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第13話「いいと思います」

二人目の女子マネ登場。

けたたましい電子音で目が覚めた。反射的にスヌーズボタンを押して時計を見ると、針は六時を指している。

俺はむくりと半身を起こす。妙に体が重い。頭の中も何だか重い。


ゆっくり周りを見回すと、ベッドのそばに通学用のバッグが置いてあり、小さなテーブルの上には無数の紙が散乱している。自分の体を見ると、寝間着代わりのいつものスウェットを着ていた。


そのまま30秒くらいぼんやりしていると、頭の中でぼやけていた記憶がよみがえってくる。


「あーっ!」

思わず声を上げた。


そうだ、俺は午後の練習中に意識を失ったんだ。キーンと耳鳴りが聞こえて平衡感覚を失って、地面に倒れたところまでは、何となく感触が残っている。でもどうやって家に帰ってきたんだろう。間の記憶が何もない。


のそのそと起き上がり、玄関を見にいった。カギはかかっている。それでいて部屋に自分しかいないということは、自分自身で戸締まりをしたということだ。全く覚えていない。


俺は指で目やにを取りながら洗面所へ行った。とんでもなく腫れぼったい目が鏡に映る。何時間寝たんだ、一体。そしてなぜかおでこの真ん中だけ赤い。倒れた時ぶつけたのかな。でも正面から倒れたにしては鼻は全くすりむいていない。矛盾している。


昨日は風呂にも入っていないだろうと思い、シャワーを浴びてから制服に着替える。少しだけ頭が冴えてきた。テーブルの上に、さっきは気付かなかった一枚のレポート用紙がある。


『目覚ましは六時にセットしておいた。きちんとシャワーを浴びて、腹に何か入れて朝練に来るように。ここまでおぶってきてくれた島に感謝すること。広瀬さんも、泣きそうな顔で心配していたぞ N 』


自分のことをわざわざNなんて書くシャレこいてる知り合いは一人しかいない。直登の悪いクセだ。


しかし、それにしても。


広瀬が、泣きそうな顔で心配?そんなことがあるだろうか。そりゃ位置的には広瀬の目の前で倒れたから、かなりびっくりさせたとは思う。

でも広瀬に限って、そんな。


朝食のトーストを食べ終え、そろそろ朝練へ行こうかと思った頃、インターホンが鳴った。こんな朝早くに、誰だろう。直登が迎えに来てくれたのかな。

俺は受話器を取った。


「はい」

「広瀬だけど。起きてる?」


広瀬が、うちの前に来てる。え、何で。


「起きてるし、今から出ようと思ってたんだけど、何でここ知ってるんだ?」

「昨日来たから」


いつも通りの冷静な声。やっぱり泣きそうな顔で心配した、というのはきっと大げさだ。


「とりあえず、開けるよ」

「うん」


受話器を置いて、玄関のドアを開ける。


「おす」

「おはよ」


広瀬の顔はいつもと変わらないように見えた。なぜかまじまじと俺の顔を見るので、何となく一歩下がってしまう。


「あー、えーと、昨日は悪かったな。迷惑かけた。わざわざ迎えに来てくれたのか」


広瀬はほうっ、と息をついた。


「別に迷惑じゃないけど、本当に大変だったんだからね。もしかしたらずっと寝たままかと思って」


言いつつ、広瀬は肩越しに部屋の中を伺っている。


「何だよ、誰もいないぞ」

「うん。分かってる」


もしかして。何となくピンときた。


「部屋が見たいのか?」


広瀬が「うっ」とうなって黙ってしまう。なぜこの女は素直に「見たい」と言えないのか。


「別に見るくらいなら構わんけど、何もな」

「お邪魔しまーす」


脇をすり抜け、素早く靴を脱いで部屋に入っていく。速い。


「ちょっと待て!見ていいとは行ったけど、入っていいとは言ってない!で、何でベッドの下に直行なんだ!」


広瀬は四つん這いになると、ベッドの下に頭を突っ込んで覗き込んだ。


「何もない。つまんないやつ」

「だから」


言いかけて、俺は重大なことに気がついた。短めのスカートで四つん這いになり、こちらにお尻を向けている。かなりスカートの裾が上がり、裏モモが完全に見えている。もう少しスカートが上がるのを待つか、自らかがんで見れば俺は幸せになれる。

どうしよう。言うべきか、千載一遇のチャンスを活かすべきか。しかし俺はキャプテンだ。クズに成り下がるわけにはいかない。ここは紳士的にいきたい。


「あー、広瀬。言いにくいことなんだけど」

「何」

「スカートの裾が上がって、かなりギリギリだ」


ゴン、と何かがぶつかる音がした。ベッドの枠に頭をぶつけたようだ。なかなかいい音だった。あれは痛い。

床に座り込んだ広瀬が後頭部とスカートを押さえながら、こちらを恨みがましい目でにらむ。


「スケベに、ハメられた」

「人聞きの悪い言い方するな!自分のドジを人のせいにするんじゃない」


広瀬は口をとがらせ、完全に不機嫌。良かれと思ったことが見事に裏目に出てしまった。この状態で二人で登校するのは避けたい。俺は洗面所に急いでタオルを取りに行き、冷凍庫から出した保冷剤をくるんだ。


「これで冷やせよ。ちょっとはマシになるだろ」


差し出すと、「ん」とだけ答えて素直に受け取る。

そもそもベッドの下にエロ本を探しに直行した広瀬が悪いと思うけど、とてもじゃないがそんなことは言えない。


改めて、頭に保冷剤を乗っけた広瀬の横顔を見る。かなりしゃべるようになって慣れたとはいえ、やはり広瀬は美人だ。そんな美人が、俺の部屋にいる。女の子を自分の部屋に入れるなんて生まれて初めてのことで、今さらながら緊張してしまう。


広瀬は本棚に興味津々の様子だった。


「サッカーのDVDばっかり。ゴール集とか、選手のとか」

「ドンキで五百円だったからな。かなりお買得だった」

「本も結構読むんだ。戦国の軍師たち、国盗り物語、三国志、孫氏の兵法まである。歴史もの好きなんだね」

「……あんまりジロジロ本棚見ないでくれ。恥ずかしい」


本棚を見ればその人が分かるという言葉もある。全裸を見られているような恥辱だ。


「ふーん…あ、ロフトがある!」


ようやくはしごのついたロフトに気が付き、広瀬のテンションが上がる。本棚はもうどうでもいいらしい。


「上がってみたい」


何だ、このキラキラした目は。こんな子供っぽい一面もあるんだな。


「そのスカートではしご登る気か」


広瀬の目が細まる。


「むこう向いててくれればいいでしょ、スケベ」

「見える前にきちんと警告してるんだから、スケベじゃない」


俺はきっちり反論して背中を向けた。ギシギシとはしごを登る音が聞こえる。このマネージャーは何しに来たんだ。


「もういいか?」

「いいよ」


振り返ると、立て膝になった広瀬が見たことのない嬉しそうな顔で手すりから身を乗り出していた。ロフトには小さなラグマットとでかいクッションが置いてある。お昼寝スペースだ。一度寝相が悪くて落ちかけて以来、あまり使っていない。広瀬は大きなクッションをボスボス叩いて遊んでいる。これが本当に、クールビューティーな隣人、広瀬夏希だろうか。


「いいなー。私も一人暮らししたい」


ため息混じりにつぶやく。


「俺も最初は喜んだけどな。洗濯と掃除が死ぬほどめんどくさい。メシも自動的に出てこないし」

「夢を壊すようなこと言わないでよ」


広瀬が頭上から抗議する。


「うちは昔から姉妹で共同部屋だったから、一人部屋自体憧れなの」

「へー。俺は兄弟姉妹がいる方が楽しそうに思うけど」

「姉妹なんて、ケンカばっかりでちっともよくない。妹は生意気だし」


言って、俺の頭上から部屋を見回した。


「でもさ、いい部屋だね、ここ。気に入った」

「そうか。いつでも遊びに来ていいぞ」


何気なく返した軽口に、沈黙の神が降臨してしまった。

どうしよう、引かれたかも。一度言った言葉は取り消せない。今さら「ぬわんちって」でごまかすパワーは俺には無い。


「何でそこで黙るんだよ」


とりあえず、開き直って広瀬のせいにしよう。

予想通り、反論してきた。ちょっとだけ赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。


「そっちが急に変なこと言うからでしょ。スケベ」


今朝三度目のスケベ。エッチとか変態とか、もう少しバリエーションが欲しいところだ。

でも、なぜだろう。綺麗な女の子にスケベって怒られると、ちょっと嬉しい。俺、変態なのかな。


「もう行くぞ。遅れる」

「わ、待ってよ。降りるからむこう向いてて」


背中を向けると、昇る時とは違ってトトンと軽やかに降りてきた。本当に運動神経がいいんだな。運動神経?そうだ、思い出した。


昨日、広瀬が見せたあのトラップ。


「あのさ、広瀬。昨日」


言いかけた時、広瀬がさえぎるようにバッグから大きな巾着袋を取り出した。


「はい、これ」


何気なく受け取る。適度な重さと温かさ。これは、多分。


「まさか……弁当か?」

「そう。お母さんに二人分作ってもらったの。倒れた理由に栄養不足もあったみたいだから」


俺は弁当の温もりが体の中にまでしみる錯覚を覚えた。

なぜか、胸がチクンと痛む。


「今日はありがたくいただくけどさ、さすがに悪いよ。いくら広瀬がマネージャーでも、甘え過ぎというか」


広瀬はニヤッと人の悪い笑みを浮かべた。


「昨日、島君にお姫様抱っことおんぶしてもらってた人が、今さら甘え過ぎとか言っても遅いと思う」


サッと全身から血の気が引いた。


「何……だと。お姫様抱っこ?」

「そ。詳しいことは歩きながら教えてあげる」


さっそうと部屋を出て行く広瀬を、俺は慌てて追いかけた。広瀬の母さんの弁当を、丁寧にバッグに入れて。





学校までの一本道。昨日、俺が倒れて眠っている間の出来事を広瀬の口から聞きながら歩いている。

保健室に、陸上部の佐々木さんがお別れのあいさつに来たことも。


「そっか、転校か。これからずっとじゃ辛いしな。寝てて悪いことしたな」

「そうだね」


なぜか広瀬の声がそっけない。


「可愛い子だったね。胸も大きくて」

「胸は関係ないじゃないか」


何だろう。そっけないどころか、言い方にトゲがある。広瀬が続ける。


「ブレザー貸してあげたの、裸だったからなんだってね」

「うっ」


本人が言ってしまったか。確か広瀬には、服がはだけていたから、とソフトな表現にして教えたはずだ。別にだますつもりじゃなかったけど。


「あの子の名誉のために、あんまりペラペラ話すことでもないと思ったし、大体は合ってただろ」

「大体ね」


俺は何となくおでこに手をやる。


「それよりさ、おでこのところだけ妙に赤くなってて痛いんだけど、俺どんな倒れ方した?」

「どんなって、こう横にどさっと」


広瀬が身ぶりをまじえて説明する。


「それだと、おでこだけぶつけるはずないんだよな」


釈然としない、と俺が言うと、なぜか広瀬は下を向いて顔をそらした。肩が揺れている。


「何だよ」

「何も」


一つせきばらいをして、いつもの広瀬に戻った。なぜかちょっとだけ楽しそうだ。

機嫌が直っただけ良しとしよう。


「そういや広瀬さ」

「何?」


返事も軽やかだ。


「昨日、保健室で眠ってる時、ずっと側にいてくれたんだよな」

「そう、だけど」


広瀬がなぜか下を向いて口ごもる。


「眠ってる間、俺いびきとか歯ぎしりとかしなかった?」

「それは無い」

「じゃあ、寝言は?」


返事が途切れた。広瀬を見ると、向こうも俺の顔をじっと見ていた。


「本当に知りたい?」

「……言ったんだな、何か。頼むから教えてくれ」

「どこだって、苦しそうに言ってた。何か悪い夢でも見てたんじゃないの?」


心当たりは、あった。昨日保健室で見ていた夢かどうかは定かではないが、何度か見たことがある夢。


「言っても、引かないか?」

「引かない」


真剣な表情だ。


「試合に負けた次の日、練習場に行ったら俺一人で部員が誰も来ないっていう夢。で、みんなどこだって言ってたのかな」

「……何、その寂しい夢」

「ありふれた悪夢だ」

「そんなのありふれてない。絶対見たくない」


なぜか広瀬がプリプリ怒っている。悪夢を見たのは俺なのに。





練習場に着くと、直登がカギを取ってきてくれたようでほとんどの部員がすでに揃っていた。

「同伴出勤だ!心配して損した!」と騒ぐ芦尾を無視して、みんなを集める。広瀬にみんなの前で一言いえ、と怖い顔で言われたせいだ。どうもマネージャー初日に、思い付きでみんなの前であいさつさせたことを根に持っているらしい。まったくしつこい女だ。


「えー、昨日はみんなに迷惑かけました。もう大丈夫なんで、よろしく」


ペコリと頭を下げる。何か反応が怖い。

すると一年生たちがわらわらと集まってきた。


「本当に大丈夫なんですか?」

「病気じゃないですよね?」


特に黒須と伊崎が心配顔だ。


「大丈夫。寝不足と栄養失調で倒れただけだ。心配かけたな」


いい後輩たちだ。芦尾だって、損したと言いながら心配はしてくれていた。別に俺がいなくたって練習はできるのに。


その後、直登と島に改めて礼を言った。特に島には、これからはお姫さま抱っこじゃなくて狩猟民族みたいに肩にかついでくれと頼んでみたが、急病時にむやみに逆さにするのは危険、と断られた。もう絶対に倒れることはできない。






待望の昼休み。ちゃんとした弁当なんて何年ぶりだろう。叔母さんが亡くなって以来だから、二年ぶりか。俺は巾着袋から弁当箱を取り出した。

大きい。男子用だ。広瀬家の男子?

隣を見ると、広瀬も昼食の準備をしていた。いつも一緒に食べている前の席の女子は今日はいない。


「広瀬、前の席の子は?」

「今日は委員会があるから、そっちで食べるって」


女子って、一緒に食べる相手がいなくなったら別の子のところに行くかと思ってたけど、広瀬は気にせず一人で食べる気だ。ちょっとかっこいい。


「ふーん。ところでさ、この弁当箱って、もしかして」

「兄さんの。高校の時ね」

「許可取らなくて大丈夫かな」


広瀬は焦れたように、


「そんなことどうでもいいから、早く開けてよ。お母さん、私に中身見せてくれなかったの」


と言った。


「分かったよ」


俺はパチン、と金具を外してフタを開けた。


何だろう、この見覚えのある図形。ピンク色のでんぷんでご飯の上に描いてある。間違いなく、ハートだ。


隣から覗き込んでいる広瀬が一瞬固まって、両手で頭を抱えた。


「お母さん、妙にウキウキしながら作ってると思ったらこんなこと……」

「広瀬のお母さん、俺に気があるのかな」

「やめて」


ドスのきいた声とともににらまれた。せっかく冗談でなごまそうとしたのに。今日はことごとく裏目の日だな。


「その、でんぷんの部分だけ先に食べてくれる?お願いだから」


広瀬の目は真剣だ。俺は素直に従い、ご飯の表面だけをガリガリ削るように食べた。ちょっと固めの炊き方で、俺好みだ。でんぷん一気食いは甘かったけど。


「おおっ」


改めておかずを見る。鶏肉の照り焼き、タコさんウインナーに玉子焼き。ポテトサラダの隣にはプチトマト。人参を煮たようなものや、赤いピーマンを使った炒めものまで。ザ・お弁当という定番でありながら、野菜もしっかり入っている。一体何時に起きればこんな弁当が作れるのだろうか。


「広瀬の弁当も、同じメニューか?」

「ほぼね」


言い、広瀬はこちらのおかずを見た。


「あ!人参のグラッセ、私のに入ってない」


目ざとく違いを見つけたようだ。


「残念だが、全品俺のために心をこめて作っていただいたものだ。全て俺が食べる」


その人参のグラッセを一口でほおばる。甘い。人参て、こんなに甘いものだったのか。ツンとするクセが苦手だったのに。


「どう?」


広瀬が聞いた。


「うまい。店が出せる」

「それは大げさ」


言いながらも、ちょっと嬉しそうだ。母親と仲がいいんだな、きっと。


その後は一つ一つのおかずに感動しながら、あっという間に食べてしまった。「ちゃんと噛んでる?」と怒られながら。


「ごっそさん。うまかった。お母さんに礼言っといてくれ」

「わかった」


広瀬はうなずいて、


「これからも持ってくる。お母さん、私一人分だと困るっていつも言ってたし、男の子のために作るの楽しいんだって」


と言った。毎日?こんな、店で金が取れるレベルの弁当を?それはさすがに悪い気もする。

でも、うまかったな。


「そうか。よろしく頼む」


うまいものには逆らえない。図々しいと笑わば笑え。俺には栄養が必要なんだ。今度お礼にカステラを贈ろう。もちろん福砂屋一択だ。


「でさ、藤谷。ちなみになんだけど、どのおかずが一番おいしかった?」


正面を向いたまま聞いてきた。質問の内容と態度が合ってない。何なんだ。


「そうだなあ」


俺はさっき食べた弁当のおかずを一つ一つ思い出した。すべてにおいてハイクオリティだったが、しいて言えば。


「玉子焼きかな。俺、店で出るだし巻き玉子よりも、ああいう家庭的なのが好きなんだよね。表面が香ばしくて、中がちょっとトロッとしてるような。あれが一番うまかった」


聞いたくせに、広瀬は何も言わなかった。


「何だよ」


俺が言うと、広瀬は小さくつぶやいた。


「玉子焼きは、私が作った」

「え、そ、そうなのか」


誉めといて良かった!広瀬の顔が心なしか赤い。いかん。この照れた顔は、かなりの破壊力だ。


「お母さんに藤谷の分頼んだら、玉子焼きくらい作れるようになれって、教わって」

「な、なるほど」


何だろう、この照れくささは。俺まで耳が熱くなってきた。もう無理だ。

いたたまれない、という日本語はこういう時に使うのだ。


「あ、あの俺、ちょっと人と会ってくるよ」

「誰と?」


話題が変わったせいか、広瀬もホッとした感じで聞き返す。


「倒れた理由の栄養面は何とかなりそうだから、夜更かしの方を解決してくれそうな人」

「ふーん」

「広瀬も来るか?」


聞くと、首を横に振った。


「いい。藤谷一人のほうが、一生懸命さが伝わる気がするし。どんな人連れてくるか、楽しみにしてる」

「うまくいくとは限らないから、期待しないで待っててくれ」


言い残し、俺は廊下へ出てD組に向かった。






「よお、珍しいな」


D組をのぞくと、軽部が手を上げて歩いてきた。


「だいぶ本調子に戻ったみてえだな。昨日はびびったぜ」

「すまん、もうあんなことにはならないようにする」

「あたりめーだ。練習の方は、狩井が付き合ってくれたけどな。あいつうめーわ」


狩井はスピードの面では劣るものの、インサイドキックの精度はかなり高く、まずミスキックをしない。一年生とは言え、サイドバックとしては狩井のほうが先輩だし、教わるには一番いい相手かもしれない。


「ああ見えて狩井は頼りになるヤツだ。しばらく練習で組んでみてくれよ。俺はサイドバック本職じゃないから分からない感覚もあるし」

「おお。で、ここには何の用で来たんだよ」


そうだ。


「小林さんて、どの子だ?ちょっと話があるんだけど」

「お、こないだ言ってた数学一位か。廊下側の一番前だ」


指差す方を見ると、ちょうど一人の女の子がその席から立ち上がり、教室を出ていこうとしていたところだった。


「ありがと。追っかけるよ」

「ああ。でもよ、藤谷」

「何だよ」


軽部はひときわ真面目な顔で言った。


「せっかく広瀬っていういい女がいるんだから、二股はやめた方がいいと思うぜ」

「何の話だ!」


しょうもない話で呼び止められているうちに、小林さんを見失ってしまった。俺は「じゃあな」と軽部に言い残し、廊下に飛び出した。

幸いにも小林さんはかなり小柄で、それゆえ見つけやすいという逆説的な目立ち方をしていた。百五十センチ切ってるんじゃないだろうか。

彼女は手に巾着袋を持っている。弁当箱が入っているのかな。人混みをかわしながら追いかける。昼休みも半分を過ぎると廊下が混み出すのだ。


次に小林さんが向かおうとした場所に、俺は目を疑った。トイレだ。弁当箱を持ってトイレに。俺の脳裏に、最近テレビで見た単語が浮かぶ。


便所飯。


広瀬のような周りの目など気にしないメンタルの人は一人で弁当を食べられるが、それができない一人ぼっちの人は、人目を避けてトイレの個室で食べるという話。部屋は散らかってるけどトイレだけは常にピカピカにしている潔癖気味な俺には、にわかに信じられない行為だ。


俺はとっさにダッシュして、トイレに入りかけた小林さんの手首をつかんだ。


「よしたまえ!」


小林さんは声も出せずに固まって俺を見た。


長い黒髪の一部を三つ編みにし、両サイドから後ろに持っていく髪型。編み込み、というのだったっけ。卵型の大きなフレームの眼鏡をかけていて、

その奥の目は明らかに俺におびえていた。勢いで捕まえてしまったが、どうしよう。


「俺は、B組の藤谷。君は、D組の小林さんだろ?」

「え、あ、あの、そうですけど」

「ちょっと、こっち来て」


俺は小林さんの手首をつかんだまま、ずんずん歩き出した。


「ええっ。ま、待って。離してくださあい」


離せるものか。あんな不衛生な場所で弁当を食べようとしていた人を。見逃せるはずがないじゃないか。





数分後。校舎にかこまれた中庭で、俺は土下座せんばかりの勢いで小林さんに謝り倒していた。


「本当にもう、何とお詫びしたらよいのか、見当もつかずじまいで」

「あの、もういいですから。頭上げて下さい」


結論から言うと、小林さんは食べ終わった弁当箱を洗おうと席を立ち、洗面所が混んでいたのでトイレの手洗い場で軽く洗おうとしていただけだった。

それを俺に手首をつかんで止められたのだ。通報モノの狼藉であろう。よく変態扱いされなかったものだ。


俺は両膝をついていた芝生から立ち上がり、備え付けのベンチに座った。

少し離れて小林さんが座っている。巾着袋を持ったまま。


改めて小林さんを見る。美人、という感じではないが、小柄な体格もあいまって何となく小動物を思わせるルックスだ。可愛らしい、という表現が一番当てはまる。今はかなり警戒した様子でそれどころではないのだが。


「それで、その、藤谷、君?」


途切れ途切れに、小林さんが口を開いた。


「私に、何か話があるんですか?」


よく見ると、小林さんの頬は赤く染まっており、目を合わせてもくれない。いかん、これは早めに本来の用件を言わなくては。ただでさえこの中庭は「カップルの毒沼」と呼ばれているところで、付き合っている二人がお昼に弁当を食べる定番の場所だ。

そんなラブラブな場所がなぜ毒沼なのかと言えば、独り者が間違って迷い込むと、一歩歩くごとにズギャンとダメージを食らうかららしい。俺も来るのは入学以来初めてだった。今はカップルも引き上げた後のようで、俺たち二人しかいない。


「実は、その、小林さんの数学の能力を見込んで、サッカー部の手伝いをしてほしいんだ」


小林さんは目を大きく見開いて、俺の顔を見た。


「サッカーと数学が、何か関係あるんですか?」

「ある!」


俺は部員たちに何度も説明した話を小林さんに繰り返した。どのコースから打っても、誰が打っても、ゴールの位置と角度が決まっている以上、シュートにはここさえ押さえていれば入らない、という一点があるはずだ、という仮説。仮説というか、ただの妄想かもしれない。ここで数学一位の小林さんに即座に否定さたら、どうしよう。


一通り話終えると、小林さんはホッと息をついた。


「私はサッカーのことは分からないし、全てが理解できたわけじゃないですけど」


俺は黙って続く言葉を待つ。


「一点、ということにこだわらず、もう少し範囲を広げれば、確かに必ずボールが通るエリアというのはあると思います」


俺の胸の中を、フリスク十粒くらいの爽快感が通りすぎた。


初めて、俺の考えを正面から聞いて肯定してくれる人がいた。


けげんな顔もせず、笑いもせず。やばい、泣きそうだ。


「それって、計算で何とかなる?」

「そのためには、膨大なデータと全パターンの検証が必要ですから、すぐには無理ですけど」

「けど?」

「サッカーは、点を取る役目の人がほぼ決まってるスポーツですよね?だから、特定の選手のシュートパターンを集めて解析すれば、その選手への個別の対応は可能だと思います」


なるほど。誰が打っても入らない、という普遍的なテーマではなく、対戦相手を個別に見るのか。


「そうやって個別の対応パターンを増やしていけば、最終的に共通するものも見つかるかもしれません」


小林さんはすっかり落ち着きを取り戻している。さっきまでのおびえた表情とは一変して、生き生きして見えるほどだ。こんな子がサッカー部にいてくれれば、思いついた考えとか戦術を現実的に分析したり、実用的に考えたりしてくれるんだろうか。いや、そうに違いない。俺も男だ。言おう。


「小林さん」


俺はもう一度芝生にヒザをついた。


「わっ。な、何ですか、また。やめて下さい!」


小林さんが焦って両手をわたわたと振る。


「サッカー部にはもうマネージャーがいるけど、戦略分析担当マネージャーとして、サッカー部に入ってくれ!頼む!」

「……私が?」


小林さんは目を真ん丸に見開いて、そしてしばらくうつむいた。考えてくれているのかな。でも出会いが最悪だったし、断り方を考えているのかもしれない。


ああ、緊張する。


「藤谷君」


小林さんが口を開いた。


「な、何?」

「リーマン予想って、知ってますか?」


リーマン。サラリーマンではないよな。アメリカの証券会社の株価予想?何か違う気がする。


「ごめん、知らない」

「素数ってありますよね?一と、それ自体でしか割れない数。その発生するパターンに法則性を見つけようとして、ベルンハルト・リーマンという数学者がある予想をしたんです。自分の考えたゼータ関数で計算すれば、素数の発生パターンは全て一つの線上に揃うって」

「よくわかんないけど、難しそうだね」

「同じですよ、藤谷君と」


小林さんは言った。


「サッカー選手のシュートも、いつどんなタイミングでどこから飛んで来るかわからないのに、どこかにパターンがあるはずだって、そう信じてるんでしょう?」


確かにそうだ。数学は苦手教科だから、自分が数学者と同じ発想をしているなんて思いもしなかった。


「私も、自分なりのゼータ関数を作って、藤谷君の予想を証明したいです」

「え、じゃあ」


小林さんはベンチから立ち上がって、ペコリと頭を下げた。


「よろしくお願いします」

「おお、こ、こちらこそ。よろしく頼むよ」


やった!これで本格的に戦術の練習ができる。県大会優勝までのプランが具体的に見えてくる、はず。





二人で毒沼を脱出し教室に戻る途中、小林さんが唐突に口を開いた。


「藤谷君」

「ん?」


小林さんは、ちょっとだけ暗い顔になり、下を向いた。


「さっき、私がトイレでお弁当食べるかと思ったって言ったでしょう?」

「そ、それは」


小林さんは首を振った。


「いいんです。責めてるんじゃなくて、その、本当のことなんです。私、先月進級して新しいクラスになって、友達もいなくて、それで」


俺は黙って続きを待った。あまり聞きたくない話をしようとしてる。でも俺には聞く責任がある。


「一度だけ、トイレの個室で食べたんです。一人だと、どう思われるか怖くて。でもやってみたら、すごく惨めな気持ちになって、一回でやめたんです」


何で。この子は何で、そんな言わなくてもいい悲しい思い出を俺に話すんだ。


「だから、藤谷君が私を見てそう思ったのは、合ってるんです。だから、あまり自分を責めないで下さい」


小林さんの絞りだすような言葉は、まっすぐに俺の心臓に届く。

この子は、俺が自分を責めないように、ただそれだけのために。

俺は言った。


「俺ってさ、昔から間が悪いというか、タイミングが悪いんだよね」

「はい?」

「だってさ、先月一回だけ小林さんがトイレで弁当食べた日に、今日みたいに手をつかんで止めてマネージャーに誘ってたら、君は一度も惨めな気持ちにならずに済んだってことになる」

「……」

「本当。俺はタイミングが悪いんだ」


俺はさっきから何を言っているんだ。フォローが遠回しすぎて届いているかすら怪しい。小林さんの顔がまともに見れない。


「いいと思います」


はっきりとした声で、小林さんが言った。俺は「え」と顔を上げる。


「何が?」

「タイミング」


数学で学年一位の少女は、今日初めて白い歯を見せて笑った。それはあまりにも控えめで、だからこそ本物だった。口元に見える小さな八重歯の存在を、この学校の何人が知っているだろう。






つづく

たぶんしなくていい名前の由来解説


小林紗良……ロベルト・コバチ

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