第11話「一人だけ」
二人の少年。
得点を決めても、倉石は涼しい顔で自陣に戻って行く。春瀬の他の選手たちも当たり前のような表情だ。
確かに速くてうまいパス回しで、選手一人ひとりが自分の役割を熟知しているかのような動きだった。
でもこれが、ヤツが言っていた本物のフットボールなんだろうか。これくらいの速い攻めや連携、ちょっと強い学校なら可能だ。
試合再開。
春瀬のDFラインは、少し引き気味の桜律と比べてかなり高い。両CBも積極的にパス回しに参加している。しかも上手い。
新聞に目を落とす。
CBは久城と熊野の三年生二人。見たところそれほど背は高くなく、ガッチリしているようにも見えない。何であれで春瀬のスタメンなんだろう。確かに足元は上手いけれど。まだ何か、真価を隠しているのか。
強めのホイッスルに、新聞から顔を上げる。
春瀬の陣内でファウルがあったようだ。桜律のキャプテン不破野が芝生から立ち上がっている。ゴールから二十メートルと少し。やや左側。狙える距離だ。春瀬の選手が並んで壁を作る。不破野がボールの前に立つ。
その横には、さっき会ったばかりの7番神威。
「お」
思わず声が漏れる。ボールの右側に不破野、左側に神威が立っている。神威が蹴らせてもらえるのか。
「7番が蹴るみたいですね」
黒須が言った。
「そうだな。自信あるみたいだったから、ちょっと楽しみだ」
俺は答えて、自分ならゴール右側から巻いて右ポストに当たるくらいを狙うかな、と考える。
審判がホイッスルをくわえた。
甲高い音が鳴り響いてすぐに、神威は右の不破野へチョコンとパスを出した。不破野がピタリと止めて、後ろに飛び退く。神威は両腕を翼のように広げて数歩踏み出し、全身を使ったフォームで右足を一閃した。両足とも宙に浮く勢いで蹴り上げられたボールが、壁の頭を越えてゴール左へ曲がっていく。
衰えないスピードで曲がりきったボールはキーパーに触れられることなくゴール左端に吸い込まれた。
桜律ベンチと応援席が大歓声に包まれる中、俺は思わず立ち上がっていた。
「速い」
そう言うしかない。わざわざ壁のある方に蹴って、曲げて落としていっているのにスピードが速いまま。何てキックだ。
満面の笑顔でベンチへ走ってきた神威が拳を握りしめ、両膝をついて芝に滑りこむ。立ち上がり、客席をキョロキョロと見回している。
やがて客席の上の方に視線を向け、俺と目が合った。神威は両目を指さし、その指を俺に向けた。
「あれ、見たかって意味ですか?」
国分が聞く。
「だろうな」
俺は右手の親指を立てて神威に応える。あまりやりたくない、こっ恥ずかしいジェスチャーだが、他に思いつかない。
ほどなくして長目のホイッスル。前半を終えて1-1のスコアで10分のハーフタイムに入った。
興奮気味に話している国分と黒須をそのままにして、俺は階段を降りていく。のどが渇いた。
「おーす、キャプテン」
途中で、四列目にいた芦尾がニヤニヤしながら声をかけてきた。
「何だよ」
「どうですかな、今のは。フリーキック専門家として」
「俺は専門家なんかじゃないが、速かったな。コントロールもいい」
「ま、負けを認めるんですか?」
隣の照井が勢い込んでくる。
この照井という一年は、根性と負けん気はかなりのものだが技術的にはもう一つというCB。うちの部には数少ない体育会系。元バレー部の金原が急にCBとして入ってきて、レギュラーのチャンスが失われるかもしれないのに「金原さんは先輩ですから」という理由で腐ったりすねたりしていない、実にラク……いや、根性のある頼もしいやつだ。ちなみに映画『仁義なき戦い』が大好きなやつでもある。
「別に負けたわけじゃない。タイプが違うしな」
「未散も、蹴ろうと思えばあれくらいできるだろう?」
直登がニヤニヤしている。何を言わせたいんだ。
「あんなに速く蹴ったら、落ちないから無理だって。もういいだろ、俺はのどが渇いたんだ」
冷やかす部員たちを尻目に、俺はゲート付近の売店へ急いだ。
今日は高校の県大会決勝だと言うのに、なぜかB級グルメの売店も開いている。
たこ焼き、から揚げ、クレープ、もつ煮込み。
全部大好物だったが、入場料五百円という誤算のせいで、グッと我慢するしかない。一番安いミネラルウォーターを買って、早々に客席に戻ろうとする。
「ちょっと、君」
真後ろから、確かに俺に呼びかけられた女の声。振り返ると、長い黒髪、キツいツリ目に大きな口をした女が機嫌の悪さを隠そうともせず俺をにらみつけて立っていた。やせた体にピッタリした派手な服を着ている。直感でこの人は年上だと感じた。
「俺ですか?」
「そう。他にいないじゃない」
周りを見ると、他にも人はたくさんいる。でもそれを指摘してはいけない雰囲気だ。
「何ですか?ハーフタイム終わっちゃうんで、戻りたいんですけど」
「あなた、ヒデくんの何なの?」
俺の言葉に耳も貸さず、謎の文章をぶつけてきた。
「誰ですと?」
「私のヒデくん。今日せっかく、私のためにかっこいいゴール決めたのに、何で君のところに真っ先に行ったわけ?」
かっこいいゴール。真っ先に俺のところに来た。ヒデくん。
「あ、もしかして、神威君の彼女ですか?」
「そう言ってるじゃない」
当たり前のような顔で神威の彼女は言った。
苦手だ。俺が一番苦手なタイプの女だ。独りよがりの、自分にだけ分かる言葉でしゃべってこちらが分からないとなぜかキレる。最悪だ。
でも、経験上俺は知っている。こういうタイプの女とケンカしても、自分が悪いという結論に至る思考回路が無いので、がんばって主張しても徒労に終わると。
「俺も、神威君とは今日初対面で、それほど親しくないんで分からないんですが」
言って、一つの疑問が浮かんだ。
「それにしても、神威君が見てた相手、よく俺だって分かりましたね。結構上の方にいたのに」
「立ち上がって、親指立てて応えてたでしょ。それに、私目はいいの」
なぜかフフンという顔になる。実にどうでもいい情報だ。
「えーと、つまり、大事な恋人を後回しにしてまで、俺にアピールに行った、納得する理由を知りたいと」
「そう」
「本人に聞いてください」
「できたらとっくにそうしてる。試合中は連絡付かないの。あのオッサンみたいなキャプテンの方針で、ハーフタイムもダメなんだって」
「へー」
顔もいかついが、中身も厳しい人みたいだな、あの不破野って人は。同じキャプテンでも、通りかかっただけで部員から冷やかされる俺とは大違いだ。
「理由としては、神威君がサッカーにしっかり集中してるってことと、試合前にフリーキック得意だって話してたんで、直接アピールしたかったってことじゃないですかね。別に、あなたへの気持ちがどうって話じゃないと思いますが」
「……だって」
急に、声が弱々しくなる。
「あの」
「だってヒデくん、すっごくモテるから、私、いつも不安で……」
涙声になってきた。やばい。相手構わずの愚痴モードだ。脱出ボタンはどこだ。
「そ、それじゃ、俺戻りますんで。さようなら」
「待って」
グイッと腕をつかまれた。何て力だ。
「君、学校と名前は」
「も、本河津高校二年の藤谷です。サッカー部でキャプテンやってます。もう、いいですか」
「そう。私、桜律女子三年の、城戸梨亜」
「桜女ですか!なるほど」
神威君は、うちは男子校だから女子マネがうらやましいと言っていたが、桜律には一駅隣に女子校もあるのだ。そこでしっかり彼女を、しかも年上の彼女を作るとは。やるなあ、神威君。でも何でよりによって、こんなキツい外見の、嫉妬深い女にしたんだろう。もっとモテるはずなのに。
「えーと、後半、逆転できるといいですね。じゃ、これで」
今度は誰にも止められることなく、俺はミネラルウォーター片手に客席へ急いだ。
センターサークルに桜律の選手たちが集まっている。後半開始には間に合った。俺は客席の階段を見上げる。
「何やってたんですか、始まっちゃいますよ」
最前列の伊崎が口をとがらせて俺に言った。
「ちょっと、色々あってな」
色々あって、疲れた。時間にして三分くらいしか一緒にいなかったが、グッタリ疲れている。
「何かあったの?疲れた顔してる」
広瀬がうちわでパタパタあおぎながら言った。うちのマネージャーは、そういうところは敏感なんだ。
「面倒くさい人に、理不尽な理由で絡まれてね。疲れたよ」
「ふーん。お金たかられなかった?」
「そういうんじゃないんだ」
俺はしみじみとマネージャーの顔を見た。俺は広瀬をややキツい女の子だと思っていたが、かなりマイルドな方じゃないか。本当にキツい女とは、あの桜女の城戸って人みたいなのを言うのだ。
「何、じっと見て」
広瀬が警戒した風に、うちわで顔の下半分を隠す。
「何でもない。うちわは使っててくれ」
「そう。ありがと」
階段を昇り、前半と同じ席に座る。
「何か動きあったか?」
黒須に聞くと、一人の選手を指さした。
「春瀬の右SBが交代しました。2番が引っ込んで、16番の谷って選手が入ってます」
席に置いてあった新聞を広げる。想定メンバーに谷という名前は無い。
「載ってない。一年かな」
「秘密兵器ですね!」
国分がなぜかワクワクした顔で言った。
交代で入った谷という選手を見る。さほど背は高くないものの、やけにゴツい太ももが印象的だ。足、そこそこ速いのかな。
主審のホイッスルが鳴り響き、桜律ボールで後半が始まった。
桜律の攻めは比較的中央突破が多く、頻繁に縦に速いボールを入れる。そのボールを11番のFW我修院と10番の不破野が受ける。
中盤は守備的MFの井畑、遠藤がボールを奪いに行き、右の神威、左の空見も早めに前へボールを入れる。
我修院と不破野の2人の能力にかなり依存した戦い方だ。
何となく、俺が想定しているサッカーに近いかもしれない。だからこそ、桜律にはがんばってほしい。
春瀬の応援側から歓声が上がる。中盤がボールを奪い、交代で入った右SBの谷の前にスルーパスが出た。
「うわ」
桜律の左サイドの2人が、一瞬で置き去りにされる。細かいフェイントなど無い。ただ速さだけで右サイドを駆け抜けていく。桜律の左サイドも決して遅くはないのに。
まだペナルティエリアまでも届かない位置で、グラウンダーで谷が中央へ折り返す。倉石が受け、さらに左へ流す。中盤左の長谷がさらに前線の須藤へ。
須藤が速いボールをダイレクトでゴール前に折り返す。
中央に待っていたのはCBの久城だった。
いつの間に上がってきたんだ?
久城は左足のインサイドでクロスに合わせる。
「ぬおっ」
肩に力が入る。桜律のキーパー蟹江が反応して左足を出す。ボールが右サイドへ弾かれると、そこには切り込んでいた谷が待っていた。
バウンドするかしないか、刹那の間に谷の右足がボールを捕らえる。
うなるように放たれたハーフボレーは、浮き上がること無く一直線にゴール左スミへ向かう。GKが必死に手を伸ばす。指先に触れたボールがコースを変え、左ポストにぶつかった。悲鳴と歓声が場内を飛び交う。
ポストに跳ね返されたボールは、まるで待ち構えていたかのように4番別府の前に落ちた。別府は何ら慌てることなく、インサイドでゴール右サイドにこぼれ球を流しこんだ。ホイッスルがかき消されるほどの歓声が春瀬の応援席から上がった。
これで2-1。
あっさり勝ち越した。あのゴール前の回しはやはりすごい。県内屈指である桜律のCB、穂積、家路が全くボールに触れなかった。
しかも春瀬の選手たちはほとんど息を切らせていない。
それに。
俺は自陣に戻っていく、春瀬のCB久城を見る。
「黒須。あの春瀬のセンターバック、いつ上がってきた見てたか?」
「え、あ、すみません。気がついたら、いたっていうか」
しどろもどろになる。
「気にするな。俺もだ」
機を見てダッシュで上がってきたわけでもない。最初から、そこにいることが決まってたのか?まさか、そんな。
試合再開。
勝ち越された桜律が、人数をかけて攻撃に力を入れ始めた。しかしシュートに持ち込むまでに春瀬の囲い込みにあい、少しのパスミスでも即座にパス回しにつながれてしまう。ボールを追いかけ続けて疲労の色が濃く出始めた桜律に対し、春瀬の選手にはまだ余裕がある。
守備を固めて縦に速い攻撃を狙っていた方が、どうして先に疲れるんだ。
時間は淡々と過ぎていく。
後半二十分、二点めと同じような形から、今度は倉石が今日二点目になる派手なジャンピングボレーを決めて3-1。
五分後、春瀬が須藤と交代で投入した15番の丸井がドリブル突破から飯嶋とパス交換して初シュートがゴールになる。
4-1。
後半三十五分。桜律のキャプテン不破野が意地を見せ、一点を返して4-2。
神威の左コーナーキックからのヘディングだった。
試合終了間際、前のめりになった桜律をあざわらうかのように、今度は春瀬が縦パス一本で飯嶋の追加点を生んだ。ドリブルでキーパーまでかわして最後はヒールで押しこむ。
5-2。
やがて試合終了のホイッスルが響く。春瀬のベンチから選手たちが飛び出し、フィールド上で抱き合ったり飛んだりしている。白いユニフォームの桜律の選手たちは座り込んで動かない。
5-2
ライバルと呼べる点差じゃない。春瀬高校は、今日の決勝戦で事実上の一強を宣言したようなものだった。
「…すごかったですね、キャプテン」
国分が我に返ったようにつぶやく。黒須は無言でフィールドを見つめている。
「ああ、すごかったな。強い」
立ち上がって、階段を降りてみんなのもとへ向かう。部員たちもまた、無言だった。
「藤谷」
菊地が言った。その目はまっすぐに、優勝に沸く春瀬の選手たちを見つめている。
「俺たち、本当に壁のあっち側に行けるのかな」
俺は鈍くて気が利かない方だが、これが菊地個人の気持ちというよりも、部員全員の本音を代表した言葉だということは何となく分かった。
そんな時、キャプテンの俺が言えることなんて。
「必ず、行ける。俺がみんなを連れて行く」
ガラじゃないのは分かってる。でも、他に言いようがないじゃないか。
誰も笑ったり、冷やかしたりはしなかった。少し雲が出て日差しが和らいだ。広瀬の手にあるうちわは、もう動いてはいない。
この光景を目に焼きつける!と気合を入れ直した伊崎のせいで、俺たちは表彰式を終わりまでみっちり見るハメになった。
春瀬高校が退場してくる時、席にいる俺を見つけた倉石が、手の甲を向けて人差し指を立てた。
「……あれ、上がってこいって意味?」
広瀬が険しい顔でつぶやく。本当に、生理的に受け付けないんだな。
「多分な」
「何か返してよ、あいつに」
「何かって」
挑発された時のジェスチャーって、何を返せば正解なんだろう。俺はとりあえずVサインを返した。倉石はフッとキザに笑って去っていく。
「何、それ」
広瀬の目が冷ややかだ。
「勝つぞっていう意気込みだ」
「伝わってるといいけどね」
伝わったところで、今はただ笑われるだけだ。
時刻はすでに四時半になろうとしていた。
駅までの道のりを重い足取りでゾロゾロと歩いていると、誰かが俺の名を呼んだ。振り返ると、桜律のユニフォームのままの神威が走って追いついてきていた。
俺はみんなに先に行っててくれるよう言って、神威に右手を上げた。
「おお、神威君。試合、残念だったな」
「どうも。完敗だったよ」
さすがに元気がない。
「何ていうかさ、ずっと春瀬の手のひらの上で転がされてたような気がするよ」
「でもフリーキックは見事だった」
神威が笑顔になる。
「ありがとう。初めて蹴らせてもらったよ。それが良かったかもしれないけどね」
「それは謙遜じゃないかな」
「いやいや。僕のは球筋が見やすいから。研究されたら厳しいよ」
「いやいや。あ、そういえば」
俺はハーフタイムの出来事を神威に話した。
「ごめん!」
神威は両手を胸の前で合わせて頭を下げる。
「梨亜は、普段は本当に優しくていい子なんだけど、ちょっと周りが見えなくなるところがあって」
そうだね、とも言えず俺は適当に相槌を打った。すると神威は小さなメモ用紙を渡してきた。
「これ、僕の携帯番号。後でLINE送ってよ。またね」
「お、おう。また」
意外とグイグイ来るんだな。男からこんな風に連絡先を渡されたのは初めてだ。
みんなに追いつこうと振り返ると、部員たちは先を急ぐこともなく一部始終を見ていた。
「何だよ、先に行けって言ったのに」
「いや、俺らも桜律の7番見たくて。でもさ、藤谷」
菊地がニヤリと笑う。
「お前って、イケメンにもてるよな。茂谷とも仲いいし」
みんなが顔を伏せる。一年まで笑っている。何か悔しい。
「そうだな。おかげで菊地とは分かりあえてないよ」
今度は広瀬が声を上げて笑った。珍しくツボにはまったみたいだ。菊地は悔しそうに引き下がっていった。
駅までの道を再び歩き出し、俺は今日の決勝戦を思い出す。春瀬に弱点はあっただろうか。
失点は二つともセットプレー。直接フリーキックはともかくとして、コーナーキックでは高さで何度も負けていた。失点シーン以外でも高さで主導権を握られる場面は多々見られた。
うちも俺を含めて小柄な選手が多いが、金原と直登は割と大きいから通用するかもしれない。問題は、あの自在にポジションを変える攻撃と、交代で出てくる選手の質の高さだ。
特に16番の右SB、谷。
スタメンじゃなかった理由は分からないが、あの速さは驚異的だ。国分の左SBでは抑えきれない。というか、技術で抑えられる相手じゃない。速さだけなら菊地でも負ける。つまり、谷が攻撃に参加できないくらい、もっと速い左SBが必要だ。
やはり、あの男が。
不意にピトッ、と首筋に冷気が接触した。
「うひゃおう!」
思わずビクッと跳ねると、広瀬と一年たちが大笑いした。
「何、うひゃおうって。笑える」
「何だよ、冷たいな」
俺が抗議すると、広瀬は手に持っていたパピコを見せた。半分に分離済みだ。
「あげる。うちわのお礼」
一緒にうちわも渡してくる。
「おお、悪いな。でも今度から普通に呼んでくれ。心臓止まるかと思った」
「三回呼んだ。返事しないのが悪い」
広瀬が口を尖らせ抗議を返す。一年たちもうなずく。そんなに考え込んでいたか。
「すまん。気づかなかった」
「別にいいけど。早く食べないと、溶けるよ」
俺は吸口をプチッと切って、パピコに食らいつく。
至福。
隣では広瀬も同じようにパピコをくわえている。
市販のアイスなのに、いつもより甘く感じられたのは気のせいだっただろうか。
月曜日、時刻は朝七時。俺は眠い目をこすりながら、陸上競技場の入り口に立っている。
昨日の帰り際、月曜の朝練は中止、と皆には伝えた。
今日は朝から大事な用があるのだ。
ちなみに昨晩の神威との初LINEはほぼ彼女のノロケ話に終始し、あのワニみたいな怖い女にそんな一面が、と意表を突かれっぱなしだった。想像もつかない。
彼女のどこに惚れたのか、と送ると、神威は一言「性格かな」と返信してきた。人は恋をすると判断力を失うのだ、きっと。
そんなやりとりを繰り返しているうちにすっかり夜更かししてしまい、大事な用がある今朝寝不足で腫れぼったい目をして立っている。我ながら情けないほど流されやすい。
俺は周りをキョロキョロ見回した後、そそくさと競技場に入り込んだ。
と、バッタリと一人の女子生徒に出くわす。見たことがない顔だけど、一年だろうか。ショートカットで、小柄で、太ってはいないがちょっとポッチャリという体型。それにあまり見てはいけないが、胸が大きい。ジャージの上からでも分かる。何せ歩く度にポヨンポヨンと揺れているのだ。
女子生徒は俺を見て一瞬不思議そうな顔をしたものの、軽く会釈して、何も言わずスタンドの階段を昇って行った。広瀬みたいな正統派の美人もいいけど、ああいうぷにぷにした女の子もアリだな、などと考えながら隠れる場所を探す。目的の男、軽部銀次をこっそりと見るために。
一度断られたのは忘れていない。考えを曲げる男とも思えない。でももう一度、いや、あと三度お願いに来れば変わるんじゃないか。春瀬の谷に対抗するには、優勝するためにはお前の力が必要なんだって。
やっと適当な物陰を見つけ、ほっと一息ついてしゃがみこむ。軽部はどこかな。
「おめー、何やってんだ?」
「のわー!」
唐突に声がかかる。振り返ると、軽部銀次が真後ろに立っていた。
「お…おはよう、軽部」
「おはようじゃねえよ。何だ、のわーって」
「いや、その……」
気まずい。こんなタイミングで会うことは想定外だった。諸葛孔明に三顧の礼を尽くした劉備たちも、二回目でうっかり顔を合わせていたら、きっと同じ気持ちだったはずだ!
「け、見学に来た」
「ウソつけ」
軽部は片手を腰にあててため息をついた。
「こないだ断っただろ。陸上部やめる気はないって」
「そ、それはちゃんと聞いた。でも、昨日インハイ決勝見に行って、すごい選手が出てきたんだ。本当に速くて、信じられないくらい」
「へー、そんなにか」
速い、と聞いてか、ちょっとだけ食いついてきた。
「あいつを抑えられるのは、八十分間抑え続けることができるのは、軽部しかいない、と思うんだ」
「そこまで買ってくれるのはありがたいけどよ。おめー、やる事が極端すぎるぜ」
「自覚はある」
「あんのかよ」
話していると、トラックの方から一人の陸上部員が走ってやってきた。見た感じ、三年の雰囲気だ。ジャージの胸に取手と名が書いてある。
「軽部、佐々木見なかったか?」
「いえ、見てませんけど。いないんですか?」
軽部が答える。取手先輩は俺を見て、
「君は見てないか?一年の女の子なんだけど、ショートカットで、小柄で、ちょっとポッチャリした」
と聞いた。揺れる胸が即座に浮かんだ。
「その子なら、さっきスタンドの上に昇っていきました」
おっぱいを揺らしながら。
「おお、そうか。ありがとう」
取手先輩は一段飛ばしで階段を上がって行った。
「陸上部って、男女の交流があるのか?」
「斎藤が、お互いの向上のためって名目でな」
「名目って」
「あいつは指導者としては優秀だけど、それ以外は女子が大好きなただのオッサンだ」
軽部が冷めた調子で言う。別に怒っているわけではなく、あきらめているかのようだ。
そして声をひそめて言った。
「ここだけの話だけどな、さっきの取手先輩、探してた佐々木って一年に惚れてんだよ。だからあれこれ用事作って話しかけてるんだ」
「さ、三年が一年に片想い?」
「別におかしかねえだろ」
「でも、好みがかなり偏った人だと思う。特にあの」
「乳か」
軽部が真剣な眼差しで俺を見た。男として、ここは逃げてはいけない。
「そうだ。あれは見る」
「見るよな」
軽部と俺は固い握手をかわした。
初めて、心が通じあった気がした。
その時、スタンドの方で何かがぶつかるような、大きな音がした。直後にスピーカーからハウリングのノイズが流れ、競技場全体に怒号が響き渡る。
「てめえ、ぶっ殺すぞ!」
「待て!話せば分かる!」
「やめてー!」
俺は軽部と顔を見合わせ、スタンドの階段をダッシュで昇る。軽部の背中がどんどん遠くなる。さすがに速い。やはり欲しい。
スピーカーから流れたということは、現場は場内放送をするところだ。軽部も同じ考えだったらしく、一足先に放送管理室にたどりつき、開け放たれたドアの前に立っていた。
呆然とした、とはこの表情をいうのだろう。俺は軽部の脇から室内を覗き込んだ。
壁際に座り込み、顔を手で押さえて血まみれになっている斎藤先生。
鬼のような形相で斎藤先生をにらみつけ、血まみれの拳を握って仁王立ちしている取手先輩。
そして、さきほどすれ違った佐々木さんが、両手で口を押さえて床に座り込んでいた。
その、白くて美しくて大きな胸を丸出しにして。
もう一度斎藤先生を見ると、ズボンが足首まで下がっている。俺のとぼしい恋愛経験と照らしあわせても、ここが修羅場と呼ばれる状況なのがわかった。
俺の後から、他の陸上部員たちもドヤドヤと駆けつけてきた。俺はとっさにブレザーを脱ぎ、胸を丸出しにしている佐々木さんの肩にかけ、ボタンを閉める。もっと見ていたいが、仕方がない。生まれて初めて見る女の子のおっぱいは、決して忘れない。そしてキャプテンとして、このおっぱいが白日のもとにさらされるのを防がねばならない。部活違うけど。
「あ、あの」
「しっ。とりあえず、下向いて泣き真似してればいい。それで何とかなるかもしれん」
俺は0.5秒で悪知恵を吹き込み、斎藤をにらみつけた。
「先生、これもスポーツを通した人間教育の一環ですか?」
「ち、違うんだ、藤谷。これはだな」
「無理やり脅したんですか?犯罪ですよ!」
「違います!」
佐々木さんが背後から割って入る。
「わ、私たち、つきあってるんです。それで、今朝呼び出されて」
俺はまだ立ち尽くしている軽部と目を合わせ、次に取手先輩を見た。自分より年上の人が、こんな情けない顔をするのは滅多に見られない。残念だが、俺にこの先輩をフォローする力は無い。
そのうちに、女子陸上部の顧問、盛田先生がやってきた。
この先生は普段から、教育者は潔癖であるべき、と語る若いに似合わず固い人で、現役時代はマラソンでそこそこ強かったらしい。今でも体型を維持しているのは立派だ。
「斎藤先生、何なんですか、これは!取手君!あなたが殴ったの?」
そこから先は、ぼんやりとしか覚えていない。
第一発見者の軽部と俺は一時限目を特別に免除されて、職員室に呼ばれて事情聴取を受けることになった。
そろそろ一時限目が始まるな、と職員室のイスに座っていると、広瀬からLINEが届いた。
『今日休み?』
心配してるんだかどうだか分からない、シンプルすぎる文面。
『後で話す。二限目には行く』
俺もシンプルに返して、隣に座っている軽部を見た。
「どうなるんだろうな」
俺が言うと、軽部は「ああ」と言ったきり、何も答えなかった。
事情聴取は三十分ほどで済んだ。最も、くわしいことを聞かれても俺が見たのは終わった後だったので何とも答えようがない。
斎藤と佐々木さんが付き合っていたという事実も、俺がチクるまでもなく発覚するだろう。取手先輩は、どうだろう。佐々木さんが斎藤に無理やり襲われていたのなら、助けるためということで暴力は大目に見てもらえるかもしれない。しかし二人が付き合っていた以上、嫉妬にかられて殴ったということになる。でもあの状況を見て襲われていると勘違いした過失、という理由も成り立つ。どちらにせよ、取手先輩だけでなく、陸上部全体に何らかの処分は免れないだろう。被害届を出して警察沙汰にするほど、斎藤も学校もバカじゃないと思うが、どうだろう。
俺は軽部と別れて、教室に戻った。一限目は免除されているが、他に行くところもない。蒸し暑かった昨日とはうって変わって、ワイシャツ一枚だけだと涼しすぎる朝だ。
教室の扉を開けて、クラスメートの好奇の視線にさらされながら、席に座る。一限目の数学の担任は、俺を見ても何も言わなかった。
「何かあったの?ブレザーは?」
広瀬が小声で聞いてくる。
「長くなるから、後で」
俺が言うと、広瀬は少し不満気な顔をしつつも引き下がった。今話せない理由は長さではなく内容なんだけど。
一限目が終了して、俺は広瀬を連れて外へ出た。クラスのヤツらが群がったら面倒だ。階段を降りて、下駄箱の近くまで行き、俺は今朝の出来事を広瀬に話した。
おっぱいのところだけは伏せて。
「……何て言っていいか分からないけど、最悪」
広瀬が短い感想を漏らす。
「その一言に尽きるな」
「でもさ、軽部君に会いに行くなら、何で声かけてくれないの。前は一緒に行ったのに。今日朝練休みにしたの、そのためだったんでしょ」
少々不機嫌だ。そういえば、前は直登が同じような反応をしていた。
「……すまん。朝早いし、行っても歓迎されないかもしれないから、一人で行こうと思って」
「そんな気遣いはいらない。もうマネージャーなんだし。藤谷って、すぐ一人で動きたがるよね」
なかなか収まらない様子だったが、ひとまず謝りたおし、何とか機嫌を直してもらう。
「で、藤谷のブレザーが無い理由がまだ分からないんだけど」
おっぱいの話を伏せたら、余計な疑問を生じてしまった。俺は服がはだけていたから着せてやった、とだけ答える。
「ふーん」
広瀬は目を細めて言った。
「その子、可愛いんだ」
「……それは、今は問題じゃないだろう。もう、戻ろう。2限が始まる」
「逃げた」
「逃げてない」
今の話を聞いて、何で女の子が可愛いかどうかが気になるのか。意味が分からん。
昼休み。
例のごとく昼食の菓子パンをモクモク食べていると、クラスメートに来客を告げられた。
廊下に出ると、今朝の佐々木さんがブレザーを抱えて立っている。放っといたら自殺するんじゃないかと思うほど、落ち込んだ顔。
にも関わらず、俺の視線はつい胸に行ってしまう。何といっても、俺は彼女の制服の下がどうなっているのか、知っているのだ。
「あ、あの」
佐々木さんは俺にブレザーを差し出した。
「これ、ありがとうございました」
言って、ペコリと頭を下げる。
「ああ、いや、いいんだ。た、大変だったね」
俺も大変だったがな!
「いえ、本当に、藤谷先輩にはご迷惑をおかけしました」
再び頭を下げる。できた子だ。
「それで、学校側からは、何か言われた?」
「今日は、もう授業に出なくていいから帰りなさいって言われました」
「そうか。その、斎藤は、何て釈明した?」
「……私の方から、レギュラーになりたくて誘ったって」
目尻にみるみる涙が溜まっていく。見下げ果てたクズだ。あのオッサン、何が人間教育だ。自分が寺に行って滝にでも打たれろ。
差し出すハンカチも持っていない俺に彼女を慰めるすべなど無く、佐々木さんは三度目のお辞儀をして、力ない足取りで去っていった。
圧倒的な無力感にさいなまれながら、俺はブレザーを羽織る。佐々木さんに抱えられていたそれは、人肌の温かさが残っていて、何となく悲しかった。
ドアを開けて席に戻ろうとすると、数人の生徒がガタガタッと慌てて席に戻っていく。のぞいてやがったか、野次馬め。
「お。ブレザー戻ってきた」
広瀬が俺を見て、妙に明るく言った。
「おう、やっとな。実は肌寒かったぜ」
俺も明るく返す。そんなに暗い顔してたかな。やっぱり広瀬はいいマネージャーだ。
その日は軽部にも会えないまま、翌日の朝。
朝練で部員たちの質問攻めにあった後、俺は職員室に行き、女子陸上部の盛田先生に、佐々木さんと取手先輩がどうなるのかを聞きに行った。最初は渋っていたが、必死に食い下がると意外とあっさり口を割った。誰かに愚痴りたかったのかもしれない。
「君は発見者だし、迷惑もかけちゃったから特別に教えるけど」
盛田先生は声をひそめた。
「取手くんは、はっきりと残る暴力行為があったから、停学処分。佐々木さんは処分なし。斎藤……もう、先生とは呼びたくないけど、あいつは別の学校に異動するみたい。それで手打ち」
「そんな」
盛田先生も、怒りのやり場が分からないといった様子だ。
「これは噂だけどね」
盛田先生の声がさらに小さくなる。
「斎藤を引っ張ってくるのに、陸上界に顔が利く人の口添えがあったらしくて、その人との関係を悪くしないための政治的判断だって話」
「そんなの、全部大人の都合じゃないですか!」
つい大きくなった声に、教師たちが振り向く。盛田先生に無理やりしゃがまされてしまった。
「声が大きい。私だって、こんなの許せないよ」
「陸上部は、どうなるんですか?」
先生はさらに渋い顔になる。
「多分……今年の大会に出るのは、厳しいんじゃないかな」
俺の脳裏に、軽部の顔が浮かんだ。と同時に、ある考えが浮かぶ。
決して誉められた考えじゃない。さわやかなやり方でもない。
俺は決して良い人間なんかじゃない、と三回唱えた後、俺は先生に言った。
「盛田先生、ちょっと、お聞きしたいことがあるんですが」
今日の一限目は授業が中止になり、第一体育館で緊急の全校集会が行われた。昨日陸上部で起きた暴力事件について、当事者の名前は伏せながら「はなはだ遺憾」と校長がのたまっている。あの見栄っ張りのヅラオヤジに、何か言えることなんてあるものか。
壇上には顔に大きなガーゼを当てた斎藤がパイプ椅子に座っている。異動の挨拶でもするつもりか。どういう神経だ。
斎藤が校長に呼ばれる。マイクに向かって話しだす。聞いてられない。まだ人間教育なんて言葉を使っている。全ての言葉が、自分は被害者。無念の後にここを去る、と言わんばかりだ。もしあのオッサンに天罰が下らないのなら、この世に神はいないと断言できる。
話が終わりかけた時、後方の生徒たちがざわつき始めた。ガタガタと何かを運んでくる音がする。見ると、二十人以上の男女生徒たちが、体育館の倉庫からバスケットボールとバレーボールが山盛りになったカゴをいくつも運んできていた。よく見ると、軽部もその中にいる。
何なんだ、一体。
「えー、何だね、君たち。今は斎藤先生がお話中だ。早く仕舞ってきなさい」
教務主任の注意に耳を貸すことなく、彼らはカゴを押して全校の列の真ん中を割ってくる。
思い出した。
みんな、陸上競技場で見た部員たちだ。
一人の陸上部員が、バレーボールを手に取り壇上に向かって投げた。
バシンッ!と音がなり、ボールが斎藤の脇に落ちる。斎藤は体をこわばらせて、動けないでいる。体育館が静まり返る。
一つ目のボールが呼び水になり、運ばれてきたボールが次々と減っていく。
陸上部も、そうでない生徒たちも、ボールを手に取り次々と壇上に投げ出した。
「やめたまえ、君たち!それは暴力行為だ!」
校長が叫ぶ。しかし脇で見ている教師たちは、生徒たちを見ても動かない。そのうちに生徒たちは大混乱をきたし、さっさと体育館から避難する者、ただ眺めている者、笑って見ている者、我先にボールを投げつける者と分かれ、体育館は一種の暴動状態に陥った。
ボールが壇上に乱れ打ち、斎藤はしゃがみこんで頭を守っている。かばいに行っているのは校長だけだ。
俺は跳ね返ってきたバレーボールを一つ拾い上げると、ただ一人生徒たちを止めていた盛田先生を呼んだ。
「先生、はい」
盛田先生は自然とボールを受け取り、俺を怪訝な顔で見た。
「何のマネ?」
「一球くらい、生徒のせいにして投げてもバレませんよ」
「バカなこと言ってんじゃないの!」
先生はまっすぐこちらを向いたまま、壇上に向かってノールックで投げつけた。ボールはワンバウンドして、校長の脇腹にヒットした。
「そんなことできるわけないでしょ」
ニヤリと笑うと、再び生徒たちを止めに行く。なかなかやる先生だ。
「藤谷」
振り向くと、軽部がバレーボールを持って立っていた。
「軽部」
「いくぜ」
軽部がボールをこちらに高く放り投げる。俺は習慣で、周りのスペースを確認する。落ちてきたボールを胸でトラップし、落ち際を体育館シューズの右足で振り抜いた。
いつもより軽い衝撃が足の甲に残って、ポーンと跳ねたボールが軽やかに壇上へ飛んで行く。そしてボールは、丁度立ち上がりかけた斎藤の頭に直撃した。
斎藤がもんどりうって倒れこむと、全校生徒の大歓声が体育館中に響いた。軽部とこっそりグーでタッチする。
「おい、誰だ!今のは!」
教務主任がマイクでがなり立てる。俺は生まれつき備わっている「地味」というスキルを存分に発揮し、体育館から逃げ出した。
大混乱の全校集会はうやむやのうちに終わり、次の二限目、陸上部男女全員と、ついでに俺も呼び出されることになった。あの中で一人だけボール蹴ってりゃバレるよな、普通。
校長室で、前代未聞だ!と興奮する校長。
そばに立ってうなずく教頭、教務主任に対し、俺は言った。
「今日の全校集会が無かったことになれば、僕たちは今朝見たことを忘れてしまうと思います」
陸上部のみんなは何も言わずに、俺の顔を驚いたように見ている。俺は良い人間なんかじゃない。誠実さだけで勝負に勝てるもんか。
俺と陸上部の部員たちは、顔を真っ赤にした校長から「行ってよし」を引き出し、無傷で校長室を出ることに成功した。それでも、何も変わっていない。斎藤は逃げ、取手先輩は停学になり、陸上部は大会参加を自粛するかもしれない。佐々木さんはこれからつらい高校生活を送るだろう。
俺に他人を救う力なんて無いんだ。
教室に戻ると、丁度二限目の休憩時間。
席に戻ると、広瀬が顔を覗き込んできた。
「まさか停学?」
「無罪放免」
「そ。良かった」
特に表情も変えずに言った。本当に良かったと思ってるのかな。
「ボレーも、良かった」
ニヤッと悪い顔になる広瀬。しっかり見ていやがったか。
「さあ。何のことだか」
俺はムダな抵抗と知りつつすっとぼけた。
放課後、午後の練習を終えて校門を出る。
人影が、門の壁に寄りかかっていた。
「よお」
軽部が寄りかかったまま、こちらを見ている。俺は右手を上げて応え、何となく少し離れた場所に同じように寄りかかった。横目で見た軽部の顔には夕日が差し込んでいて、温かいような寂しいような、複雑な色をたたえていた。
「今日はすごかったな」
俺が言うと、軽部は小さく笑った。
「言い出したのはうちのキャプテンだけどな。俺も取手先輩には世話になってたし」
「そうか」
「おめーのボレーも見事だったぜ」
「軽部のアシストだな。むしろそっちが主犯だ」
「今さら逃げるなよ」
今度はニ人で笑った。そしてしばらく沈黙が続く。
大きく息を吸って、俺は口を開いた。。
「軽部、これで最後にする。サッカー部に、来てくれ。お前のスピードが、優勝するために必要だ」
軽部は答えない。さらに続ける。
「盛田先生に聞いた。正式な処分はまだだけど、少なくとも今年度一杯は、陸上部は対外試合を自粛する方向で話が進んでると。だから、その間だけでもいい」
軽部は俺を見て、
「どういうことだよ」
と聞いた。
「つまりプロの契約で言うところの、期限付きレンタル移籍だ。陸上部に籍を置いたまま、今年度が終わるまでサッカー部に移籍するって形だ」
「そんなことできんのか」
「今回の事件は特殊なケースだし、直接関わってない生徒たちから目標を奪うのは教育上良くない、と俺が盛田先生に訴えて、一筆もらった」
今はあの先生が事実上、陸上部のトップだ。
「だから、頼む」
再び沈黙が世界を支配した。
「俺はさ」
沈黙を破り、軽部がポツリとつぶやいた。
「中学の時から、優勝ってしたことねえんだよ。どの種目でも。上位には行くんだけどな。いつも上に誰かがいる。だから、二百から八百までエントリーして、やみくもに勝ちに行ってた」
俺は黙って続きを待った。
「そのうち、どの種目でどんな走り方をすれば勝てるのか、さっぱり分からなくなっちまった。あの斎藤はクソ野郎だったけど、指導は的確だったと思うぜ、本当に。もう少しで何かつかめそうだったんだ。もう、それも無くなっちまったけどな」
「そうか」
「優勝、できるのか。お前のチームは」
軽部の口調が変わった。俺はつばを飲み込み、口を開く。
「勝負事に絶対、なんて言えないけど、可能性は高いと思ってる。だけど、重要なポジションが足りないんだ」
「どこだよ」
「左SB。本来は守備のポジションだけど、左サイドをぶっちぎるスピードと、アップダウンを何度も繰り返すスタミナがいる」
「大変だな」
「そして攻撃のための重要な武器になり、対戦する相手の右SBを守備に釘付けにする大事な役目もある」
「責任重大じゃねえか」
「そして、誰よりも勝利に飢えた、意思の強い一本気な男気があればなおいい」
「いるかよ、そんなやつ。望み過ぎだ」
「一人だけ、心当たりがある」
軽部が黙る。今までで、一番長い沈黙が続く。正確に何秒か、何分経ったかは分からない。しかしその時間は俺の心臓を忙しく働かせ、胃をキリキリ痛めるのには十分過ぎる長さだった。
「ちなみに聞くけどよ、次のサッカー部の練習は、いつ、どこだ?」
軽部が言った。
「明日の朝、七時。水飲み場から一番遠いグラウンドだ」
「わかった」
軽部は地面からバッグをかつぎ上げ、顔も見ないで歩き出す。
「またな」
「ああ」
俺もバッグをかつぎ直し、反対方向に歩き出した。
翌日。朝七時。
陸上ジャージに青いシューズを履いた男が、練習場に現れた。俺を見るなり、半ペラのわら半紙をドンと胸に押し付ける。
「責任持って、蹴り方から教えろよ」
「……おお」
俺は部員たちの溜まりへ走っていく男を見送って、渡された入部届を見る。
たった四文字なのに、一段昇ったかのような右肩上がりのクセ字で、「軽部銀次」と書かれていた。
つづく
たぶんしなくていい名前の由来解説
久城……プジョル
熊野……クーマン
城戸梨亜……ヴィクトリア・ベッカム
谷……ダニエル・アウベス
我修院……プスカシュ
井畑……イバン・エルゲラ
遠藤……レドンド
空見……ソラーリ
長谷……ホセ・マリア・バケーロ
蟹江……カニサレス
穂積……ペペ
家路……イエロ
丸井……ネイマール
盛田先生……ロサ・モタ




