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第15話 「手」

そして恋になる

次の日、広瀬夏希は朝練を休んだ。


昨晩から何度LINEを送っても、電話をしても、何の応答もない。

もちろん今朝も。

LINEのメッセージは既読になっているので、とりあえずスマホの電源は入っていてメッセージを読んでいることは期待できる。


昨日はダッシュで家に帰り、冷凍庫にあるありったけの保冷剤で頭を冷やそうとした。しかし物理的に頭部を冷やしたところで脳の中身にまで浸透するわけがなく、ただひたすらベッドでゴロゴロして、最後に見た広瀬の顔をかき消そうと格闘した。


整った綺麗な顔が冷たく凍りついて、目から一筋の涙がこぼれ出て。


小学生の時、仲の悪い女子とケンカして泣かしたことはあるけど、今回は何かが違う。それが何か分かっていれば、こんなには悩まないんだが。


そもそも、先に勘違いとかモテないとかひどいことを言ったのは広瀬の方じゃないか。何で最後にひとこと言い返しただけで泣かれなきゃいけないんだ。全部俺が悪いみたいじゃないか。

理不尽だ。

だんだん腹が立ってきた。


「キャプテン、危ない!」


伊崎の声に顔を上げる。そうだ、今は朝練の最中だ。

視界が白色でおおわれる。

球体のぶつかる衝撃が、顔中に鉄と土の香りを広げていく。

その場にひっくり返ると、鼻の呼吸が何かに阻まれる。


「藤谷!おい!血い出てっぞ」


芦尾の焦る声が聞こえる。こいつが蹴ったのかな。あ、これは鼻血だ。息ができない。

口を開けて思いっきり空気を吸い込む。口の中も血まみれになった。


「おい、保健室だ!島!」


菊地が島を呼ぶ。ちょっと待て。


「ずぶんでいぐがら」


何地方か知らないが、俺は今なまっている。まともな発音ができない。島がずんずんと近づいてきた。


「いい、いい」


手を振って断る間もなく、島が俺を抱き上げた。お姫様抱っこで。


「ばべろ、じま。ばずがじい!」

「じっとしていろ」


島に俺を下ろす気は無いようで、そんな俺にできる唯一の対抗手段は気絶したフリだけだった。






「また来たの、しかもお姫様抱っこで。あんたたち付き合っちゃえば?」


保健室では江波先生が早くも出勤しており、口中血まみれの俺を見て楽しそうに笑っている。鬼だ。

俺は島に礼を言って戻らせた。


「そこの流しで口ゆすいで。血は飲んじゃダメだからね」


言われた通り、流しに血を吐き出して水で何度か口をゆすぐ。まだポタポタと鼻から血が垂れてくる。両方の鼻がいかれたみたいだ。


「はい、こっち向いて」


振り向いた途端に、両方の鼻に脱脂綿がギュッと押し込まれる。


「はぐうっ」

「我慢しなさい」

「ど、どれだくだりまぜんか?」

「ティッシュと違ってくっつかないから、大丈夫。今ガーゼ濡らしてあげるから、目のあたりに当てて、小鼻ギュッとつまんで下向いて。ボールが当たったのが原因なら五、六分で止まるでしょ」

「ばい」


再び言われた通りにする。イスに座ってガーゼを両目に当てて、鼻をつまむ。奥の方はまだ熱い。





数分静かに座っていると、保健室の入り口がカラリと開いた。


「やっほー。えばっちいるー?」


聞き覚えのある声。確か。


「理沙、生徒がいるんだから、えばっちはやめて」


女子陸上部顧問の盛田先生だった。名前は理沙っていうのか。全くもってどうでもいい情報を仕入れてしまった。


「あー、ごめんごめん」


後頭部をポリポリかきながら、俺に目をとめる。


「藤谷君。また倒れたの?」


また?何で一昨日倒れたこと盛田先生が知ってるんだ。俺は目で江波先生に問いかける。

江波先生は珍しく気まずそうに、


「あ、そういえば、雑談のついでにしゃべちゃったかも」


と目をそらした。


「ごじんじょうぼうのりゅうじゅず」

「龍数珠って何?」


盛田先生が聞き返す。ダメだ。なまりっぱなしじゃ話が進まない。

流しで鼻の脱脂綿を取り出す。真っ赤だ。でも鼻からさらに血が出てくる気配はない。

本当にあれで止まった。


俺はイスに座り直し、


「個人情報の流出って言ったんです」


キリッとした顔で言った。


「鼻血出しといて、今さらそんな顔しても遅い」


江波先生に容赦無くこき下ろされる。何で俺の周りには、当たりのキツい女が多いのだろう。広瀬とか、広瀬とか、広瀬とか。


「江波先生と盛田先生は、友達なんですか?」


聞くと、同じ大学の同期だと返ってきた。年度を聞く勇気は無い。


「そういえば、あの可愛いマネージャーさんは?」


盛田先生が聞いた。


「あー、今朝は、休んでます」


何となく歯切れが悪くなる。でも、それしか言いようが無い。


「何、風邪でも引いた?」


休んだと聞いてか、江波先生が食いつく。


「いや、わからないです。連絡が取れなくて」

「ふーん」


江波先生があごに手を当てた。


「そんな子には見えなかったけどな。何かあったんじゃないか?」


鋭い目で見据えられる。

アンジェリーナ・ジョリー似の濃い顔ですごまれるとかなりの迫力がある。このルックスでなぜ養護教諭になったのか謎だ。


「もしかして、ケンカしたとか?」


盛田先生が軽い調子でさらに続く。


十六のガキである俺が、二十代後半の女性二人に追求されている。どんなフェイントを駆使しても、かわせる自信がない。

あれこれ突かれているうちに、いつのまにかケンカの経緯をほぼ全部しゃべらされてしまった。

広瀬、すまん。





「100%、君が悪い」

「マネージャーさんに謝りなさい」


二人の結論が一致した。そんなことは分かってる。


「でも、電話にも出てくれないし、メールも返信無しで。反応が無ければ謝りようもないです」

「そこはあきらめずに、連絡取り続けなくちゃ」


盛田先生が前のめりになってきた。熱い人だ。

対して江波先生は、ポツリとつぶやくように、


「謝るポイントがずれてるのかな」


と言った。ポイント?


「どういう意味ですか?」

「だからさ、君が謝ってる内容が、広瀬さんのこだわってる部分に引っかからないから、反応が無いってことなんだろう」

「こだわってる部分ですか」


どこだろう。言い過ぎた、とか怒鳴って悪かった、とかはすでに送った。留守電にも入れた。

でも反応は無い。つまりそんな内容じゃダメなんだ。





しばらく考えこんでいると、盛田先生が時計を指した。


「もう着替えに行った方がいいんじゃない?一限まで時間無いよ」


忘れてた。俺は江波先生に礼を言って、保健室を出ようとする。


「あ、そうだ、藤谷君」


盛田先生が呼び止める。コロンボみたいだ。


「何ですか?」

「佐々木さん、厚尾あつおに転入することになりそう。藤谷君によろしくって」


厚尾高校。学力はうちと似たり寄ったりで、サッカー部は中の上くらいの学校だ。


「へー、厚尾ですか。あそこ、陸上強かったですか?」

「もう陸上はやらないってさ」

「そうなんですか。今さらですけど、佐々木さんて陸上部で何の種目やってたんですか?」

「ハードルだけど、それが?」


ハードル。あの佐々木さんがハードルを跳んでいるところを想像する。揺れる、揺れる……。


「藤谷君!また鼻血出てる!床に落とさないで!」

「はぐうっ」


江波先生が光の速さで脱脂綿を俺の鼻につめる。スケベなことを考えると鼻血が出るって、本当なんだな。


「あのね、藤谷君。さっきの話だけど」

「ばい」


江波先生が真面目な顔つきになった。


「他の部員たちは、広瀬さんがサッカー経験者だって聞いても怒らなかったんでしょ?写真を見て可愛いとか言ってたくらいで」

「ぞうでず」

「じゃあ何で、藤谷君だけが怒ったのか。そこを考えてみたら、広瀬さんと話ができると思うよ」


何で、俺だけが怒ったか。広瀬が怒った理由じゃなくて、俺が怒った理由?






今度こそ保健室を出ようとした時、俺はふと思いついたことを口にした。


「江波先生って、うちの毛利先生のケア頼まれてるんですよね?」

「そうだけど、それが?」

「ついでに、サッカー部のチームドクターもやってくれませんか?公式戦の時だけでもいいんで」


少し驚いたような江波先生は、しばし思案顔になって、


「鼻血出してもタダじゃ帰らないってことね。そういうたくましい子は、嫌いじゃないよ」


と笑った。


「じゃあ」

「考えとく」


やっぱり広瀬と似た人種だ。







教室に行っても、広瀬の席は空いたままだった。

担任が広瀬の欠席を皆に告げる。体調不良ということだ。


「ね、藤谷君。広瀬さん、何かあったの?」


広瀬の前の席の女子がこっそり話しかけてきた。


「知らない。風邪じゃないのか」


我ながら白々しい。本当に風邪だったらどんなに気が楽か。


「私には、藤谷君の方が体調悪そうに見えるけどね。魂が抜けたような顔して」

「そうか?」


自分の顔をペタペタ触ってみる。わからない。そんなに鼻血のダメージが大きかったか。






結局午前中の授業はほぼ上の空という状態で、自分がなぜ広瀬に怒ったのか、考え続けた。あまりにも考えすぎて、授業中当てられたことに気付かず、怒られたことに気づかず、立っていろと言われたことにも気づかなかった。後でクラスメートから知らされ、「マリオがスターを取ってもあそこまで堂々と無視できない」と誉められてしまった。

誰もいない隣の席をチラチラ見てため息をつく男が、無敵なわけないじゃないか。





昼休みになり、再び菓子パンに戻った昼食を食べようとすると、直登がスタスタと俺の席にやってきた。クラスの女子たちがソワソワしだす。


「未散、菓子パンに逆戻りか。また倒れても知らないぞ」


直登がため息混じりに言った。


「うん。コンビニ弁当も考えたけど、余計むなしくなりそうでやめた」


俺もため息で返す。景気の悪い2人だ。


「今朝は悪かったな。最近、副キャプテンに頼りっぱなしだ」

「頼ってくれるのは構わないけど、練習中にぼんやりするのは良くない。大ケガの可能性だってある」


直登が真面目な顔になる。全くその通りだ。


「すまん」

「いいよ。それと、今日の午後練は中止だ。未散がそんな調子じゃ、やっても意味が無い」

「そんな」


抗議しかける俺を直登が手で制した。


「これは部員たちの総意だ。もし広瀬さんが練習に現れた時、変わらず練習を続けていたら戻りづらいだろう」

「あ」


確かに。俺はそんなことも気づかなかった。キャプテンなのに。勝つために広瀬が必要なら、広瀬が戻ることを一番に考えなければいけない。



広瀬夏希に代わりなどいないのだ。



代わりはいない。

つまり、誰でもいいわけではなく、特別な。


「あ、そうか」


思わず口をつく。そうか、そうだったのか。広瀬がサッカー経験者なのを黙っていて、俺が怒った理由。それと同時に、なぜ広瀬が黙っていたのか、何となく想像がついた気がした。


「何だい、いきなり」


直登がいぶかしげに俺を見る。


「いや、いいんだ。今日は鼻血が出て激しい運動は控えろって言われてるし、おとなしく帰るよ」


首をかしげて、頼りになる副キャプテンは帰っていった。








午後は時間を丸々使って、広瀬に送る文面を考えなくてはいけない。


午後の授業も先生が怒っていたような気もするが、よく覚えていない。俺は早々に家に帰って気を落ち着け、広瀬にLINEを送った。



『昨日、一番目の本心じゃない言葉でケンカの原因を作ってしまった。そこからやり直したい。それでもケンカになったら、もう口をきいてくれなくて構わない。今から会ってくれ』



ちょっとクサいだろうか。いや、構うもんか。ケンカの仲直りなんて、そもそもクサいものなのだ。

すぐに既読になって、そこから十分待つ。


返事はない。


気長に待とう。着信音が分かる場所にスマホを置き、晩飯の用意をする。倒れたことで自炊の必要性も感じ始めたので、とりあえずご飯を炊いた。味噌汁はインスタントでおかずは冷凍食品だが、おいおい覚えて行くつもりだ。多分。


晩飯も食べ終え、だいぶ暗くなってきた七時半頃、待望のLINEの着信音が鳴った。

すっ転ぶ勢いでスマホを手に取ると、送信者に「広瀬夏希」の名が表示されている。



『どこで?』



ただ一言。実に、実に広瀬らしい返事だ。いつもなら素っ気ないなと思う返事も、今はあるだけで嬉しい。


広瀬の家は知らないが、徒歩通学の範囲で学校前の一本道が途中まで一緒なら、あの公園を知っているかもしれない。俺がいつも一人で練習していた、あの小さな公園。


広瀬にその場所を伝えると、『わかった。15分後』と帰ってきた。


俺は慌ててジャージの上着をひっかけると、大急ぎでアパートの階段を降りて、自転車にまたがった。カゴにサッカーボールが入ったままだが、仕舞いに行く暇はない。もしかしたらこれが、広瀬と話す最後のチャンスかもしれない。


あのあきれたような物言いも、ストレートな文句も、俺をからかう時の根性の悪い笑顔も、永遠に失うかもしれないんだ。







七時四十五分。


公園に着いた時はすでに辺りは真っ暗で、細い三日月では小さな公園すら照らせない。かろうじて光を放つオレンジ色の街灯が、この場の光の全てだった。

俺は自転車のまま公園に入っていって、広瀬を探す。


一番奥のブランコに、パーカーのフードをかぶり、短パンをはいた人影がちょこんと座っていた。


自転車をすべり台の脇に止め、俺はブランコへ歩き出す。


「おす」

「うん」


短いが、返事はある。何となく、声がこもって聞こえる。広瀬はこんな声だったかな。それに、こんなに小さかったっけ。周りの目など気にしない、いつもさっそうと歩く広瀬夏希は、俺より少し身長が低いはずなのに、いつも俺の方が見上げているような感じで。小さいなんて思ったことは一度も無いのに。


「来てくれて、ありがとう」

「うん」


俺ももう一つのブランコに腰掛ける。ブランコなんて何年ぶりだろう。足がついてしまって、こぐのも難しい。


「体調は、もういいのか?」

「うん」

「その、いきなりなんだけど、さっき送った内容、話していいか?」

「うん」


広瀬はフードをかぶったまま、うなずいた。顔はまだ見えない。


「俺は昨日、広瀬がサッカー経験者だったのを黙ってたことに、怒った。その理由を、みんなから守ってやれたのに、みたいな言い方をした」

「うん」

「でも、それはウソなんだ。いや、完全なウソってわけじゃない。みんな気のいいヤツだけど、ちょっと調子に乗ってはしゃぎすぎるところもあるから、俺が歯止めをかけるっていうのは、ウソじゃない。でも、昨日は違った。俺が怒った理由は」


言葉を切って、広瀬の方をうかがう。フードで何も見えない。ここにいるのが広瀬じゃなかったなら、こんなにも胃が痛くなることもないのに。



「俺が怒った理由は、広瀬に、特別扱いしてもらえなかったから、だと思う」



返事はない。俺はそれを、続きをうながす意味と取った。


「広瀬自身はどう思ってるか知らないけど、広瀬は一年の頃から美人で、目立ってて、俺みたいな地味な方の男には、まさしく高嶺の花っていうか、そういう存在でさ。同じクラスだったけど、しゃべったことなんて数えるほどしかなくて。それが二年になって、隣の席になってちょっとずつしゃべるようになって、マネージャーに誘って、こないだなんてうちにまで来てくれて、何かもう、色々舞い上がってたんだと思う。広瀬が言った、ちょっとしゃべったくらいで俺の女扱いとか、モテない男の勘違いってのは、全部正しい」


そうなんだ。こんな風に友達みたいになるなんて、考えもしなかった。

しゃべり方こそぶっきらぼうにしていたが、俺はいつも広瀬の横顔をチラチラ見て緊張していた。こんなことを告白するのは、本当に恥ずかしい。耳が熱くなる。今日が満月じゃなくて良かった。


「だから、俺だけは、みんなが知らないことも優先的に教えてもらえるって期待してた。でもサッカー経験者って話は、みんなと同じで全然知らなくて。それで、子供みたいにすねた、というか。あの後広瀬は、俺には言おうと思ってたって伝えに来たのに、それも意地になって信じなくて」

「うん。聞いてくれなかった」


今日初めて長くしゃべってくれた。それが恨み言でも、今はありがたい。


「でもさ、なかなか言えなかった理由も、分かる気はするんだ。これは完全に想像だけど、小五であれだけ将来を嘱望されてたら、そう簡単にやめるわけはない。女子サッカーも人口が増えてるけど、女子サッカー部っていう部活はあまり増えてないから結局他のスポーツに運動神経のいい女子は取られるんだ。だから、有望な女の子は周りが放っとくはずない。にも関わらず、やめた。つまり」


つまり、やめた理由が具体的に分からなくても。


「やめた理由は、思い出すのも、話すのもつらい悲しい思い出である可能性が高いってことなんだ。やめたくないけど、やめざるをえなかったような。だから思い切って話すまで時間がかかって当然だ。そもそもマネージャーになって一週間も経ってないんだから。そんな過去を自分から話すには、日が浅すぎる」


俺は一旦言葉を切って、ブランコを軽くこぎだした。久しぶりのブランコは、足が着いてしまうことを除けば風を切る爽快感は小さいころ感じたままで、まだ少し冷える五月の夜は心地よく俺の頬を撫でていく。


「ねえ。ボール、借りるね」


広瀬がブランコから立ち上がり、停めてある自転車の方へ歩いていく。俺もブランコを止めて、後を追いかける。

広瀬はボールをカゴから取り出すと、真上に放り投げた。


ストン、という音もなく、広瀬の右足にボールが吸い付く。


しばらく停止したのち、小刻みにリフティングが始まる。小さいキックから大きめのキックまで、バランスを崩すことなく、背筋をまっすぐにしてボールを浮かせ続ける。短パンから伸びる白くて真っ直ぐな素足は、その長さを持て余すことも無く美しくボールを操作している。


ちょっとだけボールが脇にそれて、広瀬は小走りに追いかけた。

ファサ、と広瀬のフードが外れる。何となく目が合ってしまい、俺は目を大きく見開いてしまった。


広瀬の両目は真っ赤に充血し、目の周りは赤く荒れ放題で、それはニブい俺から見ても、泣き腫らした目、としか言えないものだった。


ある可能性が頭に浮かび、俺は聞いた。


「ひょっとして、昨日からずっと、泣いてたのか?それで学校に来なかったのか?」

「悪い?」


真っ赤な目でこちらをにらむ。

器用にリフティングを続けながら。


一晩中、一日中泣くなんて、そんなことが、ありえるのか。もし本当なら、その原因は、間違いなく俺であり。


「何かもう、どれくらい謝ったら足りるのか、俺にはわからないよ」


思わず情けない声が出る。広瀬は俺を見て、


「行くよ」


と、ボールを高く蹴り上げた。


「わっ、ちょっと待ってくれ」


一瞬パニックになりつつも、何とか胸トラップからリフティングをつなぐ。ちょっと落ち着いて、いつものリフティングに移行する。二、三回浮かすと、再び広瀬にパスをする。


「ほれ、行くぞ」

「うん」





オレンジ色の街灯の下で、俺と広瀬は延々とリフティングでパスを交換した。時間がどれだけ経ったのかはわからない。でもそれは、赤い目をした美少女の顔に笑顔を取り戻し、俺の目を釘付けにするには十分すぎる時間で。


「そろそろ落としてもいいぞ」


結構疲れてきた。リフティング一回で広瀬に返す。


「そっちこそ」


同じく一回でボールを戻される。根性の悪さも戻ってきた。


「経験者とはいえ、キャプテンがマネージャーより先に落とすわけにはいかない」


フンス、と気合を入れなおして広瀬に渡す。


「変な意地」


広瀬が笑って受け取る。


「ねえ、藤谷」

「何だ?」


何十回目かのパスをこちらによこしながら、広瀬は言った。


「約束して」

「何を」


俺はボールを受け取り、その場で小刻みに浮かしてキープする。



「私のこと、一秒も考えないなんて、もう言わないで」



俺はキープしたまま、答える。


「それは売り言葉に買い言葉というやつで、本心では」

「わかってる。それでも」


広瀬は強い口調で、赤い目を向けて言う。


「わかった。二度と言わない。それに」


俺はボールを大きく浮かせて、広瀬にパスをした。



「そんなこと、もう不可能だ」



広瀬が一瞬固まる。目の前にボールが落ちて、大きくバウンドする。俺は弾んだボールをキャッチして広瀬に言った。


「落としたな。俺の勝ちだ」

「ちょっ……今のは反則!」


広瀬の抗議には耳を貸さずに、ボールをカゴに戻そうとする。顔がまともに見られない。しゃべりすぎるのは夜のせいだ。広瀬の顔が赤く見えるのは、街灯のせいだろうか。






「ねえ、最後。この辺に浮かせて」


右手を上げて、斜め上の辺りを指でクルクル回す。


「何だ、ボレーか?ここ、せまいから危ないぞ。ゴールも無いし」

「いいから」


俺は再びリフティングを開始し、広瀬が指した高さにポンと浮き球を上げた。

広瀬はボールを見ながら長い脚を振りかぶる。

落ちてくるボールにヒット……する寸前に、彼女の体はその場に沈み込み、右足は空を蹴った。左の足元から崩れるように、両ヒザをつく。

役目を失ったボールがバウンドして転がっていった。


「だ、大丈夫か!」


慌てて駆け寄ると、広瀬は尻もちをついたように座り込み、恥ずかしそうに笑った。


「これが、大好きなサッカーをやめた理由。大事な試合でね、全然、する必要の無い派手なボレー狙って。そしたら夢中でスライディングしてきた敵の選手が、後ろから私の足首狙ってきて。すごい音がして、気絶するくらい痛かった」


……そうだったのか。


「そんなすごいケガして、完治したのか?まだ痛むとか」

「ううん。ケガ自体は、リハビリして何とか治ったの。お医者さんは本当に幸運だよって」


広瀬は言葉を切った。俺から無理に聞き出すことはできない。でも、自分から勇気を振り絞ることを期待して見ているだけでは、今はとても薄情な気がした。


「治ったけど、問題が残ったとか?」


少しだけ目を見開いて俺を見てから、広瀬は続けた。


「問題と言えば問題かな。病院にね、チームメイトが誰もお見舞いに来てくれなかった」


広瀬が目を伏せる。一人ぼっちで病室のベッドにいる女の子が頭に浮かぶ。


「……そんなに、みんなと仲悪かったのか」

「私が戦術っていうくらい、好き勝手やってたから。嫌われちゃってたみたい。実際、周りがついてこれてないって、当たったりもしてたし」


上手い選手は周りとのレベルに差がありすぎると、そういう問題が起こる。人間関係も巻き込んで悪循環になる。


「来てくれたのは、一個上のキャプテンやってた子だけ。でもその子も、キャプテンだから仕方なく来たんじゃないかな」


初めて自嘲気味な広瀬を見た。できればこんな彼女は見たくはない。


でも、これも広瀬夏希の一部だ。


「それ以来、クラブに行きづらくなって、そこはやめちゃった」

「他で続けなかったのか?」

「続けたかった。けど、さっきの発作が出るようになって」

「ボレーか?」


綺麗なボレーが決まりかけた瞬間、沈むように崩れ落ちていった。あれは一体。


「ボレーも、それ以外でも。プレー中突然、左足に力が入らなくなって、体が沈むような感覚になることが何度かあって。病院では、ケガ自体は治ってるからそれ以外の原因だって。心因性っていうのかな」


右利きの広瀬にとって、軸足の左足が予告なく力が入らなくなる。体が沈む。その不安と恐怖はどれほどだろう。選手を続けるには大きすぎる不安だ。


「今日、こんなにボールで遊んだの、本当に五年ぶりくらい。本当だからね」

「疑ってないよ。ほら」


俺は手を差し出す。ごく当たり前のように広瀬は俺の手を取り、スッと立ち上がる。その冷たい手は、細くて小さいのにそれでいて柔らかいという、俺の人生経験の理解を超える感覚で。

キツそうに見える彼女も、やはり一人の女の子なのだと改めて実感してしまった。


「ねえ」

「ん?」

「手」

「え」

「もう立ってる」


広瀬がうつむきがちに告げる。


「わ、あ、すまん」


俺は慌てて握り続けていた手を離した。何を考えているんだ、俺は。







スマホで時間を見ると、もう八時半近くになっていた。


「そろそろ帰ろう。近くても送ってく」

「うん」





ボールをカゴに入れて、俺は自転車を押して歩く。隣に広瀬が並ぶ。夜道で自動的に光るライトが、ゆっくりとした動きに反応して不規則に点滅している。


道案内に従って歩いている途中、色んな話をした。


昔の広瀬が、とにかく相手を抜いて点を取るのが好きな選手だったこと。

俺の一人暮らしの理由。

広瀬の兄さんの現状や、姉さんの困ったヘキまで。妹がいかに生意気で可愛くないかも延々聞かされた。こんなに多弁な広瀬は初めてで、聞いてて胸がモヤモヤして、どう受け止めていいのか困ったけれど。


俺は少し考えた後、広瀬に話そう、と思った。


「これは、サッカー部では直登しか知らないから、できれば誰にも言ってほしくないんだけど」


聞かされて迷惑かもしれない。でも、今じゃないと話せないと思う。


「いいよ。何」


広瀬はもうフードをかぶってはおらず、まるで風呂あがりのようなスッキリした顔をしている。相変わらず目の周りは赤いけど。


「俺の両親は、正確には叔父さんと叔母さんで、本当の親はいないんだ。育児放棄されて離婚して、親権も放棄されて」


しばしの沈黙。急すぎたか。


「そんな話、私にしていいの?」

「やっぱり迷惑だったか」

「そんなことない」


きっぱりと広瀬が言い切る。とても真剣な目で。


「偉いよ、藤谷は。そのことを愚痴ったりしないし、過去のせいにしてグレたりしてない」

「その分、大人に逆らうクセがついた」

「それは困ったものだけどね」


いつものように、からかう調子で言った。たった1日ぶりなのに、何だか懐かしい。

それでも、引いたり変に気遣ったりせずに聞いてくれた広瀬は、やっぱり優しい子なんじゃないかと思う。





五、六分歩いた後、ここでいい、と広瀬が立ち止まった。


「あの白い壁の家が、うち」


指さす先に、二階建ての家が見える。


「そうか。あのさ、広瀬。図々しいとは思うんだけど」


つい口ごもってしまう。しかし俺には必要なことだ。


「お弁当のこと?明日、藤谷の分も持って行くよ」

「おお、ありがたい。助かる」


学校を休むほど泣かした女の子の親に、弁当を引き続き作ってくれと頼む犯人。罪深いにもほどがある。


「あ、あと、その真っ赤な目、明日までに何とかしてきてくれ。見られたら、みんなに袋叩きにされる」

「分かった。藤谷も、目のあたり赤い」


俺の顔を指さす。答えなきゃいけないか。恥ずかしいな。


「……朝練で考え事してたら、ボール顔面に食らって。両方から鼻血が出たよ」


広瀬が声を上げて笑う。教室では聞かない笑い声。

サッカーをやってた時も、いつもこんな風に笑っていたのだろうか。


「笑い事じゃない。すっげー痛かったんだぞ」

「何考えてたの?」

「……そりゃ、どうやって謝ろうかとか」

「うそつき」

「え?」

「私のこと、一秒も考えないって言ったくせに」

「根に持つなあ」


さっきの自分の発言がよみがえる。



広瀬のことを一秒も考えないなんて、もう不可能だ。



あんなこと言っちゃって、広瀬が困ってなければいいが。


曲がり角で立ち止まったまま、俺達は動かなかった。ひと言「じゃあな」で済むんだけど。


「ねえ」

「ん?」

「手」

「え」


言われるまま、俺は右手を差し出す。

広瀬が、俺の手をぎゅっと握った。


「ちょっ、あの」

「上を見ても、私はいないよ。高嶺の花なんかじゃない」

「な」

「私は同じ地面の上に、ちゃんとここにいるから。もう変な遠慮しないで。私も、遠慮しないから」


そう言った広瀬の目はとても真面目で切実で、唯一の逃げ場である照れ隠しも許されない気がした。


「……わかった。これからはちゃんとお前を見るし、何でも遠慮せずに話す。それでいいか?」


うなずいて、広瀬が手を離す。さっき離した時には無かった、喪失感が襲う。

俺は一体、どうしちゃったんだ。





「じゃあ、気をつけてな」

「うん」


自転車にまたがり、反対方向に向き直る。


「みちる」

「え?」


背後から、広瀬が俺の下の名を呼んだ。


「何だよ、いきなり」


首のあたりがくすぐったい。


「これから、そう呼ぶ」


からかっている気配はない。真面目な顔だ。


「みんなに何か言われるぞ」

「気にしない。藤谷って呼ぶの長いし、いつも茂谷君だけ名前で呼んでずるいって思ってた。楽だし、俺だけ特別って感じで」


直登にそんなつもりは無いだろうけど。


「好きにしてくれ。俺も揃えた方がいいか?夏希って」


広瀬は下を向き、再びフードをかぶりなおした。


「私は、広瀬でいい」

「何だそりゃ。別にいいけど」


夏希なんて、照れずに呼べる自信は無いから、許可されても困るかもしれない。つきあってるわけでもないのに。


「じゃあ、今度こそ、明日な。みんなマネージャーがいなくて寂しがってたぞ、特に一年が」

「うん。明日謝る」


俺は再び自転車をこぎだした。心臓は高鳴っているのに息は切れていない。みぞおちの辺りが熱いけど、妙に心地よい。


昨晩とは違う理由で、今夜も眠れそうになかった。










翌朝。

先週の土曜とほぼ同じくらいの時間に家を出る。少し寝不足かもしれない。朝食はしっかり取ったつもりだけど、頭に栄養が回るまでは時間がかかるみたいだ。


後ろから足音が聞こえる。走っている。俺は極力歩く速度を変えず、ゆるむ頬を必死に引き締める。


「おはよっ」


ゴン、と後頭部に固いものが当たる。一瞬目の前がチカチカした。


「い……ったいなあ。何だよ」


振り返って抗議すると、何が?という顔で広瀬が笑っていた。


「あ」


制服が違う。

半袖の白いシャツに胸元には赤いリボン。そうか、今日から衣替えか。今日は家からジャージだからさっぱり忘れてた。


半袖から伸びる白い腕から慌てて目をそらし、広瀬が手に下げている巾着袋に目をとめた。


「はい、お弁当」

「お、おう。もっと普通に渡してくれよ。痛かったぞ」


受け取ってバッグにしまう。まだ温かい。俺はふと気づいて、広瀬の顔を見直した。

昨晩真っ赤だった目の周りは、何事もなかったように綺麗に元通りになっている。確かに何とかしろとは言ったけど、ここまで消えることがありえるのか。


俺は自分の目の下を指さして、


「どんな魔法使ったんだ?」


と聞いた。

広瀬はフフン、と得意気に笑い、


「企業秘密」


と言ったきり、本当にそれ以上答えてくれなかった。


その楽しげな横顔を見て、もうこれ以上自分をだましたり、逃げたりごまかしたりするのは不可能なんだと悟った。


俺は広瀬夏希という女の子が、もうどうしようもないくらい好きなんだと。






つづく

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