冬馬が、スタスタと私達の座っているベンチにやってきた。
「何だ、お前」
小林さんに鋭い目で問いかける。問いかける、ではソフトすぎる。因縁をつけていると言うべきかもしれない。
「は、はいっ。きょ、きょ、今日から情報戦略室室長兼マネージャー補佐に任命されました、小林紗良です!」
弾かれたように立ち上がり、体全体でおびえながら、それでもはっきりと冬馬に自己紹介した。意外と肝が座っているかも。
冬馬は特に興味もなさそうな顔で小林さんを見た。
「戦略室ねえ。藤谷の考えそうなことだ。ま、がんばれや」
……え?
それだけ言って、冬馬はコートに入って行った。今、あいつ、がんばれやって言った?
小林さんはドスンとベンチに座り込み、大きく息をついた。
「怖かったあ。でも、見かけよりいい人ですね、冬馬君って」
「そ、そうかな」
何で?私の時と扱いが違いすぎる。納得行かない。
こんな時は。
「キャプテン!」
「な、何だ?」
私はコートにずかずか入って行って、驚く未散の襟首をひっつかんだ。
「ゲフッ!な、何だ、チーフマネージャー」
「肩書はどうでもいい!どういうこと?」
「何がだよ!主語を省くなって言っただろ」
私は冬馬の小林さんへの謎の対応を説明する。
「そんなこと俺が知るか!本人に聞け」
「聞いたって素直に答えるヤツじゃないでしょ!」
「あー、ちょっといいか」
突如、金原君が割って入ってきた。
「俺、冬馬と同じクラスだから、何となく分かるんだけど」
金原君は離れたところでアップをしている冬馬を見て言った。
「俺の見た限りでは、あいつは自分より身長の低い女には優しい傾向がある」
『は?』
私と未散が一文字でハモった。
「何、そのバカバカしい理由」
私の抗議に金原君は困ったように一歩下がった。
「俺に言われても知らねえよ。ただ、クラスではそうだからさ」
「私、そんな理由であいつに因縁つけられてたの?信じられない」
怒りが収まらない私を見て、未散が困ったように頭をかく。
「広瀬、気にするな。お前は女子の中では背が高い方だけど、細いからデカいって感じしないぞ」
「そんなフォローはいらない」
かばってくれたって聞いたけど、あれはきっと違う。一般論を言っただけなんだ。絶対そうだ。
午前中の練習が終わり、それぞれがお弁当を広げる。いちいち突っ込まれるのは面倒なので、未散には私と離れたところで食べてくれと頼んだ。
何せ作った人が同じだから、中身もほぼ同じなのだ。
私は小林さんと並んでベンチで食べることにした。
「広瀬さんのお弁当、おいしそうですね」
「そう?ありがと」
そういう小林さんは、サンドイッチと少々のおかず。見た目のイメージ通り少食みたい。
と、黒須くんが早くも昼食を終えたのか、私達の方へやってきた。
「あの、小林先輩」
「は、はいっ」
なぜか小林さんの方が緊張している。先輩、と呼ばれなれていないのかな。
「それ、触ってみたいんですけど、いいですか?」
ベンチに置いてあるタブレットを指して、黒須君が言った。
「もちろん。はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
黒須君は興味津々な顔で画面をタッチしている。いつもおとなしい彼の、意外な一面だ。
彼だけじゃない。
私は、部員のみんなのことをまだ何も知らない。一年の子たちは私に懐いてくれているけど、私の方から話しかけて彼らを知ろうとしたことが何度あっただろう。昨日未散にそう話したら、まだ一週間だから焦っても仕方ないって言われたけど。
黒須君が、チラッと私のお弁当に目を向ける。
「あの、広瀬先輩のお弁当、藤谷先輩のと中身似てませんか?」
箸が止まる。いけない。固まっちゃいけない。偶然だって流さなきゃ。
黒須め、本当に抜け目の無い子。
ガコン、と聞き覚えのある音がした。伊崎君の水筒が、また地面を転がっている。きっと今日一日で彼の水筒はベコベコだ。
「ま、まさか、キャプテンだけ広瀬先輩の手作り弁当を……」
部員たちが一斉にざわついた。
心の底からめんどくさい。
私はキャプテンが栄養不足で二度と倒れないように、お母さんに彼の分も頼んだ、ときちんと説明した。伊崎君は明らかに納得していない顔だけど、それ以上何も言わなかった。
午後は個人練習を後まわしにして、初めて本格的な戦術練習に入った。
私がこの一週間で記録した部員たちのデータを、未散があらかじめ小林さんに渡し、それぞれのクセや傾向が分析されている。未散が中庭で彼女をスカウトしたのが二日前。その日に渡していたとしても、仕事が早い。
今回は五対五のミニゲームながら、攻撃は攻撃だけ、守備は守備だけと分けている。攻撃側のメンバーから割り出した危険なエリアをあらかじめ守備陣に教え、そのエリアを本当に通るのか、またそこを抑えれば失点する確率が本当に減るのかを実証するという、練習というかテストのようなものだ。
攻撃側は冬馬、伊崎君、未散、軽部君、菊地君。守備側は、狩井君、茂谷君、金原君、黒須君、皆藤君。キーパーは島君がゴールに立っている。当初は攻撃側には芦尾君が入る予定だったけど、伊崎君が球拾いはイヤだ、と言い張って芦尾君が譲る形になった。
芦尾君は何となくムッツリスケベな感じがして正直好きではなかったけど、後輩思いの一面もあるんだ、と知った。
「意外と後輩に優しいんだね、芦尾君」
球拾いのためにコートを出た芦尾君に声をかける。
「惚れちゃいけないぜ、マネージャー。君を独り占めしたら、部員たちのモチベーションが下がっちまう」
一秒で調子に乗ってしまった。
「大丈夫。無人島で二人きりになったら、即自害するくらいタイプじゃないから」
「俺のモチベーションが下がった!」
言葉とは裏腹に元気そうだから放っておこう。
私は立ち上がり、ビデオカメラのスイッチを入れる。
コートに向き直ると、未散がこちらに向かって手をあげる。私は思いっきりホイッスルを吹いた。
冬馬がセンターに張り、伊崎君がやや下がり目のセカンドトップ。足元の技術的には逆だと思うけど、冬馬が譲らないらしい。
菊地君が左MFで、その後ろに軽部君。左SBはほぼウイングのような役割とは言っても、かなり上がっている。これも未散の考えなのかな。その未散は真ん中やや右よりで味方選手みんなを視野に入れられるように位置取っている。
軽部君が未散にパスして攻撃がスタートする。ちょっと前まで初心者だったのに、軽部君のインサイドキックもかなり様になっている。狩井君に教わったと言っていたけど、自分より上手ければ後輩にも教われる軽部君は、なかなか器が大きい。
未散がボールを持つと、黒須君が早速チェックに行く。いつも未散を慕っている彼は、練習で挑んでいく時も真剣だ。未散は黒須君が張り付くより先に、浮き玉の縦パスを前線に送った。
伊崎君がダッシュで反応し、追いかける金原君を引き離す。未散は右サイドを走りだした。伊崎君は左サイドの軽部君にワントラップしてボールを戻す。軽部君は確実にトラップすると、下がってきた同じ左サイドの菊地君にボールを預け、自分はライン際を走りだした。菊池君は背中に皆藤君を背負いながらキープし、抜くとみせかけて再び伊崎君にパスを出す。
CBの茂谷君が伊崎君をチェックに行く。黒須君も走ってきて、はさみうちになりそうだ。伊崎君はそのパスを触ること無くスルーして、ボールは未散に渡る。右サイドやや浅めにいた未散は、ダイレクトで左サイドの深いところへ長いパスを出す。
軽部君が驚異的なスピードで狩井君を置き去りにし、ボールに追いつく。一度トラップして、左足でゆるいクロスを上げた。
軽部君は右利きだ。まだ左足で速くて強いクロスは厳しい、と未散は言っていた。
しかしそのゆるいクロスはCBの金原君の動き出すタイミングを一瞬だけずらす効果はあったようで、FWの冬馬がその一瞬を見逃さずに左足でボレーを放つ。ボールは島君の正面に行ってしまい、右サイドに跳ね返った。そこに、伊崎君がダイビングヘッドで飛び込む。
ボールがネットに突き刺さり、ついでに伊崎君もゴールインする。私がホイッスルを吹くと、伊崎君は砂にまみれた顔でゴールから飛び出した。
「マイゴ、マイゴ、マイゴ、マイゴオオオオオール!」
ビブスも練習着も脱いで、半裸で服をブンブン振り回し、コート内を走り回っている。あの子は何をしてるんだろう。
「伊崎!イエロー食らうから脱ぐなって言っただろ!」
未散が伊崎君を追いかけ、はがいじめにしている。基準はわからないけど、本人のテンションが上がる状況で点を取ったら毎回あの子は脱いで走り回るんだろうか。今から頭が痛い。
「広瀬さん」
「ん?」
小林さんは驚いた顔で伊崎君を見つめていた。
「伊崎君は、ごく短い距離なら本当に速いですね。今も、ゴールに飛び込む前は守備の人たちよりかなり後ろにいたのに」
「一種の特殊能力だね。あの子はこぼれ球の来る位置が分かるみたい」
「特殊能力……」
何気なく言った私の言葉に、小林さんは考えこんでしまった。何か余計なこと言った?
「小林さん?」
「広瀬さん。特殊能力って、どうやってデータ化すればいいんでしょうか?」
やっぱり余計なことを言ってしまったようだ。真剣に悩んでしまいそうな彼女を何とかなだめて、私は練習再開のホイッスルを吹いた。
午後の練習も終わりに近づいて、やっと顧問の毛利先生がやってきた。
よせばいいのに息を切らせて走ってきて、しかもその走り方が、右腕を脇腹にピタッとくっつけて、ヒジから先をプロペラみたいにクルクル回しながら走るものだから、何となく気持ち悪い。言えないけど。
「ハァ、ハァ、ごめんね、みんな。先生がいなくて、迷惑かけちゃったね、ハァ」
つつがなく進みました。
チラリと未散を見ると、こちらを見て人差し指を唇に当てた。私のことを、思ったことを何でも口にする女だと思っているのだろうか。失礼な。
小林さんが毛利先生の前に行き、小さな紙を渡す。
「先生、2ーDの小林です。これ、入部届です」
「おお、君もマネージャーさんなんだね。いいね!青春だ!」
入部届を受け取り、目を閉じて余韻に浸っている。この先生は本当に職場復帰できてるのかな。
「よお、藤谷」
冬馬が未散に歩み寄ってきて言った。
「何だ」
「未経験者がいて慎重なのは分からんでもないけどよ。そろそろ練習試合の一つも組んでくれよ。試合が無いと退屈でしょうがねえ」
「試合かあ」
未散が腕組みをして思案する。部員たちも、試合と聞いて明るい顔になった。みんな結構、試合に飢えてたんだな。
「六月は難しいんだよ。強いとこはもう秋に向けた強化に入って、うちみたいな実績のないとこは相手にしてくれないし、そもそも雨で流れることも多いから」
「聞くだけ聞けよ。キャプテンだろ」
冬馬が食い下がる。
「わかったよ。聞くだけな」
未散は毛利先生に、
「先生、練習試合の申し込み、お願いできますか?」
と言った。
小林さんの入部届を胸に抱いて浸っていた毛利先生は、急に青い顔になる。
「申し込みって、それは、電話かな?」
「たいていそうですけど」
「無理。僕、電話恐怖症だもん」
真顔で開き直ってしまった。信じられない。だもんとか言ってる。
未散はあきらめたようにため息をついて、
「広瀬、手伝ってくれ。電話は女子の方が印象がいい」
と私を呼んだ。
「私も電話苦手だよ」
「気にするな、俺もだ。みんな、三十分休憩な」
悩み多きキャプテンは部員たちにそう言い残し、職員室に歩いて行った。
今日は土曜日で、なおかつ今の時間はみんな部活の真っ最中ということで、職員室には誰もいなかった。
未散はキャビネットの一つを勝手に開けて、一冊のファイルを取り出し私に手渡した。
「何、これ」
「過去に練習試合やった学校の連絡先リスト。一年の時、俺が作らされた」
「へー」
ファイルをを開く。学校名、電話番号、住所、強さのABC評価まで書いてある。ほとんどがCだけど。
「A評価の学校は無いの?春瀬とか桜律とか」
「断られたから、載ってない。向こうにしてみりゃ、うちとやったって何のメリットも無いしな」
確かに。
とりあえず、C評価の学校を選んで上から順に電話してみることにした。
「もしもし。わたくし、本河津高校サッカー部のマネージャーをしております、広瀬と申します。お世話になります。恐れ入りますが、サッカー部の顧問の先生はいらっしゃいますか?」
未散が口を開け、驚いた顔で見ている。私は送話口を手でふさいで、
「何?」
と聞いた。
「いや、大人みたいですげーって思って」
「これくらい普通」
「いや、普通じゃないって」
「しっ。もしもし、はい。本河津高校サッカー部の広瀬と申します。はい、そうです。練習試合をお願いしたいと思いまして、お電話いたしました」
向こうの顧問の先生は、マネージャーが直接電話してきたことに驚きつつも、とても丁寧にスケジュールを理由に断りを告げた。電話を切ると、どっと疲れが襲ってくる。だから電話は苦手だ。
「スケジュールはもう、埋まってるって」
「そっか。だいぶ出遅れたな」
「次は未散がかけて。結構疲れるんだよ」
「ダメだ。俺が電話なんてしたら、声が聞こえないって怒られるのがオチだ」
未散はなぜかふんぞり返った。
「いばって言うことじゃないでしょ。しょうがないなあ」
結局私がリスト全ての学校に電話することになり、結論から言うと全ての学校に断りを告げられる結果となった。
「もうヤダ」
私は脱力して机につっぷした。自分が否定されたわけではないけど、十回以上誰かに拒否されるというのは精神的にこたえる。今度家に営業の電話がかかってきたら、妙に優しくしてしまいそう。
「もうさ、思い切って春瀬か桜律に電話してみたら?どうせダメ元なんだし」
私が言うと、未散は自分のスマホを取り出した。
「どこに電話する気?」
「桜律の神威君。こないだの決勝の時、番号交換したんだ。とりあえず聞いてみるよ」
そういえば帰り際にそんなことしてたっけ。未散は神威君の番号をコールし、待った。
「あ、もしもし。俺、藤谷だけど。今いい?うん、ありがと。ちょっと頼みがあるんだけどさ」
未散は練習試合の話を始めた。表情が晴れないところを見ると、どうもダメっぽい。
しばらく話して、未散は電話を切った。
「ダメだって?」
「うん。もう八月まで練習試合のスケジュールは埋まってるってさ」
「うわ。行列のできる店みたい」
未散はため息をついて机につっぷした。
「すまん、広瀬。全部押し付けて。断られるのって、結構こたえるな」
「一回で分かった気にならないでくれる?私、十五回なんだけど。しかも相手全員知らない大人」
「返す言葉も無い」
こうして二人で落ち込んでいても仕方ない。私は努めて明るく言った。
「でもさ、つまりは私たちと試合することにメリットのある相手ならいいわけだよね?」
「理屈ではな。でも、そんな学校あるか?俺たち五年連続一回戦負けだぞ」
「そういう弱い相手と試合したい学校は、どういうところ?」
私が聞くと、未散は起き上がって腕を組んだ。
「次の大会に向けて、自信をつけさせるためとか?かませ犬ともいうけど」
「それはイヤ。他には?」
「イヤって言うなよ、選べる立場じゃないんだから。他って言うと、何だろ」
「私たちと試合すること自体に価値を見出してくれるところ」
「価値って言われてもな。いっそ中学生とか、小学生のチームに申し込むか?高校生と試合なんて滅多にできないからいけるかも」
「発想は悪くないけど、部員が反対すると思うよ」
「だよなー」
未散は再び机につっぷした。
「あ」
と思ったら、ガバッと起き上がり、急にキラキラした目で私を見た。
「何、いきなり」
「あったぞ。俺らと試合することに価値を見出してくれて、みんなも乗り気になりそうな学校」
「どこ?」
未散は答えずに、再び自分のスマホで電話をかけ始めた。どうやらまた桜律の神威君にかけているらしい。たった今断られたばかりのに。
どういうつもり?
一旦通話を切って、両手でスマホを持ち何かを待っているようにスタンバイしている。
「教えてよ。どこにかけたの?」
「神威君。の、彼女が桜女の三年なんだ」
桜女。桜律女子高校。
男子校である桜律と対を成す女子校で、サッカーとバスケは全国レベルの強豪。特にサッカーは去年全国二冠を成し遂げていて、現在高校女子最強と言われている。
まさか。
「桜女のサッカー部に申し込む気?」
私が思わず大きな声で言うと、未散は人差し指を口につけた。
「声が大きい。女子って言っても、桜女なら強いし、男子サッカー部をへこますことを面白がって受けてくれるかもしれん。部員たちも、女子高って聞けば乗るはずだ」
「何で乗るって言い切れるの?」
「女子高と聞いてテンションが上がらない男子高校生はいない」
未散はきっぱりと言い切った。その辺はついていけない。
「で、何を待ってるの?」
「神威君に、彼女に俺の番号を伝えてくれるように頼んだ。もうすぐかかってくるはずだ」
未散のスマホが鳴った。
「はい、もしもし。あ、こないだはどうも、本河津高校の藤谷です。あ、いえいえ、とんでもない。素敵な彼氏ですね」
会話の内容はわからないけど、未散の目がどんどん死にかかっているのが分かる。きっと、苦手なタイプの人と心にも無い話をしているに違いない。
キャプテン、ファイト。
「はい、ありがとうございます。待ってます、はい」
未散がほうっと息をついて、送話口を手でふさぐ。
「どう?」
「神威君の彼女、城戸さんていうんだけど、バスケ部の三年で、サッカー部のキャプテンと知り合いらしんだ。今呼んでくれるって」
すごい。つながった。
「ちょっと見直した」
「まだ早い。断られたら同じだ」
言葉は冷静だけど、ちょっとだけ照れたのを私は見逃がさなかった。
『もしもし』
電話の向こう側から女性の声が聞こえる。桜女サッカー部のキャプテンに代わったみたいだ。未散はそれこそ必死に、全国出場を目指していること、未経験者が多く実戦経験が乏しいこと、王者のメンタリティを学びたい、等々どこまで本気かわからないことまで一気にまくし立てた。
そんなに一方的に話して大丈夫かな。
しばらくして、未散の表情が変わった。
「え?広瀬夏希、ですか?」
私の名前?何で。
「広瀬夏希は、うちのマネージャーですけど。はい、本当です。ウソじゃないです。えーと、ここにいますけど代わりますか?」
未散は私にスマホを差し出した。
「何か知らんけど、桜女のキャプテンの一条さんて人、お前のこと知ってるみたいだぞ。出てみてくれ」
一条。
私の脳裏に、真っ白な病室と小さな花瓶、そして、男の子のようなショートカットの女の子が浮かび上がる。
私は平静を装い、未散からスマホを受け取った。手が震えそう。怖い。
「……もしもし」
「もしもし。なっちゃん?久しぶり。私のこと覚えてる?」
桜女のキャプテン、一条涙は、五年前のあの日と変わらない、張りのある快活な声で、私の名を呼んだ。
「るいちゃん?本当にるいちゃんなの?」
「そうだよ。びっくりした。心配してたんだよ、ずっと。年賀状も来なくなったし」
「うん。ごめんね。本当にごめん」
視界がぼやける。あれ、私、泣いてる。
手の甲で涙をぬぐうと、青ざめた未散がおろおろしているのが分かった。未散のせいじゃない、と教えてあげるのは、もう少し後にしよう。
つづく
たぶんしなくていい名前の由来解説
一条涙……ワンバック




