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第12話「望めば何にだって」

藤谷、ぶっ倒れる。

朝七時。


練習場に現れた軽部君を見て、私は目を疑った。藤谷と二人で陸上競技場に行った時、確かに私には予感めいたものがあった。でも、まさか本当に、こんなにすぐ実現するなんて。

私はスパイクのヒモを結び直している藤谷に聞いた。


「どんな魔法使ったの?」


すると藤谷は、今までで一番の得意顔をして立ち上がり、


「企業秘密」


とだけ答えた。眉間にシワを寄せてにらむと、期限付きのレンタル移籍だとか、男同士の話し合いだとか慌てて話しだす。最初から素直に言えばいいのに。



柔軟体操を済ませた軽部君が、私に気がついて笑顔を見せる。


「よお、藤谷の女じゃねえか」

「だから違うって」

「名前、何だっけか」

「B組の広瀬夏希」

「何でここにいんだよ」

「マネージャーだから!」


疲れる。冬馬のような腹立つ物言いではないけど、近所のおじさんと話しているような噛み合わなさを感じる。


「何せ俺ぁド素人だからよ。面倒かけるけど、頼むぜ」


言い残し、藤谷とのもとに向かった。本当に基本の蹴り方から習う気みたいだ。それで間に合うのかな。




藤谷からもらった朝練メニューは、普段はミニゲーム中心だ。理由を聞いたら、


「わざわざ早起きして地味な練習などしていられない」


というとても不真面目なもので、少々心配になる。決勝戦の春瀬高校を生で見た後ではなおさら。マネージャーの私が焦っても仕方がないとは分かってるけど。



今日は軽部君の初日ということで、基礎的な技術練習にメニューが変更になっている。藤谷はさっきからずっと、軽部君にインサイドキックを教えている。ああいうのを、つきっきりって言うんだろうな。


私がホイッスルをくわえてベンチに座っていると、茂谷君が自分の水筒を取りに来た。朝練の時は水をくみに行かなくていいというのは助かる。


クイッと水筒をあおって飲む茂谷君の横顔は、確かに男前。背も高い。クラスの女子が騒ぐのも分からないでもない。でも私は、この人がなぜ全然違うタイプの藤谷と友達なのか、そちらの方が気になる。多分藤谷に聞いても「俺にもわからん」て言いそうだけど。


「茂谷君」


私が声をかけると、茂谷君はパチンと水筒のフタを閉め、こちらを向いた。


「何?」


ソフトな表情は変わらない。


「取られちゃったね、藤谷」


私はわざと意地悪く言い、藤谷と軽部君を指差す。


「寂しい?」

「まさか」


茂谷君は鼻で笑うと、かがんで水筒を置いた。


「僕はむしろ喜んでるよ。未散がやる気になってくれてね。そう言う広瀬さんこそどうなんだい?」

「何で私が」

「釣った魚にエサはやらないと言うしね」


その物言いに、私は抗議する。


「私は釣られてない。自分の意思でマネージャー引き受けたの」

「魚たちも自分の意思で食いついてるよ」


ああ言えばこう言う。よく藤谷が茂谷君に何も言い返さず黙ることがあったけど、気持ちがわかった。この人は涼しい顔をして、相当な負けず嫌いだ。




私は腕時計を見て、ホイッスルを吹く。パス練習は終わり。今日はここから、軽部君メニューの二つ目、左サイドを走りながらクロスを上げて合わせる練習になる。初日にいきなりそれは厳しいんじゃないかと思うけど、何か藤谷なりに考えがあるようにも見えた。


「広瀬ー!」


藤谷がこちらに向かって言った。


「何ー?」

「こっち側の球拾い頼むー!」

「えー、朝から走らすのー?」

「文句言わないで動けー」


偉そう。ムッとしてにらんだ時にはすでに向こうをむいてしまっていた。逃げたな。



左サイドで黒須君が速めのスルーパスを出す。軽部君がパスに合わせて走り出す。狩井君が軽部君についていく。でも全く追いつけない。さすが陸上部。速い。

軽部君はちょっとぎこちない動きで歩幅を合わせて、ボールに向かって左足を大きく振りかぶった。意外にも綺麗なフォームで戻ってきた左足は、ボールの通った後をスカッと空振りし、軽部君はそのまま砂煙を上げて転倒した。


「お、おい軽部、大丈夫かよ」

「軽部先輩、大丈夫ですか?」


菊地君と狩井君がひきつった顔で駆け寄っていく。ここからでも笑いをこらえているのが分かる。軽部君には悪いけど、私も危なかった。


「ちっ……くしょー!何で当たんねーんだ!」


軽部君が砂をはたきながら立ち上がる。一応、私もマネージャーとして駆け寄った。


「どっかすりむいてない?」

「平気だ」


ぶっきらぼうに答える。


「そんなこと聞いてない。傷ができたか聞いてるの」

「ねえよ。大丈夫だって」


この人には聞くだけムダな気がしてきた。試合中に骨が折れてても同じことを言いそう。


私はそれ以上追求せずに球拾いのポジションに戻る。

スタート地点に戻りかけた軽部君を藤谷が呼び止め、何か話している。ここからだと聞こえない。何だろう、気になる。


再び黒須君がスルーパスを出す。同じように軽部君がダッシュで飛び出して、狩井君がさっきよりも必死な顔で追いかける。それでも差は縮まらない。

軽部君はボールを追い越すくらいまで走ると、今度は左足を小さく上げて、追い付いたボールをインサイドでとらえる。


「おおっ」


つい声が出てしまった。今度は空振りすることなく、ふわっとしたクロスがゴール前に上がった。軽部君の小さなガッツポーズが見える。

しかしスピードのない高いボールは、早めに飛び出してきたGK梶野君にあっさりキャッチされた。軽部君のガッツポーズが静かに下がっていく。




その後、何度かの空振りやあさっての方向へのミスキックを繰り返し、朝練の終わり際になって、やっと金原君のヘディングシュートにつながった。

部員みんなから拍手が起こる。軽部君はまったく納得いっていない顔で、ニコリともしていない。


「チイッ」


いらだたしげに、足もとに転がっていたボールをゴールに向かってキックする。


しかし力の入ったボールはゴールに向かうことなく、まっすぐに、ホイッスルを吹こうとしていた私の方に飛んできた。


「広瀬、危ない!」


藤谷の大声が聞こえる。私は口からホイッスルを離し、その場でジャンプして胸トラップでボールを弾ませた。着地して、真下に落ちてきたボールを足の裏で押さえる。


何でもないプレー。昔なら。


一瞬の沈黙の後、歓声と拍手が沸き起こる。


「広瀬先輩、ナイトラー!」

「かっこいいっす!惚れ直したっす!」

「イヤッホウ!」


しまった。何て言い訳しよう。

考えるより先に、軽部君がものすごいスピードで走ってきて、両ヒザを地面に着いた。


「マネージャー、すまん!もう少しで大ケガさせるところだった。俺は、俺は何てことを」

「あー、もういいって。何でもなかったから」

「本当に悪かった」

「もう立ってよ。朝っぱらから土下座しないで」


軽部君はまだ謝り足りない雰囲気だったけど、何とかなだめて藤谷に話を振る。


「藤谷、朝練もう終わりでいいでしょ」

「お、おう。キリもいいし、終わりにするか」


藤谷は何か言いたげな顔で、でも何も言わずに部室へ向かった。いつもならイライラするはっきりしない態度も、今だけはありがたかった。





昼休み。

藤谷は珍しくコンビニのおにぎりを二つも食べている。そろそろパンに飽きたのか。

最後にレッドブルと眠眠打破をクイッと飲み干すと、おもむろに席を立った。おにぎりにレッドブルと眠眠打破。信じられない組み合わせ。


「広瀬」

「ん?」

「サッカー部の新しい顧問、決まったみたいだ。今から聞いてくる」

「え、そうなの?誰?」

「だからそれを今から聞いてくるって。さっき盛田先生に呼ばれたんだ」


言い残し、そそくさと教室を出て行った。落ち着きの無いやつ。




私が園田さんとの昼食を終えた頃、ようやく藤谷が戻ってきた。力無い足取りで、眉間にシワが寄っている。良くないニュースを持ってきたのが聞かなくてもわかった。

席に座って大げさにため息をつく。聞いてほしいのかな。あえて放置しようかとも考えたけど、もう限界。


「どうしたの?」


藤谷はチラッと私を見て、口を開いた。


「広瀬、幻の新任事件て覚えてるか?」

「何、いきなり」


幻の新任事件。記憶をたぐる。


「あの、赴任初日から登校拒否して、誰も顔を見てないっていうあれ?」

「そう、それ」


幻の新任事件。

去年の十月、うちに新しい先生が赴任するはずだったのに、誰も顔を見ないままいつのまにか無かったことにされていたという謎の事件が起きた。理由は、最初の教室に入ろうとした時、生徒のいたずらで入り口が開かず、廊下に閉め出されて泣き崩れたという話。そもそも誰も顔を知らないなら何で泣き崩れたことを知っているのかという疑問もあり、今では学校の怪談みたいになっている。


「それがどうかしたの?」

「その幻の先生が、新しい顧問だ。明日の午後練から来るってさ」


言うと、もう一度大きなため息をついた。


「本当にいたんだ、その先生」

「らしいな」

「何ていう人?」

毛利純もうり じゅん

「女?」

「男だ」


生徒にいたずらで閉め出されて、泣き崩れた男性教師。


「サッカー経験は?」

「元演劇部で、スポーツ経験も皆無らしい」

「会ったの?」

「あいさつだけね」


すでに藤谷は机につっぷしている。よほどショックだったのかな。


「どんな人だった?」


私が聞くと、しばらく「うーん」とうなり、顔を上げた。


「若い頃のジョージ・クルーニーに、ちょっとだけ似てる」


生徒に閉め出されて泣き崩れる、元演劇部のジョージ・クルーニー。

何者?


「しかもさ」

「うん」

「まだ心療内科通いで、週二でカウンセリング行くから必ずしも毎回部活に来れるわけじゃないんだと」

「うーん」


返事に困る。病気なら仕方ないけど、じゃあ何で職場に復帰できたんだろう。私には分からない分野だ。


「でもさ、とりあえず顧問の先生はいないとまずいんだから、決まっただけいいんじゃない?それに、藤谷の苦手な体育会系じゃないみたいだし」

「そりゃそうだけど」


藤谷は生気の無い目でぼんやりと宙を見つめている。私にはその顔がどんな気持ちのあらわれなのか、考えても分からなかった。




放課後の午後練。

今日は右サイドのフリーキックから、ゴール前の攻防シミュレーション。適当に守備側と攻撃側に別れているけど、この時だけはセンターバックの選手も得点を狙えるので、金原君と照井君が特に燃えている。


私がホイッスルを吹くと、藤谷がボールの位置へ踏み込む。みんながゴールに殺到する。キックは毎回綺麗な放物線を描いて攻撃側とキーパーの丁度間に到達する。何度でも、何度でも。一連の動作がスムーズでムダがなく、見ていて好きな練習だ。


始まってから、ちょうど十回目のホイッスルを私は吹いた。

藤谷が放ったフリーキックは、ゴールのはるか後方、つまりあさっての方向に飛んでいった。みんなもゴール前でつんのめり、不思議そうにボールの行方を目で追っている。

珍しい光景に私はキッカーを見た。



藤谷は、左右に小さく揺れたかと思うと、ゆっくりとななめに傾き、ドサッと音を立てて倒れた。



「藤谷っ!」


自分でも驚くほどの大声を上げて、私はダッシュで駆け寄った。藤谷は青白い顔をして、土のグラウンドに横顔を埋めている。同じく走ってきた茂谷君が藤谷を仰向けに転がす。部員たち全員が私たちを取り囲んだ。


「動かして大丈夫なの?」


茂谷君は答えず、藤谷の首に手を当てる。次に鼻の下に手をかざし、うなずいた。


「脈は乱れてないし、呼吸も安定してる。理由は分からないけど、貧血とか立ちくらみとか、そんなところだと思う」

「救急車は?」

「とりあえず、保健室に連れてく。先生に判断を仰ごう」


言うと、茂谷君は島君を呼んだ。


「島、未散をかつげるかい?」


島君は黙ってうなずき、仰向けに倒れている藤谷の脇の下とヒザの裏に手を入れ、そのまま持ち上げた。いわゆる、お姫様抱っこという形だ。


「広瀬さんも一緒に行ってくれ。僕は後から行く」

「わ、わかった。絶対来てよ!」


念を押して、私はすでに歩き始めている島君を追いかけた。




「寝不足だね」


保健室の江波えば先生がきっぱりと言った。アンジェリーナ・ジョリーみたいな濃い顔で、普段から怒っているように見える女性だけど、さっぱりとして話の分かる先生なので人気がある。私も結構好きだ。

その江波先生が、白衣のポケットに手をつっこんだまま、ベッドに横たわる藤谷の顔を真上から覗き込んで続けた。


「見たところ顔色も悪いし、ちゃんと栄養あるもの食べてないんじゃないの?家で何してるのか知らないけど、ロクなものも食べずに睡眠時間も削って部活やってたら、そりゃ倒れるって」

「病気とか、そういうのは」

「無い無い」


江波先生は首を振った。


「強いて言えば、体がこわばってるように感じたから、ストレスもあるのかな。何にせよ、しばらく休んでれば、勝手に起きるでしょ」


私はベッドの側の丸椅子に腰掛け、ほっと息をつく。力が抜けていく感覚が、自分がどれだけ緊張していたかを教えてくれた。


「私、用事があるからちょっと出てくるけど」


江波先生が私と寝ている藤谷を交互に見た。


「変なことしちゃダメだよ」

「しません!」


ニコリともせず、江波先生は保健室を出て行った。


「島君は、どうする?」


側で立ったままでいる島君に、私は聞いた。


「もうすぐ茂谷が来る。あいつが副キャプテンだから、指示に従う」

「そう」


私は眠っている藤谷の顔を改めて見た。こんなにまじまじと彼の顔を見るのは初めてかもしれない。いつもは眉間にシワを寄せているか、仏頂面のどちらかなのに、今は力の抜けきった顔で寝息を立てている。


こうして見ると、角度によっては女の子にも見えるくらいの童顔だ。かわいい、と言ったら藤谷は怒るだろうけど。


「失礼します」


茂谷君が保健室に入ってきた。珍しく、皆藤君が一緒についてきている。一年生で、一番右MFのレギュラーに近い選手。派手さはないけど、無尽蔵のスタミナと安定感がいい、と藤谷が言っていたのを思い出す。いつもびっくりしたような目をしていて、クリクリのクセっ毛。テンションが上がると「イヤッホウ」と叫ぶヘキがある変な子でもある。


今思ったけど、サッカー部は変な子が多いような気がする。



「キャプテン、大丈夫なんですか?」


皆藤君がベッドを覗き込む。私は江波先生に聞いたことを、茂谷君と皆藤君にそのまま繰り返した。


「そうか。なら良かった」


茂谷君がいつもの表情を取り戻す。


「練習は、中止?」


私が聞くと、茂谷君は首を振った。


「しないよ。とりあえず、メニューはこなす」

「みんなは、動揺してないかな」


私が言うと、島君が口を開いた。


「自分が倒れたせいで練習が中止になったら、藤谷は自分を責める。そういう男だ」


茂谷君もうなずく。


「僕も一応副キャプテンだからね。みんなをまとめる責任がある。広瀬さんは、未散についててやってくれ。練習が終わったら、また来るよ」

「わかった」



三人が保健室を出て行くと、室内は時計の音だけになった。外から野球部の声出しが聞こえる。


「あ」


藤谷の目に前髪がかぶさっている。私は指先で、そっと髪を払った。屋外の運動部なのに、妙に色が白い。毎日日焼け止めを塗っているのかな。変なところにこだわるから、それくらいはしてそうだ。


「……」


藤谷がモゴモゴと何か言った。寝言?私は耳を近づけた。


「ど……こだ」


どこだ?何か探してる夢?

それから寝言は無くなったけど、その代わりに見たものに、私は固まった。



一筋の涙が、藤谷のほほを伝っていた。



心臓の動きが早くなり、冷や汗が出るほどの緊張が私を襲う。同級生の男子の寝顔でさえ滅多に見るものじゃないのに、涙なんて。


どうしよう。


起きたら、顔がまともに見られないかもしれない。



その時、誰かが扉をノックした。


「はい」


私が答えると、「失礼します」と言って、一人の女の子が入ってきた。背が低く、ちょっとコロンとして可愛らしい子。一年生かな。よく見ると、身長の割に胸がすごく大きい。私も小さい方ではないと思っているけど、格が違う感じ。


「今、江波生いないんだけど、伝言残す?」

「いえ、藤谷先輩が、ここにいるって、サッカー部の方に聞いて」


何となく、私の頭にピンとくるものがあった。この子、もしかして。


「もしかして、あなた」


言うと、女の子は気まずそうに目を伏せた。


「は、はい、陸上部の、佐々木です」


斎藤先生と、陸上部の先輩との修羅場の女の子。先生と付き合っていた、という話らしいけど、実際どうなんだろう。気になる。聞けないけど。


「私、サッカー部のマネージャーで広瀬夏希。藤谷と同じクラスなの。ごめんね。藤谷、今熟睡中で。起こそうか?」

「いえ、そんな。いいんです」


佐々木さんは手をぶんぶん振ってあせったように言った。しぐさの一つ一つが可愛らしい。うちの妹も、これくらい可愛げがあればいいのに。


「昨日、体育館で見たんです。藤谷先輩が蹴ったボール。先生に命中して、本当にスカッとして。それで、一言お礼言いたくて」


言って、ベッドで寝息を立てている藤谷を見た。その目は、まるで王子様に恋する乙女のようで、私の喉元は何かが詰まったようになった。


「でも、もう十分です。先輩の寝顔見られました。心残りはありません」

「え」


どういうこと?

佐々木さんは、寂しそうに目を伏せた。


「来週、転校することに決まったんです。やっぱり、居づらいっていうか」

「あ……そうなんだ」


こういう時、何て言えばいいんだろう。何を言っても気休めにしか、違う、気休めにもならない。


「あ、あの。広瀬先輩」

「ん?」


佐々木さんは一転して、頬を染めて言いよどんだ。


「えっとですね。藤谷先輩、みんなに、言ってませんよね?」

「何を?」

「あの、私の胸のこと。現場で、その、私、裸で。それで、ブレザーかけてもらって」


裸?ちょっとはだけてたって言ってたけど、全部見えてた?


「初耳だけど」


私が言うと、佐々木さんは真っ赤な顔でホッと息をはいた。


「よかった。やっぱり藤谷先輩は、紳士です。じゃあ私、失礼します」

「あ、うん。その、私は部外者だけど、次の学校では、楽しくやれるといいね」

「はい。ありがとうございます」


ペコリとお辞儀をして、佐々木さんは保健室を出て行った。私の不慣れな気休めは、役に立っただろうか。


紳士、ね。


私は藤谷のおでこにパチンとデコピンをした。




一時間後、着替え終わったサッカー部の全員がドヤドヤと保健室に大挙した。よく考えたら、私だけ着替えていない。


「私着替えてくるから、茂谷君、藤谷見てて」

「わかった。そろそろ起こしてみるよ」


私は更衣室までの道をダッシュで往復し、息を切らせて保健室に戻ってきた。

藤谷が、練習着のまま島君の背中におんぶされている。部員たちは特にこらえることもなくニヤニヤ笑っていた。


「……それで家まで連れて行くの?」

「起きないからね。家のカギはバッグに入ってるだろうから、僕と島で送っていくよ」

「私も行く!バッグ持つ人必要でしょ?」


茂谷君と島君が顔を見合わせる。私は練習が終わるまでの一時間弱、今日一日の藤谷を思い出していた。

今思えば、ぼんやりするにしても、いつもより元気が無さすぎたような気がする。心ここにあらずというか。あれは多分、体力や精神力が切れかけていた状態だったのだと思う。


どうして気づけなかったんだろう。同じクラスで、隣の席なのに。

マネージャーなのに。


私は、何も見ていなかった。




帰り道。私は島君のバッグを持ち、茂谷君は藤谷のバッグを持ち、島君は藤谷を背中におぶさっている。藤谷は全く起きる気配がなく、一人だけ安心しきったような寝顔で島君の大きな背中に全てをゆだねていた。こっちの気も知らないで、とちょっとだけ腹も立ってくる。


女子の中では背が高い方の私も、島君と茂谷君の二人と並ぶと見上げて話す形になって、とても新鮮だ。藤谷とは、いつも同じ目の高さで話している印象しかないし。


「でもさ、茂谷君はすごいよね。私、パニックになって何もできなかったのに、あんなに冷静で」


私はため息をつく。倒れた藤谷に駆け寄ったまではよかったけど、その後どうしていいか分からず、ヒザまで震えてきてしまった。情けない。


「そんなことはないよ。僕だって、かなり動揺したし。それに、未散が倒れた瞬間は、何が起きたか分からなくて、動けなかった」

「俺もだ」


島君が同意する。


「でも広瀬さんは、すぐに走って駆け寄ったじゃないか。あれはなかなかできることじゃない」

「うむ。豪胆」


女子に豪胆は褒め言葉なのか。


「あの時は、夢中っていうか、行かなきゃって思ったからで。自分でもよく覚えてないけど、どうして脚が動いたのか、自分でも分からないよ」



二十分ほど歩くと、こじんまりとしたアパートが見えてきた。白い外装は新しくて綺麗。『プラスフォート河津』と壁に書いてある。

集合ポストの202号室に「藤谷」の手書きプレートがついていた。変なところにマメなやつ。


「ここで、一人暮らししてるんだ、藤谷」

「そうだよ。中見ていく?」


茂谷君が根性の悪い笑顔でニヤニヤと私を見る。すっかりいつもの彼に戻っている。階段の前で島君から藤谷を引き受けて、今度は茂谷君がかつぎあげた。意外とパワフルだ。


「いい。寝てる間に見るのは、ずるい気がするから」

「そうかい。じゃあ、ここで」

「うん。あとよろしくね」


私はちょっとだけ残念に思いながら、くるりと踵を返した。島君が、すっと後ろをついてくる。


「島君も帰るの?」

「じき暗くなる。近くまで送っていく」


私からバッグを受け取り、前を歩き出す。


「お、島君優しい」

「広瀬さんに何かあったら、藤谷に怒られる」

「何それ。変な理由」


島君は何も答えず、しばらく黙ったまま二人で夕暮れの道を歩いた。


「ねえ」

「うむ」

「私ってさ」

「うむ」

「いいマネージャーになれるかな?」


島君はジロリと私を見て、


「そんなことを気にするのは、いいマネージャーだけだ」


と言った。


「言い回しが、藤谷に似てる」

「そうか」

「ありがと」

「うむ」


再び黙って歩き出す。と、私のスマホが鳴った。メールの着信。光冬お姉ちゃんからだ。



件名:インカの女王より


『返事遅れてごめんね。マネージャー引き受けた話、私も嬉しい。夏希ちゃんは私の自慢の妹なんだから、望めば何にだってなれるよ』


スマホをバッグにしまい、私は下を向いた。島君が無口なことと、今が夕暮れ時であることに感謝して。




つづく

たぶんしなくていい名前の由来解説


毛利先生……ジョゼ・モウリーニョ

江波先生……エヴァ・カルネイロ女医

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